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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

夷守と蛭子神(1)

2011年12月03日 00時03分50秒 | 
夷守と蛭子神(1)

卑奴母離とは、なんでしょうか。(魏志倭人伝の官名)

対海国(対馬)、一大国(壱岐)、奴国(旧前原市神有)、不彌國(糸島半島芥屋)には、副官としての官名「卑奴母離」が記載されています。

(漢字音)
卑:ヒ。
奴:ド、ヌ。
母:ボウ、モウ、慣例でモ音。
離:リ。2チ、5レィ、ラィ

「漢音」ひどぼリ。
「呉音」ひぬもり。(ヌが音転してナ音になるのか?)
これを、「ひなもり」と呼んで居ますが、七海には読めません。

なにか、隠れたものがあるのではないか。

魏志は漢音ですが、卑奴母離は、呉音の可能性が強い。
後漢書では、漢音で、カド国:倭奴国でした。カド:角、門、鹿渡。
鹿の角が隠れています。・・・鹿島信仰でしょう。

景行紀の小林市の夷守は、「ひなもり」と呼んでいます。また夷振りという歌謡が、神代記あります。
以下、関連する地名をあげます。

1、比奈守神社
岐阜市茜部本郷にある郷社で、祭神:応神天皇、神功皇后。

2、新潟県頸城(くびき)郡・夷守郷。
夷守:ひなもりです。
美守(ひだもり)神社もあるが、これは、頓知表現です。
襞(ひだ):細かく綺麗に折たたむ。「たたむ」と掛けている。
光の襞(ひだ)をさし、たたまれた美でしょう。
南宇佐は、原葉たたなづく青カシの国でした。
美は、やはり、背後に平らげ女神を隠す。美がヒントでした。
夷曲(ひなぶり):古代歌謡:狂歌。(那は、漢音ダ、呉音ナ)
ゆえに東山道の飛騨は、山襞の国。同じとみます。

3、宮崎県小林市細野・夷守(ひなもり)郷。

4、宮崎県霧島岑神社
夷守岳の下にも夷守神社あり、霧島岑神社に同じ。

5、西宮神社(恵美須)
主神:蛭子神、副神:大国主。
夷(えびす)が、のちに七福神の戎(えびす)と大黒へと進展。

夷守は、ひなもりと読まれるが、本来は、鄙(ひな)びた辺境の田舎ではない。
都が出来た時代に、対置しての鄙が登場した。

漢字の夷は、平らげの義ですから、平らげ守となるので、鄙の意味とは無関係です。
のちに、平安時代、伊予守兼任の津真道など、全国に、地名+守が居ました。大岡越前守などの守を「かみ」と読ませていた。

A白川関、勿来関(菊多関)
白川国造は成務朝に置く。
勿来関は、仁明天皇の承和2年(835)から400年前だから、允恭天皇の頃に設置。(類聚三代格の太政官符) いずれも福島県です。この二つの関で、北からの防御をしていた。

B頚城郡の夷守:北陸道の関
崇神朝に頚城国造、頚城深江国造が守る。(先代旧事本記の国造本記)
大化4年(648)越後の磐船柵を設置。(新潟県村上市岩船)

上記のように、夷守は、守護の意味が強い。
たまたま、都に対する鄙(ひな)の音でもありした。もまた都の防御の最も外側でしたが、この内側にも早くから関所が出来ています。
関塞(せきそこ):関所 (以下、Wikipedia編集) 
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。
東海道の鈴鹿関、外は東国または関東
東山道の不破関、
北陸道の愛発関
畿内を防御するために特に重視され、三関という。
平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。

以上で、魏志の卑奴母理は、海外の外敵に供えたところと言えます。
狗奴国は、影から卑弥呼を補佐しているのでしょう。
経緯からして、おそらく狗奴が邪馬臺(やばたい)國で、卑弥呼は、邪馬壹(やばい)國とみられます。壹は(イッ、イチ)ですが、日本では壱岐のイ音です。
171年、ヤバイは、邪馬(ヤバ)の始めの国です。
前82年の如墨委面は、ヤバの初国(ヤバイ)とみられます。

