世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

キリストの磔刑

2011-10-16 11:55:13 | アートの小箱

(「キリストの磔刑」シモーネ・マルティーニ)

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席につかれた。この町にひとりの罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら自分にふれている女がだれで、どんな人かわかるはずだ。罪深い女なのに」と思った。(略)「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしにしめした愛の大きさでわかる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。(新約聖書「ルカによる福音書7」より)


この世界には、女性だけが落ちる恐ろしい地獄がある。そこに落ちた女性は、そこの主(あるじ)によって、信じられない屈辱的なことを、男のためにするように要求される。女は逃げることも反抗することも許されない。男たちはその女に要求をのませ、すべてをやったのち、右手で金を払い、左手で女を指さし、馬鹿な女だと嗤う。

罪深き女というが、罪はどちらにあるのか。

多く愛する者は、多く許されると、イエスは罪深いと言われた女を慰め、許した。この地上で最も苦しい仕事の一つをやっている女性のために、男がかけたやさしい言葉は、わたしが知っている限り、イエスの言ったこの言葉だけである。

わたしは、その女性たちのために言う。あなたたちが一番、女性の中で清いのだと。
なぜなら彼女たちは、男の、もっとも苦しく罪深い病を、日々、癒しているからである。あなた方以上に美しい女性はいないとわたしはいう。

そしていつか、そういう女性が地上から全くいなくなることを、神に願う。


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ホロフェルネスの首を斬るユディト

2011-10-15 10:32:17 | アートの小箱

(「ホロフェルネスの首を斬るユディト」アルテミシア・ジェンティレスキ)

少し前にも、キリスト教絵画の世界では、男性が無残に殺されるという図が多いと書きましたが、これもその一つです。出典は旧約聖書外典のひとつである「ユディト記」から。

ユダヤの町ベツリアがアッシリアの軍に包囲されたとき、この町に住む美しい寡婦ユディトは町を救うためアッシリア軍の司令官ホロフェルネスのもとに飛び込む。彼女の美しさにホロフェルネスは気を許し、彼女を酒宴にまねく。ユディトはその夜、泥酔して眠るホロフェルネスの首を彼の短剣で斬り落とし、夜の闇にまぎれ、殺した男の首を持って町へと逃げ去る。司令官を失ったアッシリア軍は動揺し、ユダヤ軍の反撃のもとベツリアから去ってゆく。

こうしてユディトは町を救ったのですが、この話をもとにした絵画は多くの画家によって描かれています。中でもこのアルテミシア・ジェンティレスキの描いたユディトの図は見るものがぞっとするほど、凄惨です。

男の髪をつかんでしっかりと押さえながら、首にナイフを入れてゆく。大動脈から躍り出る血しぶき、短剣を持つユディトの手のゆるぎない力強さ。

画家アルテミシアは、画家としての成功は手に入れましたが、若いころに、絵画の師によって何度も辱めを受けるという、耐えがたき経験がありました。彼女はそれを訴えましたが、それも返って彼女を辱めることになっただけで、男は無罪となり解放されました。

アルテミシアはのちに結婚していますが、この絵をみると、男性に対する強い怨念を感じざるを得ません。よほどつらかったのでしょう。憎かったのでしょう。彼女の生きた時代には、女性はかなり低い立場にあったのです。おそらく、彼女が経験したようなことを経験した女性は、たくさんいたでしょう。男性は、古い古い時代から、こうして、女性を馬鹿にしてきたのです。

現代でも、性的被害にあった女性の苦しみは、アルテミシアの時代とそう変わってはいません。その男を、殺したいほど憎いと思うのは自然な感情です。それをやった男は、女性の心身に、洗い落とせぬ屈辱のあとを残していったのです。

わたしは思う。男性は、こういう女性の屈辱的経験に対して、どういう思いを持っているのか。女性に屈辱を与えた男はもちろんのこと、女性に触れたことすらない男性に対しても、聞いてみたい。長い長い間、女性が、このような屈辱にどれだけ苦しみ、耐えてきたかについて、男性はどう思っているのか。

答えられる人がいるのなら答えてほしい。ことこのことに関しては、男はだれひとり、何も語ったことがないのです。






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聖セバスティアヌス

2011-10-12 13:48:15 | アートの小箱

(「聖セバスティアヌス」サンドロ・ボッティチェリ)


