村田沙耶香さんの朝日新聞への投稿記事(「気持ちよさという罪」)を読んで
村田さんの子ども時代や、その後の友人との関係などが
あまりに自分と共通だったのに驚き、何か一冊読んでみよう・・・と
芥川賞受賞作「コンビニ人間」(2016)を図書館で借りました。
主人公の感覚はよくわかる(と思いました)。
コンビニがある現在だから「コンビニ人間」だけれど
無い時代を選んでも書ける小説かもしれない・・・とも。
少なくとも、この主人公の感覚は
いつの時代にもあるもののような気が
私はしたので。
でも、もしかしたら「時代性」と絡めて
「分析」される場合が多いような
そんな作品かもしれないとも。
文芸作品を読むのはごく稀な私としては
受賞当時、どういう批評をされたのかも全く知らないので
個人的に想像するだけですが。
それより、私にとって読んだことに意味があったのは
「書く」ことを、初めて本気で(多分)考えさせてくれたことです。
自分の書くモノ(ブログ記事)は、ある種の「砂糖菓子」だと
以前から自分で思っていました。
脚色というほどのことはせず、ただ
過去に自分が見聞きしたコトを、ほとんどそのまま
書いているだけなのですが・・・
10年後くらいに自分で読んだとき、
カッコつけてるなあ・・・とか
イヤなこと(わざわざ)文章化してるんだなあ・・・とか
はたまた、何言ってるのか自分でもヨーワカランとか
そういうことだけは避けたいと。
気をつけていたのはそれだけ。
なので、「創作」からは程遠い
(将来の自分のための)覚書のつもりでした。
「読む人」としては、何年後かの
「過去を忘れてしまった」自分しか想定していないので
文章が少しでも上手になりたいとか
ほんのちょっぴりでも洗練?されたいとか
全く考えたことがなく、実際「進歩」がないまま
今に至っています。
でも・・・
村田沙耶香さんを読み出すとまもなく
記憶の倉庫のどこやらから
「思い出したくない」ことが、バラバラいくつも現れて
最初は愕然! その後は・・・ただただ呆れました。
「書くつもりがなかった」コトどもは
埋もれたままで時が過ぎていただけ。
消えてしまった訳じゃなかったんだと。
愚かな私は、「砂糖菓子」だけを記憶に定着させるつもりで
耳ざわりがいいことだけ書いてた・・・
だから「書くと元気になる」って「経験的に」気づいてた。
「書く」ことは時間もエネルギーも要する
なかなか思うに任せないコト。
それでも「気持ちよかった」んですね、書くことは。
「砂糖菓子」の甘さが、ちっぽけな自尊心に
美味、快感、心地よさを与えてくれる。
怖がりで依存症体質の自分が
そこに浸りたかった気持ちはワカル。
書いてる間は全然わからなかったけど。
人の記憶というのは(私ほど空っぽのアタマでも)
「亡くなった人の名誉を傷つけない」
「見たくないモノを見せられずに済む」・・・つまり
「自分にとって都合がいいものだけ残す」なあんて
自分で「操作」できるようなものじゃなかった。
この「もうひとつの部屋」の「ねねの日記」はもちろん
「眺めのいい部屋」の家族や身内、知人の風景も
ぜ~んぶフィクションだったのです。(ダラダラ日記ブログさえ)
気づいてなかった・・・(ほんとに?)
「あったこと、聞いたことを、そのまま書いただけ」
な~んて思ってた自分は
な~んて「カッコつけて」たんでしょ。
「砂糖菓子」は「創作」なんぞというほど
高尚なもんじゃあもちろんないけど
それでも「虚構」ではあったのです(当ったり前じゃないのォ)
その後、「地球星人」(2018)を読んだときには
もう「思い出したくない」コトばかりが
波のように次々押し寄せて・・・ほとんど茫然。
そんなにまで、私には
「忘れたい!」ことがあったのか。
その記憶はどうするつもりだったのか
書いた当時の自分に聞いてみたい。
(「考えてなかったの。ソンナコトまで」って
きっと言うな~ 薄っぺらなアホやから)
という訳で、「書く」ということについて
もう少し真剣に考えないとイケナイ・・・なんて
(65歳にして漸く)考える機会を与えられたような気が・・・
(って、ウソでしょ? またカッコつけて。
ま、でもショックだったのはホントかも。
胸騒ぎばっかり忙しくて、まだアタマの方は全然働いてないけど)
「今更思い出さない方がいいのに」って声は
ちゃんと聞こえる。
その方がまだしもカシコイのかも・・・と思うのは
現実に65歳である私でしょう。
でも・・・
「砂糖菓子はさんざん作ったやないの。
砂のお城よりヤワやったけど、ま仕方ない。
それでも結構長持ちした方」
「アンタ甘党でもないくせに・・・飽きてきたんちゃう?