重要な事
1、夷の漢字は、平らげる意味だから、夷の守となり、守:かみです。
ゆえに「ひなもり」は「ひらもり」と解す。
証拠として、大日霊女貴(おおヒルめむち)の音は、hi-lung反、ヒラ[平]の音でも通ず。またはhi-rangでしょう。

霊(レィ)の下に女を付けた漢字「孁」は、レィ音です。
ゆえに、「おおひれめ」となり、のちのヒレ(領布)に通じ、天を覆うこと。これも平らげの義でしょう。
658年、越国守・阿倍比羅夫の比羅も、不退転を込めた平と掛けた名でしょう。

2、決定的証拠は古代の漢字音
N音は、L音やR音と音通であった。(北京大学林梅村は、重要な指摘者です)
ゆえに「な」音は「ら」音に復原可能です。
そこで、順序を逆にします。
ラ、リ、ル、レ、ロ
な、に、ぬ、ね、の
始めに、「ひルもり」があって、呉音で卑ヌ母離とした。
「ひルもり」は、蛭母離とすれば、蛭子神の後裔ではないか。
傍証は、垂仁の後宮に、綺戸辺、苅羽田戸弁あり、どちらも「かニはたとべ」という。かニは、カリと音通とみられます。

3、荒吐族は、荒を取り除くと、吐き、掃き、帚(ほうき)となる。
葉木(前原)の神名、杷木(筑後)の地名は、神武紀の蝦夷・安日氏、陸中岩手県の麁蝦夷(あらえみし)と関係しています。(麁(ソ、ス):あら:荒)
なぜならば、継体紀に物部麁鹿火(あらかい)が筑紫君磐井を征討にゆく記事がありました。

葉木尊は、旧前原市の八龍の森に居た一人です。
要するに、外敵に備えての守り神は、八龍を意味していました。

国東半島の香々地町に夷地名あり、エビスと読む。
このように、幾重にも垣根を重ね、襲ねる。これが守護の真随と考えられます。
内には、くりかえし、じわじわと締め上げる。ウワバミ[蛇]がかくれています。
外には、ドクロ巻の構えで、スサノオ(自称クソマル)に似ています。

母離郷
出雲国風土記に意宇郡母離(もり)郷があります。夷奴母離の夷奴が付かないだけです。
八束水臣津野命が、くにこ、くにこ、と国引き伝説を発しています。
母離の原点は、意宇の社で、神祭りの場でしょう。

なお、鋸をノコギリとせず、ノホギリというのは、頓知や暗示と考えます。
なぜかといえば、ノコギリのギザギザは、火(ほ)の形を示しているからです。
火焔は、日が地平線の下にある時に、古語で「かぎろひ」が必ず立つからです。また、邪馬(やば):野馬(やば)も野炎も「かぎろひ」です。古墳の壁画には、朱色で三角型のギザギザがこれを指していました。


震旦国と鏡製作地(2)

2011年11月18日 00時12分37秒 | 
震旦国と鏡製作地(2)

きょうは、神原神社古墳の鏡銘文で、「杜地命出」で、七海がまごついた話しの延長戦です。
つまり、三角縁神獣鏡同行式神獣鏡の「杜地命出」は、和風漢文でした。

支那とは、古来、インド人が中国を指していう言葉で、中国中原の人は、使わない漢字で、他称です。(次回、改めて、「支那の語源を遡る」を書きますが、リグ・ヴェーダには、既に、梵語チ―ナの「チナ」がでてきます。)

陳是作鏡
陳と云う国は、前11世紀、周の武王が帝舜の子孫に与えた国名でした。
しかも、本姓は、嬀姓でした。盧氏も本姓は、嬀姓でした。

和風漢文
中国中原の漢文の文法は、動詞、目的語の順ですが、
アルタイ語の語順は、目的語、動詞の順となり、前後が逆になります。
和風漢文も、目的語、動詞です。

「杜地命出」の文章は、純粋漢文ではなかった。完全に和風漢文でした。
杜(もり)は、日本語では、森の義でした。
したがって、森地(もりつち)は、命を出ず、でした。
漢文では、「杜地出命」の語順となりますから、判別がつきます。

