月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「アダプテーション」

2008年08月27日 | ◆ア行

映画『マルコヴィッチの穴』(監督は、スパイク・ジョーンズ)の脚本を書いたチャーリー・カウフマン。その映画で主演したジョン・マルコヴィッチやスタッフたちが冒頭いきなり出てくるので、これって、ハリウッドのドキュメンタリー映画かと勘違いしてしまいそうになる。

初めて見たときには、メリル・ストリープの演技に見事に騙されて最後まで笑えなかったけれど、あれはいつだったか。
今回でこの映画は2度目。

アクション映画のニコラス・ケイジが好きなのだが、ニコラス・ケイジはどうも、カウフマン映画が好きなのかもしれない。
この映画では、この映画の脚本と製作を指揮している実在の脚本家チャーリー・カウフマンに扮し、そのカウフマンの双子の弟で同じ映画脚本家という設定の人物を登場させニコラス・ケイジが一人二役で演じているカウフマン映画。 映画はニコラス・ケイジの独白のナレーションで始まるが、うっかりしていると騙される。



主人公のチャーリー・カウフマンは、コンプレックスの塊で女性をデートにも誘えない気弱な不安神経症的な脚本家だが、気に入った蘭のドキュメンタリー本を映画にするにはどういった脚本を書いたらいいのか悩んでいる。チャーリーは、花の蘭のことを描いた原作本の美しい文章に陶酔して妄想を膨らませている。

著者の行動をイメージし想像を膨らませながら妄想に陥り、映像が眼前に立ち現れるが脚本が仕上がらない。それほどチャーリーがほれ込んでしまった原作の文章を、劇中でその著者スーザン役のメリル・ストリープが音読し、これが第二のナレーションとして流される。

暴力、セックス、殺人、サイコパスという要素を盛り込んだ新しい心理サスペンスを順調に仕上げる弟は、チャーリーとは正反対で社交的で積極的。付き合う女性も毎回違うくらいの発展家。兄チャーリーを芸術的な天才だと呼ぶ弟は、新しいミステリーの脚本を職人技で仕上げようとしている。

美しく驚異に満ちている蘭の世界をどういう脚本にしたら映画でも描写できるのかと悩んでいるチャーリーだが、原作本を読みふける日々にあって脚本は仕上がらない。
口にするのは詩的な哲学的な話の断片ばかり・・・・。
自分の思いなら、自分のものとなった世界なら書けるのに!

ところが、そんな兄チャーリーの言葉に刺激されて脚本を書き上げたドナルド。その脚本はミステリーとして成功してしまう。

プレッシャーで押しつぶされそうになるチャーリー。
脚本を書き上げるには原作本を書いた著者に会いに行かなければ・・・と思うが、メリル・ストリープ扮する作者スーザンに勇気がなくて会えないまま戻ってくる。

チャーリーの想像や妄想と現実・・・・

蘭を題材にノンフィクションを書くべく取材に動き回るスーザンの物語は、チャーリーが読み進めている本の流れに添っている。 



スーザンは、蘭の貴種の採取と飼育に情熱を傾けているジョン・ラロッシュを追いかけていく。

ジョン・ラロッシュはなぜ、蘭の花を全てを投げ打つかのような情熱を傾けて追いかけるのか・・・・ 

双子の脚本家を一人二役で演じるニコラス・ケイジの映像出演と違って、チャーリーの妄想(あるいは空想)世界をチャーリー役のニコラス・ケイジの独白と、スーザン役のメリル・ストリープの著書の音読とがナレーションという形で「二つで一つ」、「二人で」「一つ」の世界を構成していくかのように映画が進んでいく・・・・

が、こうした映画前半は、あくまでもチャーリーの想像の世界のまま・・・・なのだが、そのことを忘れさここでは双子の脚本家を一人二役で演じるニコラス・ケイジの映像出演と違って、チャーリーの妄想(あるいは空想)世界をチャーリー役のニコラス・ケイジとスーザン役のメリル・ストリープがそれぞれナレーションという音声で二人で一つの世界を構成していく役割のようだ。

蘭の花の取材で動き回るうちに、著者は自分の中で生まれた変化を受け止められずに悩んでいる。
ジョン・ラロッシュが何かに衝かれたように蘭の貴種の採取に情熱を傾けるのは、何かからの逃避だと気づく。

