どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

阿蘭卿国

2011年08月13日 00時13分11秒 | 海(わた)



上図:前1世紀、下図:3世紀。by wikipedia


阿蘭卿国

コーカサスのアルメニアから、カスピ海に出て、北から、ストラボンの云う次の四族が、ギリシャ人のバクトリア王国を駆逐した。
1、アシオイ・・・アス:阿蘭:奄蔡。(南部の大夏を占拠)
2、パシァ二・・・旧パルティア洲(西部をけん制?)
3、トハロイ・・・トカラ(大夏の周辺17国を占領)
4、サカラウロィ・・?(東部を占領、東部を守護)

四族は、バクトリア王国(前255~前135)を制圧し、バクトリア州を占拠し、王国をヒンドウークシュ山脈の南へ追いやった。時代は、遅くとも前135年です。

アシオイは、トカラ人の支配者アシアニでしょう、ゆえにトカラの旧領土が大夏の周辺に17国あった。

前130年頃、そこへ大月氏が来て大夏を押さえ、五つの翕族に統合し、五翕侯として、支配した。大月氏は、バクトリア洲アム河の北(監氏城:盧監氏城)に居て、五翕侯を統治している。

後1年台には、翕族のひとつ貴霜翕侯が、勢いづきクシャン朝となった。
230年まで、クシャン朝は盛んであったが、衰退し、クチャへ移動し、405年頃までクチャにいた。旧地には、後継のギターラ朝が、僅かに続く。

410年台、エフタル(白フン):犬戎族が、ギターラ朝を滅ぼして、旧のクシャン帝国を占領するようになった。
以上が、簡略にした結果です。

以下、キ―ポイントは次の諸点です。

後漢書では、粟特国は阿蘭卿国に改め、康居に属す国々を壅(ふさ)いだ。1世紀末の事でしょう。
84年、月氏(クシャーナ朝)は、新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品を高居王に贈った。
上記は、急所です。・・・カッコ書きが問題。
小月氏との婚姻です。(証拠は後述の新唐書参照のこと)

三国志魏書は、230年、大月氏王が洛陽へ朝貢、金印を貰う。このころには、大月氏はクチャに移って、クシャン朝をギターラ朝が継いでいる。

魏書では、粟特:古奄蔡である。一名温那沙という。都はアフラシャブ。
粟特の437年は三代忽倪王、その前2代だから、300年代後半に、北匈奴の悦般が康居に居て、粟特王を殺した。

375年、フンが移動した。その前に、北匈奴が粟特王を殺しているから、ソグドと同族の阿蘭卿国が北匈奴:悦般国を、北へ追いやった。悦般は、374年までにはカスピ海北方に移動したと考えます。

新唐書は、康国を頂点に以下の王がいたという。
1蘇筹王・・・のちの史国キシュ、
2附墨王・・・のちの何国クシャ二ャ、
3窳匿王・・・のちの石国タシュケント、
4罽王・・・・・のちの安国ブハラ、
5奧鞬王・・・のちの火尋国カリズム、
これらは、ソグド洲で、小月氏の国姓です。唐代に判明した追記記事と考えられます。・・・何時のことかは、班超が知っている。84年に康居が小月氏と婚姻した。この頃に、昭武九姓がソグド洲に入り込んだのでしょう。なぜならば、前176年に、昭武九姓は、河西地方の帳エキ県に居たからです。

7世紀半ば、サマルカンド郊外アフラシャブの王バルフマンは、国名をウナシュ:温那沙ともいう。また、粟特国ともいう。
このバルフマンは、バルフ(大夏の都)から来た男ではないか。
バクトラの都バルフは、漢書・後漢書の監氏城で、魏書では盧監氏城、薄羅城となる。
やはり、盧氏や羅氏が隠れて居ます。

バルフは、アシオイ人、トカラ人、大月氏、ギターラ、エフタル族と続いてきたのでしょう。(盧氏、羅氏)もいます。

粟特は、榎一雄がいう属繇(ゾクヨウ)との表記あり。繇の字は、草の茂る意味がひとつ。書経禹貢(夏后氏)には、八卦の兆辞で、占い辞とある。中国の易が入っているから、あとから昭武の小月氏がソグド洲サマルカンドに入ってきたと言えます。

ところで、マッサゲタイ女王トミュリスは、何処に属するのか。
マッサゲタイは、魚を食らう人で、太陽のみの信仰者です。
阿蘭卿国のひとつ、あるいは、当時のクァ―リズム:のちのホラズムと想定できそうですが、確定は出来かねます。

虞弘墓誌では、虞弘(592年没)の先祖は、魚国尉紇城人なり。太原市へ来た。
虞弘は、マッサゲタイとの混血です。また虞弘の先祖は、帝舜に遡りますが、小月氏の本家でした。

問題は、未だあります。康居とは何者か
おそらく、塞種か、夏后氏の分家ではないかとおもいますが、確定は出来かねます。

以上、曖昧な点もありますが、先学は乏しい史料の中から、これだけの研究成果をよく出されたと思います。

七海は、先学の成果を追跡してきましたが、点倹します。
1、大月氏は、始め夏王朝の夏后氏の分家です。夏滅後、匈奴が夏の苗裔でしたが、夏と匈奴は同族で、仲が悪く、敵対してきたのです。

2、小月氏は、帝舜の虞氏が始祖で、後裔は、昭武九姓で、虞弘はマッサゲタイとの混血です。昭武九姓に虞氏の記載はないが、昭武の本家でした。
すでに、5月19日の「月氏の先祖判明」で、虞氏の先祖は、帝舜有虞氏に遡り、後裔は、小月氏すなわち昭武(チュブ)姓と記しました。これは、本家だから、昭武九姓に名前が出てこないのです。8月19日の書き方が間違っていました。

3、ソグド人は、昭武九姓ではなく、先祖は、コーカソイドで、アルメニアの出身の、阿蘭人、奄蔡人、アス人、オセット族とも表記されていました。
前9世紀には、ウラルト王国を建国しています。(加藤九祚訳「ウラルトゥ-王国」)
コーカサスのアルメニア人は、ユダヤ人が三人寄っても勝てない知恵者の商人でした。
ソグド人は、その後裔でしょう。

4、ソグド人を小月氏とする誤解の原因は、後から小月氏の康国がサマルカンドに入って来たので、はじめに学者が混同したのです。ソグド語文書の出土も誤解を手伝っています。

5、北匈奴の悦般は、白フンではなかった。白フンは、奄蔡、阿蘭、粟特といい、オセット族であった。
以前に北匈奴を白フンと考えた七海のブログは、誤りで、歴史の落とし穴に、ついに、はまってしまっていました。
白フンは、イヌ族でした。

なお、盧氏は、本姓が嬀姓ですが、山西省、湖北省、陝西省、匈奴国内、西域など中国のあちこちにいますが、日本にも末盧國に居る犬族でしょう