長髄彦の兄・安日
秋田家系図
孝元天皇・・・人皇第8代
開化天皇・・・孝元天皇第二の皇子
大毘古命・・・安倍将軍、是安倍姓之祖也
―建沼河別命
「七海注、系図の線は次の1へは、つなげていない」
1兄・安日
1弟・長髄彦
2安国・・・安日後孫
3安東(やすはる)
4至東(むねはる)・・・号奥洲日下将軍
5長国
6高丸・・・一説家麿、宝亀之頃為羽洲鎮狄将軍
6継人・・・同御宇
7安尭
8国東(くにはる)
9頻良
10頼良・・・後改頼時、安東太郎、時称云安倍将軍:奥羽二州押領使
以下は、七海が省略。番号は、七海挿入。
出典:喜田貞吉著作集9蝦夷の研究
喜田貞吉
よく家系図は、仮托されることがあるが、
上述のように、秋田家系図が孝元天皇に関係があっても、神武紀の長脛彦の兄が、秋田家の祖と主張して、変えない件について、尊敬すべきものがあるとする。蝦夷研究に資して展開された。
他の学者の書籍では、偽系図とする意見もある。
秋田家は、わざわざ、大毘古命の所へもってきた事由は、以下の件にあると想います。
七海は、すでに、安倍文殊院で論述した通り、大毘古命が捨児を伊賀で拾って育てた。この子孫が文殊院の安倍倉橋麻呂、その後裔の安倍晴明であった。
この件に、安日は、関わるのではないか。
すなわち、捨児の親の先祖が、長脛彦の兄・安日と考えられるのです。
古事記、書紀ともに、大彦命は、阿倍姓ほか七族之祖です。
大彦命の長男・武淳河別は、阿倍であって、安倍ではありません。
直接に家系を示すと同時に、紛らわしいが、わざわざ大彦命の所へ持ってきた。
系図の大毘古命の安倍将軍とは、なんでしょうか。
10の頼良のところに出てくる安倍将軍のことで、奥:陸奥、羽:羽洲です。
また、6の高丸は、家麿ともいう。羽洲の狄を併合したので、鎮狄将軍としています。宝亀年間は770~781年。
4の至東は、奥洲(陸奥)の日下将軍と号す。これは、くさか将軍と読む。
A日下の日は、地平線の下にある状態で、「かぎろひ」:火焔です。
B日の本(ひのもと)は、地平線のセンターにある状態で、全く違います。
日下(くさか)の状態で、太陽が浮き上がって見える場合を、饒速日尊(にぎはやひ)という。これをにぎにぎしい日という。物部臣の遠祖です。
したがって、系図は、神武紀から6の高丸の770年では、省略があります。
山口県の大内氏、豊田氏の各系図も、こんな調子ですから、信じない人が多いとみます。しかし、喜田貞吉は、否定するよりも、むしろ尊重しています。
そこで、大漢国(白神山地突端の代表地点)とは、蝦夷を指していますが、具体的には何をさすのか。
蝦夷の代表例
遠蝦夷・・・陸奥(十三湊の安日)、羽洲を併合。
麁蝦夷・・・陸中岩手県。胆沢(いざわ):現在の水沢市が中心。
熟蝦夷・・・陸前宮城県。山の佐伯、野の佐伯。イヌ舎人、大舎人。
文身国・・・磐城、石代の福島県。上記の三つを含む?
梁書(訂正、南史)の大漢国の意味
1、夏は、大の意味だから、夏漢国。
2、大は、長の意味だから、兄の漢国。
いずれも、日本では、漢国は、アヤとかカラともいう。
アヤは文身国、カラは、文字通り、漢人の国とみます。
喜田貞吉は、この梁書(訂正、南史)の文身国、大漢国を把握していない。
しかし、蝦夷(えみし)を加伊(カイ)民族として扱い、夷俘と俘囚の違いを持て余しながらも、蝦夷が王化へ馴染んでゆく様子を丁寧に言及されています。
大彦命の系図
阿倍臣・武淳河別
膳臣・彦稲輿別
阿閉臣・伊賀国上野市
狭狭城山君・近江国蒲生郡安土町
筑紫国造・成務紀、大彦5世孫田道命
越国造・高志国頚城郡(上越市)・屋主田心命
伊賀臣・姓氏録の道公の条に、大彦の孫。
すべて七族の始祖なり。
このうち、唯一、君姓の狭狭城山君がいます。これが棄て児でした。七海のブログ2010・9・24を見て下さい。
再録、近江の佐々貴山君
167年頃生まれた狭狭城山君は、安倍倉橋麻呂の先祖です。
安倍倉橋麻呂は、645年、左大臣でした。167年から数えて約500年前の先祖が、狭狭城山君でした。後裔の倉橋麻呂は、文殊院の建立者です。
では、167年頃生まれた狭狭城山君の本拠は何処でしょう。
沙沙貴神社 (滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
1神代に少彦名神を祀ったことに始まる。・・・紀元前
2古代に沙沙貴山君が大彦命を祭る。・・・・・200年頃
3景行が大規模な社殿を造営させた。・・・・・320年代
景行天皇は、志賀高穴穂宮遷都。
上記2の記事から、孝元天皇の長男大彦命を祀るとあるので、棄て子の狭狭城山君:沙沙貴山君は、必然的に恩人大彦命を祀ったと考えられます。