多くの人間は「現実」の生活や人生に順応している。
そこには、多くの場合情熱はない。
人間のそうした順応や適応というのは、ある意味恥辱的な姿だ。なぜなら、内なる変化、心の変化、魂の変化と向き合うことから逃避しているから。

メリル・ストリープは、ベッドに横になって電話している。



相手は、取材で追いかけているジョン・ラロッシュだ。自分の運転していた車で事故を起こし、同乗していた家族を死なせてしまった人生。その後に財産と呼べるものも自然災害でダメになって、全てを失った男ジョン・ラロッシュを演じるクリス・クーパー。

全てを失った男も、そうした状況に適応して何かに順応して生きている。二人は、ドラッグを通して心を解放することで、互いに空虚さを埋めあう存在になっていく・・・・

映画での「リアリティ」として映像化される「現実」、暴力や戦争、セックスやドラッグ、殺人、レイプ、児童虐待という出来事は、確かに現実に起こっているものだ。だが、果たしてそうした「現実」は、誰にとっての「現実」なのか。自分の「現実」でないものに人はどうやって適応するのか。できるのか。
順応しなければ生きていけない「現実」、その「リアル」な事象は、自分自身が直面する「現実」じゃない場合、どうやって、そうした「現実」に適応するのか。しようがないではないか・・・・

映画の脚本に求められる「現実」「リアルさ」、「リアルに描くべき現実」とはナンなのかというチャーリーの問い。

この場面ではいきなり笑ってしまったけれど・・・
そう、NYの映画専門学校のノリだ。



ニコラス・ケイジのチャーリー・カウフマンは、ここで高名な映画評論家に質問する。「映画で求められるリアルというのは、どういうものか」と。
講師は、こともなく「そこらじゅうにある」と答える。暴力、戦争、虐殺、殺人、セックス、すべてが、現実だと。
講演の後で講師を捕まえてさらに脚本のことを相談するチャーリーに、講師は「物語」だと答えるブライアン・コックスがなかなかいい。

脚本で問われる「現実」というのは、「物語」か・・・・

蘭の本を執筆した著者スーザンの内面に入っていくチャーリーは、そこで、「物語」を「自分が参加することで」「自分の話」にすることで仕上げていこうとする・・・

ここからが、この映画はいきなりお笑い系になる。
原作者に実際に会おうとするチャーリーを応援すべく、双子の弟も同行するが、何と男との逢瀬で麻薬で飛んで場面を見られたスーザンは、そこに脚本家が現れたのに驚愕し、チャーリーを殺そうとする。社会的地位も家庭もあり、仕事も順調な作家の自分が、不倫して麻薬におぼれていると言うことを世間に知られたら、大変だ!ということで、戸惑うだけのラロッシュに、

「わたしたちを知っている人たちに知られたら、どうするの!」
「そうなったら終わりよ!」
「殺すしかないわ」

まるで、サイコサスペンスの終楽章かというノリだ。
これは「現実」への適応を誤った好例となるが、
銃を持って追うスーザンとジョン・ラロッシュ!
逃げる双子!

銃を持って追いかける人間が出てくれば、誰かが撃たれて殺されなければならない。それが「物語」だからだ。
ということで、何と弟のドナルドが死んでしまう。

逃げおおせたチャーリーは警察を呼び、スーザンとジョンの二人は逮捕され、知的な作家メリル・ストリープがあばずれ女となり、蘭の貴種を追いかけていた情熱のロマンティストジョン・ラロッシュは麻薬密売人となり果てて、ホラーアクション映画的な場面は終わる。

チャーリーは、こうした体験を「現実」に体験したことで、何と書けなかった脚本が完成する。そして、女性に積極的だった弟が死んだことで、まるで弟が乗り移ったかのように口説けなかった女性にデートを申し込めるようになり、映画はめでたしめでたしで終わる。 
そう、何も残らない映画の完成。

生き残ったのは、本当にチャーリーなのかしら。
というツッコミがしたくなるくらい、笑うしかないエンディングの映画だが、まさにカウフマンの狙い通りかなと。

 

 

 


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