脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(10)

2007年10月28日 12時50分14秒 | 読書・鑑賞雑感
大正五年(1916)四月、五十四歳になる鴎外は、
陸軍軍医総監、陸軍省医務局長等の官職を退いている。
同年は、十二月に漱石が没する年でもあるが、
以後鴎外は、『高瀬舟』や『寒山拾得』他、
『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』という史伝の執筆に専念する。

この時期、退職後の心境を語ったとされる書き物に、
『空車』(むなぐるま)という短い随筆がある。
空車とは、馬に引かせて街中を往く大きな荷車であるが、
文字が示すように、荷がカラの大車である。
文中から察するに、空車は、荷を運び終えた回送車のようでもある。

だが、空車は骨格逞しい馬と傍若無人の大男に引かれて往くので、
誰もが、この大きなカラッポの車には自然、道を譲らざるを得ない。


「此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。
 貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。
 隊伍をなした士卒も避ける。葬送の行列も避ける。
 
 此車の軌道を横(よこぎ)るに会へば、
 電車の車掌と雖も、車を駐めて、
 忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
  
  そして此車は一の空車に過ぎぬのである。」
                 (森鴎外『空車』 改行随時筆者。)


カラの荷車、それを引く馬、馭者の大男。
これら三者について、多様に象徴的な解釈が可能であろう。

鴎外は、この荷車が物を積載しているときには、
目に留まらないが、
街中をカラの荷車が往くのに出会うとき、
「目迎えてこれを送ることを禁じ得ない」と記す。
また、この荷車に、たとえ貴い物が積まれてあろうとも、
カラの荷車と優劣を論じようと思わぬ、と随筆を結んでいる。

『高瀬舟』以前の鴎外作品において、「死」(例えば殉死)は、
生の最大の価値物として、何かと引き換えられるものであった。
それはつまり、現世における最大の一商品である。
これに対して『高瀬舟』での「死」は交換し得ないものである。
或いはそれは、価値または欲望を零度にnichitenする。

『空車』ではさらに半歩進んで、生/死をaufhebenした、
生死一如の、敢えて呼べば「空」とでもいうべき処から、
再度、生を捉え返しているようにも思われる。

生きるということは、
生という各自の唯一・一回性において、
その価値/無価値を判ぜず、
生という荷車を一生懸命に引っ張って往く事、
生に「意味」が現われるのは、それの結果である、

この単純な真理に全てがある、
そう教えられているように、私には思われるのである。

人気blogランキングへ
にほんブログ村 気まま








最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。