世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ティツィアーノ的な

2013-06-05 04:35:24 | アートの小箱

今日は、ティツィアーノの系譜にある絵画を紹介します。いろいろと駄弁を繰るよりも、見てもらった方がわかりやすいと思うので、解説は最小限に。まず冒頭の絵は、フランシスコ・デ・ゴヤの「イザベル・デ・ポルセール」。荒いタッチだけれど、対象の性質を見事にとらえています。うまいですね。



これはディエゴ・ベラスケスの「道化パブロ・デ・バリャドリード」。うん、うまいですね。動的なポーズだ。見ているとこちらに飛び出してきそうです。



ピーテル・パウル・ルーベンス、「ヴィーナス・通称毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」。おもしろいですね。肉感的な女性の特徴をよくとらえています。



アンソニー・ヴァン・ダイク、「自画像」。おお、かっこよく決めてます。自信たっぷりだ。



レンブラント・ファン・レイン、「自画像」。これもうまい。



エドゥアール・マネ、「フォリー=ベルジュール劇場のバー」。ううむ。これはすごい。技術もすばらしいが、ここまでくると、時代の悲哀が出て来ますね。精神性がにじみ出てくる。

いろいろと紹介しましたが、どうです。みな、目が輝いているでしょう。自分を生かせる世界がここにある。人間の翼を広げられる空がある。みな明るい。自分の力を存分に発揮できる幸福が見える。自分であることを楽しんでいる。

人間の人間たる個性は、ここらへんにあるのではないか。そういうこと感じます。

ティツィアーノは、人間が人間らしくあるということが、どんなことなのかを、教えてくれます。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レオナルド的な

2013-06-04 05:00:32 | アートの小箱

先に、人間の個性は、レオナルド的な世界よりも、ティツィアーノ的な世界の方が、生きやすいと書きました。けれども、時代が下り、19世紀から20世紀になると、人間の描く絵に、レオナルド的な悲哀が忍び込むようになります。

それは、文明が進み、機械化文明などの影響で、人間が、人間らしく生きるということが、難しくなってきたからなのです。つまりは、人間というものが、機械化文明や民主社会を効率よく運んでいくための、一つの歯車のようになってしまった。本来なら人間を幸せにするはずの、技術や社会体制が、人間をむさぼり始める。その痛みの中で、人間は叫びをあげる。人間らしい人間であることを否定された人間たちの苦しみが、芸術の中に現れ始める。
そして人間は、ようやくレオナルドがわかるようになった。

レオナルド・ダ・ヴィンチの孤独が。

冒頭の絵は、メキシコの画家フリーダ・カーロの「ボサボサ髪の自画像」です。技術的には、レオナルドとの関係はあまり見られませんが、どことなくモナリザと共通した悲哀を感じるでしょう。

フリーダ・カーロは、同じメキシコの画家、ディエゴ・リベラを愛しますが、彼からはさまざまに冷たい仕打ちを受けました。病気も彼女の人生に試練を打った。彼女は女性であるが故の、さまざまな理不尽をも感じていたでしょう。自分らしくあることを否定される風をさまざまに受けていた。それゆえにか、彼女は自画像をもっぱら描き続ける。自分を、描き続ける。わたしは、誰なのか。わたしは、わたしは、いるのか。どこにいるのか。

自分であるがゆえの孤独。それを秘めたまなざしが、どこかモナリザに似ている。

それは、天才であるがゆえに孤独にならざるを得なかったレオナルドの悲しみでもあった。人間社会にいる限り、彼は一つの奇形としてしか、生きることができなかった。自分と同じものは、どこにもいなかった。自分を理解してくれるものは、どこにもいなかった。

だれもわたしを、わかってはくれない。わたしは、だれなのだろう。わたしは、何なのだろう。どういうものなのだろう。

その孤独は21世紀になった今でも世界に流れている。そして人間はこれから、どこへいけばいいのか。

新しい時代は始まっています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レオナルドとティツィアーノ

2013-06-02 04:49:23 | アートの小箱

何だかタイトルとちょっと違うように思えますが、冒頭の絵はジョルジョーネの「読書する聖母」です。ティツィアーノの兄弟子でもあるジョルジョーネの絵としては、「眠れるヴィーナス」が有名ですけれども、あの絵は、どことなく雰囲気がこの絵と違いますね。それはジョルジョーネの死後、未完成のまま残されたそのヴィーナスの絵を、ティツィアーノが完成させたからなのですが。