やはり、神原神社古墳の鏡は、239年、日本で作られたことが、わかります。

杜(ト、ズ)の意味
岩波古事記の補注では、杜は、神の降臨するところとしていました。[小林芳規]
神は、自然木の高い木、あるいは山の頂に降臨するのでしょう。

例示1、熊野本宮大社縁起
熊野大神は、斎っ桂(ゆっかつら)の木に降臨しますが、桂は金木犀とみられます。これと、小林芳規の考えが合致するからです。
例示2、御許山、馬城峰、大元山
ここは、宇佐八幡宮の奥宮でした。ここには、磐座(いわくら)があり、櫟(いちい)カシは、木に楽の漢字。現在でも櫟カシで覆われています。
一般人は、大元神社へ参拝できますが、其の奥は、禁足地でした。

森神:杜神
神聖視されている一区画の森に於いて祀る神、
その森の中でも特定のモリ木があって、それに注連縄を張り、根元に幣串を挿して祭る。
モリ木や神域の木を伐りとることは、祟りを受けると、厳に戒められている。・・・聖なる樹木を「招ぎ代」として、天降る神を迎え祭るという神祭の古俗が、「森信仰」の中によく保存されている。(大塚民族学会編「日本民俗事典」弘文堂、昭和50年)・・・「招ぎ代」:おぎしろと読む。神を招く代わりになる木。
杜は、日本語では、森の義でした。

口寄せ
東北のイタコ、市子、市古などの巫(ふ)を口寄せという。
歴史的経緯は、いざ知らず、古来、巫女は中国にも居ます。巫女は、杜(もり)に居て神を降ろし、自身が待ち受ける役目をしていたと、思います。
森に神を降ろす役目は、杜と巫女が、ワンセットでした。
辛島杜女(からしまもりめ)は、宇佐市の辛島郷の人ですが、辛島氏の先祖は慶尚北道の迎実湾から来ました。
関連して、地鎮祭は、神を降ろし、亦、神の帰りを送る儀式だから、今日、神主がやっていることと同じでしょう。
祭りに於いて、「だんじり」や神輿の上で踊る人は、古態を留めています。
なぜならば、神を抱きかかえるしぐさをするからです。亦、神と共に踊っています。勿論、男の巫(かんなぎ)をさし、覡(ゲキ)という漢字です。

末盧國
旧三根町寄人という地名は、魏志倭人伝にいう末盧國の代表地点です。
壱岐の石田から76・5kmは、1000里です。(七海推定)
末盧國の盧氏は、何処へ行ったのか判然としない、魏志には、官名が唯一無い国でした。
おそらく、卑弥呼が就任する前の168年、役目を終えて何処かへ行ったのでしょう。

出雲国(雲洲)母離郷
出雲国風土記には、母離(もり)郷があります。スサノオの孫裔に八束水臣津野命という人物がいます。国引き神話の人物で、母離郷に祀られている。
これも森、杜でしょう。
魏志倭人伝、もりに冠の夷(卑奴)をつければ、卑奴母離となります。
(夷守は、もうすぐ後でとりあげます。)

杜地命出
漢文は、杜地出命となる。和風漢文は、杜地命出です。
何の事は無い、これも大和言葉です。
もまた日本語「やまとことば」です。
こんにちも、杜の都:仙台は、現代人が使っています。

大和言葉とは、万葉集の和歌に使われる言葉と思いがちですが、
これで、そんなことはないと、みなさんお気づきの事でしょう。

239年銘、神原神社古墳の三角縁神獣鏡は、陳是と言う人が、日本で作った鏡でした。

あとがき
福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」大阪大学出版会2001
福永自ら魏の工房を現地調査して、鏡の紐通し穴の形状を観察した。
魏の右尚方工房の鏡には、紐通し穴が四角形であった。神原神社古墳の三角縁神獣鏡は、円形穴ではなく四角形だから、卑弥呼のもらった鏡とした。
しかし、次の理由で、魏鏡ではない。
魏鏡に、和風漢文が入ること自体、在りえないことでした。

