いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

靖国神社と信教の自由

2006-09-22 | Weblog

 総理大臣の靖国神社参拝を問題にしている人の中で、歴代総理大臣の伊勢神宮参拝を問題にしている人はどれくらいいるだろう。そおそも、国民のほとんどはこのことを知らされていない。あのクリスチャンだといわれている大平総理も伊勢神宮に参拝していたという。総理大臣の靖国神社参拝が憲法に抵触するというのであれば、伊勢神宮参拝などはもっと抵触するだろう。にもかかわらず、ほとんどこのことについては、メディアは問題にしていない。
 伊勢神宮は神話の世界、宗教の世界の場所である。
 靖国神社はA級戦犯を合祀しているから、そこを参拝することに問題があるとするのであれば、伊勢神宮参拝は問題にならないだろう。しかし、靖国神社は特定の宗教法人だから憲法に抵触するということであれば、他のすべての公務員が靖国神社を参拝することを批判しなければならない。
 これは、宗教と国家の問題が解決されていない証拠だろう。
 仮に、総理大臣が中東を訪問し、その国のモスクに出掛けたとする。それも信教の自由に抵触するのだろうか。バチカン市国へ行ったらどうだろう。或いは、ヨハネ・パウロ2世の葬儀に、日本政府は誰も送らなかっただろうか。送ったとすれば、誰が行き、その費用はどこが支出したのか。

 こうした問題は、宗教とは何か、ということが極めて曖昧なまま戦後60年、信教の自由の現実的な在り方が法的に規定されないまま過ぎてきた結果だろう。
 また、A級戦犯とは何なのか、天皇の戦争責任論はどうなったのか。総理大臣が替わっても、この難しい問題を真剣に考えようとする政治家が増えるとは思えない。

北朝鮮のミサイルはどうなったんだろう

2006-09-22 | Weblog
 北朝鮮のミサイルはどうなったんだろう。
 発射可能な状態になっているという報道のあと、一切の情報が消えている。少なくとも、ネット上の新聞社サイトから消えているし、いくつかの検索サイトで検索しても、最新の情報は出てきていない。出ているのは、北朝鮮に対する経済制裁の問題ばかりだ。経済制裁をするかしないか、どこの国が経済制裁をするか、ということなど、日本国民の生活にとってはほとんど影響がない。問題は、北朝鮮から日本に向けてミサイルが発射されるかどうかの問題だ。
 あるいは、北朝鮮から爆撃機や戦闘爆撃機が飛来しないかどうかだ。
 筆者の知り合いは、東京電力も使用しているダムが連続する山岳地帯を超低空で飛行する、轟炸5号という中国製の爆撃機を見たと言っていた。公式には、中国はもう轟炸5号を実戦機としては使っていない。使っているのは北朝鮮だけだ。轟炸5号の飛行距離は2400kmだと言われている。機体を改造していればもう少し延ばせるだろう。知り合いが言うには、彼が見た轟炸5号の尾部には対空用銃座はなかったという。日本の自衛隊機は違法侵入機に警告は出来るが、撃墜することは出来ない。尾部の銃座は、対日攻撃には無用の長物である。
 数基の轟炸5号が、その川に連続する水力発電所に一つずつ爆弾を落としていけば、確実に首都圏での電圧降下が起きるだろう。そして、その爆撃による人的被害はそう大きくはないと思われるが、首都圏での電圧降下は、明らかにパニックを引き起こすに違いない。無停電電源も、爆撃を受けた発電所を復旧する期間をカバーしているとは思えない。首都圏の信号機が一斉に動作しなくなったら、警察官を総動員しても交通渋滞を緩和することは不可能だろう。

 日本の自衛隊には、北朝鮮のミサイルを迎撃できる能力があると思っている日本人はどれくらいいるだろう。「日本は世界第2位の軍事大国」というデタラメな情報が、日本人の多くが持っている「平和ボケ」という病巣を肥大させていないだろうか。日本政府は、国民に必要のない不安を抱かせないために、この問題を表面切って語ろうとしていないように見える。総裁選挙が終わって、新しい総裁が決まったが、その過程でも、日本の軍備に関することはほとんど話題に上らなかった。さすがに、「エコノミック・アニマル」とかつて言われた国だけのことはある。経済政策と民営化と規制緩和だけが論争の中心になっていなかっただろうか。憲法の改正も、教育基本法の改正も、いつの間にかさらっと通り抜けて、総裁選が終わったらやにわに教育基本法改正が表面化した。靖国神社問題も、憲法の改正と同じくらい大切な問題であるのに、議論がまったく為されないまま、「行ったか行かなかったかは言わない」というまったく訳の分からない表現が罷り通ってしまった。
 それでいて、次回の参院選の結果が新しい内閣の生命線になると、当の自民党の中から手厳しい意見が出てきている。

 行革で誰が得をしたか。民営化で誰が得をするのか。規制緩和で誰が得をしたのか。
 耐震偽装工作が民営化・規制緩和の一連の流れの中で出てきたことは、内実を知っている者であれば誰でもが判っていることである。そして、法整備がきちんと出来ていないから、その首謀者をきちんと裁くことも出来ず、小さな子供が納めた消費税も、耐震偽装工作の被害救済のために使われることになりそうだ。
 おかしいと思うのは筆者だけなのだろうか。