さっさと次探しにいった方がマシよォ~」
などなど、コドモとも何ともつかない
(でも絶対オトナじゃない)私の声も
矯正メッキが剥げた今じゃあ、無視できない。
「次」を探す道の歩きにくさも
さすがに見えてるし・・・おまけに
「飽きっぽくて、低エネルギー」な自分。
歩きだして迷子になる前に
すでに迷いっぱなし。
「どーしよーかなー」
(でも、「好奇心はネコをもコロす」・・・なんだよね)
村田さんの子ども時代や、その後の友人との関係などが
あまりに自分と共通だったのに驚き、何か一冊読んでみよう・・・と
芥川賞受賞作「コンビニ人間」(2016)を図書館で借りました。
主人公の感覚はよくわかる(と思いました)。
コンビニがある現在だから「コンビニ人間」だけれど
無い時代を選んでも書ける小説かもしれない・・・とも。
少なくとも、この主人公の感覚は
いつの時代にもあるもののような気が
私はしたので。
でも、もしかしたら「時代性」と絡めて
「分析」される場合が多いような
そんな作品かもしれないとも。
文芸作品を読むのはごく稀な私としては
受賞当時、どういう批評をされたのかも全く知らないので
個人的に想像するだけですが。
それより、私にとって読んだことに意味があったのは
「書く」ことを、初めて本気で(多分)考えさせてくれたことです。
自分の書くモノ(ブログ記事)は、ある種の「砂糖菓子」だと
以前から自分で思っていました。
脚色というほどのことはせず、ただ
過去に自分が見聞きしたコトを、ほとんどそのまま
書いているだけなのですが・・・
10年後くらいに自分で読んだとき、
カッコつけてるなあ・・・とか
イヤなこと(わざわざ)文章化してるんだなあ・・・とか
はたまた、何言ってるのか自分でもヨーワカランとか
そういうことだけは避けたいと。
気をつけていたのはそれだけ。
なので、「創作」からは程遠い
(将来の自分のための)覚書のつもりでした。
「読む人」としては、何年後かの
「過去を忘れてしまった」自分しか想定していないので
文章が少しでも上手になりたいとか
ほんのちょっぴりでも洗練?されたいとか
全く考えたことがなく、実際「進歩」がないまま
今に至っています。
でも・・・
村田沙耶香さんを読み出すとまもなく
記憶の倉庫のどこやらから
「思い出したくない」ことが、バラバラいくつも現れて
最初は愕然! その後は・・・ただただ呆れました。
「書くつもりがなかった」コトどもは
埋もれたままで時が過ぎていただけ。
消えてしまった訳じゃなかったんだと。
愚かな私は、「砂糖菓子」だけを記憶に定着させるつもりで
耳ざわりがいいことだけ書いてた・・・
だから「書くと元気になる」って「経験的に」気づいてた。
「書く」ことは時間もエネルギーも要する
なかなか思うに任せないコト。
それでも「気持ちよかった」んですね、書くことは。
「砂糖菓子」の甘さが、ちっぽけな自尊心に
美味、快感、心地よさを与えてくれる。
怖がりで依存症体質の自分が
そこに浸りたかった気持ちはワカル。
書いてる間は全然わからなかったけど。
人の記憶というのは(私ほど空っぽのアタマでも)
「亡くなった人の名誉を傷つけない」
「見たくないモノを見せられずに済む」・・・つまり
「自分にとって都合がいいものだけ残す」なあんて
自分で「操作」できるようなものじゃなかった。
この「もうひとつの部屋」の「ねねの日記」はもちろん
「眺めのいい部屋」の家族や身内、知人の風景も
ぜ~んぶフィクションだったのです。(ダラダラ日記ブログさえ)
気づいてなかった・・・(ほんとに?)
