むらぎものロココ

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レオシュ・ヤナーチェク

2007-03-17 22:44:19 | 音楽史
Hagen_1Janacek
Streichquartette Nos.1 & 2
 
 
HAGEN QUARTETT
 
「ヤナーチェクが変革の力の大半をオペラに集中し、その結果考えうるもっとも保守的なブルジョワの観客の趣味に左右される立場に身を置いたという事実には、悲劇的とは言えないまでも、どこか胸が痛むようなところがある。そのうえ彼の刷新は歌われる言葉、つまり具体的には世界の劇場の九十九パーセントで理解されないチェコ人の言葉の、前代未聞の再評価のなかにあったのだ。障害のこれほどまでの意図的な蓄積を想像することは難しい。彼のオペラはかつてチェコに捧げられたもっとも美しい賛辞だ。賛辞? そう、犠牲の形での。彼はみずからの普遍的な音楽を、なかば未知の言語のために生贄にしたのである」(ミラン・クンデラ「裏切られた遺言」)

ミラン・クンデラの父親はヤナーチェクに師事したピアニストで、のちにヤナーチェク音楽院の院長を務めた。クンデラはこの父親からピアノを習った。クンデラは小説やエッセイでたびたび音楽に言及しているが、65年に書かれた小説「冗談」には、登場人物のひとり、民俗学者のヤロスラフが彼の息子ウラジーミルにチェコの歴史や民謡について語るくだりがある。

「チェコ民族は十七世紀及び十八世紀に、ほとんどその存在を止めてしまった。十九世紀になって事実上二度目の誕生をした。古いヨーロッパ諸民族の間で、チェコ民族は子供だった。けれども彼には偉大な過去もあったのだ。がその過去は、チェコ語が都市から農村へと退き、すでに文盲だけのものとなっていた二百年という溝によって、民族と隔てられていた。しかしチェコ語は、彼ら文盲の間でさえも自己の文化を創造し続けることをやめなかった。地味で、ヨーロッパの視界から完全に隠れた文化を。歌、物語、慣習的儀式、ことわざ、それにわらべ歌の文化を。でもとにかく二百年の溝を越える唯一の細々とした丸木橋であった。
唯一の丸木橋、唯一の小橋。絶えることなき伝統の唯一の幹。かくて十九世紀の初頭に新しいチェコの文学や音楽を創り始めた人たちは、それを他ならぬこの幹に接ぎ木していった。だから初期のチェコの詩人や音楽家たちは、あんなにもしばしば物語や歌を蒐集して回ったのだ。だから彼らの初期の詩や音楽上の試みは、しばしば民衆の韻文やメロディーの単なるパラフレーズでしかなかった」

しかし、民謡の独自性は音楽学者から否定されてきた。ヨーロッパの民謡はバロックから、つまり当時の楽士たちが貴族文化の音楽性を民衆の中に持ち込んだことから始まったというわけだ。しかし、クンデラはこのような主張を調性の観点から批判する。バロック音楽は長調と短調によるが、モラヴィアの民謡はきわめて特異で、長調とも短調とも、あるいはいかなる教会旋法とも違うのだ。

「モラヴィアの民謡は調性の上で想像もつかないほど多様である。その考え方はしばしば謎めいている。短調で始まるかと思えば長調で終わり、幾つかの調の間をゆれ動く。それに和声づけしなければならない時、その調をどう把握したらいいのかさっぱりわからないことがよくある。調性の上で多義であるように、またリズムの上でも多義である」

そしてクンデラは、こうした民謡の多様性を、最も古い時代から地層のように積み重なって保存されてきた多層性ととらえる。そして眼の前で踊る千一夜の女がヴェールを一枚一枚脱ぎ捨てていくように、ひとつひとつの層を調べていく。
最初のヴェールはボヘミアからブラスバンドが持ってきた、西ヨーロッパ型の長調による最も若い民謡。第二のヴェールは多彩なマジャール生まれの民謡で、特色あるシンコペーション的リズムを持つチャルダッシュやフェルブンク。第三のヴェールは18世紀、17世紀のスラヴ系の民謡。第四のヴェールは14世紀にさかのぼる。羊飼いの歌や山賊の歌。これらは和声を持たず古代調性の体系のなかで旋律的にだけ考慮されている。こうしてすべてのヴェールが脱ぎ捨てられ、最も古い層があらわれる。この層ではスロヴァキア、南モラヴィア、マジャール及びクロアチアの民謡は、それぞれ区別がつかないほど似通っている。9世紀の大モラヴィア帝国はこの民謡の最も古い層に刻みつけられている。また、この層の民謡は四音(テトラコルド)の構成に根ざしていて、古代ギリシャの音楽構造と一致する。古代は民謡の中に保存されている。民謡は古代から現在までをつなぐ歴史のトンネルであり、民謡を通して遥かなる過去を振り返ることができるとクンデラは言う。

