大正五年(1916)四月、五十四歳になる鴎外は、
陸軍軍医総監、陸軍省医務局長等の官職を退いている。
同年は、十二月に漱石が没する年でもあるが、
以後鴎外は、『高瀬舟』や『寒山拾得』他、
『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』という史伝の執筆に専念する。
この時期、退職後の心境を語ったとされる書き物に、
『空車』(むなぐるま)という短い随筆がある。
空車とは、馬に引かせて街中を往く大きな荷車であるが、
文字が示すように、荷がカラの大車である。
文中から察するに、空車は、荷を運び終えた回送車のようでもある。
だが、空車は骨格逞しい馬と傍若無人の大男に引かれて往くので、
誰もが、この大きなカラッポの車には自然、道を譲らざるを得ない。
「此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。
貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。
隊伍をなした士卒も避ける。葬送の行列も避ける。
此車の軌道を横(よこぎ)るに会へば、
電車の車掌と雖も、車を駐めて、
忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そして此車は一の空車に過ぎぬのである。」
(森鴎外『空車』 改行随時筆者。)
カラの荷車、それを引く馬、馭者の大男。
これら三者について、多様に象徴的な解釈が可能であろう。
鴎外は、この荷車が物を積載しているときには、
目に留まらないが、
街中をカラの荷車が往くのに出会うとき、
「目迎えてこれを送ることを禁じ得ない」と記す。
また、この荷車に、たとえ貴い物が積まれてあろうとも、
カラの荷車と優劣を論じようと思わぬ、と随筆を結んでいる。
『高瀬舟』以前の鴎外作品において、「死」(例えば殉死)は、
生の最大の価値物として、何かと引き換えられるものであった。
それはつまり、現世における最大の一商品である。
これに対して『高瀬舟』での「死」は交換し得ないものである。
或いはそれは、価値または欲望を零度にnichitenする。
『空車』ではさらに半歩進んで、生/死をaufhebenした、
生死一如の、敢えて呼べば「空」とでもいうべき処から、
再度、生を捉え返しているようにも思われる。
生きるということは、
生という各自の唯一・一回性において、
その価値/無価値を判ぜず、
生という荷車を一生懸命に引っ張って往く事、
生に「意味」が現われるのは、それの結果である、
この単純な真理に全てがある、
そう教えられているように、私には思われるのである。
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陸軍軍医総監、陸軍省医務局長等の官職を退いている。
同年は、十二月に漱石が没する年でもあるが、
以後鴎外は、『高瀬舟』や『寒山拾得』他、
『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』という史伝の執筆に専念する。
この時期、退職後の心境を語ったとされる書き物に、
『空車』(むなぐるま)という短い随筆がある。
空車とは、馬に引かせて街中を往く大きな荷車であるが、
文字が示すように、荷がカラの大車である。
文中から察するに、空車は、荷を運び終えた回送車のようでもある。
だが、空車は骨格逞しい馬と傍若無人の大男に引かれて往くので、
誰もが、この大きなカラッポの車には自然、道を譲らざるを得ない。
「此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。
貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。
隊伍をなした士卒も避ける。葬送の行列も避ける。
此車の軌道を横(よこぎ)るに会へば、
電車の車掌と雖も、車を駐めて、
忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そして此車は一の空車に過ぎぬのである。」
(森鴎外『空車』 改行随時筆者。)
カラの荷車、それを引く馬、馭者の大男。
これら三者について、多様に象徴的な解釈が可能であろう。
鴎外は、この荷車が物を積載しているときには、
目に留まらないが、
街中をカラの荷車が往くのに出会うとき、
「目迎えてこれを送ることを禁じ得ない」と記す。
また、この荷車に、たとえ貴い物が積まれてあろうとも、
カラの荷車と優劣を論じようと思わぬ、と随筆を結んでいる。
『高瀬舟』以前の鴎外作品において、「死」(例えば殉死)は、
生の最大の価値物として、何かと引き換えられるものであった。
それはつまり、現世における最大の一商品である。
これに対して『高瀬舟』での「死」は交換し得ないものである。
或いはそれは、価値または欲望を零度にnichitenする。
『空車』ではさらに半歩進んで、生/死をaufhebenした、
生死一如の、敢えて呼べば「空」とでもいうべき処から、
再度、生を捉え返しているようにも思われる。
生きるということは、
生という各自の唯一・一回性において、
その価値/無価値を判ぜず、
生という荷車を一生懸命に引っ張って往く事、
生に「意味」が現われるのは、それの結果である、
この単純な真理に全てがある、
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