どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

崎離営

2010年07月31日 12時52分51秒 | 卑弥呼

崎離営(キリエイ)

崎離営は、現在の延安です。きょうは、崎離営と策離国の関係を考えます。

1後漢書倭伝
旧楽浪郡の境は、前75年の帯方郡の境と同じです。
後漢書の記述は、邪馬臺國から1万2000里が、楽浪郡境で、次に、拘邪韓国から楽浪郡境までが7000余り里と記されています。
この余りは、魏略にいう70里とみられます。

一方、魏志倭人伝は、乍南乍東してのち、狗邪韓国に到着で、7000余り里でした。

どうって事はないように見えますが、余りを考えます。

2後漢書
邪馬臺國―楽浪郡境:1万2000里ジャスト・・・A
拘邪韓国―楽浪郡境:7000余り里・・・・・・・B
(AはBの70里を含む)
魏志
帯方郡―邪馬壹國:1万2000余り里・・・・・・C
帯方郡―狗邪韓国:7000余り里・・・・・・・・D

では、AとCの違いは、何でしょうか。

いま仮に、崎離国は、70の二倍:140里四方の小さな国。10.7km四方とすれば、王都の中心から見て、Aは70里余りとなります。

後漢書・邪馬臺國[狗奴國]
従って、Aの邪馬臺國は、帯方の境ではなく、崎離の王都から1万2000余り里でした。ゆえに70里余りとなり、魏志のCと一致します。
(魏略では、拘邪韓国に到着前の余りは、歴韓国の隅から70里でした。)

魏志・邪馬壹國(卑弥呼の居所)
帯方郡は、崎離営の中心と考えます。1万2千余り里で、後漢書の位置と同じと考えます。やはり、狗奴が卑弥呼を迎え入れたのでしょう。
整理すると、崎離営の王都から
邪馬臺國の狗奴国・・・・1万2千余り里
邪馬壹國の卑弥呼居所・・1万2千余り里


3傍証・狗奴国と卑弥呼の居所
ここで、景行天皇の思邦歌を入れて考えます。(国ではなく邦)
天皇は、日向国の小湯県・野岡の上に登り、歌いました。
天皇は、東を向いて、夜摩苔(ヤバタイ)は国の真秀ら場と謡っています。
この東は北でしょう、南宇佐・大尾山の東面を指します。
宮崎県西都市の黒貫寺とその東隣の高屋神社から、真北は、大尾山の東を指します。この二つの地点は、狗奴や卑弥呼の居た位置と思われます。
前代の狗奴や卑弥呼を褒めた歌でした。思邦歌(くにしのびうた)という。

崎離国のエリアを140里に仮設定しましたが、上記のように、僅かに違うのでしょう。

4崎離営と策離国
A崎離営は、漢音でキリエイ(魏志韓伝)崎:山のけわしいさま
B策離国は、漢音でサクリ(後漢書夫余伝)策:馬をうつむち(魏略は、槁[高の下に木]の字。翰苑は、橐離(タクリ)とする。橐:鍛冶のふいごぅ)、古代日本語は、さく:たくと音通。

崎離を湯桶読みすると、サキリとなるが、AとBは一致しません。

離に着目します。
離は、1ふたつのものを分けて別々にする義。2ふたつそろいの物の義。

この離を、重視すれば、やはり、北の夫余とは別の南扶余があるのではないか。
これが、AとBの一致しない理由でしょう。
7月10日のブログ「百済と伯済」で、既述した東明Bが、都慕大王だから、策離から分支した国が、もうひとつあって、これが崎離営ではないか。このように考えます。

追記8月3日、第3案・・崎離営再考
崎離(キリ)の音は、吉力と同じではないか。

吉力(きり)の二字は、秦の合成音です。(根拠:北京大学・林梅村)
漢音シン、呉音ジンの音。シ―ナ、チーナ。支那の語源です。

従って、崎離営は、秦営となります。秦:辰と同じだから、天安の馬韓王すなわち日本の韓国(秦王国)が、統率していた。これで、納得がゆきます。

なかなか、直ぐに気がつくものでは、ありません。七海は、見過ごしていました。

これで決着と思いきや、まだ、あります。

秦王国は、深奥国と読める。奥は奥州で、深奥だから、梁書がいう大漢国です。
これは、日本書記が言う遠蝦夷:津軽:東日流でしょう。遠蝦夷は、もまた
本州島の山口県萩市を代表地点とする、裸国・黒歯国でした。

黒歯国は、もと拘奴国でしたが、狗奴に征伐され、逸津彦は、狗奴国の手下になって、任那や慶州と敵対する悪役に仕立てられています。

拘奴国王、官名拘右智卑狗、王名:不記載・・・・・逸都彦
狗奴国王、官名狗古智卑狗、王名:卑弥弓呼素・・・新羅大明神

官名は、空智彦とクグツ比丘。王名は、上記のとおりです。

匈奴の呉音は、拘奴(クヌ)で、歴(拘ぬぎ)空国と一致します。
匈奴の漢音は、キョウドですが、おそらく、狗奴(クド)でしよう。

これで、みな、通じました。



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