そのティツィアーノの手が入っていないこの絵を見ると、ジョルジョーネがレオナルドの影響を受けていたということが、わかります。画面に漂っている静謐な雰囲気は、レオナルドに学んだもの。とても美しい。けれどもわたしは、この絵を見ると、人間、そんなにいい子にならなくていいよ、もっとやんちゃをしていいよ、と言いたくなる。

レオナルド・ダ・ヴィンチにも、弟子はいました。彼らはレオナルドの技法を学んでそれぞれに絵を描いているんですけれど、どの弟子の絵も、レオナルドの真似から脱していない。だから今でも、弟子の描いた絵が、レオナルドの作品と間違えられていたりするんですけど。

下の絵はレオナルドの弟子だったベルナルディーノ・ルイーニの、「女性の肖像」という
絵です。



かなり個性が出てると思いますが、やはりどことなくレオナルドのコピーという感じから脱することができていません。微笑みの仕方も、まなざしも、レオナルドの強烈な香りがする。何かに縛られているかのようだ。

西洋絵画史からの観点でも、レオナルドの系譜は、彼の弟子あたりで途切れています。レオナルドの技法では、レオナルドを超えることができない。人間の生き生きした才能が、レオナルドの世界ではまだ生きることが難しいという気がする。

ところが、ティツィアーノの系譜からは、かなり面白い才能が生まれてくる。ベラスケス、ゴヤ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、最もおもしろいのは、マネ。

どうしてかというと、人間の人間的な個性は、ティツィアーノのやり方での方が、生き生きと自分を生かせる大きな庭が見えるのです。人間は、レオナルドのように、いい子的な「美しい」という描き方よりも、ティツィアーノ的な、「上手い」という描き方の方が、向いている。

つまり、人間の持っている、技術の巧みさ、絶妙に上手いと言うところを目指せる器用さ、ということを生かせる世界が、ティツィアーノの描いた絵の中にあるのです。

つまりは、ティツィアーノは、人間の好きな、すごい技、というものを持っている。それがすてきなところ。ティツイアーノの世界で、人間は本来持っている面白い個性を生かせる。そこから、人間は人間としての、自分たちの個性を見つけることができる。

ティツィアーノ・ヴェチェリオは、人間に、人間の持つ個性と力がどんなものなのかを、そしてその自分の個性がみずみずしく生きていける世界を、教えてくれるのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男のひがみ

2013-05-03 07:05:19 | アートの小箱

冒頭の絵は、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの「ムーラン通りの医療検査」です。印象派の画家の中でも個性的な光を放つ画家ですが、この絵を見ると、わたしは少し気分が悪くなります。

これは当時の娼婦たちの義務だった医療検査の風景を描いているそうです。こういう場面を、なんでロートレックは描いたのでしょう。好意的に解釈もできるけれど、わたしはなんとなく、画家の心に人に見せられない影を感じてしまいます。

こういうロートレックの絵を、身体障害者として差別を受けていたロートレックが、踊り子や娼婦などに共感を覚えて愛情をこめて描いたのだなどと解釈する傾向がありますが、わたしは少々懐疑的にそっぽを向きたくなる。ロートレックは、美しい女性でも、まるで老女のように、顔の歪んだピエロのように描く。そこには、なんとなく、女性に対する男のひがみを感じます。

容貌の冴えない男性は、よく女性に対し、特に有能な女性や美しい女性に対し、ひねくれた感情を持ちます。ロートレックは、少年期に両足を骨折したことで足の成長が止まり、大人になっても身長が152センチくらいしかありませんでした。ウィキなどで当時の彼の写真の顔などを見ると、そういう身体的障害からくる、悲しいことを、高い精神性で乗り越えようとするような勉強をしている人とは感じられない。彼のこの障害は、彼の心に、少しひがみ、ゆがみを生んだ。男の人は、どんな人でも、女性に対し、ある種のひがみを持つものですが、彼の障害は内部に強い悲哀を生んだ。