この本は、タイトル自体が間違いです。
理由は、九州倭国(卑弥呼)と奈良大倭国(開化天皇)は、邦で並立していたからです。魏志倭人伝をよく読めば、答えは出ています。

なお、福永伸哉は、埼玉稲荷山鉄剣をあげ、471年に作った鉄剣として、雄略天皇をあげていました。これも大誤算でした。

1978年
埼玉稲荷山鉄剣の漢字は、岸俊男らが、解釈し直して、今日に至る。井上光貞は、追随して同じ見解で、471年説とした。
ところが、
考古学者斎藤忠は、501~550年、大野晋は531年を取っています。

上田正昭は、471年説ですが、みな、古墳の築造年の時期のみに拘っての解釈でした

よく読まないと、身を助けません。
あの世の漢字、そんなものはありませんが、七海の造語です。
稲荷山鉄剣は、ひとつのマスに、2字、3字を記したりして、工夫されていました。

日本語(やまとことば)

2011年11月13日 07時31分44秒 | 


山口仲美「日本語の歴史」岩波新書2006

日本語(やまとことば)

苔と登の区別が付きましたので、整理しておきます。

通常、「やまとことば」は、大和言葉と記載されていますが、日本語を漢字で「にほんご」と読んでも、訓で「やまとことば」と読んでも、同じ事です。

なぜならば、
神代紀の初めに、日本と書いて耶麻騰(やまと)と定義していました。
旧唐書日本伝は、国号を倭(やまと)から日本(にほん)あるいは(ひのもと)へ変更した。日出る処に近いからという。

この記事は「へん」ですが、日本そのものの読み方を換えたに過ぎません。

唐代の670年、倭国は、慶州新羅を介して、唐へ使者が行きます。この時、国号の倭を改め、呼称を日本(にほん)と変更します。
(経緯は、南扶余(三国史記百済)が滅び、大倭国は、唐・新羅の危機に立つ。天智天皇は、外敵を畏れ、筑紫に山城を築き、萩市見島に、見張り台を築く。
668年、高句麗が滅んだので、慶賀のため、慶州新羅を介して唐へ朝貢して、修復しています。使者は河内鯨でした。)

大和の登場
元明天皇(在位707~715)の時点で、倭と通じる和を採用し大を付けて大和と書くように定められた。(国語辞典・大辞泉)
大和の漢字の初登場です。

元明天皇・和銅5年(子年712年)9月3日
朕(元明天皇)は聞いている。古老が教えていうには、子の年は穀物の稔がよくない。それなのに、天地が助けてくれて、今年は大いに稔った。
古の賢者の言で「祥瑞がいくら良いといっても、豊年に勝るものはない」とある。
伊賀国国司の阿直敬(アチケイ)らが献じた黒狐は、祥瑞を説いた書物でも上瑞とされている。その文に云うには「王者の政治が世の中をよく治めて、平和な時にあらわれる」とある。
朕は、万民とこの喜びをともにしたいと思う。

天平勝宝9年(757)
経緯は、大倭、大日本、大養徳、大倭国そして大和国ですが、みな「おほやまと」という。正式には、天平勝宝9年(757)から大和国です。

倭と日本
ところで、景行天皇の時代、「倭と日本」は、倭建尊(古事記)、日本武尊(日本書紀)の表記でした。どちらも「やまと」と読んでいます。

おかしな国の日本。狐につままれたタヌキの顔。
どんな顔をしているのでしょうか。
唐は、倭の使者が情に通じない。つまり倭と日本の区別経緯を仔細に云わない。そして明確にしないので、唐の高宗は疑っていました。

ところが、唐代の註釈家・顔師古は、如墨委面の解釈において、前漢時代の倭国を漢音で「カコク」と明確に解いていました。(呉音では、ワコクです)

決定的な記事は、魏志の編者・陳寿(ちんじゅ)が、倭人伝において、大倭は、夏王朝の6代目少康の庶流と明紀していた。

大倭、大日本は、同じですが、具体には、大八洲(おおやしま)でした。
九州の筑紫島は、倭国と記し、大倭と区別していた。
倭国は、大倭(大八洲)の中の一洲であったのでした。