キリスト教会はいつからカルト教団に成り下がったのか

2006-09-22 | Weblog
 しかし、目を覆いたくなるというか、心を被いたくなる。
 キリスト教会でも、次から次へとセクハラというか、性犯罪が起こっている。これは「起こっているらしい」というようなことではなく、筆者が知っているだけでも、3件の事件が起こっている。知り合いが面白いことをいっていた。「これからは、キリスト教の牧師と二人でいることは避けた方がいい」と。確かにそうかもしれないが、犯人隠匿罪で起訴され、しかし裁判で無罪になったあのT師のように、自分のすべてを投げ出して、弱い人々をささえ、罪を犯した人に自首を勧める大切な務めが出来なくなってしまう。
 筆者が知っている3件とは、それぞれの事件に関して、加害者の名前もその立場も、そしてその事件の内容も知っているということだ。そのうちの2件は、この問題を深く考え、被害者の支えになろうとしているホームページでも明らかにされている。

 3件のうち2件の加害者は、人望があり、熱心で、方々で「お話」をしていた牧師だった。他の1件の加害者も、その教会員には人望があったし、周辺の人々にも好感が持たれていたという。
 新聞や雑誌では「セクハラ」と書かれているが、「セクハラ」という言葉の内容に関して、法的には「性的いやがらせ」であろうが、しかしことの真相は明らかに性犯罪である。それを、組織的にもみ消そうとしている教派もある。いったん退職させておきながら、10日後に復職させてしまったのだが、去年の夏、最高裁判所への上告(民事)が「上告棄却」になり、すでに高等裁判所で出されていた「被害者勝訴」の判決が確定した。慰謝料は被害者からの請求額が満額、認められた。にもかかわらず、その牧師が属していた教派の最高責任者は、自分たちが行った「復職」という過ちを自己批判することもなく、「たいしたことはしていない」という発言に対する謝罪もしないばかりか、最高裁の上告棄却という判決を「事実誤認」として批判し続けているという。

 キリスト教もカルト教団に成り下がったのだろう。
 上記の事件では、問題にしている人々との接触を禁止する「箝口令」が、教派の上部から出ているという。他に同じような事件があるからなのか、その教派の多くの聖職者たちは「沈黙は金」とばかりに黙り込んでいる。「雄弁は銀、沈黙は金」という諺は、雄弁を奨励しているギリシアの諺だということを知らないらしい。それとも、ギリシア思想は例の「グノーシス(知恵)」で不信仰なものだからなのだろうか。当時は、精錬しなければならない銀の方が、他の物質と化合することのないのでそのままの状態で加工できる金よりも価値があったということを知らないのだろう。
 この問題に関して、その教派を知っている知人は、「司祭たちはちったぁ勉強せぇよ」と電話の向こうで叫んでいた。

 オウム真理教の麻原の死刑が確定した。
 日本の現在の法秩序では、当然の判決だろう。あの麻原の裁判が行われるようになってから、死刑廃止運動が停滞しているように見えているのは筆者だけだろうか。
 危ない宗教集団は他にいくらでもあるという。かといって、宗教そのものを否定するつもりもない。社会の中で生きている以上、言い換えれば、孤島で孤独な生活をしている人を除いて、誰しもが心の中に生活規範を生み出す宗教的心情を持っている。墓石と道端の石とを区別しているし、「禁小便」と書かずに鳥居の印が書かれていることさえある。そして、それが一定の効果を示しているという。
 「牧師も人間だよ」
 そう言った御仁がいた。勿論そうだ。総理大臣であれ、最高裁判所の長官であれ、もちろん天皇陛下も人間であることは間違いない。だからといって、牧師の性犯罪を隠そうとしたり、責任逃れを許そうとすることには激しい怒りを感じる。女性や女児に対する性犯罪はことに重罪だろう。そして、それぞれの教派の責任者は、そうした性犯罪に対する確固とした判断を示さなければならないはずだ。
 キリスト教のいろいろな教派の中でイジメが起こっていることも聞いている。
 ある意味では、宗教が犯罪の温床になっているとしか思えない。「日本は宗教に関しては寛容だから」と言った人もいた。確かにそうだが、しかし、日本という近代法治国家においては、特別な例外(憲法の規定)を除いて、刑法関連の法律に触れる犯罪は犯罪でしかない。決着は裁判所がつける。最高裁の判決に対して「事実誤認」を叫んでいる教派の聖職たちの中で、「愛媛玉串料訴訟」の最高裁大法廷判決を間違いだする人々を非難する発言をしていた人はいなかったのだろうか。「最高裁判決なんだから」と言って鬼の首でも取ったかのような論評を書いていなかっただろうか。確かに、前述の最高裁による上告棄却は大法廷のものではないが、自分たちの都合で最高裁の判断の重みを区別するのは、独善主義そのものだと言われても仕方がないだろう。
 この教派の聖職の中には、大学で教鞭を執っている司祭もいるという。知人が知っている限りでは、靖国神社の存在に反対し、原発に反対し、「従軍慰安婦」の存在を認め、フェミニズムの考え方を容認し、セクハラを問題にし、もちろん自衛隊は憲法違反だと「宣わ」っているらしい。それでいて、この性犯罪に対して、積極的に関わろうとはしていない。「事実誤認」を支持しているのだろうかと知人は悩んでいた。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩み続けている女性たちの苦しみを無視し続けているその教派は、そうした意味から「カルト」だと言われても当然だろう。最高裁の判決をも誠実に考えられず、請求額の満額の慰謝料が確定した高等裁判所の判決をも否定するとは、あまりにも独善主義的なものだ。自らの教理や制度ないし宗教的儀式を絶対化し、法律や判例に違反したりする宗教集団を「カルト」と定義すれば、前記の教派は正にカルト以外の何ものでもない。(慰謝料は全額支払われたらしいが、誰がそれを支払ったのかについては、知人も知らないという)

 こんなことを書いていると、筆者も寝首をかかれたり、呪いの5寸釘を打たれたりするのだろうか。都会の喧噪の中で隠れているから、簡単には見つからないだろう。東京もやっと涼しくなりはじめた。