
最近、ある幼稚園で働いている女性と、お話をする機会がありました。その人によると、「最近の子供たちが悪いことをするのは、おかあさんが家にいないから…」という話が、幼稚園でもっぱら話題にされているそうです。子供たちは、さみしくて、自分を見て欲しくて、非行に走ったり、あのような突発的な行動に出たりするのだそうです。
男女機会均等法が施工され、ヒラリー・クリントンが上院議員に当選する時代、女性は様々な分野で活躍しています。自己実現を主な人生のテーマと教えられてきた世代は、女性を家庭に閉じ込めようとする古い社会風潮に反旗を翻すかのように様々な分野に挑戦し、新しい女性の生き方を模索しています。
しかし、なぜ社会では金を稼ぎ現実社会を動かすという、男性的な特性が優位におかれ、家事をし子を育てるという女性的特性を、一段低いものとみなしがちなのでしょうか。
確かに女性は、男性的価値観からみれば、欠点の多い存在と見えるでしょう。だから男性は自分と比べて女性を劣ったものと見、様々に女性の価値をおとしめてきました。ために多くの女性は、女性であるということが人間としての大きな欠陥であるかのように感じ、その結果、自分に自信を失い、内部に大きな欠落を抱えた女性に、子供たちの心身は育てられることになったのではないでしょうか。
母親の欠落感は、子供の魂に如実に投影され、それは世代を超えて次第に大きくなっていきます。そして時代を経るにつれ、自分の価値を信じられず、生きている意味も実感もつかめない大きな空虚を心の内に持った子供が、大量に生み出されてきたのではないか…。
子供たちの心を取り戻したいのなら、少年法を改正するよりも、まず子育てを主に担う女性的特性とその価値を、社会が理解せねばならないと、私は思います。女性が自分の感性や特性に自信を持ち、本当の女性らしさと母性を具現できる知性と力を持てば、子供たちの淋しさも欠落感も、必ず減るのではないでしょうか。
女性の女性らしい特性、それは存在そのものである幸福感をそのまま具現できる笑顔と優しさだと思います。女性がその特性を真に発揮できる時、子供たちの心は本来の輝きを取り戻すことができる。そんな夢を思い描いては、いけないでしょうか。
(2000年11月ちこり20号、編集後記)