「あったこと、聞いたことを、そのまま書いただけ」
な~んて思ってた自分は
な~んて「カッコつけて」たんでしょ。
「砂糖菓子」は「創作」なんぞというほど
高尚なもんじゃあもちろんないけど
それでも「虚構」ではあったのです(当ったり前じゃないのォ)
その後、「地球星人」(2018)を読んだときには
もう「思い出したくない」コトばかりが
波のように次々押し寄せて・・・ほとんど茫然。
そんなにまで、私には
「忘れたい!」ことがあったのか。
その記憶はどうするつもりだったのか
書いた当時の自分に聞いてみたい。
(「考えてなかったの。ソンナコトまで」って
きっと言うな~ 薄っぺらなアホやから)
という訳で、「書く」ということについて
もう少し真剣に考えないとイケナイ・・・なんて
(65歳にして漸く)考える機会を与えられたような気が・・・
(って、ウソでしょ? またカッコつけて。
ま、でもショックだったのはホントかも。
胸騒ぎばっかり忙しくて、まだアタマの方は全然働いてないけど)
「今更思い出さない方がいいのに」って声は
ちゃんと聞こえる。
その方がまだしもカシコイのかも・・・と思うのは
現実に65歳である私でしょう。
でも・・・
「砂糖菓子はさんざん作ったやないの。
砂のお城よりヤワやったけど、ま仕方ない。
それでも結構長持ちした方」
「アンタ甘党でもないくせに・・・飽きてきたんちゃう?
さっさと次探しにいった方がマシよォ~」
などなど、コドモとも何ともつかない
(でも絶対オトナじゃない)私の声も
矯正メッキが剥げた今じゃあ、無視できない。
「次」を探す道の歩きにくさも
さすがに見えてるし・・・おまけに
「飽きっぽくて、低エネルギー」な自分。
歩きだして迷子になる前に
すでに迷いっぱなし。
「どーしよーかなー」
(でも、「好奇心はネコをもコロす」・・・なんだよね)
いつもいつも応援ありがとうございます。
歳をとりすぎて、めっきり目が弱くなってしまいました。
長いこと、本も、新聞も、読んでいません。
この次には、また、おじゃまさせていただいて、
コメントさせていただきます。
「いいね」をつい押してしまうのですが
コメントを頂いて、いつも恐縮しております。
私のこのブログは大抵は「ひとりごと」なので
どうぞご心配なさらないで下さい。
どうもありがとうございました(^^)
昨日今日と、寒かったですが、次第に春がすぐそこまで来ているのが、わかりますね。
今日も、応援ありがとうございました。
励みになります。
もうしばらく、春の土手の様子や、近所の花達を、アップさせていただきますが、また、男の料理を、ご披露宴致しますので、お立ち寄りください。
寒いけれど、それでも「春」ですね。
ソメイヨシノ以外の桜を、あちこちで見かけます。
mcnjさんの風景や花のお写真は
見てると心がのびやかになります。
もちろん、キムチなどの「男の料理」も
楽しみにしています(^^)
今日も、良い天気で、暖かくなりました。
桜の開花も、一層進みそうです。
土手のはなたちも、春爛漫を、謳歌しております。
またアップしますね。
最近とても人気のある花だと聞いていますが、納得です。
陰影のある風情の花で素敵ですね(^^)
こちらもさまざまな春の花が咲いていますが
桜は遅くなりそうです。
いつも、お出で頂きましてありがとうございます。
暖かくなりまして、こちらの土手も、賑やかになって来ました。
散歩していても、楽しくなります。
良い天気が続いていましたが、明日あたりから、
崩れるようですね。
しばらくぶりのお湿りが、ありがたいです。
ワンちゃんのゴロンゴロンも楽しそう(^^)
こちらも数日、いい天気が続きましたが
そろそろ雨?という空模様になってきました。
ソメイヨシノは、今年はとても遅れていて
近所では一分咲きにも満たないくらいです。
長いこと楽しめると思って、ノンビリ待っています(^^)
今日は、終日雨降りでした。
うっとうしいですが、畑や、土手には、ありがたいお湿りになりました。
こちらのソメイヨシノも、まだ、ほころんでいません。
堅そうな蕾ばかりです。
とおっしゃるの、本当ですね…
今朝は雨上がりの近所を歩いてみました。
木々の緑が生き返ったようで、雨も大事だな…と
久しぶりに思いました(^^)