「パンドラの箱」(DIE BUCHSE DER PANDORA)
1929年 ドイツ
監督:ゲオルク・ウィルヘルム・パプスト
脚本:ラディスラウス・ヴァイダ
撮影:ギュンター・クランプフ
原作:フランク・ヴェーデキント
出演:ルイーズ・ブルックス、フリッツ・コリトナー、
フランツ・レーデラー 他
G.W.パプストは第一次大戦後の新しいリアリズムであるノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗手であった。彼はインフレ下のウィーンで没落した中産階級の人間たちを冷徹にとらえた「喜びなき街」で衝撃を与えた。この映画はイギリスでは一般公開を禁じられ、そのほかの国では大幅に削除されたうえで公開された。彼は現実の生活に関心を持ち、その映画手法上の特徴は、まるで演出されていないできごとをそのまま記録したかのように撮り、象徴的な意味を生成するような構成を排し、素材そのままを写すというもので、一連のできごとが自発的に行なわれるのを見つめる。それは画家というよりは写真家に近い視点であり、「観客は<いかに美しいか>より、むしろ<いかに真実であるか>を感じさせられる」と評された。そしてパプストは現実を絶え間ない流れにおいてとらえ、観客に一つの現象をじっと見つめることを許さない。この特徴は、「パンドラの箱」においては、レビューの舞台裏のめまぐるしい動きに端的に示されている。
彼には社会的な崩壊と性的な側面での不行跡を関連づけた一連の作品(「邪道」、「パンドラの箱」、「淪落の女の日記」)がある。「パンドラの箱」製作時のエピソードに、主役ルルを演じる女優が見つからず、1600人もの女優をテストしてようやく見つけ出したのが、ルイーズ・ブルックスであったという話がある。苦労は報われた。類稀なる才能を持ちながらハリウッドのシステムに馴染めずスポイルされてしまった伝説の大女優。彼女なしにはこの映画が永遠の名作として映画史上に残ることはなかっただろう。
しかし、ジークフリート・クラカウアーが記すところによれば、この映画は当時、失敗作とされた。その理由としては、台詞の微妙なニュアンスに頼る文学的な戯曲からサイレント映画を撮ったことにあるというものであった。クラカウアー自身もこの映画を失敗作とみなしたが、それを戯曲の抽象性に起因するものとし、「内容のない<雰囲気>にすぎない」映画であるとしている。
「パンドラの箱」はフランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」と「パンドラの箱」(ルル二部作)を原作としている。山口昌男によれば、ヴェーデキントがルルを生み出すにあたりその起源となったものとして、フェリシアン・シャンソールの一幕物のパントマイム「ルル」がある。これはアルルカンとコロンビーヌ(ルル)、そしてピエロ(哲学者)というイタリア喜劇仕立ての三角関係劇で、ここにはコロンビーヌ=踊り子=永遠の誘惑者としての原型が示されているという。また、「パンドラの箱」というタイトルが示すように、ルルは神々が創った最初の女性であり、災いをもたらすべく人間界に送り込まれたパンドーラーでもある。開けることを許されていなかった箱を好奇心から開けてしまったために、あらゆる災厄を撒き散らしたパンドーラーが女性の起源であるとギリシャ神話は伝える。
ピエロ(哲学者)を誘惑し翻弄するコロンビーヌ(ルル)、そして女性の起源であるパンドーラー。これらはニーチェの「善悪の彼岸」序言にある冒頭の一節へと我々を導く。
「真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らがこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ。――そこであらゆる種類の独断は、今日では悄然として意気阻喪した恰好で立ちつくしている。それがなお立っているとすればだ!」
ニーチェの女性についての問いを受けて、デリダは「尖鋭筆鋒の問題」のなかで次のように語っている。