唐突だが、キリストの磔刑像は、わたしにはまるで人が自分自身に釘を打ったかのような姿に見える。聖セバスティアヌスの殉教もそうだ。キリスト教の絵画の世界では、男性はむごい殺され方をした姿で描かれることが多い。対照的に、聖母マリアは、光り輝かんばかりに美しく描かれる。

わたしは、これは男性の深層意識にあった一種の贖罪の意識が表面化して画家に描かせたものではないかと考えたりする。

男性は女性に、今まで相当にひどいことをしてきた。男女間でもめごとがあれば、男はたいてい女が悪いことにしてきた。女性を男性より劣ったものとしてみなして、便利にセックスできるように、女性はだれも男より馬鹿なものだということにしてきた。永い永い間、罪の意識すらなく、男性は簡単に女性の心をふみにじってきた。そんな男性の意識か無意識の中には、女性に対する強烈な罪の叫びがあるような気がする。いっそ殺してくれと言わんばかりに、人類の男性は磔刑にされたキリストや木に縛り付けられ射殺された聖セバスティアヌスを見上げる。そして、密室で吐いた溜息のように、胸に隠し続けている痛い思いを、なんとか浄化しようとしているのかもしれない。

自分たちは本当は、こんな風に殺されなければいけないようなことを、おんなにしているのだと。

もちろん絵画の世界では、立派な男性の姿を描いたものも多いが、たとえば豪華な王冠をかぶり毛皮のローブを引きずったどこかの立派な王よりも、馬に乗って高々と腕を上げる雄々しい姿の英雄よりも、ずっと、木の十字架にはりつけられた彼の男の方が美しく、偉いのだ。痛々しいほどみじめな姿で死んでいる男の像を、人々はずっとあがめたてまつってきた。あれこそが真の人間の姿だといわんばかりに、十字架は空高くつきだされ、あがめられる。キリストは、男の罪の結果を教えるために、人々に馬鹿にされ、むごい罵倒をあびながら死んだのかもしれない。






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仮の主座

2008-07-19 10:21:50 | アートの小箱

さてと、そろそろ平常に戻れたらいいんですが。

今日は久しぶりに、一番少ないカテゴリをあけてみました。画像は、16世紀イタリア、ヴェネツィア派の代表的画家、ティツィアーノの「化粧する女」です。

15世紀から16世紀の、ルネサンス期の絵画は、後々の印象派以降の絵画に見られるような、全身をねじられるような苦悩の香りが薄いので、わたしは好きです。この時期を過ぎて、マニエリスモやバロック、ロココなどの時代になると、絵画が虚偽の衣を着始めて、だんだんと重苦しくなってきます。

技術は発展するのですが、何か大事なものが、蝕まれていくような感じがするのです。人間は、肝心なものをおいてきぼりにして、怪しげなものを追いかけ始めてくる。それが何なのかはわからないが、何やらとても魅惑的なもの。文明文化はどんどん進歩発展していくように見えて、何かが確実に暗闇に追い詰められていく。

魂の芸術と、世俗的な栄誉の、競合の中で、自分を見失い、狂気の果てに死んでいく画家も、たくさんいました。それは激しい矛盾の争いだったからです。美しいものは、神の愛の助けがなければなりたたぬのに、その愛をだましながら、もっとも醜い欲望のために、それを奉仕させるのです。それは神の魂を知る芸術家にとって、むごすぎる仕事でした。

その矛盾を、生きるものの弱さを憐れむ神の愛の中におき、なんとか生きていく芸術家もいました。魂の美と世俗の欲の谷間で、見事な仕事をしたものもいました。

ティツィアーノは、その矛盾を見事な力で生き切った芸術家だとわたしは思います。トップの絵は、虚栄を表現した世俗的テーマです。美しい美女の顔は蝋人形のように固まっている。目を殺し、魂をだまらせ、完璧に化粧した美女に、神につかえる聖女からうばった美しい衣を着せ、その恥の苦しみをも見事に殺している。

美女に化けている女性の背後で、鏡を持っている男性が、これはみんなうそだよと、ささやいているようです。世間にはまったく美しい女性の絵を描いているだけのように見せて、画家はみごとにやっている。こんなのはみんな、うそだよ。美しく見えるけれど、ほんとうはね、すばらしく馬鹿なことをしているんだ。