証拠は、九州倭国が隋以前まで、支那の天子へ遣使していた経緯があります。
隋以前、直接、天皇に遣使させないのです。間接的遣使でした。
南宇佐の卑弥呼が、238年、魏に使者を送ったのも、間接遣使です。

この傍証は、
景行の高屋神社での歌謡にあった。(夜摩苔と夜麻登の区別)
漢字音、夜摩苔(やばたい)・・・カナで、やばた(矢幡あるいは八幡)
景行天皇は、狗神(くじ)の狗奴と卑弥呼を褒めていた。
古事記の日本武尊の歌
漢字音、夜麻登(やまとう)・・・カナで、やまと(倭あるいは日本)

さらに、漢字音の問題がありました。
景行紀の、苔(タイ)のタ音ですが、騰(トウ)のト音と、区別されていた。
神武紀の、歌謡・愛彌詩(あびし)においても、苔は、タ音でした。

タ行の万葉仮名
タは、多。トは、止。上記の「日本語の歴史」では、片カナを作るのに、漢字の筆跡の一部を当てはめているので、これでよい。
しかし、以前からの古代歌謡は、漢字音を日本語の音に当てました。
タ行の音は、苔[タィ]をタ音、登[トゥ]をト音に当てているのです。
以下は、タ音の使用例を再携します。

景行の歌のタ音:苔
夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、
夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
(意訳)矢幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、
かげろうが籠れて、八幡はうるわし。

愛彌詩の歌のタ音:苔
愛氵彌詩烏、毘亻嚢利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒
(意訳)安日詩、烏日鳥、桃(遠)退いた、直生え歯(鬼歯)どもは、手向かいもせず。

日本語は、「どこ」から来たのか、そして「どう」なったのか。
「どう」なったという書物は沢山あれども、
未だに、「やまと」の原義を正確に解いた学者は、居らないとみています。

「どこ」の追求をした学者は、少数です。
中国中原の西にいた胡族の内、トルコ系の連中が、漢字文法をあたかも和風漢文のように、記す。七海は、「此処」に関心があります。
「どう」なったと言うのは、上記二つの歌、そしてカタ仮名の創作でも解るのです。
鵺(ヌエ)という鳥は、トラツグミとか。化け物は、頭がどこで、尻尾がどこかわからない。そういう議論をしているのではないか。

仮名に対するは、真名(漢字)ですが、この関係は、明治の初めでも、有識者は、漢文で書いていました。
ここに、答えのひとつが見え隠れします。

あとがき
大和朝庭
応神・仁徳紀を、大和朝庭という学者がいます。
大和朝庭は、学者の造語ですが、応神・仁徳を河内大王家とも言っています。

はたして、正確な表現でしょうか。
15代応神天皇の時代は、大倭、大日本ですが、43代元明天皇の時に、初めて大和の表記ですから、完全に時代が「ズレ」ています。

したがって、このような専門造語は、一般読者を惑わすシロモノでした。
まして、歴史学者が、こういう事を書くこと自体おかしいことを、われわれ後学は、再考しなければならないのです。

また、天照大神を、はじめは、地方神であったという的外れの学者がいます。
これも、痴呆神、否、痴呆学者です。
なぜならば、記紀の神代をすっ飛ばしているからです。天照大神は、日本エリアの天を覆う神、神代紀で19代の天王です。スサノオは18代の天王でした。(宋史に登録)

2011・11・15追記
日本語を話す連中は、何処から来たかと云う前に、何処に居たかを考えねばなりません。1万年前からこの列島で話されていた。(吉田金彦)
青森県青森市の山内円山遺跡は、前5500~前4000年には、栗の大木があった。
つがる市亀が岡遺跡の遮光埴輪。八戸市の是川遺跡の和弓出土。

主語、目的語、動詞の語順は、この頃から在るのではないか。
また、日本語は、話し言葉が先にあって、言語学者は、文法上、アルタイ語の類と看做された。
諸説あれども、山口仲美は、モンクメール語の上に、中原の北の戎や狄が被さってできたと簡単に触れています。追求すれば切りが無いからです。

