遊廓→赤線
大正元年、業者数19、娼妓数43
昭和2年、業者数13、娼妓数51
昭和9年、業者数21、娼妓数108
昭和33年、業者数9、娼妓数40
[左]遊廓の入口。左の石柱の文字は「志ゆもく町廓入口」か。風流な文字づかいだ。
[右]内側からも一枚。左の柱は無地、右の柱には「大正七年八月吉日」と刻まれている。
撞木町廓之碑。遊廓の来歴が文語体で詳しく記されている。
裏にも何か書かれていたが読み取れなかった。
「大石良雄遊興之地よろつや」とある。「よろづや」ではないらしい。
大石良雄は、大石内蔵助(くらのすけ)という仮名のほうが通りがいいだろう。
ひと目でそれとわかる建物は残っていない。上の二軒は少し気になった店舗風の家屋。
古い街区表示板。「撞」ではなく「橦」になっている。
撞木町のはずれにあった石柱。「撞木橋」は、ネット検索しても由来がわからない。
もし、遊廓でいうところの「思案橋」のような存在だったら楽しいなあ、と勝手に妄想。
不思議な三角形の石。明らかに人工的な形をしているが、用途は不明。
遊里と関係があるならがぜん興味がわくのだが、はたして。
なんだか石の紹介ばかりになってしまった。
大正元年、業者数19、娼妓数43
昭和2年、業者数13、娼妓数51
昭和9年、業者数21、娼妓数108
昭和33年、業者数9、娼妓数40
[左]遊廓の入口。左の石柱の文字は「志ゆもく町廓入口」か。風流な文字づかいだ。
[右]内側からも一枚。左の柱は無地、右の柱には「大正七年八月吉日」と刻まれている。
撞木町廓之碑。遊廓の来歴が文語体で詳しく記されている。
裏にも何か書かれていたが読み取れなかった。
「大石良雄遊興之地よろつや」とある。「よろづや」ではないらしい。
大石良雄は、大石内蔵助(くらのすけ)という仮名のほうが通りがいいだろう。
ひと目でそれとわかる建物は残っていない。上の二軒は少し気になった店舗風の家屋。
古い街区表示板。「撞」ではなく「橦」になっている。
撞木町のはずれにあった石柱。「撞木橋」は、ネット検索しても由来がわからない。
もし、遊廓でいうところの「思案橋」のような存在だったら楽しいなあ、と勝手に妄想。
不思議な三角形の石。明らかに人工的な形をしているが、用途は不明。
遊里と関係があるならがぜん興味がわくのだが、はたして。
なんだか石の紹介ばかりになってしまった。
(1)では西柳町が中心だったので、(2)では東柳町へ。
手作り感あふれる鱗模様がユニーク。
その左に格子窓が見える。和風建築の半分をカフェー風に改造したのだろう。
煤けさせることによって重厚に仕上がった板張りが目を引く。文字看板や丸窓も必見。
「木津乃家」という屋号は地図にも記されているが、現役なのだろうか。
一階はほぼリフォームされているが、それとは対照的に、二階は当時の装いそのまま。
かなり改装の手が入っているものの、タイルや窓の造作に往時のなごりを見て取れる。
玄関には朱書きの屋号が残存。
小田原の抹香町を連想させる四角い平屋建築。奥に引っ込んだ入口が特色。
(参照記事:抹香町の写真はこちら)
建物と建物のあいだに石畳が敷かれて通路になっている。
非常に狭いが、単なる住人用の通路には見えない。誘われるように足を踏み入れた。
奥には茶屋風の店が軒を並べていた。退役ずみの店もある模様。
なぜこんなひっそりした場所で、と考えると謎が深まっていく。
遺構の可能性も捨てきれないが、先ほどの遊里跡とはまったく異なる雰囲気だ。
手作り感あふれる鱗模様がユニーク。
その左に格子窓が見える。和風建築の半分をカフェー風に改造したのだろう。
煤けさせることによって重厚に仕上がった板張りが目を引く。文字看板や丸窓も必見。
「木津乃家」という屋号は地図にも記されているが、現役なのだろうか。
一階はほぼリフォームされているが、それとは対照的に、二階は当時の装いそのまま。
かなり改装の手が入っているものの、タイルや窓の造作に往時のなごりを見て取れる。
玄関には朱書きの屋号が残存。
小田原の抹香町を連想させる四角い平屋建築。奥に引っ込んだ入口が特色。
(参照記事:抹香町の写真はこちら)
建物と建物のあいだに石畳が敷かれて通路になっている。
非常に狭いが、単なる住人用の通路には見えない。誘われるように足を踏み入れた。
