goo blog サービス終了のお知らせ 

世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ピア

2014-01-13 04:17:22 | 虹のコレクション・本館
No,54
ギュスターヴ・ドレ、「ピア」、19世紀フランス、ロマン主義。

デッサン力と精神性のバランスのとれた画家である。整えられた美は見る者をほっとさせる。挿絵画家としてはA級の技師だ。

近現代的なロマンティシズムもよい。

よけいなことだが、この絵に描かれた女性の印象は、真実の天使の真実の姿に近い。
彼は男性だが、こういう感じの姿をしている。その存在感はまさに女性だ。
しっとりとやさしい。

この世界での彼女の印象も、これに近かったはずである。

これを見ると、彼女を思い出す。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矜羯羅童子像

2014-01-12 05:54:18 | 虹のコレクション・本館
No,53
運慶?、「矜羯羅童子像」、12世紀日本、鎌倉美術。

今回は仏教美術から採用した。これはおそらく運慶作の逸品である。

愛らしい鼻、小さな瞳、ふくよかな丸い顔。少年の顔だが、まなざしは強く澄んで激しく光っている。美しい。

人類の進化度は今、15歳程度の少年期だが、魂の世界の真実から見ると、解脱を済ませた人類は、ちょうどこのような感じになるやつが多い。

どうだ。小さいが、かなり痛い、いいやつだろう。こいつは何でもやるのだ。まだまだ未完成のひよっこだが、さまざまに面白いことをやっている。見事に、きついことをやっている。若いながらも、強い秩序感覚でおのれを律している。

人間はこの像に、嘘の皮を脱いだ人間本来の姿を見ることができる。人間の本当の美とは、こういうものなのだ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一葉

2014-01-11 04:50:18 | 虹のコレクション・本館
No,52
鏑木清方、「一葉」、20世紀日本、日本画。

これは美しい女性像である。
清方は樋口一葉の大ファンであったらしい。かのじょの作品世界は、彼の芸術的霊感を痛く刺激したらしく、清方は美しい女性像を山ほど描いている。

この絵は、男が、女性を尊敬して描いた非常にまれな絵である。絵の中の一葉は粗末な衣服に身を包みながらも、凛とした清らかな瞳をしている。高い精神性を秘めた女性の瞳を、これだけ美しく立派に描ける男も珍しい。

20世紀芸術には頭の痛いものが多いが、日本画の世界にはかなりよいものがある。

アンディ・ウォーホルの「マリリン・モンロー」などは、モンローを激しく侮辱している。見られたものではない。まるで猿か人形のように女を描いている。映画の中で、地下鉄の風にスカートを翻すかのじょの姿などが有名だがね、後世の男はあれを見ると、恥ずかしくて逃げてしまうだろう。女に何をしてもらっていたのかがわかれば、男はもう二度と、かのじょの顔を見られなくなる。

だがこれは安心してみられる。女性を大切に描いている。こんな絵を描いてくれる男もいたのかと思うと、男は安堵するだろう。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢

2014-01-10 04:21:04 | 虹のコレクション・本館
No,51
ピエール・オーギュスト・ルノアール、「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」、18世紀フランス、印象派。

ルノワールは女性美の賛美に素直だった。だからこの少女が素直に描ける。

この可憐な少女は美しいが、そっぽを向いている。決してこちらを見ようとはしない。男は、こういう自分の方を見ようとはしない美しい少女に反発しながらも強く心を惹かれる。

相手にしてもらえないということが、男の情熱を痛くかきたてるのだ。簡単に男に寄ってくる女ではつまらない。

イレーヌ嬢はおとなしい少女だ。美しいが強いことはできない。だから男には臆病なのである。怖いので逃げる。いやなことをされるのがいやだからだ。しかしこういう少女に限って、裏からいろいろと男の馬鹿にやられて悩まされ、結局、若いうちに死んでしまうのである。

男は、こういう少女を食いつくし、滅ぼし尽くしたのだよ。今や、こういう女性は、ほぼ絶滅している。女性もこういう生き方をしては殺されるとわかっているので、決してやろうとはしない。