(九代開化天皇の大臣大彦命は、天皇と相談、封地を安土に与えたとみます)
なんだか、雄略天皇の462年の少子部蜾蠃(ちいさこべスガル)と590年代の崇峻天皇の子・蜂子皇子と関係しているように、思えてなりません。
A蜾蠃は、ジカ蜂の義ですが、ス音の転で、ツ音となり、津軽を暗示。
B蜂子皇子が、出羽の羽黒山の湯殿神社を創建しています。
狭狭城山君は、645年の安倍倉橋麻呂(名代)の先祖でしょう。
当時の人・倉橋麻呂は、崇峻天皇(588~592)の倉橋宮に因む名代を引き継いだのであろう。崇峻は雄略(訂正、蘇我馬子)に殺された天皇だからです。
崇峻の子・蜂子皇子は、出羽の羽黒山へゆき湯殿神社を創建した。仏教でいう出家のような者となり奈良を出て居ないからです。
そして、遣唐使で、大の部の漢字・夨(ショク)が出て来ます。弓の名人で、熟蝦夷という。
やはり、遠い蝦夷は、十三湊(とさみなと)ですが、東夷(とおい)蝦夷でしょう。
日本は、開ビャク以来、東夷の一員でした。
神武紀で、奈良に居た蝦夷は、その後、陸奥へ行ったのでしょう。
これが、長脛彦つまり蛇つまり龍族の兄・安日でしょう。
日高見神社の桃生(鬼の寓言)
方位を90度左回転すれば、茨城県から陸奥国八戸市まで、太陽が一番初めに子午線(真南)を通過する邦だ。これは縦と横を入れ替えているから、寓言です。夨人の「く」の字に曲がった頭が証拠です。
日、高見国の原義を示唆していました。東北六県は、太陽が、一番先に来る邦と言う意味です。なぜならば、日下将軍とは、「日は地平線の下ですよ、次に、日の本で、地平線の中心になりますよ」と言っている。
八戸市是川遺跡に、弓が出土。
秋田家系図
孝元天皇・・・人皇第8代
開化天皇・・・孝元天皇第二の皇子
大毘古命・・・安倍将軍、是安倍姓之祖也
―建沼河別命
「七海注、系図の線は次の1へは、つなげていない」
1兄・安日
1弟・長髄彦
2安国・・・安日後孫
3安東(やすはる)
4至東(むねはる)・・・号奥洲日下将軍
5長国
6高丸・・・一説家麿、宝亀之頃為羽洲鎮狄将軍
6継人・・・同御宇
7安尭
8国東(くにはる)
9頻良
10頼良・・・後改頼時、安東太郎、時称云安倍将軍:奥羽二州押領使
以下は、七海が省略。番号は、七海挿入。
出典:喜田貞吉著作集9蝦夷の研究
喜田貞吉
よく家系図は、仮托されることがあるが、
上述のように、秋田家系図が孝元天皇に関係があっても、神武紀の長脛彦の兄が、秋田家の祖と主張して、変えない件について、尊敬すべきものがあるとする。蝦夷研究に資して展開された。
他の学者の書籍では、偽系図とする意見もある。
秋田家は、わざわざ、大毘古命の所へもってきた事由は、以下の件にあると想います。
七海は、すでに、安倍文殊院で論述した通り、大毘古命が捨児を伊賀で拾って育てた。この子孫が文殊院の安倍倉橋麻呂、その後裔の安倍晴明であった。
この件に、安日は、関わるのではないか。
すなわち、捨児の親の先祖が、長脛彦の兄・安日と考えられるのです。
古事記、書紀ともに、大彦命は、阿倍姓ほか七族之祖です。
大彦命の長男・武淳河別は、阿倍であって、安倍ではありません。
直接に家系を示すと同時に、紛らわしいが、わざわざ大彦命の所へ持ってきた。
系図の大毘古命の安倍将軍とは、なんでしょうか。
10の頼良のところに出てくる安倍将軍のことで、奥:陸奥、羽:羽洲です。
また、6の高丸は、家麿ともいう。羽洲の狄を併合したので、鎮狄将軍としています。宝亀年間は770~781年。
4の至東は、奥洲(陸奥)の日下将軍と号す。これは、くさか将軍と読む。
A日下の日は、地平線の下にある状態で、「かぎろひ」:火焔です。
B日の本(ひのもと)は、地平線のセンターにある状態で、全く違います。
日下(くさか)の状態で、太陽が浮き上がって見える場合を、饒速日尊(にぎはやひ)という。これをにぎにぎしい日という。物部臣の遠祖です。
したがって、系図は、神武紀から6の高丸の770年では、省略があります。
山口県の大内氏、豊田氏の各系図も、こんな調子ですから、信じない人が多いとみます。しかし、喜田貞吉は、否定するよりも、むしろ尊重しています。
そこで、大漢国(白神山地突端の代表地点)とは、蝦夷を指していますが、具体的には何をさすのか。
蝦夷の代表例
遠蝦夷・・・陸奥(十三湊の安日)、羽洲を併合。
麁蝦夷・・・陸中岩手県。胆沢(いざわ):現在の水沢市が中心。
熟蝦夷・・・陸前宮城県。山の佐伯、野の佐伯。イヌ舎人、大舎人。
文身国・・・磐城、石代の福島県。上記の三つを含む?
