むじな@金沢よろず批評ブログ

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ローマ教皇の軽率な発言、中東のキリスト者の立場を無視

2006-09-20 03:50:48 | 世界の政治・社会情勢
ローマ教皇ベネディクトゥス16世が12日、ドイツ南部で行った神学講義で、イスラーム教を「邪悪で残酷」と表現した中世ビザンチン帝国皇帝の発言を引用したことで、イスラーム世界の憤激を招いている。教皇庁は釈明したが、教皇自身による謝罪を要求する声が広がり、17日教皇自身が「謝罪」した。

しかし、末尾に引用した教皇の元発言の内容を読めばわかるが、どうみても教皇はイスラームのジハードの概念をちゃんと理解せずに、西欧人の伝統的な偏見に立ってそれを「理性」の立場で批判するという傲慢な立場を開陳しているとしか思えない。これはまさに「他宗教への批判」であり、「宗教間の真の対話」が可能になるどころか、イスラームへの偏見と憎悪を煽っているようなものである。ところが、「謝罪声明」でも、「引用に過ぎない」といっている。これでは単なる醜い開き直りであって、真の釈明や謝罪になっていない。数ある歴史的文献からわざわざその部分を引用した以上、イスラームへの偏見を煽ろうとした意図は明らかではないのか。ベネディクトゥス16世は全面的かつ誠意ある謝罪を行うべきである。

私自身もキリスト者であるが、宗教的真理を追求するものとして、過去キリスト教がイスラーム教との関係で行ってきた過ちを強く反省すべきだと考えている。
この教皇の発言は二ケーア公会議以来続いた本質的でない神学論争と東方教会との喧嘩別れ、十字軍、魔女狩り、異端審問にいたるカトリック教会が行ってきた罪深い歴史に対する省察を欠いた、あまりにも軽率な十字軍的な発言である。

先代の教皇ヨハネス・パウルス2世は、カトリックの教義そのものは保守的で、解放の神学派の抑圧を進めた一方で、異なる宗派や宗教との対話、平和の価値は大切にし、イスラームを攻撃した十字軍については公式に謝罪し、ギリシャ正教会や東方教会との分裂の修復に努めるなどして、イスラームなど他の宗派・宗教の人々からも敬愛を受けていた。だから、先代教皇の薨去の際には、イスラームの各宗派からも弔意が伝えられ、世界の要人葬儀の歴史としても最大規模の弔問団が各国から訪れた(台湾も国交を維持していることから、陳水扁総統が参列した)。
また、今年初めのムハンマド戯画騒動の際にも、フランスなどのカトリック教会は戯画掲載を信仰への冒涜として非難する立場を明らかにしたこともある。
今回のベネディクトゥス16世の発言は、ヨハネス・パウルス2世や各地カトリック教会の血のにじむような努力を水泡に帰しかねない軽率な暴言である。

そもそもベネディクトゥス16世は、台湾・中国との関係では、カトリック教会を弾圧している中国との国交回復にきわめて積極的で、台湾を切り捨てようともしている。この点でもヨハネス・パウルス2世が人権問題を理由に中国との国交回復には慎重で、ソ連東欧の民主化を進めたこととは対照的ですらある。ベネディクトゥス16世は青年時代に不承不承だったかもしれないが、ナチス青年隊に属したこともある。そのときの独裁賛美の頭がいまだに頭にこびりついているのかも知れない。いずれにしても、ベネディクトゥス16世は先代に比べて、あまりにも質が低いといわざるを得ない。

それから、今回のイスラームとの関係でいうならば、表題にも掲げたように、イスラームが主流の中東地域は、そもそもキリスト教の発祥の地であり、そこにはいまだに多くの宗派と信者が存在しているという現実を忘れてはならない。
中東のキリスト者はイスラームの波の中で、イスラームとの共存共栄を実践してきた。
特にレバノンではマロン派が人口の2割、その他のキリスト宗派を合わせれば35%以上とかなりの割合を占めている。マロン派は典礼はシリア正教など初期キリスト教の要素を保ちながら、ローマカトリックに帰依し、教皇の権威と教義を奉じる一派である。
また、エジプトにはローマカトリックには属せず独自の教団組織と教義を持つが、信者数ではマロン派を上回るコプト教徒がいる。パレスチナにもキリスト者は多い。
そうした中東のキリスト者が、今回の教皇の不用意な発言のせいで、隣人であるムスリムから不必要な疑念を受ける羽目になっているのだ。
参照:Pope remarks worry Christians in Mideast(http://news.yahoo.com/s/ap/20060918/ap_on_re_mi_ea/muslims_pope_3 By ANNA JOHNSON, Associated Press Writer Mon Sep 18, 7:14 AM)