ふ。みなさん、ここで筆者が変わりました。どうです。真実の天使の真実は、痛いでしょう。彼女は、ほんとうに、鋭く真実を言う。まことに、そのとおり。小さくも偉大な芸術家と、友人に言ってもらっていたトゥールーズ=ロートレックの心には、女性に対する、憎しみにも嫉妬にも似た、重いひがみが、ありました。これはまあ、女性に対しコンプレックスを抱く男の宿命のようなものです。

おや、みなさん、どうしました? わたしがでてきたことに驚きましたか。いや残念でした。彼女の方がやっぱりよかったでしょうねえ。とにかく、話を続けましょう。

男なら、同性として、とても、彼の心の影を暴けないでしょう。だが女性である彼女は、敏感に気付き、それを真実の言葉でいう。たまりませんねえ。なぜこんなことを言うかというと、彼女自身が、ひがんだ男によっていろいろと苦しめられてきたからです。

だから、ロートレックの絵を見て、すぐに気付いた。これは男のひがみだと。

男性は、この「男のひがみ」が原因で、いろいろと馬鹿なことをやってきました。女性や、ほかのいろいろなものに対してね。それでたくさんの人々が、たいそう苦しんできた。もうそろそろみなさん、大人になりましょうね。この「男のひがみ」、まるわかりです。顔をみれば、ひがんだやつだということが、すぐわかります。ほんとですよ。女性はそういう男性を見つけると、逃げます。

いっときますが、ヒトラーもスターリンも完璧なひがみ男でした。背が小さくてさえない男。とても女性にもてるとは思えない男ほど、なんとかして強い力をもちたいと思うものだ。それで悲しいことがたくさん起こった。原因は男のひがみ。実に、明瞭な真実です。

冒頭の絵は、わたし試練の天使の感想として言いますが、ばかですかと言います。ふ。女性に対し、これほどの侮辱をやるとは。そしてこの絵を、名作に数えるとは。破いて捨てなさい。焼いてつぶしなさい。これほど、女性を侮辱し、男性をも貶める絵はありません。ふ、きついですねえ、わたしは。彼女もきついが、わたしはもっとひどいです。

ちなみに、19世紀の西欧世界は、こういう男のひがみが、だんだんと強く表に出て来た時代でした。なぜか。西洋史における大航海時代の男性の罪が、この時代に、表に出てきたからです。男性が、だんだんと小さく、醜くなってきたのです。それで、女性の美しさに対する嫉妬の感情が膨らんできた。それが、19世紀という時代でした。

ではここらへんで。彼女はもう、あきれて、出てこないようです。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西洋絵画史における本物の美女

2013-03-26 11:35:13 | アートの小箱

(だれが考えるんですか、こんな記事。)

ほ。あなたではありませんか? もともと西洋美術はあなたのご趣味だ。

(それにしても、あんまりじゃありませんか?)

何、レカミエ夫人を見て、見破ることができなかった人間が多くいましたので、少し本物を見せてあげたいと思っただけですよ。

(やはりあなたの御企画ですね)

何、あなたも荷担しておりますよ。楽しそうに絵を選んでいたではないですか。
まあみなさん、今日二度目の更新です。ここにあげられる絵は、すべて、モデルとなった女性が本物の美女である絵です。じっくりとご鑑賞ください。

まず冒頭の絵は、「ヴェールの女」、ラファエロ・サンツィオ。モデルはラ・フォルナリーナ、本名はマルゲリータ・ルーティ。賢そうな女性ですな。ラファエロ嫌いの彼女も、このモデルの女性は好きだそうです。



「ゆりかご」、ベルト・モリゾ。モデルは画家の姉、エドマ・モリゾです。なかなかにしっかりした女性のようだ。横顔に、彼女の心を感じませんか?



