むらぎものロココ

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リヒャルト・ヴァーグナー

2006-12-17 20:51:20 | 音楽史
TristanRichard Wagner
TRISTAN UND ISOLDE
 
Karl Bohm
Bayreuther Festspiel
 
 
レヴィ=ストロースはギアナのアレクナ族から採集された神話に出てくる「毒」と「人間と動物との結婚」というモチーフに着目し、これらが「文化のまっただなかに自然的な力を挿入し、自然と文化のあいだに、一種のショートをおこさせて、そこに玉虫色のあやしい混合体をつくりあげてしまう」ものとして機能していると言い、さらにこの神話に結びついている「虹」と虹が原因で引き起こされると言われている「病気」をあわせて「半音階的なもの」と呼ぶことで、音楽と神話が人間の精神のなかで近いところにあることを示した。
半音階は全音階のように安定したインターバルで分離されている音と音の間を短いインターバルを持った別の音で埋めていくものであり、これによって一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状態を実現する。このような半音階は人間の自然としての情動に直接結びつくことができる。

ロマン派の時代になると、音楽家の関心は無限の流動体としての和声とあらゆる色彩の混合体としての管弦楽に向かった。自由な転調によって和声は分解され、旋律も同様に解体されて半音階や多彩な音色によって和声のなかに溶けこんでしまうようになった。バロックの時代には低音が、古典派の時代には旋律が、それぞれ音楽の中心を担っていたのだったが、ロマン派に至って音楽の中心は和声の響きとなった。こうして音楽は、客観的に構築されるものから言葉にならない様々な感情がないまぜになった情動や現実を超えた理念や詩情を表現する媒体になった。このようなロマン派の和声法を最も効果的に駆使し、聴衆を陶酔の渦に巻き込んだのがリヒャルト・ヴァーグナーであった。
ヴァーグナーはロマン主義の理想であった諸芸術の統一を「楽劇」というかたちで企てた。それは「形象化された音楽の行為」と呼ばれ、音楽における和声の転調や旋律の進行、リズムの躍動を音が演じる行為=劇と考え、舞台上の諸情景は音楽の具体化であるとする。音楽と舞台、あるいは和声と演技は本質的に同一のもので互いに不可分のものであり、彼の「楽劇」はいわば音楽の視覚化となる。それ自体劇的な要素を備えた彼の音楽は、リストの半音階的手法や主題変容の技法、あるいはベルリオーズの色彩豊かな管弦楽や固定観念をより発展させたものである。

ヴァーグナーはショーペンハウアーの音楽観にも影響を受けた。ショーペンハウアーは芸術を理念の再現と考え、それを存在の根源である意志の客観化ととらえた。しかし、諸芸術のなかで音楽だけは抽象的で、具体的な事物を模写しないため、音楽は意志を直接的に客観化するものであり、それゆえに音楽の作用は他の芸術よりも力強いとした。彼によれば意志は一方では理念に客観化され、他方では音楽に客観化されるのだが、理念と音楽には並行関係があるという。その関係は例えば音楽の和声を構成する4つの音は、低い順に鉱物、植物、動物、人間に対応するといったものである。
ショーペンハウアーにとって、音楽はそれ自体が自立した存在だから言葉と結合する必要性はないと考えたが、ヴァーグナーは「音楽動機の運動や形成や変化は、類推的にドラマと似ている、そればかりではなく、イデーを表現しようとするドラマはただ運動し、形成し、変化する音楽動機によってのみ、完全にはっきりと理解される」として、音楽と言葉が結合することを正当化している。

ヴァーグナーには総合芸術を論じた「芸術と革命」、「未来の芸術作品」、「オペラとドラマ」といった著作がある。ヴァーグナーは古代のギリシャ悲劇を範とし、すでに分化してしまったあらゆる芸術を総合することによって、最も完全でただそれだけが真であるような芸術作品を創造することを目指した。そのときに基準となる芸術は詩と音楽であり、ヴァーグナーは詩を男性、音楽を女性とし、両者の婚姻によるドラマの生殖作用を説き、音楽はドラマの効果を高める手段であるとした。この企ては、16世紀に人文主義者のサークルであるカメラータがギリシャ悲劇の復興を目指してつくりあげたはずのオペラが今では堕落してしまったとして否定し、それを乗り越えるとともに、ヴィンケルマンの古典主義とドイツ・ロマン派による「新しい神話」の系譜に連なるものであった。ヴィンケルマンは古代ギリシャを模範とすることで、源泉としての自然に回帰することを主張し、その思想はルソーとともに啓蒙主義的な進歩思想を揺るがすほどの影響を与えた。ドイツ・ロマン派はシュレーゲルを典型とするが、現代の文学においては古代において神話がそうであったような中心点が欠けているとの認識に立ち、「新しい神話」を精神の最も奥深い深みから汲み上げて形成しなければならないとした。神話は機知と類似していて、全てを結合し、また変形するものであり、これこそが神話の内的生命であり、方法であると言った。そしてシュレーゲルは「新しい神話」を観念論に求め、これを革命に結びつけたが、ヴァーグナーも古代ギリシャへの遡及を単なる復古ではないと主張した。

