Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

行きはよいよい、帰りは怖い

2011年09月17日 | 那覇、沖縄
 沖縄には現在、台風15号が接近中である。しかも速度が遅く、この数日、那覇は台風の影響を受けること間違い無しである。そんなときに、私は日帰りで東京に行かなくてはならない。
 現在、17日朝5時過ぎだが、風もほとんどなく穏やかな陽気。強風域に入ってもう1日たつのだが、不気味な雰囲気である。これなら、朝7時45分のフライトは確実に出発する。ところが問題は羽田発20時の戻りの便だ。悪化すればぼくは数日、東京にお泊りである。となれば、23日本番を迎える那覇での練習に参加できないことになる。
 20日に再び出かけなくてはならないのだが、今度はその便が飛ぶかどうか不安だ。とにかく戻ったら、次なる心配をしなくてはならない。この時期、沖縄はもっとも不便きわまりない土地なのだ。天気が相手なので仕方がないのだが……。

新しいワヤン

2011年09月16日 | バリ
 バリに来てすぐ、12月に公演予定の演目に使うワヤンを一体、スカワティ村のワヤン製作者のところに注文していたが、それを本日受け取った。実は、この写真のワヤンは伝統的なワヤンではなく、だいたいの絵を、デザイン力の全くない私が描いて製作者に作ってもらったものだ。髪の彫刻は細かく指定した。私の絵が下手過ぎて、想像していた部分と違いところもあったが、まあまあ「合格」である(絵はもう少しグラマーだったんだけど)。
 ところで、このワヤンは注文品として数日前に完成し、ショーウィンドーの中に入れられていたそうだが、何人かのバリのダランがこの人形を見て、「売って欲しい」と言ったそうである。あるダランは、これが日本人のものだと知ると「同じものを作ってくれ」と注文したそうだ。もしかしたら、このワヤン、数年後には、バリで大ヒットするかもよ。(9月9日に記す)

採譜

2011年09月15日 | バリ
 最近は曲を習うとできるだけすぐに採譜するようにしている。「えーっ?」と思うだろうが、事実なのだ。だんだん脳が硬化してきて、なかなか覚えられないだけでなく、一回習ったくらいではすぐに忘れてしまう。若かった頃のように繰り返し、先生のところに行って習う時間がないのだ。そうなると、短時間で集中して覚えた上、録音をして、宿に帰ってすぐに採譜をしないと、あとで録音を聞いても、混乱してわからなくなってしまう。
 採譜といっても五線譜に書くわけではなく、数字譜とクンダンのDTKP譜である。しかも備忘録であるため、拍やリズムが正確に刻まれているわけではない。とにかく自分にしかわからなくても、それから思い出せればいいのである。
 昨晩もブレレン県のムンドゥック村から夜の9時過ぎに戻って、12時半くらいまで撮影した映像と録音資料の両方を見ながら、聞きながら、採譜に格闘した。私に曲を教えてくれる演奏者は学校の先生ではないので、録音するときには、すでに教えていた「手」と違うこともしばしばである。それを解釈しながら採譜していくのは楽しくもあるが、やはり時間がかかる。しかし記憶が明確なうちにやる必要があり、日本に戻れば絶対に忙しくてとりかかれない作業なのだ。昨晩のうちに完了してひと安心である。(9月9日に記す)

にわか有名人になる

2011年09月14日 | バリ
 今日(9月5日)の朝刊数紙に、先週、バリの芸術大学で取材を受けたS,M両氏(こう書くとなんだか変な気がする)と三人で進めているゴング・クビャルの音の研究のことが大きく掲載された。しかもある新聞では、われわれ三人の写真が縦10センチ、横15センチ程の大きさで載ったのだった。もうこうなると、バリでは「にわか有名人」である。
 ホテルに戻るやいなやフロントの女性に、「あんた新聞に出てたわよ。でも写真より実物の方が格好いいじゃない?」なんて言われてしまった。(喜んでいいものか?)
 「あのさ、内容は読んでくれた?」
 「ガムランの研究よね。なんだか難しくてよくわからなかったけど」
とこんな調子である。
 ちなみに、私のバリの携帯番号を知っているたくさんのバリ人からSMSをもらった。最初の人は朝7時前だった。でも一紙でちょっと気になるミスが一つ。
「写真に写っているUmadeって誰のことかしらね。RADAR BALIさん?もっとしっかりレーダー(RADAR)を張り巡らせなくちゃだめね。」
(9月5日に記す)

ヒンドゥー、イスラム

2011年09月13日 | バリ
 カランガスムの王族の結婚式が行われ、そこにイスラムの集落から演奏グループが招待された。バリは基本的にヒンドゥー教なので、ヒンドゥー教の儀礼にイスラムの音楽が演奏されたことになる。
 カランガスム東部地域は、もともと東隣に位置するイスラムのロンボック島と政治的にも文化的にも深い関係を持っている。カランガスム王家が住むアムラプラには複数のイスラム集落が点在し、ヒンドゥー集落と入れ子のような位置関係になっている。古い時代から二つの宗教の人々は互いを尊重し、共存してきた。特に王族はイスラムの人々を大切した。またイスラムの人々もカランガスムの王家にさまざまな形で関わってきた。現在の王家の当主と話をしたが、王家の結婚式には必ずイスラム集落から音楽グループが招待され、そこで演奏をしてきたのだという。「この伝統を次の世代にも継承しなくてはならない。」と当主は語ってくれた。
 宗教対立はかつての第一世界と第二世界の対立に変わって、今や新たな民族間対立の引き金となった。民族対立や紛争を見てみれば、その多くが宗教対立であることは明白だ。しかし、少なくてもこのカランガスムのアムラプラでは、二つの宗教は当たり前のように存在している。バリ・ヒンドゥーの正装で演奏するイスラムの人々の服装は、彼らのヒンドゥーの人々に対する気遣いなのかもしれない。
 王家に招待された人々やガムラン奏者には、豚を中心としたバリの料理がふるまわれたが、イスラム集落の演奏者には、鶏肉やヤギのスープがはいった弁当がふるまわれた。私も今日はイスラムの音楽の調査だったことから、彼らと一緒にHALAL(イスラムが許可した)の弁当を食べた。食べているものは違っても、すべてが自然だった。祝福という「儀礼的行為」には宗教的な違いはあっても、その「心」には違いはないのだろう。(9月5日に記す)