レオナルドなら、こんな美しい髪と衣服は、モナリザのように真に美しく賢い女性にしか着せない。しかし、ティツィアーノは、それを化粧で化けさせた普通の女性に着せるのです。それはそれは、芸術家にとって、苦しい仕事です。彼はそれをどうやってやっているのか。

この仕事は、芸術家にとって、自分をまったく裏切る仕事です。たいまいの金をはたいて画家に描かせるパトロンのために、彼はまったくすばらしい仕事をせねばならない。普通の画家なら、たまらず、途中で逃げ出すか、アングルのようにまったく嘘ざむい技術の中に逃げる絵を描くかもしれない。しかしこの画家は、まったくおもしろいことをやります。

それは、自分の中に、仮の主座をこしらえ、そこに世俗の王を座らせ、その王に自分の技量全てをわたして描かせるのです。すなわち、自分を、いったん奥の主座に退かせ、前面に出した仮の首座に座らせた、「馬鹿」に、自分の絵を描かせるのです。これは、近現代においては、かなりのアーティストがやっています。けれども、この16世紀において、これができたのは、たぶん、ティツィアーノだけでしょう。

自分を完全に殺して、自分を生かす。これはすばらしい才能です。恐ろしい芸術家です。魂の力が強くなければ、また、深い教養の持ち主出なければ、できません。これを、まったく世俗の画家として生きながら、生涯やっていたのです。

完璧な技量で描いた、文句のつけようのない美しい絵を、人々に見せながら、その奥の主座に、ひっそりと隠れている魂が、これはみんな、うそなんだよと、ささやいている。これに気がつくとき、思わず笑ってしまう人もいるでしょう。

ほとんどの人間は、ティツィアーノに騙されている。アートの魂は、ときに、おそろしいことができる。

現代、このティツィアーノにそっくりな仕事をしている人が、けっこういますよ。探してみましょう。一見、世俗に取り入る馬鹿みたいなことをしているようにみえて、しっかりと、実にうまいやり方で、真実のための仕事をしている。アートの神は、人間の裏をかくのが、とても好きなようです。

人間は、あなどれません。







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超人

2008-03-08 11:18:16 | アートの小箱

先日、ルームシューズを編み上げました。去年家をリフォームして、畳の部屋をあらかたフローリングにしてしまったので、足元に寒さを感じていたのですが、このルームシューズのおかげで、とても足が暖かく、重宝しそうです。

編み物もこれで一段落、そろそろ絵が描きたいと思い、スケッチブックに手を出しました。ひさしぶりに描いた切り絵の下書きは、以前と少し雰囲気がちがいます。ちょっとは勉強がすすんだみたいです。出来上がったら、皆さんにお見せしたいと思います。

さて、今日はこれまでと少し気分を変えてみたくなり、一番中身の少ないカテゴリをあけてみました。アートについては、前のブログで語りつくしたような感があったので、なかなか書けなかったのですが。

絵は、ティツィアーノ・ヴェチェリオ(16世紀イタリア・ヴェネツィア派)の、「マグダラのマリア」です。この画家は、語るのが難しく、つい避けてしまいがちだったのですが、最近、どうしようもなく、ひかれてしまいます。

レオナルドやミケランジェロなどのルネサンスの巨人と比べれば、陰が薄くなりがちなのは、画家として栄光の人生を歩み、長寿と幸福を得た人だったからです。その絵は、衝撃的というより、とにかく、「うまい」、「完璧」、「すごい」。けちのつけようがない。レオナルドやミケランジェロを批判することはできても、これはあまり批判できない。それはなぜか。

それは彼が、人には見えないところで、絶妙の仕事をやっているからです。

こんなことができるのか、という仕事を、見えないところで本当にやっているからなんです。これが不可能じゃないんだ、ということを、見事にやってのけているからです。

このマリアの顔をご覧ください。まるで、自分を見失っているかのような、瞳でしょう。ほんとうに、気がおかしくなっているかのようだ。もちろん、気がおかしくなっています。しかし、ほんとうはそうではないのです。難しいことを、彼女はやっているんです。本当に気がおかしくなっているのだけど、ほんとはそうじゃないということをやっているんです。

ティツィアーノは、これができる芸術家だったのだと、わたしは感服しています。要するに彼は、ほんとうの自分自身、禅のことばで言うところの「主人公」を、微妙に定位置からずらし、その隙間に、世俗的価値観や人間的な好みなどを、ソフトを入れ替えるように差し込んで、自分の才能や技量を存分に使わせて、やっているんです。わかりにくいかなあ。要するに、わざと、やっているんですよ。すごいや。