好きな女の子をいじめるという、男の幼稚さを改めて来なかったら、男が好きになるようなかわいい女性は消えて行くのだ。

この絵は、そういう男の馬鹿の悲劇を思い起こさせることになるだろう。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望

2014-01-09 05:12:36 | 虹のコレクション・本館
No,50
ジョージ・フレデリック・ワッツ、「希望」、19世紀イギリス、ラファエル前派。

象徴主義の描き方だが、イギリス人というのはセンスというものを深く考えず直截な描き方をするので、こういうことができる。

地球の上に座った女性が、目隠しをして、ただ一本残った琴の糸に耳を澄ましている。

これが何を意味するのか、わからないものはいまい。

この絵を見るたび、人間は思い出すことがあるだろう。

象徴主義は、魂の世界の現実を時に、この世界にあらわに読みだす。

芸術とは、生きることに何かを投げかけるものでなくてはならない。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネフェルティティの胸像

2014-01-07 04:11:58 | 虹のコレクション・本館
No,49
トトメス、「ネフェルティティの胸像」、紀元前14世紀、エジプト新王国時代、アマルナ美術。

アメンホテップ四世の正妃ネフェルティティは、当代隋一の美女だった。それはそれは美しい女性だった。この胸像が、長い時を経て人類の元に残ったのは、僥倖と言ってよい。

これは、古い時代の女性の美しさ、誇り高さを教えてくれる。現代の女性は、あらゆる苦難を味わって、誇り高さというものを、奪われ過ぎている。ゆえに、かわいらしくなりすぎているのだ。それは本当は、あまりにも悲しいことなのだ。

神は人類に、誇りをも与えている。それは女性にも当然与えられているのだ。その女性の誇りを、この胸像は残しているのである。

美しい。この美しさは、男の暴力によって矯められていない、女性本来の美しさに近い。

ネフェルティティはその美しさの故に、生まれて間もなく、王の妃となることを約束された女性だった。それはそれは、みなが彼女を大事にした。深く尊敬していた。

「美しいものが来た」というその名は、本当に、美しいかのじょの存在を、周囲が皆喜んでいたということなのだ。

女性の美しさとは、本来こういうものなのだ。まわりに喜びをもたらす。いるだけで、幸福をふりまく。そしてその美にふさわしい生き方をした彼女は、永遠の美女として今も伝えられているのである。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モナリザ

2014-01-01 04:29:40 | 虹のコレクション・本館
No,47
レオナルド・ダ・ヴィンチ・「モナリザ(ラ・ジョコンダ)」、16世紀イタリア、盛期ルネサンス。

このカテゴリの趣旨の一つは、モナリザに匹敵する美女を探すということだが、やはりここで本家本元にも触れておこう。

このイメージは永遠だ。このシリーズの冒頭にあげた、ベッリーニのマグダラのマリアも美しいが、やはり人間はこれを見てしまう。なぜならここには、暖かい愛があるからだ。

こちらを見てほほ笑んでいる。かぎりなくやさしい微笑みだ。すべてをわかったうえで、愛で微笑んでいる。人間はこれに惹かれずにはおれない。

デュシャンなどが間抜けなことをしているがね、所詮は張り合うことのできない相手にバカをやっているだけだ。

20世紀芸術は、大方がこれへの反逆の極みであったと言って、過言ではない。あらゆるものがあらゆる表現をしているが、一部をのぞいて、まるでガキの遊びのようにも見える。

本物はこういうことになるという、まぎれもない真実の一枚だ。誰もこれから逃れることはできない。
永遠に。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャルル七世の戴冠式のジャンヌ・ダルク

2013-12-30 04:39:58 | 虹のコレクション・本館
No,46
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル、「シャルル七世の戴冠式のジャンヌ・ダルク」、19世紀フランス、新古典主義。

アングルは少々問題のある画家だが、ジャンヌを誇り高く描いている絵というとこれが一番なのでとりあげた。

ジャンヌ・ダルクの実像はもう少し少年的だ。細く、背が高く、髪が短かった。男は、その姿を見ると、呆然とした。
美しいというレベルではない。きつい女だったのだ。男ではないのに、すごい。そういう女だったのだ。

