久延彦神社(尾陽神社)
石鳥居は西向き、その東側に集会所。
集会所の南西角に小さな御手洗清水石。
南向き本殿と集会場の間が狭く正面全体像が映らない。
尾陽神社内の北東側に鎮座、昭和51年分霊の新しい神社でなぜ特別扱いなのか? 普通なら摂社、末社で名前が違う稲荷社と同様に扱うべきなのだがyahooマップもgoogleマップも表示されるので項目を設けた。
名古屋を歩こうより
(尾陽神社)境内には学問・芸能・頭の神さまである九延彦神社があります。九延彦命は大国主命の知恵袋といわれる人物で、受験シーズンは多くの人がここに訪れるそうです。ちなみにこの九延彦神社の社殿は、約二百年前に奈良・春日神社の本殿だったもので大阪府枚方市の山田神社から寄贈されたものだそうです。
尾陽神社
参道が神社外からあり石段で上る。
石柱横に御器所西城址とあり神社裏側には高い石垣になっている。
石鳥居内に門があり三つ葉葵の紋章がある。
門の真右に御手洗清水石。
石鳥居の真右には神木のオガタマノキの説明書。
門のすぐ左側には石鳥居と正一位栄世稲荷大明神の幟と栄世(えいせい)稲荷社が東向きに鎮座。
稲荷社の右隣に女神千木、鰹木三本の秋葉神社、龍神神社が並んで東向きに鎮座。
参道右側には三つ葉葵紋が入った神馬、その隣に神楽殿、久延彦(くえひこ)神社。
南向き久延彦神社は配置から摂社か末社であるがyahooマップ、googleマップともに独立して表示できるのは不思議。
つくばね樫の根元が神木として祀られている。
久延彦神社に東向きに伸びる小道が民家を経て外につながる。
南向き拝殿奥に男神千木、鰹木五本の本殿。
本殿左側に授与所兼社務所。
社務所と龍神神社との間に西側からの渡り廊下をくぐる脇参道、狛犬の吽像が子連れで雌?
神社南西に結婚式場を兼ねた尾陽神社会館。
昭和区の解説
大正11(1922)年、名古屋開府300年を記念して創立された。尾張藩初代藩主、徳川義直(とくがわよしなお)と14代慶勝(よしかつ)をまつる。
名古屋を歩こうより
1922(T11)年に名古屋開府300年を記念して創建された神社で、尾張藩祖義直と14代慶勝を祀っています。その後1949(S24)年に天照大神を主祭神として合祀しています。この場所は嘉吉年間(1441-44)の頃に佐久間作守家勝が築城した、御器所西城跡であるといわれています。四方に堀を構え、土居を巡らしてあります。北側は断崖に臨む要害で、現在も高い石垣が残されています。また、正面の立派な神門は1996(H8)年に竣工されたもので、樹齢1300年のオガタマノキが使われています。オガタマノキは古くから神さまへのお供えに使われた最も神聖な樹木といわれ、その歴史は榊よりも古いとのことです。1300年という想像できないその時の長さに、思わず門に触れたくなってしまいます。
尾張藩祖義直と14代慶勝を祀る社で、大正11年(1922)6月名古屋開府300年を記念して創建されました。昭和24年9月、更に天照大神を主祭神として合祀しました。この地は嘉吉年間(1441から44)の頃、佐久間家勝が築城した「御器所西城」の跡であるといわれています。四方に堀を構え、土居を巡らし、北は断崖に臨む要害でした。現在は一部に空堀が残っています。境内には大国主命の知恵袋といわれた九延彦を祭る九延彦神社があり、最近は「知恵の神様」「学問の神様」として受験シーズンなどに賑わっています。稲荷社も本殿の手前にあります。
