例えば駅のホームで、電車を待ってる。ドアが開き、中へ入る。
車内はさして混んでない。ドア付近やそこいらに、必ず棒立ちで
手許の携帯端末に見入っているヒトがいる。新たに多数の客が乗り
込んで来ようが、彼らは手相でも読むかのごとく端末にうつむいた
まま、周囲の状況に無頓着、無関心である。
彼らは各々に孤立した固定物の風情で立っており、混雑に気を配して、
場所を詰めようとかしない。密集が増し人と体が近くなると、時にツツ
と横に逸れたり足元をズラす。雑踏の水圧に強いられて流されるときだ
け、立ち位置をユルユル移す。だが、注意や関心の対象、眼と手の関係
は、端末画面に定位して不変である。
前回、私は現代日本人がクラゲに似ていると、ふと漏らしたのは、上記
のような駅や電車内のヒトの風景に感じたものである。この当節の生活
誌は、外見ばかりか内面も同じではないかと思ってる。ヒトは、もはや自立
・自律的な情念や情動、主体的な倫理や価値観では動いてないのである。
今日も駅や電車、街の雑踏風景には、たくさんの通信クラゲが浮かんで
いる。現代人は何処にいても、自分の通信コミュニティと情報の中に住む
ようになった。ヒトは街中のその場に存在しているのではなく、風景の外
部である通信先やゲームの中に居る。携帯端末が存在の居場所であり、
アイデンティティでさえある。喜怒哀楽も出来事も、時間の推移、人生の流れ
が端末の中にある。存在論的に、この種のヒトビトが、近年世界中で主流を
成し大発生している訳である。
クラゲには、自分で考える脳も、姿に形を与える骨格もない。時代の表面に
プカプカ浮かぶ、おぼろで手応えなき存在体である。自分の頭も眼と口も
端末に置き換わり、仲間や世界と繋がることが、生存の基本の営みとなっ
た。個人は私的通信共同体としてのみ存在する。ヒトは現代においては、
社会的制度的なシステムの回転に沿って、又は他律的に情報の水圧に
浮動されているだけである。人間に主体性など、もはや昔の神話だ。
海のクラゲは、無味・無臭で心臓もなく血液も循環していないが、体に神経
回路だけは存在しているらしい。私のいう人間クラゲの方は、甚だ無神経な
存在なのだが、現代人は情報に対して脳で反応するよりも、神経反射してい
るだけかもしれない。私的通信世界に漂うクラゲはまだしも、ゲーマーの中毒
クラゲは、無神経に加えて、ストレスが高そうで、毒も吹きそうである。
通信端末の利便性は分かるが、私は嫌って携帯を持たないせいか、SNS
やらインスタ映えがどうのという、平均的一般人が、私には過剰な通信中
毒者(あるいは自分中毒者)にしか思えない。公的空間においては、鬱陶しく
邪魔な歩行障害物に感じる。画像・動画、文字でも通信を過剰に消費したが
る、繋がりたがる風潮は、どうしてなのか。大衆・個人が巧みに通信産業に操
られ煽られているものか、巷の通信共同体には、興味の薄い私には謎である。
このように、私は世に生きるヒトの姿に「クラゲ」を見る。クラゲは、漢字では
「海月」と書く。私が想い描く人間は、夜の海面に浮かぶおぼろな月影のよう
な存在感しかない。それは人類史の、最期の人間像かもしれない。
人間の主体性も尊厳も、やがては「神」と化した人工知能の承服力によって、
滅却されゆくであろうか。いや、時代が宗教もどきに推移して、人がAIを信じ
従えば、AIもまた人を助けるであろうと、全能なる超越神=AIの下で、ヒトは
新たな「主体」を再生するのかもしれない。
最後に、私は「クラゲ」存在を否定的に捉えているが、社会の因習やしがら
みに、ハナから囚われない素っ気なさにおいては、民俗のこの姿形も一面