これがレオナルドなら、絶対にできないってことを、やってるんです。頑固一徹レオナルドは、自分の技法を純真に追い求めて、完璧にやりとげることはできるけれど、これはできない。豊かな才能と技量を、惜しげもなく開放して、みんなが、いいなあと思うことをやってくれてるんです。これをやるには、よほどの器用さ、巧みさが必要だ。

天才レオナルドは、一つの技法でまっすぐにやるという不器用な天才です。だから、その人生は悲劇的なことになった。けれど、ティツィアーノの天才は、その天才を完璧に殺して、非凡でありながら平凡にすることができるという天才なのです。

自分を完璧に殺して、本当の自分をやる。きついことだけど、やれるんですね。この人は。すごい。

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フィンセント・ファン・ゴッホ

2007-11-29 09:53:14 | アートの小箱
《洋梨のある静物》 油彩 1887-88

どうも、デジカメどころかスキャナの調子も悪くなったらしく、少し画像がくすんでいます。ほんとうはもっと明るくてくっきりした色合いです。

ゴッホの魅力の一つは、燃えているというより、純粋には存在不可能なようなイオン化傾向の高すぎる金属が、それ自身存在するだけで燃えているかのような、黄色です。

ゴッホが描くと、麦畑も、夜のカフェの明かりも、空さえも、金属質の純真な愛の叫びに見える。死の壁を越えなければ見えないような、虚無の刃に引き絞られた愛の叫び。それが、まぶしいくらいの美しい黄色に現れているような気がします。

筆のあとが荒々しく見えるのに、対象の真実を明確につかんでいる。ナシはナシにしか見えない。布も布にしか見えない。それなのに、まるで何か別のもののように見える。ナシの奥で、見知らぬ新しい何かが燃えている。そんな風に感じる。美しい。激しく美しいのに、悲しいくらい、可憐。

後期印象派と、人は名づけたがりますが、ゴッホは印象派に学んで、まったく別のものを作り上げたような気がします。見るほどに苦しくなるのは、絵の奥で、近代文明の中では生きていくことの不可能な、純真な愛が、激しく殺され続けている叫びを感じるからです。

印象派の原動力の一つとなったマネは、近代文明の矛盾と偽善を暴きながらも、それに巻き込まれていかざるをえない悲哀に浸りこみ、死んでいった。けれどもゴッホは狂気の中で、真実の愛を非情な現実の嘲笑にぶつけて、自ら粉々に砕くような生き方をした。それ以外では生きられなかった人は、それ以外に道がなかったかのような時代でした。

美しすぎるものが、激しく壊されていく時代、ゴッホの絵は、壊れていく真実の向こうから、何かが見え始めてくるという予兆をも見せています。それが本当に見えてくるのは、もっと後になってからです。

芸術はそれから、シュルレアリズム、キュビズムと、自らを破壊し始める方向に向かいます。その向こうで、新しい何かが見えてくる。現代は、まさしく、その新しいものが何なのかを、求めていく時代です。

美しいものが、美しいものに、帰って行く。本来の正しい姿に戻っていく。安らかで気持ちのいい故郷に、魂が戻っていく。

これからの芸術は、きっとそうなっていくでしょう。


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ジョルジョーネ

2007-09-11 09:17:53 | アートの小箱

眠れるヴィーナス  ジョルジョーネ
Giorgione (1477-1510)
16世紀ルネサンス ヴェネツィア派。

なんだか、論語の後に、横たわる裸婦をやるのは、飛びすぎてるような気がしますね。まるで世界が違うので、読んでくれてるみなさんも、戸惑っているのではないでしょうか。

昨日、ウルビーノのヴィーナスを紹介したら、やはりこちらも紹介しないわけにはいかないでしょう。横たわる裸婦の系譜の、最初となった作品。美しい田園風景の中に静かに横たわるヴィーナス。

ジョルジョーネの本名は、ジョルジョ・ダ・カステルフランコ。とても体の大きな少年だったので、ジョルジョーネ(大きなジョルジョ)と呼ばれたそうです。
彼はティツィアーノの兄弟子にあたり、二人はとても仲のよい友人だったそうです。ジョルジョーネがティツィアーノと違ったのは、自分の自由な表現、を求めたこと。ティツィアーノは、神話や宗教画、肖像画など、当時の人々にわかりやすい絵を、卓越した技術で描いて、80年の人生を名声で満たしましたが、彼は晩年、自らの芸術に冒険をして挫折し、失意のうちに30代で死んだのです。

