夷守と蛭子神(1)
卑奴母離とは、なんでしょうか。(魏志倭人伝の官名)
対海国(対馬)、一大国(壱岐)、奴国(旧前原市神有)、不彌國(糸島半島芥屋)には、副官としての官名「卑奴母離」が記載されています。
(漢字音)
卑:ヒ。
奴:ド、ヌ。
母:ボウ、モウ、慣例でモ音。
離:リ。2チ、5レィ、ラィ
「漢音」ひどぼリ。
「呉音」ひぬもり。(ヌが音転してナ音になるのか?)
これを、「ひなもり」と呼んで居ますが、七海には読めません。
なにか、隠れたものがあるのではないか。
魏志は漢音ですが、卑奴母離は、呉音の可能性が強い。
後漢書では、漢音で、カド国:倭奴国でした。カド:角、門、鹿渡。
鹿の角が隠れています。・・・鹿島信仰でしょう。
景行紀の小林市の夷守は、「ひなもり」と呼んでいます。また夷振りという歌謡が、神代記あります。
以下、関連する地名をあげます。
1、比奈守神社
岐阜市茜部本郷にある郷社で、祭神:応神天皇、神功皇后。
2、新潟県頸城(くびき)郡・夷守郷。
夷守:ひなもりです。
美守(ひだもり)神社もあるが、これは、頓知表現です。
襞(ひだ):細かく綺麗に折たたむ。「たたむ」と掛けている。
光の襞(ひだ)をさし、たたまれた美でしょう。
南宇佐は、原葉たたなづく青カシの国でした。
美は、やはり、背後に平らげ女神を隠す。美がヒントでした。
夷曲(ひなぶり):古代歌謡:狂歌。(那は、漢音ダ、呉音ナ)
ゆえに東山道の飛騨は、山襞の国。同じとみます。
3、宮崎県小林市細野・夷守(ひなもり)郷。
4、宮崎県霧島岑神社
夷守岳の下にも夷守神社あり、霧島岑神社に同じ。
5、西宮神社(恵美須)
主神:蛭子神、副神:大国主。
夷(えびす)が、のちに七福神の戎(えびす)と大黒へと進展。
夷守は、ひなもりと読まれるが、本来は、鄙(ひな)びた辺境の田舎ではない。
都が出来た時代に、対置しての鄙が登場した。
漢字の夷は、平らげの義ですから、平らげ守となるので、鄙の意味とは無関係です。
のちに、平安時代、伊予守兼任の津真道など、全国に、地名+守が居ました。大岡越前守などの守を「かみ」と読ませていた。
A白川関、勿来関(菊多関)
白川国造は成務朝に置く。
勿来関は、仁明天皇の承和2年(835)から400年前だから、允恭天皇の頃に設置。(類聚三代格の太政官符) いずれも福島県です。この二つの関で、北からの防御をしていた。
B頚城郡の夷守:北陸道の関
崇神朝に頚城国造、頚城深江国造が守る。(先代旧事本記の国造本記)
大化4年(648)越後の磐船柵を設置。(新潟県村上市岩船)
上記のように、夷守は、守護の意味が強い。
たまたま、都に対する鄙(ひな)の音でもありした。もまた都の防御の最も外側でしたが、この内側にも早くから関所が出来ています。
関塞(せきそこ):関所 (以下、Wikipedia編集)
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。
東海道の鈴鹿関、外は東国または関東
東山道の不破関、
北陸道の愛発関
畿内を防御するために特に重視され、三関という。
平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。
以上で、魏志の卑奴母理は、海外の外敵に供えたところと言えます。
狗奴国は、影から卑弥呼を補佐しているのでしょう。
経緯からして、おそらく狗奴が邪馬臺(やばたい)國で、卑弥呼は、邪馬壹(やばい)國とみられます。壹は(イッ、イチ)ですが、日本では壱岐のイ音です。
171年、ヤバイは、邪馬(ヤバ)の始めの国です。
前82年の如墨委面は、ヤバの初国(ヤバイ)とみられます。
重要な事
1、夷の漢字は、平らげる意味だから、夷の守となり、守:かみです。
ゆえに「ひなもり」は「ひらもり」と解す。
証拠として、大日霊女貴(おおヒルめむち)の音は、hi-lung反、ヒラ[平]の音でも通ず。またはhi-rangでしょう。
霊(レィ)の下に女を付けた漢字「孁」は、レィ音です。
ゆえに、「おおひれめ」となり、のちのヒレ(領布)に通じ、天を覆うこと。これも平らげの義でしょう。
