脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(11)

2007年10月30日 13時39分28秒 | 読書・鑑賞雑感
『カズイスチカ』という短編の主人公、若い大学出の医師・花房は、
市井の開業医である父の仕事を手伝ううちに感じ始める。
「自分が遠い向こうに或物を望んで、
 目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、
 父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注している」と。
「カズイスチカ」とは臨床報告といった意味らしいが、
鴎外の言葉で言い換えれば、「日の要求」であろう。

生きているということは、この世に生まれたという事実と、
その命が引き続いているという事柄である。
それに則り、日々の要求に応じられれば良いが、
我々は、「日の要求」では止まらない仕組みをも生きている。
明日以降の蓄え等までをも気に掛け「必要」にせざるを得ない。

また本来、生きることは、荷車を引くことでしかありえない。
「日の要求」とはいえ、欲せざる処、能わざる処でも、
荷車を引かざるを得ないことは、現に苦痛である。


空車(むなぐるま)に今一度話を戻したい。
「必要」も「荷車」も、我々は、
その上に人生の場所を考えているが、逆なのであろうか。
空の車とは、荷車の影なのではなく、
我々が引く荷車というものが影なのであり、空の車が実体なのであろうか。

いや、この場合、どちらも「影」であると言うべきなのだろう。
荷も、空も、車の文字に付いた形容詞に過ぎない。
一台の車が人に引かれて、目の前を横切っただけなのだ。

人間のみが幻影(幻想)を共有化して生きる動物である。
ブランド品もセレブリティも、貨幣も言語も社会も国家も、幻影である。
だがそこが、我々が「現実」と思い成して生きる場所でもある。
(また、このような幻影の中を、仏典の語を借りれば、
 貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴で廻っているものが、「世間」というものである。)

我々が「必要」というとき、欲求に対応するものではなく、
欲望や便利さに対応するものの欠如であることの方が多い。
欲求に対応する必要は、空気のように意識されていないのである。

我々は空車だと見れば、余計な荷を載せたがる。
そして引くに重たくなる。
積荷を「必要」と思い込んで、背負い込んでしまう。
その重量は苦痛でもある。

だがその荷は、「必要」という名で、
何処からかやって来た欲望の影に過ぎない。
我々は、そんな影を苦しんで運んでは、暮らしているのである。

生は無価値の空車である。
だから生きるに値しないのではない。
死もまた、無価値の空車に過ぎないのである。
ならば、厭世にも遁世にもあたらない。

欲せざる処、能わざる処でも、
全てに恬然として「日の要求」に接し処すること。
引いているのは、所詮は誰もが同じ、
如何に重たかろうと「むなぐるま」なのであろう。
だがしかし、実際、誰が如何にしてそのように、達観し得るのだろうか?(続)

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