「しかしながら復古ではなく、まさに革命こそあの最高の芸術作品をわれわれに再び与えることができるのである。われわれが眼前に有する課題は、すでに一度解決されたそれよりも無限に大なるものである。ギリシャの芸術作品が一個の美しい国民精神を包含していたとすると、未来の芸術作品は、国民性の一切の限界を超越した自由な人類の精神を包含するべきである。未来の芸術作品中の国民的本性は、妨害的な制限ではなくて、個性的多様性の飾りであり、魅力でありさえすればよい。それゆえにわれわれは、ただギリシャ文明だけが再び作るようなものとは全然ちがったものを創らなければならない」(ヴァーグナー「芸術と革命」)

総合芸術の企てとは、かつて自明なものとして人々に共有され、ある時代、またはその社会を支える現実的な基盤としての精神を再び、そして新たに生み出そうとするものであったが、この総合芸術が、自然と文化の間をショートさせることによって生み出された「玉虫色のあやしい混合体」であったとしたらどうか。ニーチェは処女作「悲劇の誕生」において、生成激動するディオニュソス的原自然の生命に帰一して生きること、根源的な故郷である自然へ回帰することだけが健康なドイツ文化を回復させることができるということをヴァーグナーに仮託して説いたのだったが、バイロイト祝祭劇場で「ニーベルングの指環」の実演に触れて以降、それまでの態度を覆し、ヴァーグナーを攻撃する側に回った。ニーチェは「ヴァーグナーは音楽を病気にした」と言った。そしてヴァーグナーを純粋な者を誘惑する俳優であるとし、嘘つきでさえあると言った。しかしながら、ニーチェのヴァーグナー批判はむしろヴァグネリアンであった過去の自己に向けられたものであり、ヴァーグナーをドイツ化する俗物たちに向けられたものであった。

ハイデガーによれば、総合芸術とは文字どおり、各種の芸術は相並んで実現されるべきではなく、ひとつの作品の中に結集されなくてはならないものであるが、そこにはさらに、芸術作品は民族共同体の祭典であり、すなわち「宗教そのもの」であるべきだという意味も含まれているという。しかし、ハイデガーはヴァーグナーの楽劇を現実には音楽が芸術の本体になったものとし、それを「すべての堅固なものを解体して、流動的な軟弱なもの、暗示を受け易いもの、もうろうと漂うものへ融かしこみ、節度も法則も限界もなく、透明で明確なものを欠き、ひたすらに沈んでいく途方もない夜」であるとして、次のように述べる。

「ヴァーグナーは、芸術をもういちど更めて絶対的な要求にしようとするわけであるが、しかしその絶対者は、もう今となっては、ただまったく無規定なもの、単なる感情へのまったき解消として、虚無の中へ縹渺と暮れ沈んでいくものとしてしか経験されなくなっている。してみれば、ヴァーグナーがショーペンハウアーの主著を四度も精読して、そこに彼の芸術の形而上学的な認証と解明を見出したのも不思議ではない」(ハイデガー「ニーチェ」)