では容認出来るかな、とも思う。
車内はさして混んでない。ドア付近やそこいらに、必ず棒立ちで
手許の携帯端末に見入っているヒトがいる。新たに多数の客が乗り
込んで来ようが、彼らは手相でも読むかのごとく端末にうつむいた
まま、周囲の状況に無頓着、無関心である。
彼らは各々に孤立した固定物の風情で立っており、混雑に気を配して、
場所を詰めようとかしない。密集が増し人と体が近くなると、時にツツ
と横に逸れたり足元をズラす。雑踏の水圧に強いられて流されるときだ
け、立ち位置をユルユル移す。だが、注意や関心の対象、眼と手の関係
は、端末画面に定位して不変である。
前回、私は現代日本人がクラゲに似ていると、ふと漏らしたのは、上記
のような駅や電車内のヒトの風景に感じたものである。この当節の生活
誌は、外見ばかりか内面も同じではないかと思ってる。ヒトは、もはや自立
・自律的な情念や情動、主体的な倫理や価値観では動いてないのである。
今日も駅や電車、街の雑踏風景には、たくさんの通信クラゲが浮かんで
いる。現代人は何処にいても、自分の通信コミュニティと情報の中に住む
ようになった。ヒトは街中のその場に存在しているのではなく、風景の外
部である通信先やゲームの中に居る。携帯端末が存在の居場所であり、
アイデンティティでさえある。喜怒哀楽も出来事も、時間の推移、人生の流れ
が端末の中にある。存在論的に、この種のヒトビトが、近年世界中で主流を
成し大発生している訳である。
クラゲには、自分で考える脳も、姿に形を与える骨格もない。時代の表面に
プカプカ浮かぶ、おぼろで手応えなき存在体である。自分の頭も眼と口も
端末に置き換わり、仲間や世界と繋がることが、生存の基本の営みとなっ
た。個人は私的通信共同体としてのみ存在する。ヒトは現代においては、
社会的制度的なシステムの回転に沿って、又は他律的に情報の水圧に
浮動されているだけである。人間に主体性など、もはや昔の神話だ。
海のクラゲは、無味・無臭で心臓もなく血液も循環していないが、体に神経
回路だけは存在しているらしい。私のいう人間クラゲの方は、甚だ無神経な
存在なのだが、現代人は情報に対して脳で反応するよりも、神経反射してい
るだけかもしれない。私的通信世界に漂うクラゲはまだしも、ゲーマーの中毒
クラゲは、無神経に加えて、ストレスが高そうで、毒も吹きそうである。
通信端末の利便性は分かるが、私は嫌って携帯を持たないせいか、SNS
やらインスタ映えがどうのという、平均的一般人が、私には過剰な通信中
毒者(あるいは自分中毒者)にしか思えない。公的空間においては、鬱陶しく
邪魔な歩行障害物に感じる。画像・動画、文字でも通信を過剰に消費したが
る、繋がりたがる風潮は、どうしてなのか。大衆・個人が巧みに通信産業に操
られ煽られているものか、巷の通信共同体には、興味の薄い私には謎である。
このように、私は世に生きるヒトの姿に「クラゲ」を見る。クラゲは、漢字では
「海月」と書く。私が想い描く人間は、夜の海面に浮かぶおぼろな月影のよう
な存在感しかない。それは人類史の、最期の人間像かもしれない。
人間の主体性も尊厳も、やがては「神」と化した人工知能の承服力によって、
滅却されゆくであろうか。いや、時代が宗教もどきに推移して、人がAIを信じ
従えば、AIもまた人を助けるであろうと、全能なる超越神=AIの下で、ヒトは
新たな「主体」を再生するのかもしれない。
最後に、私は「クラゲ」存在を否定的に捉えているが、社会の因習やしがら
みに、ハナから囚われない素っ気なさにおいては、民俗のこの姿形も一面
では容認出来るかな、とも思う。