(監督・共同脚本:ヴィム・ヴェンダース 2023 日本)
2023年の最後に観た映画。
ヴェンダース監督の作品はなんとなく好きで、機会があると観てきたけれど、この映画はこれまでで一番「心地よく」観た気がする。
たぶんそのせいもあって?観終わった後残ったのは、なんだか「贅を凝らした上質のプロモーション・ビデオ」をのんびり見せてもらったような気分だった。(けなしてるのではなく褒めてるつもり)
帰宅してから調べてみたら、この映画は元々渋谷のトイレについてのプロジェクトから来ていて、TOTOがバックアップ。ユニクロ創業者(じゃなかったっけ)も関わっている?とか。何も知らないで観た者がPVのようだと感じたのも、無理なかったのかしら…なんて、ちょっと思った(もちろん勝手な思い込みだ)
とにかく、美しい「絵」と音楽。「映像詩」を見ているような気がした。
そしてそこで動いているのは、役所広司という「鑑賞」に堪える俳優さん。この人の身ごなしの軽快さ(トイレ掃除をしていてもサマになって見える)。清掃の制服でも、何気ない普段着でも、はたまた銭湯で髪を洗っていてさえ、きれいに見える俳優さんってすごいな~と。(これまで役所広司をそういう目で見たことがなかったのでビックリした)
映画の終盤、主人公の平山(役所さん)が、それまで全く説明されなかった「過去」に出くわす場面がある。彼がなぜこういう生活を送るようになったのか、この暮らしをパーフェクトな幸せと感じているのかを、観る者に想像させるエピソードだけれど、そこでさえ詳しい事情は語られない。
そしてラスト。いつものように仕事場に向かう平山の顔が、カセットでかけた「Feeling Good」という歌に重なる。平山は笑顔にも泣き顔にも見えるような表情を浮かべ、歌の間中ずっと、そんな役所広司の顔が大写しになる。
わたしは、主人公平山が自分のために作り上げた「限られた世界」の意味を、自分なりにわかる所がある。私自身、世間から出来る限り距離を置く方向へ、舵を切ってきた種類の人生だったと思うからだ。
映画の中では、平穏で相変わらずの毎日のように見えて、大小さまざまな「さざ波」が寄せる日もある。平山はそのときの心のざわめき(ショックというか)を鎮めるのに、それなりに時間のかかる人に見える。朝、玄関を出て「幸せそうな笑顔」になるために、彼も努力を要するときがあるのだ。
そういう「心の平安」を保つために、「世界はいくつもあって、自分とは違う世界の人と同じ世界に住むことはない」と、彼は姪に言ったのだと思う。今の平山の年齢になっても、自分の「人間としての生存」を脅かしかねない人には会いたくないという気持ちは、わたしにも理解できる気がした。そういう風にして保つ「平安」「笑顔」のすぐ後ろにあるかもしれない、後悔?自責の念?悔しさ?歯痒さ?といったものも。
この映画が「公共トイレの清掃」を扱っていながら(というかそれゆえに)徹頭徹尾「きれいごと」で通しているせいで、わたしはこんな個人的な感慨を持ったのだと思う。「こんなきれいごとの筈がない」なんていうのは野暮なコト。そんな風に押し切られた気がする映画でもあった。
それでも、以前『ノマドランド』を観たときほど直接的な疑問を感じなかったのは、「映像詩」だったからかもしれない。「映画」だからこそ「リアル」を追求しなくてもいい方法が、当然あるんだな… そんなことも思った。
自分を投影させてる部分があると
わたしも思いました。
お茶屋さんは「仙人が理想」って
明るく言っておられたのがいいなあ。
わたしはなろうと思ったわけでもないのに
いつのまにか「隠者」生活になりましたが。
>まあ、今となっては、それも良しですよね
そう思うことにしたいです(^^)