ロック探偵のMY GENERATION

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制度の認識について

2019-04-29 18:24:53 | 時事
まもなく、平成が終わり、令和という新しい元号に変わります。

令和という元号についてはこのブログで二回ほど記事を書きましたが……改元ももう間近ということで、いま一度、令和という元号について書いておこうと思います。(といっても、「令和」そのものについてではないんですが)


先日ツイッターので、元号の考案者を明かすべきではなかったという主張を目にしました。

元号の考案者とされる人物が明らかになっているわけですが、そうなってくると、いろいろと問題が生じてくる。成立過程のことが明らかになると、ありがたみがなくなる。だから、明かさないほうがいい……というような主張です。

元号の選考過程なんてどうでもいいという見方もできるでしょうが……しかし私には、ここに大きな問題が潜んでいるように思えます。このブログで何度も書いてきた、日本型意思決定の陥穽というか……

それは、自然生成論とでもいうべきものです。
法や制度は、植物が生えるようにどこかで“自然に生成”するもので、人間はそれに干渉することはできず、ただそうして生成したものにアジャストするしかない――そんな考え方です。この国には昔からそういう自然観が根付いていて、それが社会観にも反映されているのではないかと思えます。

誰がどうやって決めたかもわからないところで物事が決められる。そして、一般国民は黙ってそれを受け入れていればいい……

この考え方ではだめだと思うんです。


制度は人間が作ったものであり、どこかで自然に生成したものでもなければ、天から降ってくるものでもないんです。

制度は人間が作ったものでしかない。

それは、ヨーロッパで市民革命が起きていく中で培われた認識です。
制度は、あくまでも人間が作ったものである。神が与えたものではない。だから、問題があるなら変えていいし、変えるべきだ――イギリスでピューリタン革命を起こした清教徒たちが、そういうことを言い出したそうです。おそらくこれは、“抵抗権”という考え方につながってもいるでしょう。

日本には、この「制度は人間が作ったものである」という認識が欠如しているのではないか。

思想家の久野収は「日本人は制度の認識を欠いている」というようなことを言っていますが、私なりに言葉を補えば、欠けているのは「制度は人間が作ったものである」という認識と、「人間のありようはかなりの程度、制度に規定される」という認識です。

法や制度は、どこか一般人のあずかり知らぬところで“生成”するものであって、一般人はそこに関与もできないし、まして気に食わないからといって変革することなどできない――そういう考え方が日本人の心性に染みついているように思えるんです。それが、とにかく与えられた状況・環境に耐えることを美徳とする価値観につながっているのではないか。

これは、権力者にきわめて都合のいい発想です。反対を受けずになんでも好き放題でき、国民はだまってそれに耐えてくれる……こんなおいしい話はないでしょう。

そこへきて、「人間のありようはかなりの程度、制度に規定される」という認識が欠如していることが、「制度がどうであれ、要は心の持ち方だ」というような精神主義につながり、政治参加に消極的な態度を生んでいると思われます。


もちろん、ヨーロッパのあり方が絶対的に正しいということはないかもしれません。

しかし、日本は議会制民主主義という西洋的な政治制度を導入しています。
それが唯一の解であるかどうかはともかくとして、現にいまそうなっており、その理念にしたがって政治を行うべしとされているんです。
そしてその制度は、一般人が政治に関心を持って関与していくことが前提されているのです。その前提がなければ、議会制民主主義はきちんと機能しない。そして今の日本は、その機能しない状態に陥ってしまっている……それは、このブログでたびたび書いてきた問題です。

議会制民主主義の看板を掲げているなら、それに見合った政党政治が行われてしかるべきでしょう。しかし、いまの日本はそれができていない。令和という新時代を迎えるわけですから、そろそろこういう状況も改善しないといけないんじゃないでしょうか。