ヤナーチェクはこのようなモラヴィアの民謡を採集し研究し、それを自らの語り口にした。彼の音楽は動機やハーモニー、響きや音色のコントラスト、テンポや韻律の多様性を特色としている。一つの楽曲、あるいは楽章のなかで矛盾する情緒の断片が、通常はみられない頻繁さで交代することにより、「情動の変動のこのうえもなく豊かな幅、優しさと荒々しさの、怒りと安らぎの、つなぎめがなく、凄まじく緊迫した対決」が展開する。ヤナーチェクの音楽はドイツ=オーストリアの伝統から独立し、話し言葉のイントネーションから旋律を生み出していく作曲技法はムソルグスキーやドビュッシーに近い。

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)はモラヴィアのフクヴァルディに生まれた。彼は11歳でブルノのアウグスティヌス会修道院の少年聖歌隊員となり、パヴェル・クシーシュコフスキーのもとで音楽教育を受けた。クシーシュコフスキーはモラヴィアの民謡を合唱曲に編曲することで、民謡の普及に尽力した音楽家で、「ブルノ・ベセダ」の中心的人物でもあった。ヤナーチェクは1872年にその聖歌隊の副指揮者となり、1873年にはスヴァトブルグ合唱協会の指揮者も務め、この協会のために合唱曲を作曲するようになった。1874年にはオルガンを学ぶためにプラハへ行き、そこでドヴォルザークと出会った。ヤナーチェクはドヴォルザークを敬愛し、それは終生変わることがなかった。
プラハからブルノに帰ったヤナーチェクは指揮者としての活動に戻ったが、1879年に音楽を学びなおす必要を感じ、ライプツィヒへ、そしてさらにウィーンへと向かった。しかし、そこで受けた音楽教育は彼を満足させるものではなく、1年たらずでブルノに帰ってくると、1882年にオルガン学校(現ヤナーチェク音楽院)を設立し、1884年には音楽雑誌を創刊し、独自の活動を展開するようになった。1880年代後半から、バルトークやコダーイ、あるいはシマノフスキに先駆けて民謡の採集を始め、これら民謡のリズムやモラヴィア地方の方言との関係を研究し、そこから独自の作曲技法を生み出した。また、ヤナーチェクは人の話し言葉や動物の鳴き声などあらゆるものを採譜し、それらを作曲の霊感源としていった。しかし作曲家としてはなかなか認められず、10年近い歳月をかけて完成したオペラ「イェヌーファ」もなかなか上演する機会を得ることができなかった。
そしてヤナーチェクは1917年にカミラ・シュテスロヴァーと出会った。この38歳年下の女性がヤナーチェクのミューズとなって、晩年の作品が次々と書かれるようになった。カミラには夫がいたが、ヤナーチェクとは家族ぐるみでつきあい、彼が肺炎で死の床にあったときは最後まで付き添った。

ヤナーチェクが20世紀最大のオペラ作曲家の一人であると評価されるようになったのは、没後半世紀ほどを経過してからのことだった。このようにヤナーチェクの評価が遅れたのは、彼がチェコ人の言葉と密接に結びついたオペラを書き続けたためだろうか。そうではないとクンデラは言う。

「ヨーロッパの小国民たち(彼らの生活、歴史、文化)は彼らの難解なる言語の背後に隠れ、ヨーロッパではひどく知られていない。彼らの芸術の国際的な認知にとって主要なハンディキャップがそこにあると、ひとはごく自然に思う。ところがそれは逆なのだ。この芸術にハンディキャップがあるのは(批評家も、歴史家も、同国人も外国人も)みんなが国民という家族写真のうえにその芸術を張りつけてそこから外に出ることを許さないからなのである」(「裏切られた遺言」)

「ある家族が嫌われ者の息子をなきものにできない場合には母親的な寛大さによってその息子の位置を低くするだけにする。ヤナーチェクにたいして好意的になろうとしてボヘミアで流布した言説は、彼を近代音楽のコンテクストから引き離し、民謡にたいする情熱、モラヴィア的愛国主義、<女性>、<ロシア>、<スラヴ性>崇拝その他の戯言といった、もっぱらローカルな問題に彼を閉じ込めたのである」(同上)

話し言葉のイントネーションの意味論もまた、超国民的な性格をもつのだろうか? これがヤナーチェクを魅了した問題であった。

→ミラン・クンデラ「冗談」(みすず書房)
→ミラン・クンデラ「裏切られた遺言」(集英社)
→佐川吉男「レオシュ・ヤナーチェク再評価」
 (ONTOMO MOOK「クラシックディスク・ファイル」(音楽之友社)所収)