有名すぎる絵ですが一応解説しましょう。「オランピア」、エドゥアール・マネ、モデルはヴィクトリーヌ・ムーラン。
これも気性のきつそうな女性です。エドマもヴィクトリーヌも画家を目指していたそうだが、さまざまな障害の前に、夢破れたそうです。



「ベアータ・ベアトリクス」、ダンテ・ゲイブリル・ロセッティ。モデルは、エリザベス・シダル。彼女は画家の妻となりましたが、夫の心を愛人ジェイン・モリスに奪われました。ちなみにジェインは偽物です。見比べてみれば、差がわかりますよ。ジェインをモデルにした絵は、どことなく嘘っぽい。関心ある人は、ロセッティで検索してみなさい。



「聖母子と二天使」、フィリッポ・リッピ、モデルは画家と駆け落ちして結婚した、ルクレツィア・ブーティです。なかなかに楚々とした女性だ。画家が一目ぼれするわけです。リッピの絵に愛のころもがほのかにかかるのは、この女性をモデルにしてからです。いや、美しい。



これも捨てがたいので入れました。「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」エドゥアール・マネ。美しいが勝気な感じの女性ですな。良い絵を描きます。才能ある女性らしい、何か強いものを持っている。マネの周りには、こういう女性が多かったようだ。ベルトはエドゥアール・マネを愛していたが、彼の弟、ウジェーヌ・マネと結婚したそうです。この絵を見ると、彼女の、画家への気持ちが感じられます。人を深く愛することのできる、いい女性だ。愛に耐えることもできる。この瞳を、画家はどういう心で描いていたのでしょうねえ。

ということで、西洋美術史における、本物の美女を描いた絵を紹介してみました。

よく見てごらんなさい。レカミエ夫人と、目が違うでしょう。

いいですか、みなさん、心を見なさい。うそとほんとのちがいくらい、わかるようになってください。

女性のみなさん、今日は厳しかったですねえ。いやあ、わたしは、辛いなどというものではない。

でも、これも、あなたがたのためにいうのです。そろそろやめないと、大変なことになりますから。

女性は、心です。心の美しさこそが、美です。本来ならばそれが、姿そのものとなって出てくる。心の形がそのまま表に出ているこれらの美女たちを、よく見てください。女性の美とはどういうものかを、学んでほしいものです。

これがわかる人が、いればいいのだが、まだまだ、見栄えにだまされる人間は、多いのですねえ。どう思いますか、真実の君。

(……何をどういえと言うのですか。こんなことをして、いいんですか?)

いや、忘れておりました、あなたを。あなたも真実の美女でしたな。

(もうだめです。わたしは。あなたはやることが、ひどい。)

愛ですよ。これも。

ふ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道化の金冠

2012-08-04 07:19:36 | アートの小箱
 「岩窟の聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチ、15-16世紀、イタリア、盛期ルネサンス

昨日「岩窟の聖母」について、ちょっと書いたので、今日はそれをやるだろうと予想された方はいらっしゃるでしょうか。はい、やりますよ。やはり見てもらわないとわからないと思って。
冒頭はロンドン、ナショナル・ギャラリーの「岩窟の聖母」、そして次が、パリ、ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」。



実はこのパリ版、わたしはずっと後世の加筆がされているのではないかと疑っていたのです。それは、幼子イエスに寄り添う天使の顔や雰囲気がロンドン版と違いすぎると思っていたからなのですけど、昨日よくパリ版の天使の顔を見てみると、ああ、確かにこれはレオナルドの筆だと感じました。

この絵はもともと、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の礼拝堂のために描かれたそうですが、パリ版は、絵の中のマリアやイエスやヨハネの頭上に光輪が描かれていないことなどの点を指摘され、祭壇画としての機能を果たしえないと依頼主に受け取りを拒否されたそうです。で、まあいろいろあったそうですが、結局は、描き直されたロンドン版が、祭壇画として採用されたらしい。ロンドン版には、マリアやイエス、ヨハネの頭の上に光輪が描かれ、ヨハネのアトリビュートである十字架杖も描きこんである。