田園の中に静かに横たわるヴィーナス。これはかつて、だれも描いたことのないテーマでした。彼の晩年の絵は、斬新すぎて、人々の理解を得られなかったのです。このヴィーナスも、未完のまま残されましたが、ティツィアーノによって完成され、美しい姿を、現在まで残しています。

これはジョルジョーネとティツィアーノの、愛の結晶、といってもいい作品だとわたしは思います。ジョルジョーネのほかの作品、ユディトなどを見ると、ティツィアーノよりもむしろ、影響を受けたといわれるレオナルド・ダ・ヴィンチの画風に近い。でもこれは、たぶん、ティツィアーノの筆がだいぶ入っているのでしょう。レオナルドの澄んだ静けさよりも、ティツィアーノの重厚さ、そして兄弟子への愛情が出ているような気がします。

この作品の構図を引用して、ティツィアーノは「ウルビーノのヴィーナス」を描いたわけですが、失意のまま若くして死んだジョルジョーネの名が、これほどまで長く伝えられ、この絵が横たわる裸婦の系譜の下となったのは、彼を愛したティツィアーノの存在があったでしょう。ティツィアーノは、芸術家としては、苦しい矛盾を抱えていましたが、あらゆる画家に光を注いだ、ともいえます。

耳を澄ますと、寝息でも聞えてきそうな、美しくやさしいヴィーナス。この姿に安らぎを感じる人は多い。それは若くして死んだ芸術家を惜しんだ、ティツィアーノの愛のせいなのかもしれません。


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ティツィアーノ

2007-09-10 10:37:14 | アートの小箱
ウルビーノのヴィーナス  ティツィアーノ・ヴェチェリオ
Titian (Tiziano Vecellio) ( 1488-1567)

横のカテゴリーの欄を見たら、アートの小箱のカテゴリーが少なすぎるような気がしたので、今日はこれを書いてみることにしました。

ティツィアーノは、ジョルジョーネと並んで、16世紀イタリア、ヴェネツィア派を代表する画家です。ジョルジョーネは夭折しましたが、ティツィアーノは彼の分まで長く生き、画家としては最高の幸福な人生を送りました。

麗しい色彩と絶妙な技術で描く人物が、素朴な職人技であった初期ルネサンスの絵画を、より高く芸術に高めた。彼によって、レンブラント、ベラスケスなどの画家が影響を受け、近代美術の先駆者のひとりとなりました。

横たわる裸婦の系統を最初に作ったのは、ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」ですが、このウルビーノのヴィーナスはその彼の絵の構図を借用する形で描かれています。こういう絵画での引用が、当たり前に行われるようになったのも、これくらいからじゃないでしょうか。これから、ゴヤの「裸のマハ」とか、マネの「オランピア」ができた。

ヴィーナスを横たわらせて眠らせたのには、もちろん男性の中の性的意図があります。ボッティチェリのヴィーナスは、それはそれは美しく、幼児的な素朴ささえあり、性的対象にはちょっとなりえない。美の女神そのものですが、ジョルジョーネは、やはり、女神様に、眠ってもらって、自分の相手をしてもらいたい、という意図があったんでしょうね。つまり、ジョルジョーネによって、ヴィーナスは女神から、人間の女性に近づいたのです。

横たわる裸婦(ヴィーナス)の系譜には、男性の女性への、矛盾した心が結晶している。美しいものをたたえたいと同時に、苦しいほど殺してしまいたい。

マハにしろ、オランピアにしろ、かなり男性の苦しい本音が見え隠れしているのですが、しかしこのティツィアーノのヴィーナスは、少し違います。彼はこの裸体画を、仕事で描いている。好きで描いているのではない。どういう状況で描かれたのかはわからないのですが、そんな気がするのです。

裸体の美女よりも、足元の犬のほうが、かわいらしく、画家が安心して描いている。そんな風に感じるんです。画家は、神聖ローマ帝国やスペインなどに招かれて、画家としては最高の栄誉を得ましたが、本音では、苦しかったのではないか。ほんとうはジョルジョーネのように、世間にはあまり認められずとも、自由に自分らしい絵を描いて、さっさと死んでしまいたかったのではなかったか。ジョルジョーネの死後、ティツィアーノが彼の未完の作品を数多く完成させているのも、彼の人生がうらやましかったからではないかとさえ感じるのです。

