脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(8)

2007年10月24日 11時20分24秒 | 読書・鑑賞雑感
鴎外は人間を、価値システムの中を回転し、
かつ心理的細部のメカニズムで動くものとして、
その機微を捉えつつ、構造的把握で眺めているようにみえる。

また、「生」の苦悩を主題とした夏目漱石に比べると、
鴎外の文学は、「死」を巡るような対照を成している。
『阿部一族』、『興津弥五右衛門の遺書』、『堺事件』において、
彼が武士の殉死に見るものは、
自死者が代償を求める程度・意思に差異はあるものの、
命という貨幣で後代を購うシステムとしての殉死である。

『山椒大夫』の安寿も弟の厨子王に生をつなぐために、
自分を度外視し、自身の死に瞳を輝かせる。
これらの「死」は何かに報い、何かを生かすためにある。

これら作品の「死」には絶望がない。
希望が「死」を取り巻いている。
この境地は、何故なのだろうか?
現代人からみれば、不可思議である。

また、例えば『山椒大夫』では、
人買いに騙された親子が、生き別れの舟に乗せられるが、
母親と同舟した姥竹という女中は、すぐに海に身を投げてしまう。
絶望の暇もなく、自死への決断が潔い。
(この姥竹の死に様には、「希望」がないとも言えるが。)

鴎外の描く殉死した武士たちも、
一貫して死を恐れる気持ちは微塵もない。
寧ろ彼等は、別の意味で死に際して活き活きとしている。
別の意味とは、自分という価値実現の取引きの成就である。
この取引的な性質は、詳述を割愛するが、
主君の「威信」への殉死を描いた『堺事件』に最も顕著である。

鴎外には、死を平生の一コマとしてみなす眼がある。
死の前後に情念の搦みつきがない。
生を間に挟む振り返りがないのである。

管見ではあるが、鴎外自身が死に求めるものは、
姥竹のような無償で単独な生の切断の姿であろう。
武士たちの「殉死」のように、何等かの観念形態はとらないであろう。
だが、後年の『高瀬舟』になると、俄かに観念としての「死」が
改めて、生きる意味として問われ始めるようにみえる。

殉死は観念形態としての「死」であるが、
鴎外の「死」を巡るもう一つのテーマに、ユウタナジイ(安楽死)がある。
殉死がその「死」を死ぬことに対して、
他者を安楽死させることは、その「死」を自分が引き受けることである。

ここで云う安楽死とは、殺人の原罪を負いつつ、
その「死」を生きること、
此岸に永遠なる彼岸を心に生きることである。

鴎外は、「死」から「生」を悟達するかのように、
内部において外部を見い出そうとしている。
その小さな手掛かりが『高瀬舟』に仄見える。(続)

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