どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

エフタルの種族構成4

2011年08月27日 05時39分46秒 | 海(わた)



上図は、羽田明「西域」
下図は、岸本道夫、前6世紀

エフタルの種族構成4

エフタルの主体

230年以降、クシャンが衰退、クシャンがクチャへ隠れ、ギターラ朝がクシャンの後を継いだ。その後、エフタルは、410年頃はじめて出現します。
最終的には、エフタルは、ササン朝と西突厥にはさみうちされて、567年頃、実質的に滅亡した。
西突厥の占領地は、ソグド洲・バクトリア洲を取り、これ以南をササン朝ペルシャが取った。
このとき、西突厥は、まず、石国、破洛那国、康国、史国を占領した。そして、残りの6国[次のAに記す]も取った。

A,エフタルの構成は(エフタル滅亡時の西突厥の言で判明)
西突厥は、まず、シャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を取った。
そして残りの6国、ブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)をも、取った。

B,516年、高車はエフタルに亡命し、エフタルには、高車(匈奴の娘婿国)、が混じる。

奄蔡国は、阿蘭聊国に改名し、覇者となり、康居に属す地域を壅閉したので、A,Bが混じった国家でした。

C、91年頃、北匈奴は、康居方面へ逃げて、300年代後半に粟特王を殺したので、エフタルに含まない。

これで、エフタルは、北部のカスピ海東とワハン渓谷のバタフシャンにヤフタリ故地(西方史料)が存在するが、どちらも適合しているのです。
サカ洲あたりには烏孫が逃げてきており、烏孫も含むのでしょう。

D,エフタルの混成国家(まとめ)
康居、昭武九姓(小月氏)、高車、烏孫。粟特、栗弋、厳国、奄蔡(阿蘭)、トカラなどの多勢国家で、奄蔡が隠れた覇者でした。古は婼羌も含む。また、インドへ侵略し、仏教をつぶしています。

岩村忍の地図を見ると、カスピ海とアラル海の間の草原が含まれず、岩村地図はおかしい。
なぜならば、もとカスピ州の北のアルメニアに居た奄蔡が、カスピ海の東に出て、ソグド洲を支配していたのではないか。(8月2日アオルソイを参照の事)
遡れば、古奄蔡は、アケメネス朝以前です。
よって、北史西域伝「粟特国は、古の奄蔡である」というのでしょう。

これで、アム・シル河に居たマッサゲタイが、キュロスⅡ世に橋を掛けるのをお止めなさいと言った理由も解けました。
前529年、マッサゲタイ女王は、アケメネス朝がゾロアスター教のお陰で大帝国になったのに、なおも橋をかけるとは何事かと言うのでしょう。
ストラボンのいうアシオイは、元アルメニアのアス人であり、奄蔡、阿蘭とも表記され、オセット族ともいう。キュロスⅡ世は、アルメニアのウルミヤ湖西南出身で、メディア王国の末裔でした。地図を参照。

結論
アケメネス朝ソグド洲は、以前からの統治者が潜在主権者の奄蔡でした。
潜在主権とは、阿蘭人の親族の各聊国がソグドを昔から領有していた意味です。魏書粟特伝は、粟特国と奄蔡とは同じ国と明記していたのです。

重要な事を忘れていました、エフタルは、拝火教信仰者です。
インドに入ったエフタル王の児孫ミヒラクラ(512~528頃)は、拝火教信仰者で、仏教の弾圧を行った。
インドではエフタルを白フンという。これは、イヌ族で、北匈奴ではない。

あとがき
元はコーカサスにいた阿蘭聊国(奄蔡国)が覇者とは、驚きです。
これまで、どうして、中央アジアの歴史に、アラン:奄蔡が脚光を浴びないのか不思議でした。

理由は、オセット族が金鵄鳥伝説(迦留羅)の持ち主だからです。オセット族は、アラン、奄蔡と同じ種族で、アス人とも云います。アシアニのアニを取り除くとアシ人となる。アス:アシと同じでしょう。

ソグド洲の拝火教にも犬やガルダが居ました。カルラかも?

奄蔡は、アケメネス朝以前に迦留羅(カルラ)を担いで覇者となって、ソグド洲も領有していたのでしょう。なぜか知らぬが、カルラ面は奈良東大寺にあります。アケメネス朝以前のメディア王国には、ソグド洲が含まれません。

その後、エフタルが仏教をインドや中央アジアから駆逐したのでしょう。
644年、ワハン峡谷でエフタル族に玄奘が出会ったのは、バタフシャンのヤフタリ地名であった。
519年、北魏僧の宋雲は、ワハン峡谷を通り、エフタル王に会っている。

余談、隠れたもの

槃護:捜神記では盤瓠ともいう犬がいた。赤狄という華南の連中が、殷代に西方に居ました。
前1400年頃、殷の三人乗り戦車は、ミタン二の戦車と機構が同じです。

また、時代は、ミタン二国(イヌのへばりついた装飾斧)、天竺へ入った塞種を想起します。
前1380年、ミタン二とヒッタイトの条約ができました。(前田耕作推定)
ミタン二を建国したフルリ族の国は、天竺塞種につながるのではないか。天竺塞種は、思った以上に古い鹿角族ではないか。

前1200年代の婦好墓に、鬼方の贈与した屈体龍(コータンの玉製)が出土し、林梅村は、当時の殷を国際都市と言う。

オアシス都市の起原
中国の仰韶(ヤンシャオ)文化の彩陶は、カスピ海南部の東のアナウ地方、ジェイトン遺跡(のちのヒルカ二ア洲)、メルヴ遺跡から来たと、考古学者が早くから取り挙げていました。
前2千年紀後半になると、メルヴ(のちのアリア洲)のオアシス地帯などに、城塞を伴う都市が出来ました。イランアーリアンでしょう。

貴洲省夜郎国
荘子のいう「井の中のカワズ、大海を知らず」、これを夜郎国王は、からかっていました。姓名そのものが人をくっています。・・・姓は多、名は同。
夜郎国は、「自国を最大と言い、漢の国はどれほどか」というから夜郎自大といわれたが、国は邦の意味でした。秦韓の言語で、国を邦という。天武天皇も国を邦という。
邦とは、地下水や太気中の水滴でつながります。月にも蛙がいました。
一連の物語は、月とスッポン程に違う、「面、白い連中」でした。

なお、雲南の滇国(てんこく)も自国を最大というが、夜郎国とともに前漢に協力しています。

きょうも、ガルーダ・インドネシア航空が、世界の屋根を飛んで居ます。
ガルーダは、インドのガルダ由来です。
イランとインドは、同じ神を善悪あべこべにしています。どちらもアリアンで、同じ穴のムジナ?