世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

聖セバスティアヌス

2011-10-12 13:48:15 | アートの小箱

(「聖セバスティアヌス」サンドロ・ボッティチェリ)


唐突だが、キリストの磔刑像は、わたしにはまるで人が自分自身に釘を打ったかのような姿に見える。聖セバスティアヌスの殉教もそうだ。キリスト教の絵画の世界では、男性はむごい殺され方をした姿で描かれることが多い。対照的に、聖母マリアは、光り輝かんばかりに美しく描かれる。

わたしは、これは男性の深層意識にあった一種の贖罪の意識が表面化して画家に描かせたものではないかと考えたりする。

男性は女性に、今まで相当にひどいことをしてきた。男女間でもめごとがあれば、男はたいてい女が悪いことにしてきた。女性を男性より劣ったものとしてみなして、便利にセックスできるように、女性はだれも男より馬鹿なものだということにしてきた。永い永い間、罪の意識すらなく、男性は簡単に女性の心をふみにじってきた。そんな男性の意識か無意識の中には、女性に対する強烈な罪の叫びがあるような気がする。いっそ殺してくれと言わんばかりに、人類の男性は磔刑にされたキリストや木に縛り付けられ射殺された聖セバスティアヌスを見上げる。そして、密室で吐いた溜息のように、胸に隠し続けている痛い思いを、なんとか浄化しようとしているのかもしれない。

自分たちは本当は、こんな風に殺されなければいけないようなことを、おんなにしているのだと。

もちろん絵画の世界では、立派な男性の姿を描いたものも多いが、たとえば豪華な王冠をかぶり毛皮のローブを引きずったどこかの立派な王よりも、馬に乗って高々と腕を上げる雄々しい姿の英雄よりも、ずっと、木の十字架にはりつけられた彼の男の方が美しく、偉いのだ。痛々しいほどみじめな姿で死んでいる男の像を、人々はずっとあがめたてまつってきた。あれこそが真の人間の姿だといわんばかりに、十字架は空高くつきだされ、あがめられる。キリストは、男の罪の結果を教えるために、人々に馬鹿にされ、むごい罵倒をあびながら死んだのかもしれない。





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