「女性というものは、引き離すものであり、自分自身からおのれを引き離すもので、女性の本質は存在しないのです。女性は、あらゆる本質性、あらゆる同一性、あらゆる固有性を、終わりなく、底無しに、呑み込み、底から投げ出します。ここでは哲学的な言述(ディスクール)は、盲目になって、沈没する――破滅へと投げ入れられるがままになる――のです。女性の真理というものは存在しないのですが、しかし、それは、このような真理からの深淵的な引き離し、このような非-真理が≪真理≫なのだからなのです。女性とは、このような真理の非-真理の名称であります」
だからこそ、ニーチェは同じく「善悪の彼岸」のなかで「女性が学者的(科学者的)になろうとすることは、最悪の趣味に属するのではあるまいか」と書いた。これと同様のことをヴェーデキントも作中の台詞として書いた。「恋によって生活の資金を手に入れる女性は、フェリエトンや書物すら書くまでに己を卑しめてしまった女性よりも、私にとってずっとずっと尊敬に値する」と。
ヴェーデキントが劇作家として活動していた19世紀末のドイツでは、終末観ではなく、むしろ新生への期待が支配していた。文学者たちは伝統と断絶し、未来への意欲を示し、現実の社会問題へと取り組んだ。ヴェーデキントはその劇作において、一貫して抑圧された性と社会的制度の関係を暴くことに取り組んだ。このような彼の活動は当然のように司法との闘争を余儀なくされたが、現在では表現主義から戦後演劇へとつながる現代演劇の先駆者としての評価を得ている。
しかし、「性の解放者」としてブルジョワ社会のモラルを攻撃したヴェーデキントに対し、トロツキーは彼のボヘミアン的な性向や虚無主義や懐疑主義、唯美主義の限界を指摘した。トロツキーのヴェーデキント批判は当時のロシア・インテリゲンチャを攻撃するためのものであるにせよ、手厳しいものであった。
「成上り物、抜け駆けの昇進者、あるいは失敗者である彼らは、社会的伝統や確乎とした社会的愛着の対象を失っている。「現在の秩序」に対する彼らの蔑むような渋面と無政府主義的美辞麗句は、あとからあとからと続いて、決してとどまることがないだろう。しかし、これ以上は事態が進むことはない。「現在の秩序」は彼らがこの秩序を軽蔑しているときに、彼らを寛大に眺めていて、その後で自分の目的のために平然と彼らを利用するためである。用意が足りないと分った者は、打ちのめされ、もっともよい場合でも、新聞の苦力、舞踏会のピアニスト、広告文案作者として辛うじて存在を保つことが許されるだけである」
「社会的ニヒリズムは、彼らすべてに自分自身を中心軸として休みなく回転するようにさせる。口では傲慢な侮蔑の言葉を吐きながら、彼らは、死の恐怖と性の本能に動かされて盲の仔猫のように哀れに隅から隅へと駆けまわる」
「否定、しばしば容赦しないものではあるが、いつも社会的結論にいたると手を引いてしまう風刺、これこそ彼らの呼吸している空気である」
「ヴェデキントの不安定な唯美主義、それは彼の前に未来の小さい一角を開示するが、非力な彼は公園の門の傍に置きざりにされるのである。融通無碍のフォルムを好むだけでは、世界はひっくりかえせない」
トロツキーはヴェーデキントの創作の発展段階を性の三段階としてとらえる。最初は「春のめざめ」に示された性の衝動に対するおずおずとしたおののき、青春の甘い香りに誘われたおののきであり、二番目は「地霊」に示された性の無限の王国である。そして最後の段階は「パンドラの箱」に示された剥き出しになった性がなりふりかまわず通りすがりの者の服をつかみ、徹底的に自己を消耗し尽くし、新しい道を開拓しようとしてナイフを女性の肉体に突き刺す、というもの。ここにおいて唯美主義的なエロティシズムは破綻し、挙句の果てにヴェーデキントは「弁神論」に示されたように、生活の意義を神に求めるようになる。トロツキーはここに大胆な否定者が臆病な神秘主義者になってしまう矛盾を指摘する。
それではヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」はどのような物語であるのか。トロツキーの要約をそのまま引用する。