七海は、簡単な話し言葉があって、その上に、漢字が来て、訓読して、熟語が豊富になった。
漢字は表音文字かつ表意文字、アルファベットは、表意文字の違いです。
表意文字を頭の良すぎる日本(やまと)人が訓をつけた。つまり今日の翻訳です。
話し言葉の音を文字にする場合、梵語の音と漢字の一部を使い、カタ仮名文字ができた。梵語を漢訳する方法に似ています。
以上、単順に考えています。



震旦国と鏡製作地

2011年11月03日 06時03分03秒 | 
震旦国と鏡製作地

問題は、震旦国に関連して、意外な方面に進展します。
震旦国の表記は、日本古代史を掘り下げるための大問題です。

熊野本宮大社の落慶と震旦国の大日婁女の来日。
七海は、この問題に関心があります。

梁書諸夷伝・盤盤国の条
梁の武帝、大通元年527年、
盤盤国王(タイのバンドン湾の国)が武帝に奉じた上表文あり。
梁の武帝を「揚洲・閻浮提・震旦の天子」と呼んでいる。
揚洲:江蘇省揚洲市(建業)、閻浮提:エンブダイ。
震旦は、古代のインド人が呼ぶ支那のことです。

陳国
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国に封じた。
本名は、嬀満、氏名は陳満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。春秋末に楚に滅ぼされた国です。
ずっとのちには、梁王朝を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、中国南部に陳という国(557~589)を立てます。

日本の俀国(たいこく)
俀国は、南朝の歴代「晋・宋・斉・梁・陳」に絶えることなく、朝聘してきた。(北史俀国伝)
(七海注記)
この晋は東晋(317~420)ですが、西晋には馬韓等を通して10回ほど朝貢しています。
俀国は女王国をさす。東晋以降の九洲俀国は、男王です。
なぜか判らないが、女王を担いでいますが、誰でしょうか。
年代では、神功皇后摂政の頃でした。

奈良大倭国は、推古天皇が隋になって初めて公式に遣使した。(隋書俀国伝)

また、嬀姓とは、末盧国の盧氏も嬀姓であるから陳氏と親族です。

以上は、陳氏の経緯ですが、
239年、熊野本宮大社が落慶します。(熊野本宮大社縁起)239年:七海推定。
この頃、震旦国の陳大王の娘大日婁女(おおひるめ)が7才で懐妊、鎮西(九州)、石鎚山を経由して、紀伊の熊野本宮へ来ていました。(鏡の刻字の、母人と保子と関係します)
また、熊野本宮大社の元宮は、島根県熊野神社です。
神原神社古墳には、三角縁神獣鏡が出土しています。

陳是作鏡の銘の入った鏡は、次の出土がありますが、景初3年銘の入った鏡は、次の二枚(面)のみです。

景初三年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 1面、(239年):神原神社古墳出土。
景初三年陳是作銘画文帯同向式神獣鏡 1面、(239年):和泉市黄金塚古墳出土。
景初四年陳是作銘斜縁盤龍鏡 同型2面、(240年ですが、239年12月に改歴し、翌年は、正始となり、事実は、景初4年はない)
正始元年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 同型3面 、(240年)

(1)神原神社古墳の銘文
「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人銘之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」
(七海注記)
陳是という人物が鏡を作った。
自有経述:おのずと(もとこれ京師の)先人を継ぐ。
(京師:鎮西の豊前京都郡(みやこ郡)を含むか?)
杜地:人名? 命出:生子に教え。
11月12日追記(杜地は、命、出ず。この部分は和風漢文)

吏人(官吏)がこれを銘ずれば、三公(官名)の位に付き、母人が銘ずれば、
保子、孫に宜しい。金石のごとし、ことぶぐ。
以上は、
男にとっては、出世の事。母人にとっては、子や孫に宜しいという。
直接の契機は、陳大王の娘と子を指しての延喜でしょう。

(2)三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)

上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。

(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)

七海の問題意識
師子は、狻猊(さんげい):ライオンです。
後漢の章帝の章和元年(87年)、月氏国が扶抜・師子を献ず。
「師子に名あり」は、日本で、神社の狛犬のことでした。
日本への狛犬渡来時期は、魏晋の時代です。

