ロック探偵のMY GENERATION

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太宰治『右大臣実朝』

2022-01-03 21:06:13 | 小説


今回は、小説記事でいこうと思います。

元日はひとまず新年のあいさつという感じで、今日からがいうなればブログ初め……まあ、一応出発点は小説なので、最初の記事は小説でいこうかと。


だいぶ前のことにはなりますが、前回このカテゴリでは三島由紀夫を取り上げました。

ということで、今回は、その三島にとってライバルともいうべき太宰治です。
いや、ライバルという言い方が適切かどうかはわかりませんが……少なくとも、三島の側は太宰文学への嫌悪をたびたび表明しています。作品をいくつか読み比べてみても、この二人が水と油ということはいえるんじゃないでしょうか。

自己愛の塊である三島と、自己嫌悪の塊である太宰……

このブログでは、森鴎外も夏目漱石も芥川龍之介もロックだといってきましたが、この二人もまたロックだといってよいでしょう。

三島がストラングラーズなんかの耽美主義系パンクだとすると(実際、ジャン・ジャック・バーネルは三島由紀夫の信奉者)、太宰はカート・コバーンに通ずるところがあるんじゃないでしょうか。自己嫌悪と、そこからくる自己破壊衝動、破滅的人格……
ニルヴァーナには I hate myself and want to die という曲があります。「自分が大嫌いで、死んでしまいたい」――これは、セカンドアルバムのタイトル候補にもあがっていました。それではあんまりだということで In Utero になったわけですが、もとのタイトルはなかなかに太宰治的といえるんじゃないでしょうか。この I hate myself and want to die というのは、そのころカートが冗談半分のような感じでよく口にしていた言葉で、特に深刻な希死念慮とかいう話ではないともいいますが……しかしこれは、破滅願望をニコチャンマーク風の諧謔で覆い隠しているようにもとれ、だとすると、それはますます太宰治なんじゃないかと。


『右大臣実朝』は、鎌倉幕府の第三代将軍であり、源氏最後の将軍となった源実朝を描いた作品です。

発表は昭和18年、太宰治がはじめて歴史ものに挑戦した作品でもあります。
今年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』ということですが、時代としてはだいたいそのあたり。そういう意味で、いまこの作品を取り上げるのはタイムリーでもあるのです。


まず最初に、作品のはじめのほうに出てくる印象的なせりふを紹介しましょう。

 アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

これは、栄華におぼれて滅亡した平家一門を評して語られる言葉です。
深い含蓄をもった言葉といえるでしょう。昨年の東京五輪の頃なんか、私はよくこのせりふを思い起こしたものでした。

『右大臣実朝』においては、皮肉なことに、実朝自身が平家一門と同じ道をたどっているように感じられます。
実朝は、後代百人一首にその歌が採られるぐらい歌人としてもすぐれていたわけですが、この作品では、あるときから歌道に耽溺するあまり政を顧みなくなってきます。都への憧憬からやたらに官位を望むようになり、ひとたびそれが与えられると仰々しい式典を催し、その費用捻出のために民衆に税を課し、恨みを買うようになっていきます。

きわめつけは、渡宋計画。

東大寺の大仏修造のために来日していた陳和卿に船をつくらせ、その船で中国へ渡ろうというのです。
自分は医王山の高僧の生まれ変わりだという夢のお告げがあり、前世の住処であるその医王山を参詣しようということなんですが……

しかし、この計画はあえなく頓挫してしまいます。
というのは、船を建造していた由比ガ浜は水深が浅すぎて、巨大な船が進水することができなかったのです。陳和卿には何か考えがあるのだろうと探してみると、彼はどこかに雲隠れしてしまっています。結局この船は半ば座礁したようなかたちで朽ちていき、幽霊船のようになっていくのでした。

このエピソード、私には帝国日本の未来を暗示するもののようにも思われます。
その時代の文人たちの例にもれず、太宰もまた日本の戦争に異を唱えるどころか、むしろそれを讃える立場でしたが……意図せずして、日本の行く末を予言しているようにも思えるのです。

進水の失敗がみえはじめたとき、「この遠浅の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出来ないのはわかり切つてゐる」と、その際になって言いだすものもいます。わかりきっているのなら、計画段階で止めればいいのに、という話です。しかし、船は実際に作られてしまうのです。
その姿は、どこかあの戦艦大和を思わせないでしょうか。
戦艦が主役である時代はとうに終わっていたにもかかわらず、大艦巨砲主義に基づいて建造され、実戦の出番はほとんどなかった無用の長物。そして、専門家であればそうなることはおそらく予想がついていたろうに建造が止められることはなかった……これはまさに、太宰の予言です。彼はやはり、その作家としての鋭い感性で、大日本帝国が滅びゆくさだめにあることを感じ取っていたのではないでしょうか。


ここで、作品のモデルとなった源実朝についても書いておきましょう。

この人の名前は、昨年このブログでちらっと出てきました。
それは、映画『乱歩地獄』においてです。あのオムニバスのなかの一編「鏡地獄」に、「世の中は鏡にうつる影にあれや有るにもあらず無きにもあらず」という実朝の歌が登場していました。

いっぽう、先述したように実朝は百人一首に歌をとられているわけですが、その歌は次のようなものです。

  世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも

世の中は永遠に変わらずにあってほしい――という将軍としての願いを歌った歌とよく評されます。それを、渚の漁師という情景に託したところが秀歌とされているのでしょう。
たしかにこの歌だけをみればそんなふうにとれますが……先に紹介した「世の中は…」の歌を踏まえると、ちょっとテイストが変わってくるような気もします。
そこには、現実感覚の希薄さのようなものが漂っています。となると、「世の中は常にもがもな」という句は、王者としての祈りというよりも、希薄な現実を現実として感じたいという欲求なのではないか
そして、そのように読めば、「渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」という句は、希薄な現実感覚のゆえに、たまさか目にうつった光景を現実としてあるものととらえる、とらえたい、そんな悲壮な慨嘆ともとれるのではないでしょうか。
このようにみてくると、先述した渡宋計画も見え方が変わってきます。権勢争いに明け暮れる鎌倉から逃れたいという現実逃避の一形態とみるのが歴史家による一般的な評価らしいですが、これも、鏡の歌を踏まえればそれだけではないのかもしれない。現実感が希薄であるがゆえに、手の届かない何か、ここではないどこかに常にあこがれているのではないか。それはブライアン・ウィルソンのようであり、「有るにもあらず無きにもあらず」という留保のつけ方はジョン・レノンのようでもあります。つまり……実朝もまた、ロックなのです。

最後に、余談を一つ。
戦時中、この作品のタイトル「右大臣実朝」には「ユダヤ人実朝」という隠された意味があると主張する人がいたそうです。当時日本と同盟していたドイツがユダヤ人を迫害していたことをあわせて、太宰治は非国民だと……まあ、そういう人はいつの時代にもいるということなんでしょうが。