「今や登場するのは、罪なほど美しいルルゥである。蛇のようにしなやかで、その動きの一つ一つで多感に打ち震え、どの衣裳をつけたときにも露出してしまう股で物事を考え、悲哀も、疑いも、良心の呵責も知らない彼女は、性のように不可抗力的存在だ。彼女は、性の体現として世間にお目見えしている。彼女は地の悪霊だ。周囲に鉄屑をばらまいたなかに置かれた磁石が受動的であるように、ルルゥは受動的で、自分のまわりに邪悪な情熱をまき散らし、老人や若者たちにどうしても抑えることのできない性の無分別を伝染させ、心身ともに打ちくだかれた存在と死体を、自己の勝利の道標とする。彼女の最初の夫は、彼女が愛人の画家と一緒にいるところに出くわして、卒中を起こして死ぬ。画家は彼女の夫になるが、ルルゥの以前の情夫、編集者のシェーンの登場を悟ると、きれいに剃り上げた喉を切って自殺する。シェーンは、今度は自分の番になって、サーカスの力持ちや高校生や彼自身の息子の文士などの仲間に入っている妻を見つける。ルルゥはピストルで自分の夫を傷つける。誰も、いかなることも、この美しく、狡賢い女を抑えることができない。だから、無力感にとらわれたヴェデキントは、彼女を警察の手に引き渡すのだ。ところが、警察も地霊をうまく扱うことができない。ルルゥは、自分の予定したことを最後まで果たすべく脱獄する。今や彼女は、パンドラの箱に入って再びわれわれの前に現われる。彼女は三度目の夫の息子である文士アリヴァ・シェーンを囚にして、彼と一緒にパリにひそみ、賭博師、高級淫売婦、銀行家、探偵に囲まれて暮らしている。シェーンの財産は、ルルゥの邪悪な魅力の衰えよりもずっと急速に尽きて行く。彼女は、ロンドンに逃げ、屋根裏部屋に住んで、街角で春をひさぐ。彼女のところにはアリヴァ・シェーンが暮らしているが、彼はなかば腐り果て、彼女の過去を物語る破片となってしまっている。結局ルルゥは解剖師ジェーク(※切り裂きジャックのこと)を自分のところに連れ込んで、彼の刃にかかって死ぬ。疲れを知らぬ性の奉仕者ルルゥは、血にまみれた歓喜の祭壇の上で破滅するのだ」
この物語を山口昌男は祝祭的宇宙感覚を下敷きにして読み直す。ルルを文化に対する自然としての無方向の活力の表現とし、根源的無垢と制度に対する攻撃性の化身、つまりは道化の精神をそこに見出す。
「ルルは、祝祭的であることによって過剰の生であり、過剰の生であることはとりもなおさず、市民社会の周縁に身を置くことによって、この社会を挑発し、活性化し、いらだたせることによって、惹起させるルサンチマンをひきつけ、社会の情念のバランスシートを保たしめるためのスケープゴートとして殺害されなければならないという主人公「聖なる怪物」についての演劇である」
ルルを殺害したのは切り裂きジャックであった。19世紀末ヴィクトリア朝時代のロンドンはウエスト・エンドとイースト・エンドという地理的二重性を持ち、フーコーが指摘するところの偽善的な性道徳による抑圧とその一方で知と結託した権力が推し進めた性の言説化という二重性を持っていた。ゴシック小説や大衆演劇には人殺しの主題にあふれていた。新聞は犯罪を扇情的に報道し、公開処刑や裁判は大衆の見世物であった。そうした背景において、五人の娼婦を殺害した切り裂きジャックの猟奇的事件は起こった。この事件のあと、ロンドンに滞在していたヴェーデキントは、この事件を抑圧された性的欲望による犯罪と感じ、早速自作に取り入れることにした。高山宏によれば、ジャックが切り裂いたのは、犯罪を病理として治療することができるとするホームズ的な推理小説に仮託されたブルジョワ的な安定した社会観ということになるのだが、ヴェーデキントはジャックをシェーンの分身とした。シェーンは殺人者になることを恐れ、ルルに自殺を強要し果たせなかったが、そのかわり、ジャックがルルを殺害するという役割を担ったのであった。それはニーチェ=デリダが周到に回避したところの、「短剣であり、匕首でさえあるstyleの助けを借りて、哲学が原質(マチエール)なり原基(マトリス)の名のもとに訴えかけるものを残酷に攻撃して、そこに刻印を打ち込み、そこに跡形なり、形象なりを残す」ことによって、ルルという「聖なる怪物」を克服し、ルルによって脅かされた男性性を回復させることにつながってしまう。