問題1
彫文刻鏤あるいは彫鏤文章とは、何でしょうか。
漢字を使う洛陽人は、こんなことを書く筈がありません。
11月12日追記(神原神社古墳の銘文には、和風漢文あり)
問題2
師は洛陽に出たとするが、尚氏の工房です。しかし、尚氏が師匠(元祖)であっても、洛陽の魏の工房で作ったとは限らない。なぜならば、問題1があるからです。
したがって、日本で作った可能性が高い。なぜならば、すでに旧前原市平原古墳で、国産の内行花文鏡が既に出土しています。

末盧国の盧氏の姓は嬀姓。
陳氏の娘も嬀姓だから、盧氏が作ったのではないか。
それも、福岡県春日市の工房群の可能性が高いのではないか。

卑弥呼が魏から貰った鏡100枚は、正始元年に倭国へ届いているから、魏が239年に作ったものです。
ところが、同じ年の239年に、日本では、三角縁神獣鏡を作った。

これらの事から、陳是作鏡のものは、熊野信仰の始まりとみなします。

なぜならば、三角縁画文帯神獣鏡の鏡は、その後も作られているからです。
三角縁系統の鏡はすでに500枚を越えて出土した。
また、椿井大塚山の鏡には、「買者」という漢字が入っていた。
「買者」と記載する鏡
魏の明帝がいう汝の好物の鏡は、卑弥呼が貰い受けたものだから、魏の製作鏡では買者が入る筈がないといえます。

では、全長94mの和泉市黄金塚とは、誰の墓でしょうか。
やはり、考古学で4世紀前半というから、陳大王の娘の墓ではないか。
年令、年代が適合します。

七海特記
卑弥呼の使者難升米は、238年6月に帯方へ行き、238年12月8日に明帝が病の床に付くまでに接見しています。238年は13カ月あります。
この件は、晋書が裏付けています。
司馬宣王は、公孫氏を平らげた。也、其の女王(卑弥呼)は遣使し、帯方に至って朝見してきた。(七海注記)也:加えての義です。
(原文)宣帝之平公孫氏。也、其女王遣使、至帯方朝見。

また、魏は、正始元年(240)、帯方太守弓遵の部下・梯儁(テイシュン)が詔書と印綬をもって来ています。このときに、銅鏡100枚が入った。
依然として卑弥呼の鏡は不詳です。

追記

伊勢市礒宮神社・・・・北緯34度31分10秒
和泉市黄金塚古墳・・・北緯34度30分51秒・・・19秒の差
この二つの緯度は、何を物語るのでしょうか。
礒宮の祭神は天照大神
礒宮は、垂仁の娘・倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて、宮川の上流の伊勢神宮に決める前の最初の場所です。
天照大神は、金星(ヴィーナス)ですが、女性の鑑(かがみ)でもあります。
おそらく、末盧國の盧氏が、保子、孫に宜しいというから、明けの明星:天照大神を立てていると思われてなりません。
また、緯度の差、19秒は、愛きょうであって、ぴったり合えば、気味が悪いと思います。



長髄彦の兄・安日(2)

2011年10月04日 05時47分38秒 | 
尾張氏・物部氏の系譜は、先代旧事本記から、七海が図化した。

長髄彦の兄・安日(2)

前回の件で、解りにくい点を補足します。

上記の系図にある通り、饒速日尊は、天火明命ともいう。
正確な表記は、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊という。上記は一人の人物です。
長脛彦の妹と結婚し、二代目宇摩志麻治を生む。甘美真手(うましまで)ともいう。これが、物部氏の遠祖です。

一方、天道日女との子は、天香具山で、尾張氏の遠祖です。
どちらも、神武朝時代の人物で、宇摩志麻治や天香具山は、長脛彦と義理の兄弟となります。したがって、兄の安日も義兄弟です。

