脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

人の住処(すみか)。

2010年07月18日 05時14分41秒 | コギト
また、五時前に目が覚めてしまった。
心と体が、眠ることを拒んでいるかのようだ。

昨晩、眠りに落ちる前に読んだ本、磯憲一郎の『終の住処』。
夫婦が解体して、家庭内別居のような中年夫、何人もの女と浮気を
続けた末に行き着くのは、「家」を建てること。そこに家族を仕舞う
ことでケリをつけるかのような‥。
筋だけでは、そんな話だが、この作家の操る文体には、
もっと深い人生経験やら想いが滲んでいるようだ。

人間とは、心の存在だの言われても、心も物理的な構築物である。
何処の、どんな家に棲んで来たのかで、人の心の在りようも変わる。
住み馴れた家は、家族と同じ「顔」つきをしている。


我が家では、50年以上も使い続けた工場を解体するが、ジィジはその
五分の一程を残して、倉庫兼ハナレにしたいという。私は賛成である。
彼の人生を紡いだ場所が失われることへの、強い抵抗感だろう。

だが、彼にとって彼の人生を共にしたモノとは、工場という家よりも、
そこに犇めく十数台の機械たちであった。
彼の人生はいつも、仕事を介しての、機械との対話にあったはずだ。


今週、ようやく機械・設備の解体・撤去作業が終了した。
この四ヶ月で10日、産廃業者を交えて撤去・搬出し、
鉄材スクラップの売却益が、総量30トンで50数万円となった。
私は、こんなに収入になるとは思わなかった。

このカネでジィジのいう間仕切り工事が出来るが、
彼は近頃、不機嫌そうである。やけに独り言が増えた。
動作からキビキビしたものが失せた。
自分の人生にイスを失くしたという処だろうか。

現代は、モノの時代ではない、情報の時代だのとも言われるが、
永の歳月を供にしたモノについては、それはもはやモノではなく、
自分の身体の延長であり、心の一部であり、
自分自身と変わらない「何か」に変容した存在体である。

長く生きるということは、人との死別をより多く経験するだけでは
なく、このような馴れ親しんだモノたちとの別れとも遭遇する。
その後に人は、自分のアイデンティティーを何処かに求め直すもの
なのだろうか。

このような不可避の喪失をわが身と心に刻み込むことに、
喪を通過しては、自己同一性までも脱ぎ捨てる処に、
身(心)が立つのであろうか?

晴れた青空のような、空(くう)へと澄み切って行き着く果てに、
身も心も、また産まれたままのまっさらな裸に戻りつつ、
人の生とは、静かに緩やかに、
しかしある時にふと、<自然>に閉じていくものなのだろうか。






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