嘉吉元年(1441)、土地の豪族佐久間家勝が領内の総鎮守の大神として、八所大明神を修造したと伝えられています。氏子は御器所村一帯にわたり、村の氏神様として村人の心のより所になっていました。神仏合体の名残といえる小さな六体の仏像があります。明治44年(1911)天神東にあった天神社を合祀しました。祭神は、必勝の神様、品陀和気命(ホンダワケノミコト)八幡大神といいます。昭和59年10月13日「御馬塔」を60年ぶりに復活し、「赤丸神事」(7月31日・8月1日)と共に、現在も賑やかに行われています。
八大竜王社(白龍社)
龍興寺の裏の石垣にへばりつくようにある神社。
googleマップに記載なし。
石段上に東向きに赤鳥居。
唵嘛呢叭迷吽と書かれた石碑。
白龍請と書かれた御手洗清水石。
蝋燭立ての奥に南向き本殿。
昭和区の解説より
龍興寺南隣の狭い石段を上がると、八大竜王社という小さな社があります。この付近のは、大正初め頃まで、龍興寺ヶ池(雨池。現在の地名は天池)という大きな池がありました。この池には、龍が生息していると言い伝えられていましたので、大正5年(1916)頃、土地造成のため堤防を撤去し排水後、この池の守り神をお祀りした社です。
「名古屋を歩こう」より
龍興寺の裏にある神社です。このあたりは1916(T5)年まで龍興寺ヶ池という大きな池がありました。現在では御器所2丁目になっていますが、かつては「天池」という地名で、現在も天池通、天池幼稚園などにその名を残しています。そしてその池には龍が住んでいるという言い伝えがありました。土地造成のために堤防を撤去して池の水を排水したのですが、このままでは龍の居場所が無くなってしまうということで、その龍を祀るために八大竜王社という小さな社が祀られました。
その八大竜王社ですが、別の場所に移されること無く、他の住宅と同じように造成された石垣の上にあるのです。敷地は四角に仕切られ、細い石段を登ったところにちょこんと建てられています。それはまるで立ち並ぶ住宅のひとつのようです。かつては大きな池の主だった龍も、現在は区画整理された住宅に住んでいます。
須佐之男神社
参道、本殿東向きの神社、石鳥居の左側に設置者の石碑?
長い参道、中鳥居の右側に御手洗清水石。
拝殿右側に社務所。
拝殿が本殿と渡り廊下でつながり本殿前に直接本殿が見えないように幕が架かっている。
本殿は女神千木で鰹木六本で一本脱落している、しかし須佐之男社で女神千木とは?
左右に摂社を配している。
拝殿 左前に無名の末社。
社務所奥に北側からの通路がある。
神宮寺(御器所八幡宮)
御器所八幡宮の神宮寺として御器所八幡の右隣に三軒の建物がある。
一番左端の建物は御嶽大神 ゴキソ宮丸講社の額が架かっていて中には切断された神木が祀られている。
その右隣の建物には南無大日大聖不動明王の幟がある。
その右隣には正一位橘稲荷大神の幟を立てた女神千木、鰹木六本の稲荷社。
稲荷社の反対側には地蔵堂で多数の石仏の御堂と地蔵堂。
稲荷社の隣の社務所?