男の原理における戦いが、堕落に帰して、現状を打開できる光の見えない闇に落ちたとき、このような女性原理の光が、事態を解決に導くことがある。

彼女らは、男のように汚い知恵や手段を使わない。ただ、清らかな愛で、皆のために、皆を救いたいと思うのだ。ジャンヌはまさにそういう女性だった。その行動の元にあるものは、ただみなへの愛だった。国を救いたかった。その愛の姿に、男は呆然とし、戦ったのだ。

女の戦い方というのは、男とは違う。ただ真正面から愛を振りかざす。男はそれにかなわない。そして男性原理を超えた愛が、あまりに堕落した男の戦いを、清らかに断ち割る。そして苦しい現状が打開され、国は奇跡的に救われる。

実に、このカードが出てきたら、もう終わりだというカードなのだ。男が女にかなうわけがない。

しかし男は、自分が馬鹿になるのがいやなばかりに、ジャンヌを惨く殺す。
しかし、ジャンヌは滅び去らぬ。見事によみがえる。

万物を生み出す女性は、自らをも生み出すことができるからだ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十字架上のキリスト

2013-12-29 05:25:24 | 虹のコレクション・本館
No,45
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、「十字架上のキリスト」、17世紀スペイン、バロック。

昨日と同じ理由で、磔刑図を探した。この図はたくさんの画家が繰り返し描いているが、なかなかにむずかしい。
むごたらしく描きすぎ、見てはいられないような図もたくさんある。だがこのスペインの画家の絵は、比較的穏やかに見ることができる。

この図を見て、自分も痛みを感じられないようなら、人間はどこかで感受性を拒否していると言える。

磔刑の図は、男というものが、敗北と関係なく生きることはできないということを、教える。

どのような美しく正しい男でも、暴虐の嵐の前に、こうならざるを得ないという経験を、一度はしなくてはならない。それが男というものだ。

これから永遠に逃げ続けていくことは、男にはできない。馬鹿が負ける痛みが嫌で、言と策を弄して逃げる奴ほど、汚い衆愚に逃げ、男を腐らせる。腐った男ほど、世界を荒らし、暴虐を撒き散らすものはない。暗黒とは、衆愚のことだ。

キリストは復活することはできない。死なねばならないからだ。暗黒の衆愚に挑戦し、自分の光を貫いて死んでこそ、男は真に光るものとなる。

これが怖くては、永遠に男にはなれない。

磔刑図は、男の紋章だ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘラクレスとレルネのヒュドラ

2013-12-28 04:26:16 | 虹のコレクション・本館
No,44
ギュスターヴ・モロー、「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」、19世紀フランス、象徴主義。

ヘラクレスを描いた絵を取り上げたかったので、探した。なかなかに気に入った絵がみつからなかったが、これを採用した。

頭が多数ある蛇と勇者が戦うという神話は、日本にもあるが、それは大勢で暴虐を働いて、世界を荒らしていたものを、一人の力強く正しい男がおさめるという出来事が、神話化したものだ。

事実、男というものが、正しい場面で正しく力を発揮する場合、ヘラクレスの神話のようになる。実に太古の昔には、このヘラクレスのような男が、けっこういたのだ。

だが、ジーザス・クライストの神話以来、そういう男は事実上、存在できなくなった。そのような男は、大勢の暴虐者、すなわちヤマタノヲロチやヒュドラによって、殺されるようになったのだ。

この美しい男性性を表現できる男が、いなくなった。故に男は、ヘラクレスという機能を、警察や軍隊で表現するようになった。どちらにしろ、団体でやらなければ、大勢という暴虐に対抗できなくなったのだ。

これは悲しいことだ。実に男というのは、団体ではなく、単体でなければ、表現できない美であるからだ。

ヘラクレスが存在できない世界にくる救済者は、もう男ではない。

たったひとりでヒュドラに立ち向かえるものが、もう男にはいなかった。だが。

ヘラクレスがこのまま、だまっているわけがない。
と、信じたいね。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする