脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(9)

2007年10月26日 13時26分35秒 | 読書・鑑賞雑感
高瀬舟は、京都の高瀬川を上下する小舟であり、
徳川時代、遠島される罪人を運び、大阪に廻したそうである。

夏の暮れ方、夜舟は、静かな川面の水を掻き分けひっそり進む。
小舟に揺られているのは、町奉行同心・羽田庄兵衛と
住所不定で三十歳になる、蒼白く痩せた罪人の喜助である。

庄兵衛は、大勢の罪人の護送役を務めてきた役人である。
喜助が弟殺しの科にある罪人であることは知っていたが、
黙って月を仰いでいる喜助の落ち着いた態度や表情には、
常の罪人らしからぬ、晴れやかさと、眼には微かな輝きさえ見える。

庄兵衛は、傍らで見ていて不思議になり、不審の向きを質してみた。
喜助は、にっこりと笑いながらも、同心に謙りつつ、
自分はこれまで世間に居場所をもったことがないのに、
この度、命を助けられて「島」という居場所を与えられたこと、

世間では職に就くにも苦労をし、骨を惜しまず糊口を凌いできたのに、
牢に入れば食が与えられ、遠島の罪人には二百文の支給金さえもらえる。
自分は、懐に二百文の金さえ持ったことがなかった身分である。
そのような事が嬉しいのだと語る。

初老の庄兵衛は、老母を抱えての一家七人暮らしである。
喜助の返答に我が身を引き比べてみる。
給料が右から左に無くなるのは、自分も同じである。
喜助との違いは、単にソロバンの桁が違うに過ぎないのではないか。
それに自分には、喜助の二百文に相当する貯蓄さえ無いではないか。

だが、そのように考えを巡らせてみても、喜助の心持ちはやはり不可解である。
これには深い根底があるに相違ないと、庄兵衛は我が来し方を振り返る内に、
或ることに気がついて、喜助に驚きの目を向ける。


「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。
 その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。
 万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。
 蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。
 
 かくのごとくに先から先へと考えてみれば、
 人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。
 それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのが
 この喜助だと、庄兵衛は気がついた。」
      (森鴎外『高瀬舟』から引用。改行は随時筆者に拠る。)


庄兵衛には喜助が、もはやただの罪人には見えない。
喜助に弟殺しに行き着いた経緯につき尋ねてみた。

二親が早くに亡くなり、兄弟で助け合って生きてきたが、
弟が病に臥して働けなくなり、
兄に迷惑を掛けていることを苦に自殺を図った。
うまく死ねずに、瀕死の状態で苦しがっている処に、
仕事から帰った自分が出くわした。

すぐに医者を呼ぼうとすると、
弟はひと思いに楽にして欲しいと、鬼気迫る目にて訴えている。
逡巡しつつ、弟の咽喉もとの剃刀を引き抜いてやったが、
それを偶々人に見咎められてしまった、という話である。


鴎外は『高瀬舟縁起』という解題で、この作品に 
「財産というものの観念」と「ユウタナジイ」(安楽死)という
二つの大きな問題が含まれている、と記している。

だが、この二つの問題は鴎外の境位を示すものとしては、一つの事柄である。
鴎外は『高瀬舟』で安楽死問題を提起しているというよりは、
死の絶対性を生の恬然たる肯定へと媒介しようとしているのである。
それは鴎外が、「空車」(むなぐるま)という語音を以って、
表現を試みたものにも通じている。 (続)

人気blogランキングへ
にほんブログ村 気まま

















最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。