むらぎものロココ

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ソドムの市

2005-02-08 23:59:08 | 映画
salo_jp 「ソドムの市」
(SALO o Le 120 Giornate di Sodoma)
1975年イタリア
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
原作:マルキ・ド・サド
出演:パオロ・ボナッチェッリ 他

はからずもパゾリーニの最後の映画となった「ソドムの市」はマルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」を原作としながらも、舞台をルイ十四世の治世下から第二次大戦終戦間近のイタリアに設定した。失脚し逮捕されたムッソリーニがドイツ軍により救出され、北イタリアのサロを拠点に建国したイタリア社会共和国(サロ共和国)である。

この映画は1.地獄の門、2.変態地獄、3.糞尿地獄、4.血の地獄の4部構成となっている。

「地獄の門」は序章であり、農村から少年少女たちが集められ、厳しく吟味されてから城館に連れていかれる。城館での生活についての規則が読み上げられ、この少年少女たちが4人のファシストたち(公爵、大統領、最高判事、大司教)の快楽のために奉仕する玩弄物であり、規則を破れば厳しい罰が科せられることが示される。「この門を過ぎんとする者は一切の希望を捨てよ」というわけだ。

聴覚がもたらす快楽について
城館ではそれぞれが並外れた性的体験を持つ初老の女たちが3人いて、自らの体験談を語って聞かせるのだが、サドによれば、「聴覚器官によって伝達された感覚は、その印象が何より強烈であるがゆえに最もわれわれの五感を快く刺激する感覚である」からだという。彼女たちの話を聞いてそれを実践してみるというかたちで話は進んでいく。

「変態地獄」
ヴァカーリ夫人が犬の真似をさせられた話を受けて、少年少女たちが首輪をつけられ犬のように這いながら階段を上がり、4人のファシストたちから餌を与えられるシーンが展開する。
4人の男たちが趣味の洗練について語っている。「どんな変態趣味だろうが尊重に値する。なぜなら、分析すればその根源に美の追求があるから」という台詞があるとともに、クロソウスキー、ボードレール、ニーチェといった名前も出てくる。

「糞尿地獄」
マジ夫人が話をする。準備をしているときに飛行機の爆音が響くという、閉ざされた城館のなかで唯一、戦時中であることを意識させるシーンがある。彼女の話は尻と糞便嗜食で、話の中ではスカトロジーと死が緊密に結びついている。これを受けて少年少女たちが糞便を食べさせられることになる。趣味の洗練を極めていった果てに排泄物を食するまでになってしまうという倒錯。
「世界はけっして生成しはじめたこともなければけっして経過しおわったこともない。世界はおのれ自身で生きる。その糞尿がその栄養なのである」(ニーチェ)
「糞尿地獄」では城館の閉鎖性、出口なき悪循環が示されている。

「血の地獄」では凄惨な処刑が行われる。その光景を城館の窓から双眼鏡で覗いて楽しむ男たち。オルフの「カルミナ・ブラーナ」が流れ、イタリアファシズムに協力したエズラ・パウンドの詩の朗読がラジオから流れる。

思想家としてのサドは啓蒙思想に対する徹底的な批判者である。
サドの登場人物は科学的であり、理性的であり、独自の思想を明晰に語りうる。その意味では未成年状態を脱した自立した個人である。しかし、彼らの言動や行動は、公共に利する美徳の欺瞞性を暴き、それに対立する悪徳の合理性を論証する。そこにおいて一般意志や理性が持つ暴力性を露にする。

パゾリーニは彼がよりどころとしていた下層プロレタリアがすでにブルジョワ化され、権力側と結託してしまった現実に絶望し、生や性をおおらかに賞賛することがすでに権力側に取り込まれてしまっていると感じ、「生の三部作」を撤回した。権力はパゾリーニの認識を超えて、あらゆる領域へ管理の網の目を張り巡らし、ローカルな固有の文化やマイナーな領域をどんどん抹消してしまった。「ソドムの市」はこのような認識においての新たな闘争の開始であったわけだが、そこから先の展開はパゾリーニの死によって頓挫してしまう。自己批判からのサドへの接近は、おそらく彼が愛していた母親的な存在との訣別ということになるだろうか。サディズムは超自我そのもので、自我は外部にしかない。超自我の道徳的素質を与えるのは自我の内部性、また母親的補足性である。自我と母親のイメージを排除したとき、超自我の徹底した反道徳性がサディズムに顕在する、とドゥルーズは言う(「マゾッホとサド」)。サディズムは母親と自我のほかは犠牲者を持たない。外部へと向けられた破壊の錯乱は、外部の犠牲者との同一視を伴う。これがサディズムのアイロニーということだが、このあたりに何か手がかりがあるように思う。

いずれにしても、この映画を安全な場所で見ているわれわれは双眼鏡で拷問場面を覗き込む権力者たちと同じなのだろうか。主人になったつもりで、結局は権力に支配されているだけの画一化された存在である大衆に救いがあるのかどうかはわからないが、そもそも誰に救いを期待するのか?

「サドやニーチェの非情な教説は、仮借なく支配と理性との同一性を告知することによって、じつはかえって市民層の道徳的従僕たちの教説よりも情け深いものを持っている。『汝の最大の危険はどこにあるか』とかつてニーチェは自問した。『同情の中に』彼は自ら拒否することによって、あらゆる気休め的保証から日毎に裏切られている、ゆるがぬ人間への信頼を救ったのである」
(アドルノ=ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」)


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
サドの小説「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え... (たくろ)
2007-11-01 02:32:54
サドの小説「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」やニーチェの「道徳の系譜」あたりをお読みになれば、「非情な教説」がどういうものかわかると思います。
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私もこの映画のことを私のブログでかいています。... (penguin)
2007-10-29 00:31:30
”サドやニーチェの非情な教説は、仮借なく支配と理性との同一性を告知することによって、じつはかえって市民層の道徳的従僕たちの教説よりも情け深いものを持っている。”

この意味がわかりません。”非常な説教”を知ることができる書があるなら教えてください。また、私のサイトにあるこの映画の感想についてコメントをください。パゾリーニの映画もこの映画が初体験でした。http://plaza.rakuten.co.jp/penguinheart/diary/200704290000/
ドシロウト丸出しに見えるかもしれませんが、コメントください。遠慮はいりません。私がブログをはじめた理由は、同じ趣味の人との交流を深めたいということと、私が更なる刺激が欲しいというところからです。こちらのサイトでは後者を沢山受けることができそうです。”はじめまして”なのに色々うるさいとは思いますが、よろしくお願いします。
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