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大僧正隆光の墓

2015-04-19 22:21:28 | 日記
源頼信の墓の傍に通法寺歴代の僧の墓が並んでいるが、その一角に隆光大僧正の墓がある。
隆光大僧正は1649年(慶安2年)大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。
5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。
元禄年間、通法寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力している。
また、桂昌院の援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年 (永禄10年)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。
悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。
そのため、綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。
最晩年の10数年は生まれ故郷に帰り、超昇寺で遇し、1724年(享保9年)に没している。
ここ通法寺跡にある分骨墓、奈良の元超昇寺の墓地にある本墓ともに、非常に小さな墓で、5代将軍の護持僧として権力を振るった人の墓にしては、栄華の裏返しとはいえ哀れすぎる。

ということはこの人が『生類憐みの令』を考えたのですか?!
こんなとこに居たのか?



源頼信の墓

2015-04-19 21:14:51 | 日記

この墓は見付けるのに苦労しました。
本当は源義家の墓の正面を進めば行けたのですが、一旦土手を降りてしまった為、遠回りしてしまいました。

源頼信は多田源氏の源満仲の3男として生まれ、上野、常陸、伊勢、甲斐の国守を歴任した後、河内の国守となって、この地に赴任した。
その後一時は美濃の国守となって河内を離れたが、頼信はこの河内の地が気に入ってここへ永住することにし、居館の隣に菩提寺となる通法寺を建立した。

源義家の墓2

2015-04-19 20:42:09 | 日記
源義家は父頼義、母平直方の女の長男として生まれた。
七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。
前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。  
永保三年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。  
この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止される間で担った。
また、永徳二年(1098)武将で、はじめて院への昇殿(殿上人)を許され他。  
晩年、康和三年(1101)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)六月に事件をおこすなど、義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。  
最後は嘉承元年(1106)七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。



源氏三代の墓

2015-04-19 19:36:44 | 日記
通法寺跡を東へ少し歩くと源氏三代の墓と立て札がある。
どうやらここから行けるらしい。

源氏三代の墓(源頼信・頼義・義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にある。
頼信は、河内守に任官後この地に邸宅を構え、数々の戦乱を平定し、余生をここで過ごしたが、永承3年(1048年)に死去しその遺言により通法寺の「巽」の方角に葬られた。
頼義の墓は通法寺旧本堂址にあり、永保2年(1082年)79才で死去し、遺言により本堂の床下に葬られたが、後に現在の位置に移された。義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘である。
嘉承元年(1106年)7月、京都の邸宅で死去し、ここに葬られたという。