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名古屋の神社

名古屋、近郊の行ける範囲の神社の記録

川原神社

2014-09-08 15:30:06 | 名古屋市昭和区

川原神社

川原神社なのに神社前にあるバス停は弁天前。

神社南の入り口左に弁天社がある池。

弁天社の拝殿、本殿は東向き池中の小島。

弁天社奥の小島にも東向き旧弁天社?

南入り口右側には石製の神橋。

その隣に石碑。

東参道入り口の石鳥居。

東参道入り口の右手の小型石鳥居奥に津島社。

東参道入り口正面に御手洗清水舎。

川名天神社、参道右に入り口、撫で牛を左に折れて天神社へ。。

天神社は南向きで男神千木、鰹木三本、中央が失われている。

参道には車止め壁。

西向き三末社。

南から石鳥居がある猿田彦社、秋葉社 山ノ神社 若宮社の合社、川名社。

猿田彦社は男神千木、鰹木五本。

拝殿前広場右に神馬。

神馬隣に宝物殿。

拝殿前広場右奥に西向き川原稲荷社の稲荷鳥居。

拝殿右に龍神社と川原稲荷社の拝殿、小社は南向き。


南向き拝殿、本殿は男神千木、鰹木五本。

本殿左隣に社務所

社務所左に北の裏道に抜ける裏参道、石鳥居と神社の石柱あり。


伊勝八幡社

2014-09-08 15:05:46 | 名古屋市昭和区

伊勝八幡社

神社西側にある道の南端、西側より入る。

まず伊副神社、新しく設置されたようだが参道半ばの右側に空き敷地があるのでそこからの移転?
かなり昔この場所には住宅があったと思う立ち退きにによりできた空き地に造ったものか?

提灯台の奥に一の鳥居。

伊副神社奥、参道左に御手洗清水石。

二の鳥居前、参道右側に入り口、空き敷地と忠霊碑と旧八幡社の石柱。

二の鳥居。

参道左側に社務所。

狛犬。

社務所前、覆殿隣に平成六年に本殿改築の碑。

本殿前の広場右に宝物殿と覆殿。

北側から宝物殿、熱田社、富士浅間社、山の神社、埴山姫社が西向きに配置。

御祭神は天神社、白山社、正八幡宮、天王社、熊野社。

拝殿は南向き、本殿は千木、鰹木なし。

伊勝天神の撫で牛、天神社は本殿の脇にあるようだ。。

西参道の御手洗清水石、神社西側にある。

西参道、石鳥居は北向き、神社裏口。


20年以上前の旧社殿があった時訪れた印象は暗い杜であったが現在は明るい神社になっている。


神明社(五軒家神明社)

2014-09-03 17:05:57 | 名古屋市昭和区

神明社(五軒家神明社)

石碑柱表示は神明社で鳥居がないgoogleマップでは表示されない神社。

石段を登り参道左側に御手洗清水石、社務所、右側に提灯台?と百度石。

入って異様なのは普通の獅子ではなくライオンのような獅子で共に口を開けていて共に「あ」の表情。

再度石段がある右側に石碑。

拝殿は南向きで渡り廊下で女神千木、鰹木五本の本殿につながる。

本殿左側に津島社、右側に秋葉社を配置している。

津島社側には石柱が立っている。


昭和区の解説より
「五軒家」という地名は、この付近に藤成新田ができた万治年間(1658から1661)5軒の家があったことから付けられたそうです。当時からこの神社は鎮守としてありましたが、珍しいのは、境内に狛犬ならぬライオンが鎮座していることです。狛犬もない小さな神社であったところ、戦後たまたま、あるお屋敷から譲ってもらった石のライオンを置いたというのがてん末だそうです。


小社 イボ神様

2014-09-02 18:04:46 | 名古屋市昭和区

小社 イボ神様

参道にあたる階段中央に大木が生えてしまい中央の祠は下からは直接拝むことができない状態。
階段を登った場所に三社並んでいる。

中央の社は女神千木、鰹木五本で中央の一本が失われている。

祀られている神様の詳細不明、イボ神様と伝えられている。

登り口に役行者(エンノギョウジャ)の石像

裏に集会所。




昭和区の解説による
出口交差点を西へ3本目の西北角に一本の大木に守られるようにして、小さな社があります。お参りするとよくイボが取れるということで、近くの人はイボ神様として親しんでいます。社前に役行者(エンノギョウジャ)が腰掛けたような石像があり、台座に寄進者の名のみの刻字があり、姓がなかった時代が偲ばれます。


御所屋敷跡 小社 御器所3

2014-08-27 16:00:30 | 名古屋市昭和区

御所屋敷跡 小社 御器所3

伝豊臣秀吉母宅跡の看板、伝日持萩中納言宅跡豊公母住乎の石柱がある一角に南向き小社。

由来を見ても神社とは関係なさそうで町神や屋根神様が祀られたものか?



名古屋を歩こうより
御所屋敷跡です。天保年間(1830-44)に記された「尾張志」によると、ここにあった御器所屋敷に豊臣秀吉の母である大政所がかつて住んでおり、太閤秀吉という英傑を生んだことから御所屋敷と呼ばれるようになったとあります。ただ、実際に秀吉が生まれたのは中村区という説が有力ですし、既に中村に嫁いでいましたから実際のところはどうなのでしょうか。しかし、出産の時だけ実家に帰っていたということもあり得ますよね。大政所は素性がはっきりしないのですが、いつの頃からかこの御器所の人だといわれるようになったそうです。マンションが立ち並ぶ現在も、小さな社と石碑が残されています。