世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-11 07:30:09 | 月の世の物語・余編

彼は白く輝く首府の片隅に立ち、月を見あげた。首府から見えるサファイアブルーの空に輝く月は、目に見えない一点を中心に、時計のように一定の期間をかけて回っている。上部人たちはその動きを計算して、時間を測っていると言う。

上部に上がってきてから、下に降りて行くのは初めてのことだった。彼は師にある課題を課せられ、それに取り組むために、これから地球に向かうのだ。彼は呪文を唱え、スカイブルーに変わった自分の髪を元の黒髪に戻し、すっきりとした短髪にした後、常人の衣服に着替え、下に降りて行った。やがて眼下に、月の世の月が見えてきた。彼はなつかしさについ、ほう、と声をあげてしまった。

降りてゆくとき、準聖者は聖者と違い、髪の色や長さ以外にほとんど自分の姿を変えることはない。月に降りてきた彼は、ふと、役所にいる昔の友のことなどを思ったが、すぐにその思いを消し、再び空にふわりと浮かびあがり、地球へと向かった。旧友に出会ったとしても、今の彼が、昔の彼女だと気付く人は、少ないだろう。

地球世界への門をくぐり、久しぶりに地球を見たとき、彼はまた、ほう、と声をあげた。それは感嘆の声だった。地上に、赤い渦が巻いている。これが、師の言っていた、嵐の渦か。それも、ひとつではない。まるで木星の大赤斑のような渦が北半球の一点にあり、そこから九十度ほど東周りにはなれたところに、まだほんのりと薄くはあるが、確かに薔薇の花のような赤い小さな渦が見えていた。目を凝らすと、各地に埋めた水晶陣が、静かな交響楽を奏でるように歌いながら点滅しているのが見える。

地球の浄化は着々と進んでいる。彼は目を光らせ、流星のように一直線に地球に向かって下りていった。

数分後、彼はもう目的地についていた。そこは海辺にある小さな田舎町であった。老人が多く、人々は主に漁業や農業を営んで暮らしている。アスファルトの細い道を挟んで低い堤防と、古い街並みがあった。住宅の庭に植えられた木々の樹霊が、少し悲哀に沈んでいる。それは、この町に住んでいる人々の運命に、かすかに気付いているからだ。

彼はこの堤防から少し離れたところにある、割合に大きな仏教寺院へと向かった。寺の門の前には、まだ立てられてそう古くない地蔵菩薩の大きな石像があった。地蔵は優しく微笑んで下を見下ろし、今にも子どもの頭をなでてやりそうな形の、優しい手のひらをこちらに向けていた。その足元には、果物と菓子と、花が供えられている。
彼は地蔵菩薩の前に立つと、儀礼をし、頭を下げて、「ゆぇり」と言い、挨拶の言葉と自分の身分を述べた。するとすぐに、石像の中から声が返ってきた。
「常人言語に切り替えてくれ。その方が話しやすい」
すると彼は、言語を切り替えることを忘れていたことにやっと気付き、あわてて呪文を唱えた。「申し訳ありません。修行が足りませず」彼は深く頭を下げた。

「たいしたことではない」地蔵菩薩は柔らかな声で言った。そして、地蔵の石像はかすかに全身から光を放ったかと思うと、顔がゆらめき、地蔵菩薩の石像の中から、もう一人の地蔵菩薩がゆっくりと出てきた。準聖者は息を飲んだ。その変身の見事さ、美しさが、師から聞いていた以上にすばらしかったからだ。地蔵菩薩の顔は慈愛に満ち、どんな小さなことも見逃さず、全てのためになんでもしてやろうという、限りなくやさしい心が見えていた。飾り気のない白い衣をさらりとゆらし、暖かい焚火のような色をしながら水晶のごとく澄んだ光背を背負っている。それを見るだけで、心が安らぎ、生きて行く苦しみがどこかへと溶けてゆくような、本当にやさしいお姿であった。

「顔をみれば、誰の使いで来たかがわかる。入門者は師の影響を深く受けるからのう。彼も今はさぞ忙しいことであろう」地蔵菩薩が言った。「はい、日々、仏教是正のためにすばらしい仕事をなさっておいでです。そして定時がくると必ず、わたしを導きにいらして下さいます」準聖者は言った。地蔵菩薩は青い瞳を準聖者の方に向け、暖かに、優しく、微笑んだ。そして一息風を吸い込み、水晶玉を吐くような声で呪文を唱えると、変身を解いた。するとそこにもう地蔵菩薩の姿はなく、五十代ほどの壮年男性に見える、体躯の太い大きな聖者の姿があった。黒い髭を生やし、鼻が高く、見た目は地蔵と言うより天狗の方に近い。だが瞳はあの地蔵菩薩と同じ、優しくも深い微笑みをたたえた澄んだ青だった。

