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★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

個人で起業して「早14年目」普通にベトナムで「相棒ミッ(ポメプー犬)」と円安に苦しみながら、それでも何とか暮らしてます。

ベトナムハノイの「八方美人ベトナム」

2025-05-14 10:17:23 | ベトナム・ハノイ

 いつものように「相棒ミッ」と誰もいないオフィスに出社し一通りの作業をこなす。

「メールチェック等」をすまし、社会情勢(そんな大げさではないが?)為替、株価窓をチェック

「最後にベトナム国内のニュース」をチェックする。

以前もブログに上げたが「ベトナムと言う国は2千年中国に、その後がフランス、そして短い期間だが日本、

そして最後はアメリカ」に支配され続け1975年ようやくそれまで「東西陣営に翻弄された南北ベトナム」が統一され

「現在のベトナムになった」現在は世界に5か国しかない「社会主義の国である」

「自由独立の重要性をいやと言うほど味わってきたベトナム」は現在の外交に関して「そのトラウマが如実に表れている」

もう「どこの国とも自分から争う気はなく、どこの国とももめるつもりが無いのだ」

貿易に関しても「アメリカ、中国、ロシア、フランス・・・・」東西の区別なく「どことも行う」

そして「資本主義社会」とも付き合いながら「それらの国と対立する国々」(ロシア、中国、北朝鮮‥‥キューバ)

とも「分け隔てなく仲良くするのだ」さしずめ「日本がアメリカにしっぽを振っているのに、中国やロシア挙句の果てに

北朝鮮とも仲ようするようなものだ」それが出来てしまうのが「ベトナムである」

トランプが関税を46%もかければ「首相がすぐに赴き アメリカからの関税はゼロにする」と簡単に言ってしまう。

そして本日は、なんと「ベラルーシと戦略パートナーシップ」を結んだというのだ?

ベラルーシと言えば「ロシアとの結びつきが強く」ウクライナ戦争の影の当事者とも言われている。その国と

「戦略的パートナーシップ」を結んだというのだ(もちろん軍事的には触れられてないので企業間のそれに限っているのだろうが?)

それでも「ベトナムと言う国は間違いなく社会主義国である。しかしドイモイ政策依頼市場経済は資本主義に近い。

そして「社会主義でも資本主義でも近づいてくる国とは拒まづ国交や経済協力などを結ぶ」

 従って「ハノイの街中には北朝鮮大使館も有り、すぐ近くにアメリカ大使館も有る、そして北朝鮮レストランに行けば

喜び組もどきが「バンド演奏をし焼肉や北朝鮮冷麺も食べれる」方や「バーガーキングはそこかしこにあり」

「近くには丸亀うどん」が有ったりするのだ? 中華料理店に行けば「うるさい中国人グループが禁煙も守らず食事をし」

「その横で欧米人やベトナム人も中華料理を食べている」のだ、中越戦争以来、ベトナム人は「中国が大嫌い」なはずだが

中国に近い「ハロンベイ」では「中国元」が使えた。・・・・・ベトナムとは「そんな国なのである」

(これほど国の軋轢に影響されない状況がそろっている国は無いのだろうか?と思わせる状況なのだ?)

 見た目は「資本主義のようだが?」実は「がちがちの社会主義のところもある」 自分が2度アパートから追い出されたのは

「隣組よろしく、部屋の近くのベトナム人が、公安に「あそこには日本人(外国人)が住んでいる」と報告していた。

(面倒で外国人登録をしなかった大家のせいで、追い出されることになった、2回も) そして「賄賂天国」「権力天国」

何とか脱しようと「色んな改革を行ってはいるが?」日本と同じく「利権が絡んでいるところは改革は進まない」

 一見「節操なくどことも付き合うベトナム」の印象だが? その裏には「偏った国の運営をすると、どっかの国が怒って

2千年以前より「いろんな国に支配され続けた過去があるので、自分的には、何とかそれを避けたいという思惑が大きく影響しているような

気がする」今朝「ベトナムがベラルーシと戦略的パートナーシップを締結」と言うニュースを見ながら

「そんなことを考えた」

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ベトナムハノイの「久しぶりの普通の大気」

2025-05-13 13:16:54 | ベトナム・ハノイ

 再三このブログでも記している通り「ベトナムハノイ」の大気は「世界一汚い」

そんな町で暮らしていると「今日のような普通の大気状況」になると「なんとなく感覚で解るものなのだ」

今週のハノイはまずは「気温が低い」(月曜日は最低21℃最高26℃:この時期ではありえない気温だった)