658年、越国守・阿倍比羅夫の比羅も、不退転を込めた平と掛けた名でしょう。
2、決定的証拠は古代の漢字音
N音は、L音やR音と音通であった。(北京大学林梅村は、重要な指摘者です)
ゆえに「な」音は「ら」音に復原可能です。
そこで、順序を逆にします。
ラ、リ、ル、レ、ロ
な、に、ぬ、ね、の
始めに、「ひルもり」があって、呉音で卑ヌ母離とした。
「ひルもり」は、蛭母離とすれば、蛭子神の後裔ではないか。
傍証は、垂仁の後宮に、綺戸辺、苅羽田戸弁あり、どちらも「かニはたとべ」という。かニは、カリと音通とみられます。
3、荒吐族は、荒を取り除くと、吐き、掃き、帚(ほうき)となる。
葉木(前原)の神名、杷木(筑後)の地名は、神武紀の蝦夷・安日氏、陸中岩手県の麁蝦夷(あらえみし)と関係しています。(麁(ソ、ス):あら:荒)
なぜならば、継体紀に物部麁鹿火(あらかい)が筑紫君磐井を征討にゆく記事がありました。
葉木尊は、旧前原市の八龍の森に居た一人です。
要するに、外敵に備えての守り神は、八龍を意味していました。
国東半島の香々地町に夷地名あり、エビスと読む。
このように、幾重にも垣根を重ね、襲ねる。これが守護の真随と考えられます。
内には、くりかえし、じわじわと締め上げる。ウワバミ[蛇]がかくれています。
外には、ドクロ巻の構えで、スサノオ(自称クソマル)に似ています。
母離郷
出雲国風土記に意宇郡母離(もり)郷があります。夷奴母離の夷奴が付かないだけです。
八束水臣津野命が、くにこ、くにこ、と国引き伝説を発しています。
母離の原点は、意宇の社で、神祭りの場でしょう。
なお、鋸をノコギリとせず、ノホギリというのは、頓知や暗示と考えます。
なぜかといえば、ノコギリのギザギザは、火(ほ)の形を示しているからです。
火焔は、日が地平線の下にある時に、古語で「かぎろひ」が必ず立つからです。また、邪馬(やば):野馬(やば)も野炎も「かぎろひ」です。古墳の壁画には、朱色で三角型のギザギザがこれを指していました。
卑奴母離とは、なんでしょうか。(魏志倭人伝の官名)
対海国(対馬)、一大国(壱岐)、奴国(旧前原市神有)、不彌國(糸島半島芥屋)には、副官としての官名「卑奴母離」が記載されています。
(漢字音)
卑:ヒ。
奴:ド、ヌ。
母:ボウ、モウ、慣例でモ音。
離:リ。2チ、5レィ、ラィ
「漢音」ひどぼリ。
「呉音」ひぬもり。(ヌが音転してナ音になるのか?)
これを、「ひなもり」と呼んで居ますが、七海には読めません。
なにか、隠れたものがあるのではないか。
魏志は漢音ですが、卑奴母離は、呉音の可能性が強い。
後漢書では、漢音で、カド国:倭奴国でした。カド:角、門、鹿渡。
鹿の角が隠れています。・・・鹿島信仰でしょう。
景行紀の小林市の夷守は、「ひなもり」と呼んでいます。また夷振りという歌謡が、神代記あります。
以下、関連する地名をあげます。
1、比奈守神社
岐阜市茜部本郷にある郷社で、祭神:応神天皇、神功皇后。
2、新潟県頸城(くびき)郡・夷守郷。
夷守:ひなもりです。
美守(ひだもり)神社もあるが、これは、頓知表現です。
襞(ひだ):細かく綺麗に折たたむ。「たたむ」と掛けている。
光の襞(ひだ)をさし、たたまれた美でしょう。
南宇佐は、原葉たたなづく青カシの国でした。
美は、やはり、背後に平らげ女神を隠す。美がヒントでした。
夷曲(ひなぶり):古代歌謡:狂歌。(那は、漢音ダ、呉音ナ)
ゆえに東山道の飛騨は、山襞の国。同じとみます。
3、宮崎県小林市細野・夷守(ひなもり)郷。
4、宮崎県霧島岑神社
夷守岳の下にも夷守神社あり、霧島岑神社に同じ。
5、西宮神社(恵美須)
主神:蛭子神、副神:大国主。
夷(えびす)が、のちに七福神の戎(えびす)と大黒へと進展。
夷守は、ひなもりと読まれるが、本来は、鄙(ひな)びた辺境の田舎ではない。
都が出来た時代に、対置しての鄙が登場した。
漢字の夷は、平らげの義ですから、平らげ守となるので、鄙の意味とは無関係です。
のちに、平安時代、伊予守兼任の津真道など、全国に、地名+守が居ました。大岡越前守などの守を「かみ」と読ませていた。