聖者はふうと息を吐き、「さても、君の師はさぞ苦労していることであろう。このまま放っておいては、仏教は壊滅する。文字通り、無に帰する。無の境地を最高の幸いとする仏教ならば、それが真の救いか、などというと…ふ、あまりおもしろい冗談ではないな。…ところで、君はわたしのことを、どれくらい聞いているのか」と準聖者に言った。
「はい。わたしも学びを積み、様々な仏に姿を変えることができるようになりましたが、他の仏に姿を変えるときは、体が鉛のごとく重くなるというのに、なぜか地蔵菩薩に姿を変えるときだけは、それがありませんでした。その訳を師にお尋ねしたところ、仏の中で、地蔵菩薩だけは実在しているといえるからだと、答えて下さいました。そしてそれは…」
「そう、わたしが地蔵菩薩の役割を担い、地球上でその活動をしているからだ」黒い髭の聖者は言いながら、空を見あげ、少し瞳の中に生まれた悲哀を空の光で洗った。

「わたしは、師からあなたのお話を聞き、ぜひお会いして学びを得たいと思いました。すると師はわたしに、あなたのところに行って、課題をはたしてくるようにと、言って下さいました」「ほ、課題とは?」「はい、しばしの間、同じように地蔵菩薩の姿をとり、あなたに習ってあなたと同じ仕事をして来いと」すると黒い髭の聖者はさもおかしそうに笑った。「それはそれは、ご苦労なことだ。いいだろう、やってみなさい。だが、つまらんぞ。おもしろいと思うてできるようなことではない」
聖者は笑いながらそう言うと、準聖者をつれて、空に飛び上がった。そして彼を、山を一つ二つ越えたところにある、小さな村の道の隅に立った、古ぼけた地蔵の所に連れて行った。地蔵の腹のあたりには、聖者によって書かれたらしい、分身の紋章が光っていた。こうしておくと、中に聖者がいない間、同じような仕事を、ある程度紋章が代わりにしてくれるのだ。

聖者は地蔵の前に立つと、その紋章を消した。そして地蔵の前に立ち、呪文を唱え、その地蔵菩薩そっくりの姿になり、ゆっくりと石像の中に入っていった。聖者は石像の中で姿勢を整えつつ、言った。「主な仕事は、ここを通る者たちに愛の声をかけ、そして人生の道を間違えないための教えと愛を投げてやることだ。時に、誰かが菓子や花を供えに来る。そのときは、優しく声をかけてやる。その身にどんな重い罪の影を見つけても、目をつぶり、深く愛を送る。そして、少しだけ、苦しみを軽くしてやる」
「それだけですか?」と準聖者がいうと、地蔵の中の聖者は、笑顔で答えた。「小さなことを重ねることが、大いなる道への近道だと君はいつ習った」「はい、若い頃に」「ならばよい」

そのとき、ふたりは誰かこちらに近づいてくる人間の気配を感じた。地蔵の中の聖者はそちらに目を向け、ああ、と笑いながら言った。「あの欲張りばあさん、まだ生きておったか」
見ると、大きな蜜柑を入れた袋と小さな花束を持った老婆が、ゆっくりとこちらに向かって道を歩いてくる。彼女は地蔵の前で立ち止まると、早速地蔵の前にひざまずき、蜜柑と花を供えて、手をこすり合わせて祈り始めた。その老婆の心の声は、地蔵にも準聖者にも聞こえた。

(お地蔵様、お地蔵様、どうか嫁にバチをあててください。息子も、叱ってやってください。どっちもわたしに、いやなことばかりするんです。あたしはつらいばかりだ。亭主は定年になったらさっさと死んでくれて、それは楽になったけど、今度は息子がわたしにつらくあたるんですよ。あの嫁が悪いんだ。あれが息子にいらんことをおしえるもんだから…)

