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源頼信の墓

2015-04-19 21:14:51 | 日記

この墓は見付けるのに苦労しました。
本当は源義家の墓の正面を進めば行けたのですが、一旦土手を降りてしまった為、遠回りしてしまいました。

源頼信は多田源氏の源満仲の3男として生まれ、上野、常陸、伊勢、甲斐の国守を歴任した後、河内の国守となって、この地に赴任した。
その後一時は美濃の国守となって河内を離れたが、頼信はこの河内の地が気に入ってここへ永住することにし、居館の隣に菩提寺となる通法寺を建立した。

源義家の墓2

2015-04-19 20:42:09 | 日記
源義家は父頼義、母平直方の女の長男として生まれた。
七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。
前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。  
永保三年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。  
この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止される間で担った。
また、永徳二年(1098)武将で、はじめて院への昇殿(殿上人)を許され他。  
晩年、康和三年(1101)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)六月に事件をおこすなど、義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。  
最後は嘉承元年(1106)七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。



源氏三代の墓

2015-04-19 19:36:44 | 日記
通法寺跡を東へ少し歩くと源氏三代の墓と立て札がある。
どうやらここから行けるらしい。

源氏三代の墓(源頼信・頼義・義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にある。
頼信は、河内守に任官後この地に邸宅を構え、数々の戦乱を平定し、余生をここで過ごしたが、永承3年(1048年)に死去しその遺言により通法寺の「巽」の方角に葬られた。
頼義の墓は通法寺旧本堂址にあり、永保2年(1082年)79才で死去し、遺言により本堂の床下に葬られたが、後に現在の位置に移された。義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘である。
嘉承元年(1106年)7月、京都の邸宅で死去し、ここに葬られたという。



源氏館跡

2015-04-19 18:18:22 | 日記
境内に源氏館跡がある。
ここには他の源氏の墓はない。
この後周辺を探す事にする。

平安時代の後半になって、急速に武士が力を伸ばし始めた頃、源満仲の三男頼信は河内守となって、寛仁4(1020)年に河内国古市郡壺井里の香呂峯に居館を構えて本拠地とした。
数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりである。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)や、前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていった。
彼らの子孫には、鎌倉幕府を開いて将軍になった頼朝や、その弟義経などがいる。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられている。今のところ、場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、たくさんの武士達が集まっていたことだろう。