いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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キリスト教会はいつからカルト教団に成り下がったのか

2006-09-22 | Weblog
 しかし、目を覆いたくなるというか、心を被いたくなる。
 キリスト教会でも、次から次へとセクハラというか、性犯罪が起こっている。これは「起こっているらしい」というようなことではなく、筆者が知っているだけでも、3件の事件が起こっている。知り合いが面白いことをいっていた。「これからは、キリスト教の牧師と二人でいることは避けた方がいい」と。確かにそうかもしれないが、犯人隠匿罪で起訴され、しかし裁判で無罪になったあのT師のように、自分のすべてを投げ出して、弱い人々をささえ、罪を犯した人に自首を勧める大切な務めが出来なくなってしまう。
 筆者が知っている3件とは、それぞれの事件に関して、加害者の名前もその立場も、そしてその事件の内容も知っているということだ。そのうちの2件は、この問題を深く考え、被害者の支えになろうとしているホームページでも明らかにされている。

 3件のうち2件の加害者は、人望があり、熱心で、方々で「お話」をしていた牧師だった。他の1件の加害者も、その教会員には人望があったし、周辺の人々にも好感が持たれていたという。
 新聞や雑誌では「セクハラ」と書かれているが、「セクハラ」という言葉の内容に関して、法的には「性的いやがらせ」であろうが、しかしことの真相は明らかに性犯罪である。それを、組織的にもみ消そうとしている教派もある。いったん退職させておきながら、10日後に復職させてしまったのだが、去年の夏、最高裁判所への上告(民事)が「上告棄却」になり、すでに高等裁判所で出されていた「被害者勝訴」の判決が確定した。慰謝料は被害者からの請求額が満額、認められた。にもかかわらず、その牧師が属していた教派の最高責任者は、自分たちが行った「復職」という過ちを自己批判することもなく、「たいしたことはしていない」という発言に対する謝罪もしないばかりか、最高裁の上告棄却という判決を「事実誤認」として批判し続けているという。

 キリスト教もカルト教団に成り下がったのだろう。
 上記の事件では、問題にしている人々との接触を禁止する「箝口令」が、教派の上部から出ているという。他に同じような事件があるからなのか、その教派の多くの聖職者たちは「沈黙は金」とばかりに黙り込んでいる。「雄弁は銀、沈黙は金」という諺は、雄弁を奨励しているギリシアの諺だということを知らないらしい。それとも、ギリシア思想は例の「グノーシス(知恵)」で不信仰なものだからなのだろうか。当時は、精錬しなければならない銀の方が、他の物質と化合することのないのでそのままの状態で加工できる金よりも価値があったということを知らないのだろう。
 この問題に関して、その教派を知っている知人は、「司祭たちはちったぁ勉強せぇよ」と電話の向こうで叫んでいた。

 オウム真理教の麻原の死刑が確定した。
 日本の現在の法秩序では、当然の判決だろう。あの麻原の裁判が行われるようになってから、死刑廃止運動が停滞しているように見えているのは筆者だけだろうか。
 危ない宗教集団は他にいくらでもあるという。かといって、宗教そのものを否定するつもりもない。社会の中で生きている以上、言い換えれば、孤島で孤独な生活をしている人を除いて、誰しもが心の中に生活規範を生み出す宗教的心情を持っている。墓石と道端の石とを区別しているし、「禁小便」と書かずに鳥居の印が書かれていることさえある。そして、それが一定の効果を示しているという。
 「牧師も人間だよ」
 そう言った御仁がいた。勿論そうだ。総理大臣であれ、最高裁判所の長官であれ、もちろん天皇陛下も人間であることは間違いない。だからといって、牧師の性犯罪を隠そうとしたり、責任逃れを許そうとすることには激しい怒りを感じる。女性や女児に対する性犯罪はことに重罪だろう。そして、それぞれの教派の責任者は、そうした性犯罪に対する確固とした判断を示さなければならないはずだ。
 キリスト教のいろいろな教派の中でイジメが起こっていることも聞いている。
 ある意味では、宗教が犯罪の温床になっているとしか思えない。「日本は宗教に関しては寛容だから」と言った人もいた。確かにそうだが、しかし、日本という近代法治国家においては、特別な例外(憲法の規定)を除いて、刑法関連の法律に触れる犯罪は犯罪でしかない。決着は裁判所がつける。最高裁の判決に対して「事実誤認」を叫んでいる教派の聖職たちの中で、「愛媛玉串料訴訟」の最高裁大法廷判決を間違いだする人々を非難する発言をしていた人はいなかったのだろうか。「最高裁判決なんだから」と言って鬼の首でも取ったかのような論評を書いていなかっただろうか。確かに、前述の最高裁による上告棄却は大法廷のものではないが、自分たちの都合で最高裁の判断の重みを区別するのは、独善主義そのものだと言われても仕方がないだろう。
 この教派の聖職の中には、大学で教鞭を執っている司祭もいるという。知人が知っている限りでは、靖国神社の存在に反対し、原発に反対し、「従軍慰安婦」の存在を認め、フェミニズムの考え方を容認し、セクハラを問題にし、もちろん自衛隊は憲法違反だと「宣わ」っているらしい。それでいて、この性犯罪に対して、積極的に関わろうとはしていない。「事実誤認」を支持しているのだろうかと知人は悩んでいた。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩み続けている女性たちの苦しみを無視し続けているその教派は、そうした意味から「カルト」だと言われても当然だろう。最高裁の判決をも誠実に考えられず、請求額の満額の慰謝料が確定した高等裁判所の判決をも否定するとは、あまりにも独善主義的なものだ。自らの教理や制度ないし宗教的儀式を絶対化し、法律や判例に違反したりする宗教集団を「カルト」と定義すれば、前記の教派は正にカルト以外の何ものでもない。(慰謝料は全額支払われたらしいが、誰がそれを支払ったのかについては、知人も知らないという)

 こんなことを書いていると、筆者も寝首をかかれたり、呪いの5寸釘を打たれたりするのだろうか。都会の喧噪の中で隠れているから、簡単には見つからないだろう。東京もやっと涼しくなりはじめた。

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