地蔵は、瞬間少し呆れたような顔をしたが、すぐに元の明るい表情を戻し、苦しみを老婆とともにした。彼には、彼女の苦しみはほとんど彼女自身からくることがわかっていた。老婆自身が、人を愛そうとしないため、人に愛されないのだ。だから家族に冷たくされても、それは当然のことと言えた。だが、地蔵はやさしく、言ってやるのだ。

「つらかろう、ばあさんや。少し楽にしてやろう。でもな、少しはあんたも、息子や嫁に、よくしてやりなさい」

彼は老婆にわかりやすいことばでやさしく語りかけると、小さな呪文で愛を送ってやった。そして老婆の苦しみを少し軽くしてやり、荒れ気味の心の中を少し整理してやった。やがて老婆はひとしきり地蔵に不満を言い終わると、何やら少しすっきりしたような顔になり、最後に深々と地蔵に頭を下げて、黙って帰って行った。

老婆の姿が見えなくなると、地蔵は地蔵の中から出てきてすぐに聖者の姿に戻り、準聖者に語りかけた。「どうだね、感想は」すると準聖者は、老婆から受けた邪気を清めつつ、おかしげに笑いながら言った。「なんと申しますか。不思議な気分だ。ずっとやっていらっしゃるのですか。これを」「ああ、ずいぶんとな。人間には、本当に様々なものがいるが、地蔵は、よほどのことがない限り、人間を怒ることはない。全般的に、人に頼まれたら、冷たく突き放したりはせず、できるだけのことをしてやる良い人という感じでやっているとよい。ただ、見逃すことのできぬ悪いことをやっているやつには、遠慮なく罰をやって清める。最近はそう言うのがよほどたくさんいるから、地蔵もかなり大変だ」黒い髭の聖者が言うと、準聖者は微笑みながら呪文を唱え、今度は自分が地蔵に姿を変え、地蔵菩薩の石像の中に入っていった。準聖者が石像の中で姿勢を整えていると、黒い髭の聖者は思い出したように言った。「ああ、そうだ、君は、地質浄化はどれくらいできる?」「ええ、まだ役人レベルですが」「では、それでよい。地蔵の周りには、人間がよくああして邪気を持ってくるものだから、ほどよく地質浄化もしておらねばならない。中にはとても難しい邪気が立っているところに地蔵があることがあるが、ここはそうきついところではない。浄化に苦労はしないだろう」それだけ言うと、聖者は別れを告げようとした。そのとき、準聖者は、あわてて、「待って下さい」と彼をひきとめた。

「なぜ、あなたは地蔵菩薩になったのですか?」準聖者は、最も尋ねたかったことを彼に尋ねた。すると聖者は地蔵を振り向き、しばし彼を深い目で見つめた。そして、悲哀と愛に染まった青い瞳を細め、空を見あげてしばしはるか彼方を見たあと、まだ準聖者の身にはわからぬ、透き通った明るい微笑みを見せながら、彼は言ったのだ。

「わたしは、こいつらが、かわいくてならんのだ。この、馬鹿な人間どもが」

地蔵の中の準聖者は、しばし沈黙した。驚きを飲みこんで、彼は何かを言おうとしたが、その前に、「では」と言って、黒い髭の聖者は飛び去って行った。

空の向こうに聖者を見送ったあと、地蔵の中の準聖者は、驚きの眼をしながら、少しの間、考えていた。地蔵菩薩とは、一体どういうものなのか。

準聖者は、地蔵の中に落ち着くと、かの聖者をまねて、明るく微笑んでみた。そして、たまたまそこを通った少女に、「お嬢さん、まじめに勉強しなさいよ」と、声をかけ、愛の呪文を投げた。

少女は何も気づかず通り過ぎて行ったが、彼の投げた小さな愛の光が、その胸に溶けて、彼女の内部に優しさを作っていくのを、地蔵は見た。そして同時に、彼は少女が落としていったしびれるような影の痛みを感じた。

ああ…。地蔵は邪気を浄化しながらため息をついた。これを、やってきてくださったのか。何千年の間を、やってきてくださったのか。少しでも、人類の魂を、明るい方へと導くために。

石の地蔵の目に、少し涙が点ったような気がした。そうとも、何もかもは無駄かと思える努力でも、ただひたすらまっすぐに、こつこつとやってゆく。それが最も真実の幸福に近い道なのだ。

未来が明るくあることを、準聖者は神に願った。地蔵菩薩と、人間たちのために、祈った。


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