
今日、ちょっと悲しいことがありまして、今気分が落ち込んでるところです。
いつも、私が写真を撮るフィールドにしていたのっぱらが、どうやら宅地化されるみたいなんです。
曇り空で写真を撮るには少し条件が悪いのに、今日カメラを持って例ののっぱらのほうに行ったのは、誰かがそれを知らせたかったからじゃないかと思っています。行ってみると、のっぱらのあちこちには、一定間隔に杭が打たれていて、何かの工事がなされる下準備がされていたのでした。
あそこだけは、ずっとあのままで、のっぱらのままでいてほしかったけれど。周りはどんどん宅地化されていくし、いつかは・・・とは思っていたんですが、悲しいです。
あの、のっぱらの隅に立っているくすのきもきっと伐られてしまうんでしょうね。ああ。ずっと友達だったのに。もう会えなくなるんだ。
野の花や虫と出会えるのっぱらや空き地が、わたしのちいさな箱庭からどんどん少なくなっていく。残念でたまりません。
菜の花の咲き具合が、例年よりずっと少なかったのも、きっとみんなこれを知ってたからなんですね。
しばらく、写真を撮る気がしなくなってしまいました。あそこがなくなったら、さみしい。ほんとうにさみしい。
ずっと落ち込んでいるのはいやなので、何か気持ちを明るくしようと、がんばっています。切られてしまうだろうあの木は、いつもなら梢を大きく揺らしてあいさつしてくれるのに、きょうはかすかにはずれの音を聞かせてくれただけでした。くすのきも、おなじことを悲しんでいるようでした。
いつも、私が写真を撮るフィールドにしていたのっぱらが、どうやら宅地化されるみたいなんです。
曇り空で写真を撮るには少し条件が悪いのに、今日カメラを持って例ののっぱらのほうに行ったのは、誰かがそれを知らせたかったからじゃないかと思っています。行ってみると、のっぱらのあちこちには、一定間隔に杭が打たれていて、何かの工事がなされる下準備がされていたのでした。
あそこだけは、ずっとあのままで、のっぱらのままでいてほしかったけれど。周りはどんどん宅地化されていくし、いつかは・・・とは思っていたんですが、悲しいです。
あの、のっぱらの隅に立っているくすのきもきっと伐られてしまうんでしょうね。ああ。ずっと友達だったのに。もう会えなくなるんだ。
野の花や虫と出会えるのっぱらや空き地が、わたしのちいさな箱庭からどんどん少なくなっていく。残念でたまりません。
菜の花の咲き具合が、例年よりずっと少なかったのも、きっとみんなこれを知ってたからなんですね。
しばらく、写真を撮る気がしなくなってしまいました。あそこがなくなったら、さみしい。ほんとうにさみしい。
ずっと落ち込んでいるのはいやなので、何か気持ちを明るくしようと、がんばっています。切られてしまうだろうあの木は、いつもなら梢を大きく揺らしてあいさつしてくれるのに、きょうはかすかにはずれの音を聞かせてくれただけでした。くすのきも、おなじことを悲しんでいるようでした。
私にも秘密の花園のような場所がありました。野バラが地を縛るようにはっていて、風が吹くとその馥郁たる香りが漂って、一足踏みこむたびに草のあいだからバッタとカエルが飛びだしてくるようなところだったんですよ! それが「緑化計画」という名の下につまらない花壇にされてしまいました。あの時だけは本当に人間はおろかだと思いました。
すみません、自分のグチになっちゃった。
こちらののっぱらも、本当に美しいところだったのです。歩いていると、風も一緒についてきていて、何か見えない美しいものがのっぱらのうえを飛んでいるようでした。木も美しく、緑も不思議に光、花は嬉しげに笑い、心の中でひそかに、ここには何かいる。と、感じていました。目に見えない何かが。
ばかみたいなことだといわれてもかまわないけれど、人間の中には、そういう見えないことに対する感性のかけている人が多いのです。
というより、わかっていても、今は、それはだれにもわからないほうがいいと思っているのです。わかってしまったら、耐えられないからです。
植物として生きる者の宿命だといいます。
わたしは彼女が私に何をしてくれたか知っています。木は、人間の知らないところで人間のためにいろんなことをしている。それを私は知っています。だから、これからも、ばかなことだっていわれようと、木や花の話をずっと書いていこうと思います。