パプストによる映画化は原作とはかなりの違いがある。大きな違いを挙げれば、ルルは刑務所に入る前に裁判所での火事騒ぎに乗じて逃亡したこと、そしてアルヴァとともにパリに身を隠すのではなく、港に停泊している船に隠れていたこと(事態をなしくずしにするため騒ぎを起こし、その混乱に乗じてその場から逃げ出す手口はシゴルヒの常套手段であろう)、さらに映画でのルルは最後まで売春はしなかったということにある。確かに客引きのために街へ出て、ジャックと出会ったのではあったが、金のないジャックに、それでもかまわないと部屋に招き、二人はそこでほんのつかのまではあるにせよ、心を通わせたのである。もう一つの違いは、原作では殺されてしまうアルヴァが、ルルを淫売婦にしてしまったことや今までの生活を悔い、涙を流しながら救世軍の行進についていくという結末である。ニーチェによれば「宗教的神経症の最後の伝染病的な爆発と行進」であり、ブレヒトによれば偽善の象徴である救世軍の突然の登場は、トロツキーが指摘したところの肉のアナーキズムの成れの果て、「孤独な無力、臆病、精神の貧困のもたらした哀哭、みじめな、取るに足らぬ、恥ずべき結末」といえようか。
→F.ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」(岩波文庫)
→S.クラカウアー「カリガリからヒトラーへ」(みすず書房)
→F.ニーチェ「善悪の彼岸」(岩波文庫)
→「ニーチェは今日?」(ちくま学芸文庫)
→M.フーコー「知への意志」(新潮社)
→L.トロツキー「文学と革命2」(現代思潮社)
→呉茂一「ギリシャ神話」(新潮文庫)
→山口昌男「道化の宇宙」(講談社文庫)
→高山宏「殺す・集める・読む」(創元ライブラリー)
→藤本淳雄・岩村行雄他「ドイツ文学史」(東京大学出版会)
1929年 ドイツ
監督:ゲオルク・ウィルヘルム・パプスト
脚本:ラディスラウス・ヴァイダ
撮影:ギュンター・クランプフ
原作:フランク・ヴェーデキント
出演:ルイーズ・ブルックス、フリッツ・コリトナー、
フランツ・レーデラー 他
G.W.パプストは第一次大戦後の新しいリアリズムであるノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗手であった。彼はインフレ下のウィーンで没落した中産階級の人間たちを冷徹にとらえた「喜びなき街」で衝撃を与えた。この映画はイギリスでは一般公開を禁じられ、そのほかの国では大幅に削除されたうえで公開された。彼は現実の生活に関心を持ち、その映画手法上の特徴は、まるで演出されていないできごとをそのまま記録したかのように撮り、象徴的な意味を生成するような構成を排し、素材そのままを写すというもので、一連のできごとが自発的に行なわれるのを見つめる。それは画家というよりは写真家に近い視点であり、「観客は<いかに美しいか>より、むしろ<いかに真実であるか>を感じさせられる」と評された。そしてパプストは現実を絶え間ない流れにおいてとらえ、観客に一つの現象をじっと見つめることを許さない。この特徴は、「パンドラの箱」においては、レビューの舞台裏のめまぐるしい動きに端的に示されている。
彼には社会的な崩壊と性的な側面での不行跡を関連づけた一連の作品(「邪道」、「パンドラの箱」、「淪落の女の日記」)がある。「パンドラの箱」製作時のエピソードに、主役ルルを演じる女優が見つからず、1600人もの女優をテストしてようやく見つけ出したのが、ルイーズ・ブルックスであったという話がある。苦労は報われた。類稀なる才能を持ちながらハリウッドのシステムに馴染めずスポイルされてしまった伝説の大女優。彼女なしにはこの映画が永遠の名作として映画史上に残ることはなかっただろう。