梁書(訂正、南史)の大漢国の意味
1、夏は、大の意味だから、夏漢国。
2、大は、長の意味だから、兄の漢国。
いずれも、日本では、漢国は、アヤとかカラともいう。
アヤは文身国、カラは、文字通り、漢人の国とみます。
喜田貞吉は、この梁書(訂正、南史)の文身国、大漢国を把握していない。
しかし、蝦夷(えみし)を加伊(カイ)民族として扱い、夷俘と俘囚の違いを持て余しながらも、蝦夷が王化へ馴染んでゆく様子を丁寧に言及されています。
大彦命の系図
阿倍臣・武淳河別
膳臣・彦稲輿別
阿閉臣・伊賀国上野市
狭狭城山君・近江国蒲生郡安土町
筑紫国造・成務紀、大彦5世孫田道命
越国造・高志国頚城郡(上越市)・屋主田心命
伊賀臣・姓氏録の道公の条に、大彦の孫。
すべて七族の始祖なり。
このうち、唯一、君姓の狭狭城山君がいます。これが棄て児でした。七海のブログ2010・9・24を見て下さい。
再録、近江の佐々貴山君
167年頃生まれた狭狭城山君は、安倍倉橋麻呂の先祖です。
安倍倉橋麻呂は、645年、左大臣でした。167年から数えて約500年前の先祖が、狭狭城山君でした。後裔の倉橋麻呂は、文殊院の建立者です。
では、167年頃生まれた狭狭城山君の本拠は何処でしょう。
沙沙貴神社 (滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
1神代に少彦名神を祀ったことに始まる。・・・紀元前
2古代に沙沙貴山君が大彦命を祭る。・・・・・200年頃
3景行が大規模な社殿を造営させた。・・・・・320年代
景行天皇は、志賀高穴穂宮遷都。
上記2の記事から、孝元天皇の長男大彦命を祀るとあるので、棄て子の狭狭城山君:沙沙貴山君は、必然的に恩人大彦命を祀ったと考えられます。
(九代開化天皇の大臣大彦命は、天皇と相談、封地を安土に与えたとみます)
なんだか、雄略天皇の462年の少子部蜾蠃(ちいさこべスガル)と590年代の崇峻天皇の子・蜂子皇子と関係しているように、思えてなりません。
A蜾蠃は、ジカ蜂の義ですが、ス音の転で、ツ音となり、津軽を暗示。
B蜂子皇子が、出羽の羽黒山の湯殿神社を創建しています。
狭狭城山君は、645年の安倍倉橋麻呂(名代)の先祖でしょう。
当時の人・倉橋麻呂は、崇峻天皇(588~592)の倉橋宮に因む名代を引き継いだのであろう。崇峻は雄略(訂正、蘇我馬子)に殺された天皇だからです。
崇峻の子・蜂子皇子は、出羽の羽黒山へゆき湯殿神社を創建した。仏教でいう出家のような者となり奈良を出て居ないからです。
そして、遣唐使で、大の部の漢字・夨(ショク)が出て来ます。弓の名人で、熟蝦夷という。
やはり、遠い蝦夷は、十三湊(とさみなと)ですが、東夷(とおい)蝦夷でしょう。
日本は、開ビャク以来、東夷の一員でした。
神武紀で、奈良に居た蝦夷は、その後、陸奥へ行ったのでしょう。
これが、長脛彦つまり蛇つまり龍族の兄・安日でしょう。
日高見神社の桃生(鬼の寓言)
方位を90度左回転すれば、茨城県から陸奥国八戸市まで、太陽が一番初めに子午線(真南)を通過する邦だ。これは縦と横を入れ替えているから、寓言です。夨人の「く」の字に曲がった頭が証拠です。
日、高見国の原義を示唆していました。東北六県は、太陽が、一番先に来る邦と言う意味です。なぜならば、日下将軍とは、「日は地平線の下ですよ、次に、日の本で、地平線の中心になりますよ」と言っている。
八戸市是川遺跡に、弓が出土。