ベトナムに初めて来たのは「おそらくだが25年以上前だった」
そのころ勤務していた「世界一のプレス金型メーカ」で「SOLID設計を活用する」という使命を託され
とても足らない「社内設計キャパ」を「韓国の外注と共に補完しながら頑張っていた時だった」
韓国で「同じCADのベンダーが設計を行い、その流れであの頃には珍しいベトナムにこの韓国会社は設計事務所を作った」
(韓国と言う国は日本に比べ昔から業務にアグレッシブだった、少し内容はずさんだが? この積極性には感心する)
そのハノイの事務所の開所式に「上司と共に招かれたのだ」、夜便でノイバイ空港に降り立ったが「暗く、埃っぽく」
自分をこの会社で育ててくれた「商社育ちの上司Kは、完全にこの雰囲気にやられてしまい、
帰国まで食べるものはピーナッツだけしかない」(パクチーや変なベトナム韓国料理ばかりを食べさせられ)と言って
ベトナムに対して「強烈な負の感覚」を持ってしまった。その後しばらくは「この韓国会社」との付き合いも有り
時々「ベトナムには来ていた」しかし「この上司は、今後ベトナムに来ることはなく、全ては自分に任された」(任してくれた)
「案の定この韓国会社も思い付きの進出は失敗し会社はあえなく倒産した」
しかし「そこの韓国社長はベトナムが気に入り、その後も単身ベトナムに残り今も会社をやっているらしい」
彼には「金型メーカ時代、そしてCADメーカに移ってからも仕事をやって頂いた」既に50歳を過ぎたと思うが
結婚もせず、ベトナムに自分よりも長く住んでいる。(ベトナム人彼女がいるといううわさは聞いたが?結婚はしていない)
自分のベトナムの創成期には「この韓国人B氏に大変お世話になった」韓国人にしては人が良く穏やかな性格だった、今はどうしているのだろう?
そしてその後、23年勤めたこの金型メーカを辞し「自分を評価して頂き、ヘッドハンティングしてくれたそのころの
CADメーカの社長にはよくして頂いた。(金型メーカでの実績を見ていてくださり、内紛著しい金型メーカを辞するころだと
諭していただいたのもこのY社長である)
当初の社長と自分の構想であった「自社CADを使ったデータセンター造り」に向かって進んでいたが「この社長は同じグループ会社に栄転になり」
その後に来た「社長とは意見が合わずこの会社も7年で去ることになる」 思いは遂げられなかったが「このY社長には大変お世話になった」
そして「その会社でのデータセンター構想」を「個人でやると決心し、ここからいばらの道がスタートした」
(考えてみれば、個人で見知らぬ海外で起業しようなど、とんでもない無茶な事だったのは今になってわかる)
それが13年前である。そこからは「日本人とのかかわりは少なく、現在の社員たちとの関係が多くなる」
全く日本語も含め「金型のことなど知らないベトナム人」に「先進的な日本の金型づくりの先進的なCAD/CAM技術を、お金を稼げるレベルまで
教えられるのか?」不安だらけのに日が続いた。お金も底をつき、唯一の財産として持っていた「CADメーカーの株を売りながら社員の給与
を払っていた。」このころ「現在の会社を支えている一期生を含め、会社立ち上げ時の社員のほとんどを提供して頂いた
「ベトナムの教育界では有名なM学長」この人がいなければ「自分はベトナムで仕事はできなかっただろうと思う」
いかに「日本語と実務をバランスよく教育できるか?」お金の無かった個人会社は「会社に入ってからの教育」など
経済的に出来るはずもなかった。いかに「この専門学校にいる間に、入社したら即お金を稼げる人材を育てられるか?
一緒になって「考え、実行したおかげで、今の会社があるのだ」このM学長には「本当にお世話になった」 申し訳ないのは
「これらの事を全て無償で行って頂いたことである」 本当に感謝しきれない方である。
そして「会社設立から14年目」 この種の会社は「大手のベトナム支社は数あれど」個人で残っている会社は「数えるほどである」
過ぎてみれば「早かった気もする」それでも「大変だった時期は、永遠に長ったような気もする」(実際は必死で覚えていないが?)
この4-5年は「コロナから始まり日本の自動車業界の低迷」「最大の問題円安」で「本当に大変な時である」
(このころ人生で最大の困難、危機、ちょうどこのころ肺がんをも患い、コロナや円や明日の中でどうにもならない敵とも戦いながら
・・・不安や焦り、経済的にも一番大変な時期であり、今になって思えば「良く乗り切れた」と思っている)
そして会社規模にこだわりを捨てて、一番大きかった時の1/3に縮小して「最悪の状況」でも運営できる規模に「即決断」したのも「大きかった」
「調子のよい時は、もっともっと広げて会社を大きくしたい」欲求がもちろんあったが?
人生そんな甘い事ばかりではない。「谷の時、苦しい時」どうやってしのげる「会社にするのか?」身をもって学ばされた。
(自分の利点でもある、培った感覚ですぐに動くこと、そのキャラに救われた)
そしてこの苦しい時期に「ボーナスも無く、給与も上がらない中で」残ってくれたのは「14年前、一緒の会社を立ち上げた
「一期生とそれに準ずる社員たちだった」(20歳前後で入社した社員も既に30歳を過ぎ女性は全員結婚、全てに
子供を授かり、在宅で文句も言わず働いてくれている。中枢の社員はすでに自分が居なくても会社を動かしていけるスキル
を身に着けた。) 後はCADメーカに対しての「未払い金」を返せれば「きれいになれる」その時が「引き際かな?」となんとなく思っている。
さすがにそれでも「会社の運営上、1か月に1回、3日程度は「ハノイのこの場所に来る必要もある」そんなわけで
「ひどい大気汚染のハノイを離れ、所用の3日間以外は「空気がきれいで、相棒ミッと自然(海や草原)の中で暮らせる」
場所に引っ越そうと思っている。 (この14年間、よくここまで耐え忍び、年金が無くとも何とか家族を養い、日本とベトナムの
2重生活を養っていける会社を作り上げたせめてもの自分へのご褒美のような気がする)
それから「もう一つ感謝しなければならないのは」 会社関連ではなく、「病気の時はもちろん、ずっと一人暮らしである
自分を、いろんな意味でさせてくれた「現在のH氏と7歳友人家族」「その前に古くは友人からビジネスパートナーになり」
現在は「日本人と結婚したT氏」「そしてプライベートでもよく世話をしてくれた優しい社員たち」など
「彼らがいなかったら自分の健康やメンタル面も、もっと大変だったかもしれない」
13年が過ぎた今「つくづく感じるのは」自分の人生「いろんな場面でいろんな人に支えられてここまでこれたことだ」
普通のサラリーマンから「請われてCADメーカに、そして個人でベトナムで起業」そして何とかここまで
「ベトナムで頑張れたこと」は「いろんな場面で良い人々に会い、助けて頂いたこそだからである。」
(とても普通の人生とは程遠い、変化のありすぎたジェットコースターのような人生だったのかもしれないが?
これはこれで、自分らしい生き方だったのかもしれない。)
考えてみると「つくづく幸せな事」であったのかもしれない。
昨日「友人から連絡があり、1時間以上も久しぶり電話しながら、【お前のように生きれるのはごく少数】などという
コメントを頂いた、しかし海外に出るというのは「何のリレーションも無く、自分の世話から、生活から仕事まですべて責任を持ち
こなさなければならない、そんな生活である。はっきり言って大変な生活である。
それでも1度きりの人生、大変だが”それもなかなか面白かったのかもしれない”
・・・友人と話をしながら「そんなことを考えた」