御器所八幡宮
石鳥居右に神社の旧石柱。
狛犬にタテガミがありライオンのよう。
狛犬の吽像の後ろに東向きの車祓社。
参道中央部に石太鼓橋、神域との境。
太鼓橋後の参道左に御手洗清水石。
参道左に無名の東向きの小さな社、牛の置物があり天神社の別宮か。
小さな社の右に御器所天満宮の赤鳥居と東向きの男神千木、鰹木三本の小社。
参道右側には御手洗清水石がある社務所。
参道正面に木製の車止め壁、男神千木、鰹木三本がある。
車止め壁の奥に中鳥居、その左に神楽殿。
神楽殿右隣に稚児宮が東向きに設置。
稚児宮の右隣に囲まれた神域に縁結みとおし石、五社宮、英霊社、稲荷社。
縁結びのみとおし石
村上社、洲原社、八幡社、氷上社、春日社の五社宮は東向きで男神千木。
五社宮の右隣に東向き英霊社が独立して設置。
白木木製鳥居の奥にある稲荷社は南向き。
参道中央に左に東向き男神千木、鰹木三本の佐久間社。
隣に必勝鉾鈴。
西側参道の入り口があり柱が石製、横木の笠木、島木、貫などが朱塗りの木製の混合鳥居。
西参道隣には男神千木、鰹木三本の総社(十二社)が南向きに設置。
本殿は拝殿に女神千木、鰹木六本で本殿は窺えない。
拝殿右隣には授与所。
参道右、授与所前に西向き鞘堂に入った白龍神社と重軽石。
御器所白龍社で左社殿は御器龍神、春日龍神、右社殿は加藤清正の名古屋城築城時の内鎮護。
更に右側には西向き白龍社の別宮。
名古屋を歩こうより
御器所八幡宮は佐久間作守家勝が、1441(嘉吉元)年に八所大明神を修造して創建されたといわれています。御器所村の氏神様として古くから信仰を集めていました。そしてその横の神宮寺は御器所最古のお寺で、850(嘉祥3)年に熱田神宮別当補佐職が創建したといわれています。御器所八幡宮は必勝の神様である品陀和気命で、入試必勝を祈祷にやってくる人も多いといいます。先ほどの九延彦神社で学問の知恵を授かり、ここで精神的な必勝祈願をすれば合格間違いなしでしょう。
昭和区の説明より
江戸時代には広大な境内があり、昼なお暗い「ツクバネガシの森」だったそうです。 現在、社務所脇に残る樹高約20メートルのツクバネガシが往時をしのばせます。
白山神社
左隣は神宮寺?の善昌寺、お地蔵さんが多数ある。
石鳥居をくぐった左側に社務所。
正面に木製の車止め壁、右に神木。
車止め壁奥 右側に御手洗清水石。
正面は本日茅の輪神事の準備で輪が設置されている。
拝殿は南向きで舞殿と一体構造。
本殿は男神千木、鰹木六本。
本殿左に末社。
右から男神千木、鰹木四本の津島社、秋葉社、児子宮社、塩竈社 金刀比羅 山神社の三神合社。
末社の左に凱旋石碑、末社の前には不動像。
本殿右側には末社などは無し。
御手洗清水石の横に脇鳥居。
脇鳥居に接する塩付街道は白山神社よりやや下り気味であるが神社の裏はかなり3m程の高い崖になっていて古墳であった可能性を感じる。
名古屋を歩こうより
石仏白山社があります。創建は貞享年間(1684-87)といわれていて、前方後円墳の後円部に本殿が造営されています。白山社は古い石垣に囲まれていて、もちろん舗装されているので昔のままではありませんが、街道当時の佇まいを残しています。この日は少年が虫取り網を持って虫を追いかけていました。いつまでもこんな風景が残るといいな、と思っていると看板が目に入りました。
「石垣が古くなって倒壊の危険があります。近寄らないで下さい。」
いつまでも残って欲しい日本の風景。石垣も虫取り少年の姿も、消えてしまう日は近いのかもしれません。
昭和区の説明より
明治になって隣の善昌寺から分離された。社宝として、近くの「古観音廃寺跡」から出土した市の指定文化財の鬼瓦が保存されている。
名古屋発! 町の神さま考で紹介さていた土地勘がありながら未知の社。
準屋根神様として分類されているが住宅地図では神社記号が与えられていので小型神社であろう。
皇紀2600年記念の石柱に島退町1丁目の記載があり1972年に御器所1丁目に町名改正されている。
本殿は東向き、三枚扉の立派なもの、島退神社とでも呼ぶべきか。
入って左側にある撤去跡は御手洗清水石のものか?
古くから残された小路が入り組んだ場所にあり情報がなければ知られない神社。