そしてさらに「雨が降った」(かなり強い雨) 雨によって大気が洗われた。

そして「普段この時期には無い【風】が吹いていた」天気のせいなのか? いつもより強い風が吹いた。

そんなわけで月曜日の朝から「ハノイの空が青かった」起きて開けるベッドルームから見える

「自分では大気汚染指標」としている「ビル群がはっきり消えた」

こんなことから「珍しくこの時期のハノイで【きれい(いいや普通の)な空気】に出会えたのだ。

汚染指標であるAQI数値では「日本の指標数値には及ばないが?」確かにこの日の大気は「ハノイには超珍しく【普通】であった。

退社後しばらく家の用事をし、ふとリビングから「ベッドルームの夕日の沈んだ空が見えた」

なんとなく写真に撮った「ブログ読者に、ハノイの大気が【普通】になりました」と報告したかったのかもしれない。

しかし「本日火曜日の朝」いつもの指標のビル群もかすんでいた、AQIを見ると「130を超えていた」

「ハノイの普通の大気は1日しか持たなかった」 

ベトナムよ、早くこの状況に気づき「改善策を取らないと、大変なことになりますよ」

7歳友人もその母上も「週末に病院へ行き結局は【気管支炎】が治っていないという診断だった」

小さな子供から「蝕まれていく」・・・「普通大気の一日を過ごせて」本当にこの現実に早く気づいてほしい。心からそう思った。

(こんなことがブログネタになるなんて普通ではない)

月曜日の夕方、「普通の大気汚染状況」のハノイの夕焼け いつもより「空気が澄んでいるのがわかる」

この日の夕方のAQI、80である。AQI指標では「普通」のカテゴリー

それでも「ハノイのAQIとしては素晴らしくきれいな数値である」

 

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ベトナムハノイの「幸せだった事」

2025-05-13 10:01:43 | ベトナム・ハノイ

 ベトナムに初めて来たのは「おそらくだが25年以上前だった」

そのころ勤務していた「世界一のプレス金型メーカ」で「SOLID設計を活用する」という使命を託され

とても足らない「社内設計キャパ」を「韓国の外注と共に補完しながら頑張っていた時だった」

韓国で「同じCADのベンダーが設計を行い、その流れであの頃には珍しいベトナムにこの韓国会社は設計事務所を作った」

(韓国と言う国は日本に比べ昔から業務にアグレッシブだった、少し内容はずさんだが? この積極性には感心する)

そのハノイの事務所の開所式に「上司と共に招かれたのだ」、夜便でノイバイ空港に降り立ったが「暗く、埃っぽく」

自分をこの会社で育ててくれた「商社育ちの上司Kは、完全にこの雰囲気にやられてしまい、

帰国まで食べるものはピーナッツだけしかない」(パクチーや変なベトナム韓国料理ばかりを食べさせられ)と言って

ベトナムに対して「強烈な負の感覚」を持ってしまった。その後しばらくは「この韓国会社」との付き合いも有り

時々「ベトナムには来ていた」しかし「この上司は、今後ベトナムに来ることはなく、全ては自分に任された」(任してくれた)

「案の定この韓国会社も思い付きの進出は失敗し会社はあえなく倒産した」

しかし「そこの韓国社長はベトナムが気に入り、その後も単身ベトナムに残り今も会社をやっているらしい」

彼には「金型メーカ時代、そしてCADメーカに移ってからも仕事をやって頂いた」既に50歳を過ぎたと思うが

結婚もせず、ベトナムに自分よりも長く住んでいる。(ベトナム人彼女がいるといううわさは聞いたが?結婚はしていない)

自分のベトナムの創成期には「この韓国人B氏に大変お世話になった」韓国人にしては人が良く穏やかな性格だった、今はどうしているのだろう?