しかし、ジークフリート・クラカウアーが記すところによれば、この映画は当時、失敗作とされた。その理由としては、台詞の微妙なニュアンスに頼る文学的な戯曲からサイレント映画を撮ったことにあるというものであった。クラカウアー自身もこの映画を失敗作とみなしたが、それを戯曲の抽象性に起因するものとし、「内容のない<雰囲気>にすぎない」映画であるとしている。
「パンドラの箱」はフランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」と「パンドラの箱」(ルル二部作)を原作としている。山口昌男によれば、ヴェーデキントがルルを生み出すにあたりその起源となったものとして、フェリシアン・シャンソールの一幕物のパントマイム「ルル」がある。これはアルルカンとコロンビーヌ(ルル)、そしてピエロ(哲学者)というイタリア喜劇仕立ての三角関係劇で、ここにはコロンビーヌ=踊り子=永遠の誘惑者としての原型が示されているという。また、「パンドラの箱」というタイトルが示すように、ルルは神々が創った最初の女性であり、災いをもたらすべく人間界に送り込まれたパンドーラーでもある。開けることを許されていなかった箱を好奇心から開けてしまったために、あらゆる災厄を撒き散らしたパンドーラーが女性の起源であるとギリシャ神話は伝える。
ピエロ(哲学者)を誘惑し翻弄するコロンビーヌ(ルル)、そして女性の起源であるパンドーラー。これらはニーチェの「善悪の彼岸」序言にある冒頭の一節へと我々を導く。
「真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らがこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ。――そこであらゆる種類の独断は、今日では悄然として意気阻喪した恰好で立ちつくしている。それがなお立っているとすればだ!」
ニーチェの女性についての問いを受けて、デリダは「尖鋭筆鋒の問題」のなかで次のように語っている。
「女性というものは、引き離すものであり、自分自身からおのれを引き離すもので、女性の本質は存在しないのです。女性は、あらゆる本質性、あらゆる同一性、あらゆる固有性を、終わりなく、底無しに、呑み込み、底から投げ出します。ここでは哲学的な言述(ディスクール)は、盲目になって、沈没する――破滅へと投げ入れられるがままになる――のです。女性の真理というものは存在しないのですが、しかし、それは、このような真理からの深淵的な引き離し、このような非-真理が≪真理≫なのだからなのです。女性とは、このような真理の非-真理の名称であります」
だからこそ、ニーチェは同じく「善悪の彼岸」のなかで「女性が学者的(科学者的)になろうとすることは、最悪の趣味に属するのではあるまいか」と書いた。これと同様のことをヴェーデキントも作中の台詞として書いた。「恋によって生活の資金を手に入れる女性は、フェリエトンや書物すら書くまでに己を卑しめてしまった女性よりも、私にとってずっとずっと尊敬に値する」と。
ヴェーデキントが劇作家として活動していた19世紀末のドイツでは、終末観ではなく、むしろ新生への期待が支配していた。文学者たちは伝統と断絶し、未来への意欲を示し、現実の社会問題へと取り組んだ。ヴェーデキントはその劇作において、一貫して抑圧された性と社会的制度の関係を暴くことに取り組んだ。このような彼の活動は当然のように司法との闘争を余儀なくされたが、現在では表現主義から戦後演劇へとつながる現代演劇の先駆者としての評価を得ている。
しかし、「性の解放者」としてブルジョワ社会のモラルを攻撃したヴェーデキントに対し、トロツキーは彼のボヘミアン的な性向や虚無主義や懐疑主義、唯美主義の限界を指摘した。トロツキーのヴェーデキント批判は当時のロシア・インテリゲンチャを攻撃するためのものであるにせよ、手厳しいものであった。
