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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

如墨委面

2011年10月20日 00時04分27秒 | 邪馬壹國
如墨委面

如墨委面
漢音(じょぼくいべん)
呉音(にょもくいめん)とは、なんでしょうか。

1、漢書地理志倭人条
地理志「夫、楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見」云
(それ、楽浪の海の中、倭人あり、分かれて百余り国が歳時を以て、献見したと云う。)

2、漢書「百衲本二十四史 第2巻」
(漢書倭人条の注)
如淳曰く「如墨委面 在帯方東南万里」・・・Aとする。
臣瓉曰く「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」・・・Bとする。
師古曰く、如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国。・・・Cとする。

3、魏略云「倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種」・・・Dとする。

上記は、唐代の顔師古が、漢代の倭人がいう如墨委面を追及しています。
その追跡プロセスは、次のとおり。
1)如淳は、魏の時代の人で、帯方の東南一万里にあるという。
(七海注)帯方県は真番郡の属県であったが、前82年楽浪郡になった。注意すべきこと。如淳は、帯方に郡を付けていない。帯方県を指していた。
2)臣瓉は、西晋時代の人、倭は国名で、「墨の謂い」ではなく、委(い)であるという。
3)師古は、唐時代600年代の人で、委(い)の音ではなく、倭の音は、(当時の)一戈反(カ音)という。今なお、倭国ありとする。

七海の解釈
A,B,Cの記事は、漢代の倭人の国についての種あかしをしています。

Aの東南1万里は、南宇佐。
前82年、真番郡の属県に帯方県あり、楽浪郡が帯方県などを取りこんで拡大している。帯方を鳳山県:沙里院(サリゥオン)とすれば、東南一万里は、直線距離・約750kmで、宇佐市南宇佐(大尾山)辺りとなる。
紀元前の如墨委面は、南宇佐です。何とこれが、漢代の国名の邪馬壹(やばい)國と暴露していた。
その事由は、漢書の倭人、後漢書・倭の邪馬臺(やばたい)、魏志の倭人だから、漢代の倭人は、魏志の邪馬壹(やばい)に同じとなります。

卑弥呼の邪馬壹國から遡ると、後漢では、倭の邪馬臺(やばたい)、107年は倭面土国、57年は倭奴国、5年は倭人、前82年は倭人の如墨委面でした。
これが、邪馬(やば)の壱(初め)の国とする方がふさわしいとみます。

Bの委(イ)は、墨の謂いではなく、委(ゆだねる)の意味で、東夷の性質は、従順とみている。なお、57年の金印に委が出てきますが、印字では、亻偏を省略可、倭と同じです。

Cの顔師古の解釈
倭音の区別。一戈反は、カの音(漢音)です。於為切は、ワの音(呉音)です。
七海の例示
倭:漢音カ、呉音ワ。人:ジン、ニン。伝:テン、デン。
魏志倭人伝の読みは、
漢音「カジンテン」
呉音「ワニンデン」

また、漢代の倭は、カ音でしたが、今なお(唐代になっても)倭国(カコク)が在って、続いていると説く。
経緯は次の通りです。
670年に唐へ遣使。旧唐書や新唐書で、国名の倭国を日本(ニホン)としたという記事が出て来ます。
670年12月、慶州新羅では、倭国が、国号を日本と改めた。倭がみずから日の出る所に近いからという(新羅本記)
(七海注記)この記事は傑作だ! もともと神代紀で、日本と書いて耶麻騰(ヤマト)と定義していたからです。読み方を換えたにすぎない話でした。

Dの「度海千里 復有国、皆倭種」
これは、後漢書倭伝の邪馬臺國(やばたい)の記事をさし、その北方千里にある旧美東町(長登銅山)を倭種としている。
ゆえに、南宇佐から周防灘を度る千里[76.5km]です。
まとめると、邪馬臺(やばたい)国の北、千里に倭種の拘奴国ありとする。
魏志倭人伝では、旧美東町長登銅山が、狗奴国に取り代わっていた。

如墨委面
面は、神代紀で、筑紫の四面のひとつ、豊日別(豊前国)を指します。ゆえに、南宇佐を含む豊前国を指していた。

以上で、漢書地理志倭人条における顔師古の追及・探求は、すべてお見通しでした。

七海の驚きは、なんと、魏志の邪馬壹(やばい)國は、漢代に遡るという記事でした。
つまり、南宇佐は、ヤバ(野馬)の一(初め)の国でした。

経緯をまとめると次の通りです。

前82年、邪馬壹國(やばい国)
5年、 漢の元宗平帝に倭人が遣使。
57年、後漢光武帝に遣使。金印:漢委奴国王。倭奴国です。
98年~168年の倭国の乱は拘奴國の仕業。狗奴が拘奴を支配して乱を収束。
107年、倭面土国、これは後漢書の邪馬臺(やばたい)国と同じ。面:筑紫の四面の一、豊日別:豊前国。
171年、南宇佐に卑弥呼が着任し、邪馬壹(やばい)国王となる。
173年、慶州新羅へ卑弥乎の使者が交際を求めて来た。{新羅本記}
(霊帝168~189年)の光和年間(178~183)に、倭国の乱:梁書のいう奈良に於ける銅鐸破壊事件)
・・・
238年、魏へ遣使(晋書に念押し記事あり、238年で、239年ではない)
247年、卑弥呼崩御(魏志は編年体ゆえ248年ではない)
266年、西晋へ壹與の使者が遣使。
300年頃、時期は不詳だが、壹與の崩御の後は、男子が邪馬壹(やばい)國の王となる。その後、邪馬壹國が存続、後世、大倭の西の政庁大宰府へ移行。

隋書の日出る所の天子、日没する所の天子云々。秦王国は夏華に同じ。
唐代の670年、国名変更して、日本とする。
日本以前、九州倭国および奈良大倭国は、連綿として続いていた。

しからば、如墨委とは、何でしょうか。

後漢書にいう男子は、皆、黥面文身する。
魏志倭人伝にも、文身して、水中のミヅチを避ける。
南史には、那須岳を代表地点とする文身国が在った。

やはり、如墨委は、文(あや)模様の入れ墨と断定します。

重大な記事
註釈家の顔師古が、倭の音をカ、倭国をカコクとする。
魏志では、倭の先祖が夏王朝6代目少康の庶流とするから、倭音は、夏(カ)あるいは華(カ)となる。秦王国は夏華、夏は大の意味で、大漢国に通ず。

<前回の補足>
1中国正史で、唐代まで、邪馬臺の臺を台と記した記録は、皆無です。
2狗奴と拘奴
狗奴の漢音クド、 呉音コゥド。
拘奴の漢音コゥド、呉音クド。
倭人が漢語を話す魏の書記官に、漢音コウドと言わずに、漢音でクドと言った。
これは、後世の日本人を惑わすためにワザとやっています。それでも、倭人は、後でばれるようにしていました。(拘奴から狗奴への推移が証拠です)
フン、紛、糞。


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