 そしてその後、23年勤めたこの金型メーカを辞し「自分を評価して頂き、ヘッドハンティングしてくれたそのころの

CADメーカの社長にはよくして頂いた。(金型メーカでの実績を見ていてくださり、内紛著しい金型メーカを辞するころだと

諭していただいたのもこのY社長である)

当初の社長と自分の構想であった「自社CADを使ったデータセンター造り」に向かって進んでいたが「この社長は同じグループ会社に栄転になり」

その後に来た「社長とは意見が合わずこの会社も7年で去ることになる」 思いは遂げられなかったが「このY社長には大変お世話になった」

 そして「その会社でのデータセンター構想」を「個人でやると決心し、ここからいばらの道がスタートした」

(考えてみれば、個人で見知らぬ海外で起業しようなど、とんでもない無茶な事だったのは今になってわかる)

それが13年前である。そこからは「日本人とのかかわりは少なく、現在の社員たちとの関係が多くなる」

全く日本語も含め「金型のことなど知らないベトナム人」に「先進的な日本の金型づくりの先進的なCAD/CAM技術を、お金を稼げるレベルまで

教えられるのか?」不安だらけのに日が続いた。お金も底をつき、唯一の財産として持っていた「CADメーカーの株を売りながら社員の給与

を払っていた。」このころ「現在の会社を支えている一期生を含め、会社立ち上げ時の社員のほとんどを提供して頂いた

「ベトナムの教育界では有名なM学長」この人がいなければ「自分はベトナムで仕事はできなかっただろうと思う」

いかに「日本語と実務をバランスよく教育できるか?」お金の無かった個人会社は「会社に入ってからの教育」など

経済的に出来るはずもなかった。いかに「この専門学校にいる間に、入社したら即お金を稼げる人材を育てられるか?

一緒になって「考え、実行したおかげで、今の会社があるのだ」このM学長には「本当にお世話になった」 申し訳ないのは

「これらの事を全て無償で行って頂いたことである」 本当に感謝しきれない方である。

そして「会社設立から14年目」 この種の会社は「大手のベトナム支社は数あれど」個人で残っている会社は「数えるほどである」

 過ぎてみれば「早かった気もする」それでも「大変だった時期は、永遠に長ったような気もする」(実際は必死で覚えていないが?)

この4-5年は「コロナから始まり日本の自動車業界の低迷」「最大の問題円安」で「本当に大変な時である」

(このころ人生で最大の困難、危機、ちょうどこのころ肺がんをも患い、コロナや円や明日の中でどうにもならない敵とも戦いながら

・・・不安や焦り、経済的にも一番大変な時期であり、今になって思えば「良く乗り切れた」と思っている)

そして会社規模にこだわりを捨てて、一番大きかった時の1/3に縮小して「最悪の状況」でも運営できる規模に「即決断」したのも「大きかった」

「調子のよい時は、もっともっと広げて会社を大きくしたい」欲求がもちろんあったが?

人生そんな甘い事ばかりではない。「谷の時、苦しい時」どうやってしのげる「会社にするのか?」身をもって学ばされた。

(自分の利点でもある、培った感覚ですぐに動くこと、そのキャラに救われた)

そしてこの苦しい時期に「ボーナスも無く、給与も上がらない中で」残ってくれたのは「14年前、一緒の会社を立ち上げた

「一期生とそれに準ずる社員たちだった」(20歳前後で入社した社員も既に30歳を過ぎ女性は全員結婚、全てに

子供を授かり、在宅で文句も言わず働いてくれている。中枢の社員はすでに自分が居なくても会社を動かしていけるスキル

を身に着けた。) 後はCADメーカに対しての「未払い金」を返せれば「きれいになれる」その時が「引き際かな?」となんとなく思っている。

 さすがにそれでも「会社の運営上、1か月に1回、3日程度は「ハノイのこの場所に来る必要もある」そんなわけで

「ひどい大気汚染のハノイを離れ、所用の3日間以外は「空気がきれいで、相棒ミッと自然(海や草原)の中で暮らせる」

場所に引っ越そうと思っている。 (この14年間、よくここまで耐え忍び、年金が無くとも何とか家族を養い、日本とベトナムの

2重生活を養っていける会社を作り上げたせめてもの自分へのご褒美のような気がする)