「成上り物、抜け駆けの昇進者、あるいは失敗者である彼らは、社会的伝統や確乎とした社会的愛着の対象を失っている。「現在の秩序」に対する彼らの蔑むような渋面と無政府主義的美辞麗句は、あとからあとからと続いて、決してとどまることがないだろう。しかし、これ以上は事態が進むことはない。「現在の秩序」は彼らがこの秩序を軽蔑しているときに、彼らを寛大に眺めていて、その後で自分の目的のために平然と彼らを利用するためである。用意が足りないと分った者は、打ちのめされ、もっともよい場合でも、新聞の苦力、舞踏会のピアニスト、広告文案作者として辛うじて存在を保つことが許されるだけである」
「社会的ニヒリズムは、彼らすべてに自分自身を中心軸として休みなく回転するようにさせる。口では傲慢な侮蔑の言葉を吐きながら、彼らは、死の恐怖と性の本能に動かされて盲の仔猫のように哀れに隅から隅へと駆けまわる」
「否定、しばしば容赦しないものではあるが、いつも社会的結論にいたると手を引いてしまう風刺、これこそ彼らの呼吸している空気である」
「ヴェデキントの不安定な唯美主義、それは彼の前に未来の小さい一角を開示するが、非力な彼は公園の門の傍に置きざりにされるのである。融通無碍のフォルムを好むだけでは、世界はひっくりかえせない」
トロツキーはヴェーデキントの創作の発展段階を性の三段階としてとらえる。最初は「春のめざめ」に示された性の衝動に対するおずおずとしたおののき、青春の甘い香りに誘われたおののきであり、二番目は「地霊」に示された性の無限の王国である。そして最後の段階は「パンドラの箱」に示された剥き出しになった性がなりふりかまわず通りすがりの者の服をつかみ、徹底的に自己を消耗し尽くし、新しい道を開拓しようとしてナイフを女性の肉体に突き刺す、というもの。ここにおいて唯美主義的なエロティシズムは破綻し、挙句の果てにヴェーデキントは「弁神論」に示されたように、生活の意義を神に求めるようになる。トロツキーはここに大胆な否定者が臆病な神秘主義者になってしまう矛盾を指摘する。
それではヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」はどのような物語であるのか。トロツキーの要約をそのまま引用する。
「今や登場するのは、罪なほど美しいルルゥである。蛇のようにしなやかで、その動きの一つ一つで多感に打ち震え、どの衣裳をつけたときにも露出してしまう股で物事を考え、悲哀も、疑いも、良心の呵責も知らない彼女は、性のように不可抗力的存在だ。彼女は、性の体現として世間にお目見えしている。彼女は地の悪霊だ。周囲に鉄屑をばらまいたなかに置かれた磁石が受動的であるように、ルルゥは受動的で、自分のまわりに邪悪な情熱をまき散らし、老人や若者たちにどうしても抑えることのできない性の無分別を伝染させ、心身ともに打ちくだかれた存在と死体を、自己の勝利の道標とする。彼女の最初の夫は、彼女が愛人の画家と一緒にいるところに出くわして、卒中を起こして死ぬ。画家は彼女の夫になるが、ルルゥの以前の情夫、編集者のシェーンの登場を悟ると、きれいに剃り上げた喉を切って自殺する。シェーンは、今度は自分の番になって、サーカスの力持ちや高校生や彼自身の息子の文士などの仲間に入っている妻を見つける。ルルゥはピストルで自分の夫を傷つける。誰も、いかなることも、この美しく、狡賢い女を抑えることができない。だから、無力感にとらわれたヴェデキントは、彼女を警察の手に引き渡すのだ。ところが、警察も地霊をうまく扱うことができない。ルルゥは、自分の予定したことを最後まで果たすべく脱獄する。今や彼女は、パンドラの箱に入って再びわれわれの前に現われる。彼女は三度目の夫の息子である文士アリヴァ・シェーンを囚にして、彼と一緒にパリにひそみ、賭博師、高級淫売婦、銀行家、探偵に囲まれて暮らしている。シェーンの財産は、ルルゥの邪悪な魅力の衰えよりもずっと急速に尽きて行く。彼女は、ロンドンに逃げ、屋根裏部屋に住んで、街角で春をひさぐ。彼女のところにはアリヴァ・シェーンが暮らしているが、彼はなかば腐り果て、彼女の過去を物語る破片となってしまっている。結局ルルゥは解剖師ジェーク(※切り裂きジャックのこと)を自分のところに連れ込んで、彼の刃にかかって死ぬ。疲れを知らぬ性の奉仕者ルルゥは、血にまみれた歓喜の祭壇の上で破滅するのだ」