A白川関、勿来関(菊多関)
白川国造は成務朝に置く。
勿来関は、仁明天皇の承和2年(835)から400年前だから、允恭天皇の頃に設置。(類聚三代格の太政官符) いずれも福島県です。この二つの関で、北からの防御をしていた。
B頚城郡の夷守:北陸道の関
崇神朝に頚城国造、頚城深江国造が守る。(先代旧事本記の国造本記)
大化4年(648)越後の磐船柵を設置。(新潟県村上市岩船)
上記のように、夷守は、守護の意味が強い。
たまたま、都に対する鄙(ひな)の音でもありした。もまた都の防御の最も外側でしたが、この内側にも早くから関所が出来ています。
関塞(せきそこ):関所 (以下、Wikipedia編集)
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。
東海道の鈴鹿関、外は東国または関東
東山道の不破関、
北陸道の愛発関
畿内を防御するために特に重視され、三関という。
平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。
以上で、魏志の卑奴母理は、海外の外敵に供えたところと言えます。
狗奴国は、影から卑弥呼を補佐しているのでしょう。
経緯からして、おそらく狗奴が邪馬臺(やばたい)國で、卑弥呼は、邪馬壹(やばい)國とみられます。壹は(イッ、イチ)ですが、日本では壱岐のイ音です。
171年、ヤバイは、邪馬(ヤバ)の始めの国です。
前82年の如墨委面は、ヤバの初国(ヤバイ)とみられます。
重要な事
1、夷の漢字は、平らげる意味だから、夷の守となり、守:かみです。
ゆえに「ひなもり」は「ひらもり」と解す。
証拠として、大日霊女貴(おおヒルめむち)の音は、hi-lung反、ヒラ[平]の音でも通ず。またはhi-rangでしょう。
霊(レィ)の下に女を付けた漢字「孁」は、レィ音です。
ゆえに、「おおひれめ」となり、のちのヒレ(領布)に通じ、天を覆うこと。これも平らげの義でしょう。
658年、越国守・阿倍比羅夫の比羅も、不退転を込めた平と掛けた名でしょう。
2、決定的証拠は古代の漢字音
N音は、L音やR音と音通であった。(北京大学林梅村は、重要な指摘者です)
ゆえに「な」音は「ら」音に復原可能です。
そこで、順序を逆にします。
ラ、リ、ル、レ、ロ
な、に、ぬ、ね、の
始めに、「ひルもり」があって、呉音で卑ヌ母離とした。
「ひルもり」は、蛭母離とすれば、蛭子神の後裔ではないか。
傍証は、垂仁の後宮に、綺戸辺、苅羽田戸弁あり、どちらも「かニはたとべ」という。かニは、カリと音通とみられます。
3、荒吐族は、荒を取り除くと、吐き、掃き、帚(ほうき)となる。
葉木(前原)の神名、杷木(筑後)の地名は、神武紀の蝦夷・安日氏、陸中岩手県の麁蝦夷(あらえみし)と関係しています。(麁(ソ、ス):あら:荒)
なぜならば、継体紀に物部麁鹿火(あらかい)が筑紫君磐井を征討にゆく記事がありました。
葉木尊は、旧前原市の八龍の森に居た一人です。
要するに、外敵に備えての守り神は、八龍を意味していました。
国東半島の香々地町に夷地名あり、エビスと読む。
このように、幾重にも垣根を重ね、襲ねる。これが守護の真随と考えられます。
内には、くりかえし、じわじわと締め上げる。ウワバミ[蛇]がかくれています。
外には、ドクロ巻の構えで、スサノオ(自称クソマル)に似ています。
母離郷
出雲国風土記に意宇郡母離(もり)郷があります。夷奴母離の夷奴が付かないだけです。
八束水臣津野命が、くにこ、くにこ、と国引き伝説を発しています。
母離の原点は、意宇の社で、神祭りの場でしょう。
なお、鋸をノコギリとせず、ノホギリというのは、頓知や暗示と考えます。
なぜかといえば、ノコギリのギザギザは、火(ほ)の形を示しているからです。
火焔は、日が地平線の下にある時に、古語で「かぎろひ」が必ず立つからです。また、邪馬(やば):野馬(やば)も野炎も「かぎろひ」です。古墳の壁画には、朱色で三角型のギザギザがこれを指していました。