 それから「もう一つ感謝しなければならないのは」 会社関連ではなく、「病気の時はもちろん、ずっと一人暮らしである

自分を、いろんな意味でさせてくれた「現在のH氏と7歳友人家族」「その前に古くは友人からビジネスパートナーになり」

現在は「日本人と結婚したT氏」「そしてプライベートでもよく世話をしてくれた優しい社員たち」など

「彼らがいなかったら自分の健康やメンタル面も、もっと大変だったかもしれない」

13年が過ぎた今「つくづく感じるのは」自分の人生「いろんな場面でいろんな人に支えられてここまでこれたことだ」

普通のサラリーマンから「請われてCADメーカに、そして個人でベトナムで起業」そして何とかここまで

「ベトナムで頑張れたこと」は「いろんな場面で良い人々に会い、助けて頂いたこそだからである。」

(とても普通の人生とは程遠い、変化のありすぎたジェットコースターのような人生だったのかもしれないが?

これはこれで、自分らしい生き方だったのかもしれない。)

考えてみると「つくづく幸せな事」であったのかもしれない。

昨日「友人から連絡があり、1時間以上も久しぶり電話しながら、【お前のように生きれるのはごく少数】などという

コメントを頂いた、しかし海外に出るというのは「何のリレーションも無く、自分の世話から、生活から仕事まですべて責任を持ち

こなさなければならない、そんな生活である。はっきり言って大変な生活である。

それでも1度きりの人生、大変だが”それもなかなか面白かったのかもしれない”

・・・友人と話をしながら「そんなことを考えた」

 

 

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ベトナムハノイの「今日の夕食はビールです!」

2025-05-12 18:44:11 | ベトナム・ハノイ

 「今日に夕食はビールです、参加しますか?」

昨日「7歳友人の母上から、こんなメッセージ」が届いた。

なんとなく「解ったので」・・・「喜んで参加します」と返事した。

指定された時間にいくと「既に食卓には、所せましと料理が並べられていた」

なんと「自分の知っている料理が1品しかない?」それは「このご家族も周知の私の好物:ダオフーチエン(あげ豆腐)」である。

きっとこれは「私が来るので気を利かして取り急ぎ作ってくれたものだろうと思う」

 見たところ「全ておつまみになりそうなメニュー」と言うことで「今日の夕飯はビールです」と連絡したのだと思った。

しかし、おかずがこれだけ「ビールに合いそうなので」妹さんの旦那さんが「見たことのないビール」を準備してあった。

3リットル入りの「ポリタンクに入っているビールだった」(日本で灯油を入れる形が小さくなったプラスチック製の赤いキャップがある

白い色のポリタンクなのだ)

14年ベトナムにいるが「初めてのパターンだった」しかも

ちゃんと冷えている。普段は飲まない「7歳友人の母上や、その妹さんも今日はコップ(グラスではない、家庭で飲むときは

ベトナムでは大体マグカップが多い)に少量のビールを注ぎ「7歳友人の発声で」「ハイバーゾー、ハイバーゾー、ハイバーウオン」

と掛け声一発「食事、宴会が始まった」 主に料理を作ってくれた「妹さんが今日は全部食べないと帰らせません」と

ベトナム語で叫んだ!」 通常「宴会に行くと、よくベトナムでは【ホンサイ・ホンべー】と言う」意味は

「酔わないと帰さないよ」のような感じ、今日は「ホンノー・ホンべー」(おなか一杯に食べないと帰さないよ)的な

感じだ。 この日は「ビールも美味しく、料理も美味しく」みんなで楽しく「食事(宴会)」を楽しんだ。

しかし、マイペースの「7歳友人」は「こんなビールのつまみのようなものでは満足せず、デリバリーでスパゲッティーを

一人で食べていた」  ちなみに今日の自分が知らないメニューは

①生のゴーヤを薄切りを、「豚のでんぷと共に食す。」

②牛の内臓のゆでたものを「香草と一緒に食す」

③ベトナムの、味の無い胡麻せんべい。チリソースに付けて食す

④ゆで落花生

⑤ダオフーチエン(あげ豆腐)ねぎを添えて

⑥ザオモンサオトイ(空心菜のニンニク炒め)

⑦高菜と内臓の炒め物

⑧豚の耳と野菜の酢の物

主食(炭水化物)を食べていないのに「ビールも飲み」おなかが膨れた。

普段一人で「相棒ミッ」に食事をやりながら「こちらが餌と呼ばれそうな食事をしているので」

このような「ベトナム家庭料理は本当にありがたい」

大学の料理科を出た妻を持つ私の兄からは「お前のブログの料理は色彩が美しくない」と批判されているが?