この物語を山口昌男は祝祭的宇宙感覚を下敷きにして読み直す。ルルを文化に対する自然としての無方向の活力の表現とし、根源的無垢と制度に対する攻撃性の化身、つまりは道化の精神をそこに見出す。
「ルルは、祝祭的であることによって過剰の生であり、過剰の生であることはとりもなおさず、市民社会の周縁に身を置くことによって、この社会を挑発し、活性化し、いらだたせることによって、惹起させるルサンチマンをひきつけ、社会の情念のバランスシートを保たしめるためのスケープゴートとして殺害されなければならないという主人公「聖なる怪物」についての演劇である」
ルルを殺害したのは切り裂きジャックであった。19世紀末ヴィクトリア朝時代のロンドンはウエスト・エンドとイースト・エンドという地理的二重性を持ち、フーコーが指摘するところの偽善的な性道徳による抑圧とその一方で知と結託した権力が推し進めた性の言説化という二重性を持っていた。ゴシック小説や大衆演劇には人殺しの主題にあふれていた。新聞は犯罪を扇情的に報道し、公開処刑や裁判は大衆の見世物であった。そうした背景において、五人の娼婦を殺害した切り裂きジャックの猟奇的事件は起こった。この事件のあと、ロンドンに滞在していたヴェーデキントは、この事件を抑圧された性的欲望による犯罪と感じ、早速自作に取り入れることにした。高山宏によれば、ジャックが切り裂いたのは、犯罪を病理として治療することができるとするホームズ的な推理小説に仮託されたブルジョワ的な安定した社会観ということになるのだが、ヴェーデキントはジャックをシェーンの分身とした。シェーンは殺人者になることを恐れ、ルルに自殺を強要し果たせなかったが、そのかわり、ジャックがルルを殺害するという役割を担ったのであった。それはニーチェ=デリダが周到に回避したところの、「短剣であり、匕首でさえあるstyleの助けを借りて、哲学が原質(マチエール)なり原基(マトリス)の名のもとに訴えかけるものを残酷に攻撃して、そこに刻印を打ち込み、そこに跡形なり、形象なりを残す」ことによって、ルルという「聖なる怪物」を克服し、ルルによって脅かされた男性性を回復させることにつながってしまう。
パプストによる映画化は原作とはかなりの違いがある。大きな違いを挙げれば、ルルは刑務所に入る前に裁判所での火事騒ぎに乗じて逃亡したこと、そしてアルヴァとともにパリに身を隠すのではなく、港に停泊している船に隠れていたこと(事態をなしくずしにするため騒ぎを起こし、その混乱に乗じてその場から逃げ出す手口はシゴルヒの常套手段であろう)、さらに映画でのルルは最後まで売春はしなかったということにある。確かに客引きのために街へ出て、ジャックと出会ったのではあったが、金のないジャックに、それでもかまわないと部屋に招き、二人はそこでほんのつかのまではあるにせよ、心を通わせたのである。もう一つの違いは、原作では殺されてしまうアルヴァが、ルルを淫売婦にしてしまったことや今までの生活を悔い、涙を流しながら救世軍の行進についていくという結末である。ニーチェによれば「宗教的神経症の最後の伝染病的な爆発と行進」であり、ブレヒトによれば偽善の象徴である救世軍の突然の登場は、トロツキーが指摘したところの肉のアナーキズムの成れの果て、「孤独な無力、臆病、精神の貧困のもたらした哀哭、みじめな、取るに足らぬ、恥ずべき結末」といえようか。
→F.ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」(岩波文庫)
→S.クラカウアー「カリガリからヒトラーへ」(みすず書房)
→F.ニーチェ「善悪の彼岸」(岩波文庫)
→「ニーチェは今日?」(ちくま学芸文庫)
→M.フーコー「知への意志」(新潮社)
→L.トロツキー「文学と革命2」(現代思潮社)
→呉茂一「ギリシャ神話」(新潮文庫)
→山口昌男「道化の宇宙」(講談社文庫)
→高山宏「殺す・集める・読む」(創元ライブラリー)
→藤本淳雄・岩村行雄他「ドイツ文学史」(東京大学出版会)