イスラーム教側は、日頃キリスト教の教義や教徒の存在に対して敵意や排斥行動を見せることはない。私が中東に行って、シーア派やスンナ派の人たちと知り合いになって、私がキリスト者であることを明らかにしても彼らはそれを尊重する。
そもそもイスラーム教の伝統的な教義や発想では、キリスト教も同じセム一神教で、同様な教義と経典を奉じる兄弟だという意識がある。だから、イスラーム教徒は普段はキリスト教徒への反感や敵意など見せることは無い。

そうであれば、わざわざ他の宗教の側からわざわざ相手を貶めたり、挑発したりする必要はない。

ところが、キリスト教原理主義者のブッシュや今回の教皇のように、キリスト教徒側が挑発的な発言をしたら、当然イスラーム側の憤激を買うことになり、そのとばっちりは、中東のキリスト教徒にも降りかかってくることになる。
実際、十字軍を見ても、近代以降西欧による中東侵略を見ても、キリスト教側の横暴さや加害のほうが目立つ。まして、西欧帝国主義侵略と分割の最初のターゲットになったのが中東であることを考えれば、キリスト教陣営はイスラーム教に対してもっと謙虚かつ細心の気遣いを行う義務がある。
そもそもキリスト教の教義の根幹は博愛である。まして起源を同じくするイスラームへの偏見や憎悪を煽るのはもってのほかであろう。そういう意味では、私にはブッシュやベネディクトゥス16世こそが、イエスを誘惑したサタンと同種の反キリスト者に見えて仕方がない。


産経新聞より(教皇の呼称は法王のママ、ローマ教皇庁の公式の日本語呼称は教皇であって、仏教用語の法王ではない、こうした日本の新聞用語も当事者の希望を認めない一種の傲慢な態度だといえる):

■ローマ法王(ママ)が神学講義で語った問題の部分(抜粋):
 私は以前、ビザンチン帝国のマヌエル2世パレオロゴス皇帝とペルシャ人が1391年に交わした対話に関する書籍を読んだ。皇帝は対話の中でジハード(聖戦)について言及した。宗教と暴力の関係について皇帝が語った内容はこうだ。「ムハンマドが新しくもたらしたものを私に見せよ。邪悪と残酷さであり、彼が教えた信条を剣で広めたということだ」
 皇帝はこう述べた後、なぜ暴力を通じて信条を広めることが非理性的であるかを説明した。暴力は神の本質に反するものである。皇帝はこうも語った。「神は血を喜ばないし、非理性的な行動は神の本質に反する。誰かに信条を伝えようとする者は暴力や脅威を使わずに、的確に理を説かなければならない。理を説くには武器は必要ない」
 書籍の編集者はこう語った。「ギリシャ哲学の素養がある皇帝は、理性に基づかずに行動することを神の本質に反すると知っている。だがイスラムの教えでは、神は絶対的に超越した存在だ。その意思はわれわれが理解できるものではない」
 今回の講義は(他宗教への)批判ではない。理性という概念を考えるためのものだ。そうすることで今、必要とされている宗教間の真の対話をすることが可能になる。

■ローマ法王庁(ママ)の釈明の要旨:
 宗教間の対話を好むという法王(ママ)の立場は明確だ。法王は昨年のイスラム教代表との会合で、キリスト教徒とイスラム教徒の対話は軽んじることはできないと断言している。
 レーゲンスブルク大学で引用したビザンチン帝国皇帝の発言は法王の意見ではない。法王は一般的な宗教と暴力の関係を学術的な文脈で使用したまでだ。ただ、暴力のために宗教を動機とすることは拒絶する。
 (法王は)発言がイスラム教徒を攻撃するかのように聞こえたことを非常に遺憾に思っている。神への侮辱と、神聖なものを軽視することを自由の行使だとする風潮を排除するよう西洋文化に警鐘を鳴らすことが法王の務めだと思う。


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