長脛彦の兄・安日は、安倍将軍:日下将軍であった。
日下将軍は、東大阪市日下町で戦い、神武が破れた時の将軍をそのまま、陸奥国でも使っていたのです。

お解りにくい点は、次の点でしょう。
なぜ、神魂神(かみむすびかみ)の子のスクナヒコナが登場するのか。

実際、安日は、神武即位後、何処を通って、何時ごろ陸奥へ行ったのかが、解りません。
少彦名命は、大巳貴と国造りした時代の人で、神武以前です。
沙沙貴神社 (滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)を出してきたのは、大彦の系譜に安日がかこつけられていたからです。

大彦は、伊賀開拓の祖で、敢国神社(あえくに)に祭られています。ここにも、スクナヒコナと金山ひめが祀られています。

ところが、安日は、少彦名とは関係なく、少彦名の親の神魂神が、見通していた。あるいは、神同志を結ぶ役目を為し、安日を天神に結びつけた。
なぜならば、神魂神は、山田の案山子ともいい、歩けないが何もかもよく知った神でした。
この神が、安日をよく見ていたということです。
また、事実、捨て児を大彦は育て、沙沙貴山君として育ちました。

したがって、安日は、長脛彦と同じく、蝦夷であり、安日は、神武紀から遠蝦夷でした。
あくまで、安日は、尾張、物部との義兄弟で、天神でした。
蝦夷は、喜田貞吉のいう国津神ではありません。
その理由(わけ)は、神武紀にあります。
天の羽羽矢(ははや)と歩鞍(かちゆき)を、長脛彦も神武天皇も持っていたからです。(10・9訂正、歩鞍⇒歩靫)
二人とも天神です。ゆえに安日も天神です。
饒速日尊は、長脛彦の性質がねじけて言い聞かせても変わらないので、長脛彦を殺し、神武にさっさと帰順したのです。

ここで、気が付く重要なことは、饒速日尊も神武天皇も東夷で、蝦夷でしょう。
理由は、同族の争いが、日本書紀に沢山あらわれてくるからです。
いずれにしろ、蝦夷とは、三種に分類されていようが、すべて東夷の範疇で、エビスでした。

もっと単純化すれば、中国の中原の天子からみれば、国津神:大国主もみな東夷です。神代紀の天照大神も素戔鳴烏も神武天皇も、皆、東夷です。
なるべく、消化して手短に描ければよいと思っています。

なお、羽羽矢の羽羽は、蛇の古名で、帚、掃くともいうから、これに荒または麁(あら)を付けると、麁蝦夷(あらえみし)となります。つまり荒吐族(あらはばき族)に変身可能です。
継体紀の物部麁鹿夷(あらかい)は、もまた鹿角信仰の継続があります。源氏物語の帚木(ははき)の帚も同じです。

したがって、羽羽矢は、帚星のように飛んで正確に的を射るという信仰でしょう。
ややこしい話は、国津神の少彦名が登場したからです。
この点は、誤解なきようにお願いします。

最後に、系譜の左下の菊は、旧菊水町江田船山の鉄剣のもので、現在は菊池市です。この鉄剣は、卑弥呼の使い難升米と都市牛利の物でした。
上記系図の妙斗米(六人部連等祖)は、57年、後漢へ遣使、107年も後裔が遣使、238年も然り、卑弥呼の使いでした。六人部は(むとりべ)と読む。

上記系図の安毛建美(六人部連等祖)は、都市牛利でしょう。時代が適合するからです。
安毛建美(あけたけみ)は、都市牛利の異名でしょう。
安日の系譜は、日下将軍だから、似ているというよりも、尾張、物部と同族でした。

よく見極めないと、日本古代史は、間違いをしでかすシロモノでした。
天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
(あまてる、くにてる日子、ほあかりくしたま、にぎはやひ)
この神格は、神武紀の日下の草香が決め手です。
実際には、日が地平線の下にあるが、日が浮き上がって見える現象です。ゆえに、櫛玉:妙玉で、にぎにぎしい太陽と言っています。
天照る国照るは、天も地上も照らす状(さま)を指していました。
草香は、早朝、草に水滴が付いているので、草が香るという現象です。
これを稲田の後光、または御光という。
神武は、日に向かって戦ったのがまずかったと反省していた。