こうしてハイデガーはヴァーグナーによって感情的陶酔の刺戟や情動の充溢こそが生の救済だと信じられた総合芸術の試みを結果的に挫折したものであると結論づけるのだが、そこには芸術を単なる感情状態から理解し評価する芸術観があるとし、それが感情状態を野蛮化して放恣な感情の沸騰や亢奮にしていくとした。ハイデガーはヴァーグナーがディオニュソス的なものの単なる亢進とその中での漂蕩を求めたのに対し、ニーチェはむしろディオニュソス的なものの抑制と造形を求めたとして両者の差異を指摘する。また、ショーペンハウアーが美的状態を意志を停止させること、あらゆる努力を沈静化すること、純然たる休息、もはや何事も意志しなくなって無感動に漂っていることとしたのに対し、ニーチェはそれを陶酔による自己超出、形式創造の力に求めたとした。ニーチェの言うように「ヴァーグナーの音楽は泳ぐこと、漂うことであって、歩くこと、舞踊することではない」としたら、「玉虫色のあやしい混合体」をうまくコントロールし、ヴァーグナーを「人類の理想への旅の終点」とするのではなく、いかに陶酔の呪縛から逃れ、離脱するかが課題となるだろう。

1885年にマラルメはヴァーグナーについてエッセイを書く。マラルメにとってヴァーグナーは「悪気のない、輝かしい勇敢さで、詩人の務めを横取りしようとする存在」であった。

「他ならぬ詩のなかに、宇宙の諸々の事物のあいだの相関関係を映し出し、諸々の事物の純粋な概念を現前させる力を求めている現場に、ヴァーグナーの音楽は、まさに求められている力を誇示しながら出現した。それは詩にたいする挑戦であり、詩人の義務と権能にたいする侵犯である。こうして音楽が詩から奪いとった富を詩のほうにもう一度奪いかえすべく、マラルメは音楽にたいして反挑戦を開始することになる」(菅野昭正「ステファヌ・マラルメ」)

マラルメの「書物」。宗教的な儀式、演劇的な性格、宇宙と等価につりあうような書物の構想。全20巻、4部構成。「操作者」1名を含む25名が「書物」に参加。各巻は24の倍数である384ページを含み、4部に分割される。その4部が対合されて96ページの第5部が生まれる。「操作者」が紙片をよみ、ついで8名ずつの3つのグループに分かれた参加者がそれぞれ順に朗読を繰り返す。

リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)はライプツィヒで生まれた。幼少期のヴァーグナーは、「魔弾の射手」に夢中になり、歌劇場での練習の帰りに家の前を通りかかるウェーバーを畏敬の念をもって眺めていたというエピソードが示すように、音楽に関心がないわけではなかったが、ピアノの基礎的な練習になじめず、むしろギリシャ・ラテンの古典文学やシェークスピアに親しみ、それらを手本とした大悲劇を構想するなど、文学に関心を寄せていた。
ヴァーグナーが音楽に本格的に目覚めたのは、ベートーヴェンの音楽を初めて聴いた15歳のときからだった。ライプツィヒ大学の学生時代は、放埓な生活を送った時期もあったが、トマス学校の合唱指揮者をしていたヴァインリッヒと出会い、彼のもとで対位法などの音楽理論を学び、半年ほどで習得、1833年頃から指揮者として活動を始め、ヨーロッパ各地を転々とした。パリでは不遇の生活を余儀なくされるが、この頃の経験を題材に「ベートーヴェンまいり」や「パリに死す」などの小説を発表するなど、雑誌へ寄稿をするようになった。1843年からドレスデンでザクセン王国の宮廷劇場指揮者として活動するが、1849年にドレスデン蜂起の主犯格とみなされ、追われる身となった。リストの尽力でスイスのチューリッヒに亡命し、数年間の逃亡生活を続けるが、その間、総合芸術について論文を書いて出版した。
1872年、ヴァーグナーはバイロイトに移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けてバイロイト祝祭劇場の建築を始めた。この劇場は1876年に完成し、「ニーベルングの指環」全曲が初演された。1882年には最後の作品である「パルジファル」が完成し、バイロイトで初演した。その後、ヴァーグナーはヴェネツィアへ向かい、翌1883年、滞在中のヴェネツィアで心臓発作のため死去した。

→ワアグナア「ベエトオヴェンまいり」(岩波文庫)
→ワーグナア「芸術と革命」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)
→ニーチェ「悲劇の誕生」(岩波文庫)
→ニーチェ「偶像の薄明」(角川文庫)
→ハイデガー「ニーチェ1」(平凡社ライブラリー)
→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」(中央公論社)
→筑摩世界文学大系48「マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボー」(筑摩書房)
→今道友信編「精神と音楽の交響」(音楽之友社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→中沢新一「虹の理論」(新潮文庫)
→信太正三「永遠回帰と遊戯の哲学」(勁草書房)
→菅野昭正「ステファヌ・マラルメ」(中央公論社)
  



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