切手

2011年09月12日 | バリ
 デンパサールの官庁街ルノン地区にある中央郵便局から本やコピーを12キロ分送った。これを帰りのガルーダ国内線とチャイナエアライン国際線で持って帰ろうとすればとんでもないオーバーウエイト代金を支払うことになるからで、船便で4300円程度ですんだ。こんなことをしなくてはならなくなったのは、すべてはJALが原因であり、JALが経営悪化によりデンパサール便を廃止にしたからである。JALのマイラーである私は、10キロのオーバーウエイトならば会員証でクリアーできたにもかかわらず。
 今更、文句を言っても始まらないので、とにかく荷物を送って、ふらりと記念切手コーナーに寄った。すると…ワヤン切手があるではないかい?しかも昨年発行である。私とこの切手がここで出会うのは運命だったのだと勝手に都合のいい解釈をして、私のワヤン小物コレクションのために購入した切手が写真の切手。本をバイクに載せて郵便局に行く前は、ブーブーと独り言を呟いていたはずなのだが、思わぬ収穫があって「やっぱりたまには中央郵便局に行くのもいいかな」なんて思っている「お調子者」のPである。(9月3日に記す)

帰国しました

2011年09月11日 | 那覇、沖縄
 本日、朝ジャカルタを6時25分に離陸し、香港、台北を経由して19時前に那覇に到着しました。チャイナ・エアラインにお世話になった1日でした。それにしても1日、何度、食事をしたことでしょう。
 まずは、エアポートホテルで朝4時に食事をして(なんとジャカルタのエアポートホテルは4時から9時までが朝食時間です)、香港に向かう機内で、2回目の朝食。中身は大きなチキンの入ったナシゴレンでした。香港からのフライトは、やっぱり大きな鶏肉ののっかった卵チャーハン、そして最後の台北からのフライトは冷たいスパゲティ・ナポリタン(これは最低な機内食でした)。もちろん帰ってからも家で食事をしました。明日、体重計にのるのが怖い……。
 ところで、ジャカルタの空港のイミグレーションで、空いたばかりの窓口にパスポートを出したところ、おじさんが、スタンプと私の顔を何度も繰り返し見ているのです。なんか、問題あるのかなあとちょっぴり心配しました。ところがおじさんがこんな一言。
「今日は、朝からいい日だ。君のスタンプは僕が押したものだ。しかも君は今日、ぼくが最初に担当した乗客だ。運がいいな。フフフフ……。」という感じでした。おじさん、嬉しそうだったな。イミグレーションの人って、なんだかいつも無表情なのに、こんなことで喜ぶのかと思ってしまいました。

壁画

2011年09月11日 | バリ
 バリの芸術大学の一角に描かれたウォール・ペインティング。ぼくはいつもこの前にバイクを駐車するのだが、初めて写真を撮影した。ドナルド風キャラの隣に描かれているのはマハバラタに登場するアルジュナのワヤンである。
この不釣り合いなキャラクターが並んで描かれているにもかかわらず、それを自然に受け入れてしまうのは、ここがバリのせいなのか、それともぼくがバリにいるせいで自身の感覚が麻痺してしまっているからなのか?(9月2日に記す)(写真は後日)

クプクプ・タムリリンガン

2011年09月10日 | バリ
 タバナンの街の中の集落でガムラン楽器の調査をした。61年にはアメリカやヨーロッパに、すでに老年に達したマリオとよばれる有名な舞踊家とともに演奏旅行したグループがあった地域である。彼らにとっては、今なおマリオが最高の踊り手なのである。マリオが住んでいた集落もこの集落から歩いてすぐのところだ。
 ところで、マリオの晩年に芸能活動を共にしたメンバーが面白いことを話してくれた。「もともとオレッグ・タムリリンガンは、クプクプ・タムリリンガンだった」というのである。プリアタン村のアメリカ公演の時に、オレッグという名称になったらしい。確かに最初の踊り手は蝶のように見えるではないか?二匹の蜂というのは無理があるし、花と蜂というのもちょっと疑問だった。「クプクプ(蝶)」というのは実に納得のいく説明ではないか?
 オレッグは、プリアタンのアメリカとヨーロッパ公演(1952年)のためにプリアタンのマンダラとマリオが創作した舞踊曲ということになっていたと思うが、プリアタン側の語りだけでなく、タバナン側の語りもしっかりと調査する必要があるのだと思う。難事件を解明する刑事と同様に、芸能の調査もまた、少しでも疑問があれば「現場に戻れ」である。(9月2日に記す)