世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-03-25 07:06:01 | 月の世の物語・上部編

上部世界に、はるかに広がる、青い水素の海があった。その白い波は雲のようにかすみつつ、遠い果ての岸辺で、虹色につやめく真珠質の崖を洗っていた。

その海の中央に、水晶の琴を打つ音律を固めた、小さな島があり、今そこに、ひとりの上部人が降り立った。彼は髪も目も青く、その顔は蝋のように白かった。白い服を着た彼が、黒みを帯びたその島の上にまっすぐに立つと、それはまるで一筋の光の棒のようであった。

海には、一匹の、巨大な炎魚が棲んでいた。それこそは、この上部世界に住む、稀なる女性の中のひとりであった。彼は、海に向かって、とん、と叫んで、炎魚を呼んだ。すると彼女は、すぐにそれに答えて、海からざわりと顔を出し、彼の顔を見た。炎魚は、文字通り、そのひれは燃え上がる炎であり、その鱗はその炎を結晶させて形作った丹色の珠玉のようであった。ただ、瞳だけが、透き通ったベリルのような緑であった。

彼は、これから果たさねばならぬ使命のために、仮に自分の姿を女性にしなければならなかった。彼よりももっと年経た上部人であれば、自力で女性になることもできるが、彼は上部人としてはまだ段階が比較的若かったので、どうしても彼女の助力を必要としたのだ。

炎魚には、呼ばれた時にはもうすでに全てが分かっていた。彼女は、島の上に立つ彼に向かって、真珠色の炎を吐き、るる、と歌った。すると、彼の身に、光が宿り、体に変化が起き始めた。胸に小さな丸みが現れ、陽根が消え、体内に小さな秘密の部屋ができた。彼はいつしか、長い青髪と透き通った青い瞳の、可憐なひとりの少女となっていた。彼女は、ほぅ、と言って炎魚に礼を言うと、炎魚は、ふ、と答え、水素の海の底へと静かに帰っていった。彼女はそれを見送ると、すぐに島の上から姿を消した。

次の瞬間、彼女は花野にいた。そこは、かつて数人の上部人が、やすらいを必要とする上部人のために、協力して創った野であった。どこまでも広がる緑の原に、色とりどりの珍しい花々が永遠に咲き乱れている。空は水色であった。月は真珠であった。彼女は、透き通る衣をまとい、貞女のごとくひざまずいて神に祈り、「とぅ、ほ」と言って、天に向かって、体内の部屋の鍵を開けた。すると神は、その部屋に向かって、蝶のように小さな一羽の白い鳥を放った。鳥は彼女の体内の部屋にまっすぐに入り込み、くるりと回って、小さな白い玉に変わった。彼女はすぐに部屋の鍵を閉めると、自分の腹を抱き、しばし受胎の幸福に浸った。胎内の玉はやわらかな絹の上に着床し、夢を見始めた。彼女は花野に横たわり、全身を大地に預けた。そして繰り返す神のささやきの愛撫を受けながら、歓喜の声でそれに答え続けた。

やがて、月満ちた。ある日、彼女を激痛が襲った。彼女はあわてて魔法を行い、花野の一部に穴を掘った。穴は深く、暗かったので、彼女は月光を呼び、穴の壁に塗って自分を照らした。痛みはどんどん激しくなった。望月のように膨らんだ腹が心臓のように波打っていた。ああ、ああ、ああ。彼女はあえいだ。その苦しみの声に、上部世界に住む風の精霊が引き込まれ、彼女を助けるためにやってきた。彼女は、三日も、苦しみ続けた。そしてとうとう、全身をみずから切り裂いて、一頭の、子牛を産んだ。その子牛は雪のように白く、額にはすでに、一本の小さな青い角があった。瞳もまた、澄み渡る青であった。

出産に疲れ果てた彼女を、精霊が愛で癒した。少し力を取り戻した彼女は、子牛を育てるために胸を開き、乳房を出した。乳は月光水のようにあふれ出し、それは花野に一筋の小川を作り、子牛は水のようにそれをがぶがぶと飲んだ。

月日はまた過ぎた。子牛は、若牛となり、母と精霊たちに守られ、十分に準備が整った。彼はそろそろゆかねばならない。すると、母である彼女の胸に激しい痛みが生まれた。若牛は、これから、月の世に降り、月光に溶けて、歓喜の音楽の元となる霊感の響きへと変身してゆくのだ。それは若牛にとって、自らは死んでゆくことを意味した。

う、と彼女は言った。それは、自分は何をしたのか、という意味だった。死なせるために、彼を生んだのか。こんなことなどあっていいのか。だが、彼女の心が、母としての悲哀に引き裂かれる前に、彼女は彼に戻った。

そして、ほう、と息をつき、冷たく厳しい男の目で若牛を見た。若牛は彼を見上げ、むぅ、と答えた。すべてはわかっているという意味だった。若牛はその澄んだ青い目で、母であった彼の目をしばし静かに見つめると、おお…と言いながら彼に背を向けた。若牛はゆっくりと花野を歩き、風に溶けていくように姿を消した。母であった彼は、若牛が、月の世に降り、月光の中に次第に溶けてゆくのを、次元を超えて見える目で、静かに見守った。遠くから、さざ波の音が聞こえた。まるで、子守唄のようだ。遠い炎魚の海も、あの者の運命を悲しんでいるのかもしれぬ。だが、悲哀は無駄だ。すべては神の導きの元、正しく行われてゆく。

やがて、若牛は、かすかに、かちん、と内部の音を立て、自分を壊し、死んだ。それと同時に、あまたの美しい歌が生まれた。向こうの世界にいる人々には、まだ聞こえぬ、新しい神の歌が生まれた。それは、長い長い月日を、目に見えぬ光の星として、月の世に在りつづけ、風に、花の香のように清らかな音律を深く織り込み、人々の霊感を刺激し、多くの新しい光の言葉を生み、魂の物語を、少しずつ、正しい道へと導いていく。

ああ、と彼は言った。彼の中で、すでに抜け殻となって横たわっている母が泣いていた。あの歌を、あの歌を、人々は、聞くことができるだろうか。わかることができるのか。それができるようになるとしたら、一体いつのことか。考えてはならぬ。だが、彼の中の母の心はそれにあらがい、彼を苦しめる。

うぉ、と彼は言う。「わが子よ」という意味である。涙が流れるのを、彼は自分に許した。自分の身を裂いて、全てを生みだすもの。女よ。我々は、おまえたちの苦しみを知る。そしてそのために、全てを行ってゆき、何度でも死ぬことであろう。

彼は呪文を唱え、服を常人のものに着替えた。そしてくるりと体を回し、杖を持ち、聖者の姿に戻った。それは灰色の髪と髭を整え、紺瑠璃の瞳に深い悲哀を灯した、背の高いひとりの老人であった。彼は杖を横に構え、ひゅう、と言うと、すぐにそこから姿を消した。

誰もいなくなった花野の上に吹く風に、光る文字が一つ書かれてあった。それは任務が完了したという意味の文字であった。風はすぐに首府の塔にその文字を運び、首府の長は、はあ、とそれに答え、彼をほめたたえた。


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