奥には茶屋風の店が軒を並べていた。退役ずみの店もある模様。
なぜこんなひっそりした場所で、と考えると謎が深まっていく。
遺構の可能性も捨てきれないが、先ほどの遊里跡とはまったく異なる雰囲気だ。
遊廓→赤線
大正元年、業者数67、娼妓数230、芸妓数60
昭和9年、業者数68、娼妓数450、芸妓数52
昭和30年、業者数69、娼妓数228
昭和32年、業者数58、娼妓数183
以降、売春防止法の施行まで存続。
自動車が一台通れるくらいの路地にたたずむ和風建築。寺院のような欄干がおもしろい。
窓がすだれで見えないのは残念だが、建物とすだれが調和したこの眺めも魅力的だ。
玄関に文字看板が残っている。右のくり抜き窓は非常に精緻な造り。
ところで、こういう黒い壁の妓楼は希少だろう。墨を思わせる黒で、どこか温かみがある。
すだれ掛けに家紋と屋号の透かし彫りが施されている。
内側をのぞくと、チューリップ柄の面格子が現れた。予想外の趣向に驚く。
遊里ではおなじみの銭湯。シンメトリーの美しさが際立つ看板建築風のデザイン。
大正元年、業者数67、娼妓数230、芸妓数60
昭和9年、業者数68、娼妓数450、芸妓数52
昭和30年、業者数69、娼妓数228
昭和32年、業者数58、娼妓数183
以降、売春防止法の施行まで存続。
自動車が一台通れるくらいの路地にたたずむ和風建築。寺院のような欄干がおもしろい。
窓がすだれで見えないのは残念だが、建物とすだれが調和したこの眺めも魅力的だ。
玄関に文字看板が残っている。右のくり抜き窓は非常に精緻な造り。
ところで、こういう黒い壁の妓楼は希少だろう。墨を思わせる黒で、どこか温かみがある。
すだれ掛けに家紋と屋号の透かし彫りが施されている。
内側をのぞくと、チューリップ柄の面格子が現れた。予想外の趣向に驚く。
遊里ではおなじみの銭湯。シンメトリーの美しさが際立つ看板建築風のデザイン。
遊廓(戦後は不明)
日本茶の産地として栄えた町に、旅館などとともに設置。
昭和5年ごろ、業者数4、娼妓数25
近辺に茶畑が広がっていたことから、「茶畑」という通称で親しまれた。
数少ない情報によると、遊廓は初咲町にあったらしい。
すでに消滅した地名だが、バス停や集会所にその名が残っている。
バス停と集会所の場所を頼りに地図を調べると、不自然に見える区画を見つけた。
写真中央の、「回」のようになっているところ。ビジネスホテルの存在も気になる。
近くの銭湯。歴史の長い銭湯であれば遊里との関係もありそうだが、さて。
残念ながら、目星をつけていた場所は更地と新築の家ばかりだった。
ビジネスホテル。実物を見るまでは、娼家からの転業のような事例を想像していたが、
これはちょっと、そういうケースではないように思える。
手がかりを失ってしまい、ほかに何かないかとうろうろ。これは居酒屋風の一軒。
気になって撮影したポール。あらためて見ると、それほど古いものではなさそうだ。
結局、遊里があったことを裏付ける材料は見つからなかった。
とはいえ、調査不足の感は否めない。次は地元の図書館で資料にあたってみたい。
日本茶の産地として栄えた町に、旅館などとともに設置。
昭和5年ごろ、業者数4、娼妓数25
近辺に茶畑が広がっていたことから、「茶畑」という通称で親しまれた。
数少ない情報によると、遊廓は初咲町にあったらしい。
すでに消滅した地名だが、バス停や集会所にその名が残っている。
バス停と集会所の場所を頼りに地図を調べると、不自然に見える区画を見つけた。
写真中央の、「回」のようになっているところ。ビジネスホテルの存在も気になる。
近くの銭湯。歴史の長い銭湯であれば遊里との関係もありそうだが、さて。
残念ながら、目星をつけていた場所は更地と新築の家ばかりだった。
ビジネスホテル。実物を見るまでは、娼家からの転業のような事例を想像していたが、
これはちょっと、そういうケースではないように思える。
手がかりを失ってしまい、ほかに何かないかとうろうろ。これは居酒屋風の一軒。
気になって撮影したポール。あらためて見ると、それほど古いものではなさそうだ。
結局、遊里があったことを裏付ける材料は見つからなかった。
とはいえ、調査不足の感は否めない。次は地元の図書館で資料にあたってみたい。