料理の色や形にまでこだわる文化を持つ国は少ないと思う。ベトナムは「まずは食べられるかどうか?」の時期が長く

そんなことは「あまり気にしない」 自分もベトナムナイズされ「まずは美味しいものが食べれれば満足である」

今日の夕飯は「ビールです」と言われるだけあって「すべてがビールに合う料理だった」

感謝します。また呼んでください。

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ベトナムハノイの「やっぱり日本人は風呂が必要?」

2025-05-09 15:58:14 | ベトナム・ハノイ

 先月末の「息子夫婦」とその友人たちとのダナン・ホイアン旅行に際して

初日は「息子夫婦とその友人1名は、ホーチミンでの3日を過ごし22時ダナン着の飛行機だった」

その時間にはもう暗くて「海も見れない」従って午後2時にはチェックインできる自分の判断で「初泊のホテル」は

私のわがままで「日系のメーカー(ルートイングループ)」が行っているホテルを予約した。

目的は「大浴場」があることと、プールがあること、そして翌日の朝食に「日本食」が食べれることだった。

チェックインするが早いが「水着に着替え」この日が土曜日と言うことも有り(自分は毎週土曜日の昼に

アパートのジムにあるプールで40往復(80回)泳ぐのがルーティーンになっている)まずは中庭にあるプールに向かった。

思ったよりも「小さく15メートルあるかどうか?」これでは2000メートル泳ぐには67往復も泳がなければならない。

潔くあきらめて、4,5回往復して、後はビーチサイドのビーチチェアに横になり「山下達郎、角松敏生、大瀧詠一」を

聴きながら「コンビニで買った【ラルアビール】を飲んで過ごした」 他にお客さんは「フランス人っぽい若い女性が

見るからに長編らしい本をビーチチェアで読んでいるだけだった」 風はベトナムには珍しく「湿度の無いさわやかな風だった」

「泳ぎ、ビールを飲み、音楽を聴き、そしてまたビールを飲む、暑くなったら少し泳ぎ、そしてまた音楽を聴き、ビールを飲む」

そんな「幸せな時間が過ぎて行った」・・・「気が付けばもう日は傾きつつあった」「少し寝てしまったようだ」

さてさて「息子夫婦たちが到着するのは22時」未だたっぷり時間がある。「ビールもプールサイドに持ってきた分は飲み切ってしまった」

さて、では夕方になりさわやかな風に冷やされた体を「お風呂」で温めようとプールのすぐ横にある「大浴場に向かった」

着替えはあらかじめ「大浴場のロッカー」に入れておいた。 ここでも幸いに「誰もいなかった」1時間近く「体を洗い、風呂に入り、

サウナに入り、シャワーを浴びて又風呂に浸かり」満足いくまで「普段は入れない風呂を堪能できた」

やはり夏でも「風呂に入るのはとても気持ちの良いものである」・・・「日本人にはやっぱり風呂が必要なのだ」

その後も「夕食後、息子夫婦たちを迎えに行ってからも、そして翌日チェックアウトまでも都合5回も風呂に入った」

残念と言えば「日本食の朝食を期待していたが? 最も期待していた【納豆】は無く、仕方がない目玉焼きと御飯、味噌汁

だったことだった。既に建物は古く「いやに天井が高く落ち着かない客室だった」それでもこの施設で朝食付きで1部屋(2名まで可能)

5000円以下だったので「さすがベトナムホテルのコスパは良かった」海も見えない「街中のホテルだが、この大浴場だけで泊まる価値のある

ホテルだった」

プール後に「お待ちかねの大浴場」を楽しむ。幸い「ほかに人は誰もいない」

1時間ほどゆっくりと「風呂」を堪能した。ハノイに帰れば「バスタブの無い生活が待っている」

この左側が「中庭になっており、そこに小ぶりなプールがある」

 

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