むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

チャイコフスキー

2007-01-15 02:08:19 | 音楽史
TchayTCHAIKOVSKY
Symphonies Nos.4,5&6"Pathetique"
 
Herbert von Karajan
Berliner Philharmoniker
 
ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)はヴォトキンスクで生まれ、幼い頃から音楽の才能を示した。9歳のとき、サンクトペテルブルグへ行き、法律学校の寄宿生となった。この頃、グリンカのオペラを知る。1859年に法律学校を卒業し、法務省に勤務することとなったが、音楽を忘れたわけではなく、高名なピアニストであるアントン・ルビンシテインが音楽教室を開いたと知り、すぐにその教室に入った。この音楽教室は翌年ペテルブルク音楽院となり、チャイコフスキーはその第1期生となった。音楽院ではザレンバに和声法と対位法を学び、ルビンシテインからは楽器法と作曲を学んだ。チャイコフスキーは優れた才能を示したが、音楽と法務省勤務の二者択一を迫られ、1863年に法務省を退職することとなった。
1865年にペテルブルグ音楽院を卒業後、チャイコフスキーはアントンの弟ニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院に招かれ、12年間教授をつとめた。しかし、チャイコフスキーは経済的には困窮状態が続いた。1871年に「弦楽四重奏曲第1番」が初演され、トルストイに絶賛されるなどし、チャイコフスキーは広くその名を知られることになった。そして1876年にチャイコフスキーはナジェージダ・フォン・メック夫人から経済的な支援をしたいと手紙をもらい、それを受け入れた。メック夫人とは一度も会うことはなかったが、その後14年間にわたり文通が続いた。また、1877年に結婚したが、チャイコフスキーにとってこの結婚は幸せなものではなく、モスクワ川に身を投げ自殺しようとしたほどであった。精神的に追い詰められたチャイコフスキーは弟とともにスイスへ向かった。その後、ウィーンやイタリアの各地を旅してまわり、次第に創作意欲が回復してくる。この頃、メック夫人からは年間6000ルーブリの支援とロシア音楽協会からも年金が支給されるようになり、経済的にも十分な安定を得るようになった。しかし、1881年に親友であったニコライがパリで死去してしまう。チャイコフスキーはニコライの死を悼み、今まで一度も作曲したことのなかったピアノ三重奏曲を初めて作曲し、ニコライに捧げた。1886年頃からは指揮者として活動し、ヨーロッパで様々な音楽家と交流も深めた。そして1890年にメック夫人から突然支援を打ち切られ、長い間の文通も終わった。このことはチャイコフスキーに有閑夫人の気まぐれにつきあわされただけではないかとの疑念を抱かせ、彼のプライドはひどく傷ついた。そしてチャイコフスキーは1893年、「交響曲第6番」の初演後まもなく、謎の死をとげた。コレラによる死という説と自殺を強要されたとの説がある。

チャイコフスキーはルビンシテインの弟子ということから西欧派とされるが、彼の音楽にも民謡などロシアの伝統的な音楽が流れ込んでいる。また「ロシア五人組」との関係についても、バラキレフには自作を献呈したり、リムスキー=コルサコフとは良きライバルとして互いを認め合い、交流もあった。ただ、自作を酷評したキュイにだけは憎しみに近い感情を抱いていたと言われる。しかし、ムソルグスキーやボロディンの音楽の技術的な欠陥などを指摘したことが示すように、彼の音楽はベートーヴェンやシューベルト、あるいはシューマンなどの西欧の古典派、ロマン派の音楽形式とロシアの民謡や通俗音楽を融合させることで、より普遍的な音楽を目指したものであった。その音楽はさまざまに酷評も受けた。1875年の「ピアノ協奏曲第1番」はニコライ・ルビンシテインから「演奏不能である」と言われ、初演を断られたし、1878年の「ヴァイオリン協奏曲」はハンスリックに「悪臭を放つ音楽」と評された。そしてチャイコフスキーが自己の最高傑作としてどんな批判も意に介さなかった「交響曲第6番」については、マーラーが「深みがなく外面的で、貧弱なホモフォニー作品で、サロン音楽以上のものではない」と断じ、次のように言っている。

「色彩効果というものは、彼が僕らに聞かせたものとは少しちがう。僕らが聞いたのは、所詮はったりにすぎず、人を惑わす見せかけなのだ! この曲を近くに寄って見れば、そこにはほとんど何もありはしない。あらゆる音域を上へ下へと駆けめぐるあの分散和音や何の意味もない和音の連鎖で、創意のなさと無内容をごまかそうとしたってそうはいかない。色を付けた一点を中心軸のまわりで回転させると、それはちらちらとひらめく円形に広がって見える。でも静止した瞬間、それは元の小さい点となる。そんなものは全く何の価値もない」

→N.バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