JOSEPH HAYDN
Quatuors op.33 & 42
QUATUORS FESTETICS
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はハンガリーとの国境に近いオーストリアの小村に生まれた。質素な家庭に育ち、6歳のときに叔父のもとで音楽教育を受けたものの、それは断片的なものであり、大部分は独学であった。8歳から17歳まではウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊で活動したが、ここでも合唱経験のほかには正式な音楽教育を受ける機会がほとんどなかった。声変わりで少年聖歌隊を離れたハイドンはウィーンに住み、チェンバロを教えるなどして生活するようになったが、この頃からC.P.E.バッハの音楽を熱心に研究したり、ニコラ・ポルポラから対位法を学んだりするようになって、彼の音楽的な才能は次第に認められるようになっていった。ウィーンのフォン・モルツィン伯爵の音楽監督になった1759年には初めて交響曲を作曲し、「交響曲の父」としての第一歩を踏み出した。
1761年から1790年まではハンガリーでも裕福な貴族であったエスターハージー家に仕え、オーケストラの指揮やオペラの上演に多忙な日々を送った。
1791年から1795年までは興行師ザロモンの後援でロンドンに渡り、二度の演奏会を開いた。この演奏会は大成功を収め、ハイドンはオックスフォード大学の名誉博士号を授与されるまでになった。
ハイドンの創作は交響曲や弦楽四重奏曲にとどまらず、ピアノ・ソナタ、様々なコンチェルト、オペラ、オラトリオ、ミサ曲など多岐に渡り、その創作期は3つの時期に分けられる。第1期は1759年から1770年のロココ期、第2期は1770年から1782年の古典主義出現期、そして第3期は1782年から1803年の円熟期というように。
ハイドンは貴族的なギャラント様式から出発し、そこから方向転換し、C.P.E.バッハの多感様式の影響を受け、旋律の幅広い跳躍、テンポや強弱の変化によって、情感を直接的に表現するようになり、やがて提示された主題を徹底的に展開し、激しい劇的な場とするとともに、音楽的才能の試練の場とする、ソナタ形式を確立するに至る。明瞭で力強く、それでいて均衡を保ち洗練された美しさを持つハイドンの音楽はここに実現される。1781年に作曲された「ロシア四重奏曲」はハイドン自らが「まったく新しい特別の方法で作曲されたものである」と述べたものであった。
ソナタ形式とは提示部・展開部・再現部を持つ形式のことであるが、提示部では調的に対立する2つの主題が提示される。展開部ではそれらの主題が展開され、バラバラになったり変形されたりし、音楽が不安定になっていく。再現部では二つの主題が今度は同じ調性で再現され、対立が解消されるという形式である。
こうした形式が成立した背景には労働に代表される公的な面と家庭で過ごす余暇に代表される私的な面の分離とその均衡という近代市民社会のありかたがあり、音楽も公的な面においては交響曲が公開で演奏され、私的な面においては弦楽四重奏曲が家庭内で演奏されるというように、その役割を分けていくようになる。このような時代の作曲家にとっては公開の演奏会と楽譜の出版が自立する機会を与えてくれるものとなり、ハイドンはこの両方で大成功を収めた作曲家であった。
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
Quatuors op.33 & 42
QUATUORS FESTETICS
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はハンガリーとの国境に近いオーストリアの小村に生まれた。質素な家庭に育ち、6歳のときに叔父のもとで音楽教育を受けたものの、それは断片的なものであり、大部分は独学であった。8歳から17歳まではウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊で活動したが、ここでも合唱経験のほかには正式な音楽教育を受ける機会がほとんどなかった。声変わりで少年聖歌隊を離れたハイドンはウィーンに住み、チェンバロを教えるなどして生活するようになったが、この頃からC.P.E.バッハの音楽を熱心に研究したり、ニコラ・ポルポラから対位法を学んだりするようになって、彼の音楽的な才能は次第に認められるようになっていった。ウィーンのフォン・モルツィン伯爵の音楽監督になった1759年には初めて交響曲を作曲し、「交響曲の父」としての第一歩を踏み出した。
1761年から1790年まではハンガリーでも裕福な貴族であったエスターハージー家に仕え、オーケストラの指揮やオペラの上演に多忙な日々を送った。
1791年から1795年までは興行師ザロモンの後援でロンドンに渡り、二度の演奏会を開いた。この演奏会は大成功を収め、ハイドンはオックスフォード大学の名誉博士号を授与されるまでになった。
ハイドンの創作は交響曲や弦楽四重奏曲にとどまらず、ピアノ・ソナタ、様々なコンチェルト、オペラ、オラトリオ、ミサ曲など多岐に渡り、その創作期は3つの時期に分けられる。第1期は1759年から1770年のロココ期、第2期は1770年から1782年の古典主義出現期、そして第3期は1782年から1803年の円熟期というように。
ハイドンは貴族的なギャラント様式から出発し、そこから方向転換し、C.P.E.バッハの多感様式の影響を受け、旋律の幅広い跳躍、テンポや強弱の変化によって、情感を直接的に表現するようになり、やがて提示された主題を徹底的に展開し、激しい劇的な場とするとともに、音楽的才能の試練の場とする、ソナタ形式を確立するに至る。明瞭で力強く、それでいて均衡を保ち洗練された美しさを持つハイドンの音楽はここに実現される。1781年に作曲された「ロシア四重奏曲」はハイドン自らが「まったく新しい特別の方法で作曲されたものである」と述べたものであった。
ソナタ形式とは提示部・展開部・再現部を持つ形式のことであるが、提示部では調的に対立する2つの主題が提示される。展開部ではそれらの主題が展開され、バラバラになったり変形されたりし、音楽が不安定になっていく。再現部では二つの主題が今度は同じ調性で再現され、対立が解消されるという形式である。
こうした形式が成立した背景には労働に代表される公的な面と家庭で過ごす余暇に代表される私的な面の分離とその均衡という近代市民社会のありかたがあり、音楽も公的な面においては交響曲が公開で演奏され、私的な面においては弦楽四重奏曲が家庭内で演奏されるというように、その役割を分けていくようになる。このような時代の作曲家にとっては公開の演奏会と楽譜の出版が自立する機会を与えてくれるものとなり、ハイドンはこの両方で大成功を収めた作曲家であった。
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)