ほら、このヴィーナスも、美しいですが、目顔が、「いやだ」と言ってるように感じるでしょう。背後の二人の人物も、背中を向けています。まるで、こんな絵はいやだ、と言っている彼の気持ちを代弁しているかのようだ。本当は、彼は、もっとちがう絵を描きたかった。

ではなぜ、ティツィアーノはジョルジョーネのように生きることができなかったのか。それはやはり、うますぎたからです。ジョルジョーネよりも、ずっと、うまかったからです。彼にはできることがたくさんあった。それをしないわけにはいかなかった。
彼が美術史に果たした影響は大きい。彼によって、絵画は大きく成長した。芸術家たちの技術と表現が、爆発的に進歩したのです。

マネのオランピアは、ティツィアーノのヴィーナスの最高の孫ですね。あれ以上の傑作は、今のところ見当たりません。モディリアーニなども、たくさんの横たわる裸婦を描いてるけど、あれ以後、あれを越えるものが出てこないなあ。要するに、オランピアは、横たわるヴィーナスにこめられた男性の本音を、あからさまに暴いたのです。

こういうマネの仕事も、ティツィアーノがしてくれた仕事があったから、できたわけです。こんな風に、ほんとにすごい本物は、思いもしないところに隠れていたりする。

うますぎて、好きではなかった画家なんですが、最近、絵の中の彼の声に気づいて、すごいな、と感じるようになってきました。



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こどもみたい

2007-05-26 11:30:03 | アートの小箱
昨日、スーパーの鮮魚売り場で、ほら貝を売っていたのです。一個198円。ほら貝なんて食べられるんだあって思ったのですが、どうしよう、珍しい、一個ほしいな。で、ちょっと迷ったのですが、買ってしまいました。

料理の仕方なんて知らないので、塩茹でしてみたんですけど、硬くて食べられなかった。でもいいんです。ほしかったのは貝殻ですから。歯ブラシで磨いて洗ってみたのですけど、けっこうきれい。これで何かやってみたいなあ。工作用ニスを塗るのは簡単だけど、ちょっともったいない。きれいだから、とにかく写真撮ってみよって、窓辺において写真とって見ました。

こういうことをするとね、人様には、あほだねとか、かわいいねとかいわれます。でもね、わたしはね、大人はつらいなって思う。きれいだなって思う心を、素直に楽しめないの。面白いなって思えば、ちょっとやってみればいいの。それだけなんだけど、子供みたいに、失敗して、笑われるのが怖くてやれない。
鮮魚売り場のほら貝。ほんとは料理の仕方とか使い方とか、あるんでしょうけどね、大人のやり方ってのがあるんでしょうけど、人はそこから突っ込みいれられるのがこわくて、おもしろいことできないの。ほんとにお前は子供だなとか、何にも知らないんだなっていわれるのがこわくて、できない。

絵はモリゾの描いた女性の肖像です。タイトルは忘れましたが、笑ってる女性がかわいくて気に入ってます。女の子はかわいい。自分の感性を楽しめる。女の子は一生、すっかり大人になってしまわなくてもいいから。いつだって楽しいもの、きれいなものを手にとって、楽しめる。
でも、大人になってしまったら、完全にそれを捨てなくてはいけない。少なくとも、今の世界では。愛と微笑みだけでは生きていけない世界になってしまっているから。すべてをつまらないものにして、滅ぼしてしまっていい、やっつけてしまっていいってものにしなければ、人間は生きていけないって世界になってしまっている。

モリゾはいい画家だと思うんだけど、相当な評価はされてませんね。理由はひとつ、女性だからでしょう。あんまりにかわいすぎて、本流じゃないて感じにとられるのかな。いろいろ世間をわかっている男の作品のほうがいいって思われるんだろうな。

でも正直、現代アートは息苦しい。芸術が、あまりに高いところ、偉い人がやるものになってしまってて、なんだか苦しい。見て楽しいものって言うより、えらい画家が描いたんだって思わなくちゃいけないのかなって感じでね。

アートの本質は、人間の感性を楽しむってことじゃないかなって気がするんですよ。スーパーで買ってきたほら貝を洗ってみる。貝の美しさを楽しんでみたい。そんなのがわたしは楽しいなあ。

こどもみたいですけどね♪
コメント (2)
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