ロンドン版は、ミラノ時代の弟子、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディスとの共作ではないかという説が最近有力ですが、中には、右下のイエスに寄り添う天使の顔の美しさなどは、とても弟子の力で描けるものとは思えず、これをレオナルドの最高傑作と考える人もいるようです。わたしもそれには賛成したいな。少なくとも、人物の主な部分はレオナルドが描いたとしか思えない。その理由の一つとしてあげられることは、レオナルドは、依頼主とトラブルがあったパリ版の、レプリカとしてもう一度描きなおしたらしいロンドン版を、最後まで完成させてないからです。よく見ると、幼子イエスの背中にあてられている天使の手が、ロンドン版では描かれていない。多分レオナルドが、依頼主の言うとおり描くのがいやになって、そこでやめちゃったか、描くのを忘れたか。弟子が天使を描いたのなら、最後まで完成させると思いますが。

でも改めて冒頭の絵を見ると、本当に、頭上に描かれた光輪が、余計だ。たった一本の線で金の輪を描いただけなのに、まるでレオナルドの絵の世界と似合わない。金の輪が、絵全体の空気を、壊しているようにさえ見える。本当に美しい絵なのに、それだけが苦しい。

ところで、デ・プレディスもかなりな腕の画家だったようです。最近までレオナルドの筆と思われていた絵が、彼の絵だったという話もあります。これがその、「ベアトリーチェ・デステの肖像」。



美しい絵ですね。わたしが小学校だったか、中学校だったか、忘れましたが、この絵がレオナルドの絵として教科書に載っていたのを覚えています。でも、この人の筆が、ロンドン版「岩窟の聖母」に入っている気配はわたしには感じられない。ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」には、ティツィアーノの雰囲気が感じられますが。やっぱり、ロンドン版もレオナルドがほとんど全部を描いたと思うな。これはそのロンドン版の天使の部分。



美しい天使です。最高傑作という声が出るのも不思議ではないと思う。でもこれ、よく見ると、イエスの背中に添える手、描かれてないでしょう。ついでに、パリ版の天使もあげておきましょう。こっちはもちろんちゃんと手が描いてあります。



ロンドン版は、天使の顔がレオナルドの最高傑作と言えるほど美しいけれど、作品全体としては、パリ版にオリジナルの良さを感じます。ロンドン版はやはり、金の輪が苦しい。せっかく美しいのに、まるで、道化が王様に化けるときにつける冠を、本当の王様が無理やりかぶらされているように感じるのです。

そんなものかぶらなくても、十分に心は美しいのに。

レオナルド・ダ・ヴィンチの思いは、誰にもわからなかったんだなあ。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男性

2012-07-30 07:15:44 | アートの小箱

今回は男性をテーマにした絵を並べてみました。最初は、かなりすてきな男性の絵を集めようとしたんですが、なかなかに気に入った絵が見つからず、少し視点を変えて、おもしろいことをしてみようと考えました。解説はあまりいたしません。絵を見て、考えてみてください。

先ず冒頭の絵は、「ルイ14世の肖像」
     イアサント・リゴー、17-18世紀、フランス、バロック

豪奢で立派な衣装ですね。



「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」
     ジャック・ルイ・ダヴィッド、18-19世紀、フランス、新古典主義

すごくかっこいいですね。



「バベルの塔」
     ピーテル・ブリューゲル、16世紀、フランドル、北方ルネサンス

小さいけど、一応画面の隅あたりに男性の集団が描かれています。



「霧の海をながめるさすらい人」
     カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ、18-19世紀、ドイツ、ロマン派

この人は、何を見ているんでしょう?なんでこんなとこにいるんでしょう?



「放蕩息子」
     ヒエロニムス・ボス、15-16世紀、ネーデルラント、ゴシック

これは聖書の「ルカの福音書」にある「放蕩息子の帰還」というたとえ話が元になっています。説明するのは面倒なので、興味のある人は検索して調べてみてください。

いかがでしたか? 何か感じるところはあったでしょうか。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性

2012-07-17 06:50:42 | アートの小箱

前回、天使の絵をたくさん紹介してみたので、今回は美しい女性の絵をたくさん紹介してみたいと思います。冒頭はアントニオ・デル・ポライウォーロ(15世紀、イタリア)の「婦人の肖像」。かわいい女性ですね。髪や首に飾った小さな真珠がよく似合う。良家のお姫様みたいな感じですが、小さな口元と顎がかわいい。貴夫人というより、まだ少女ですね。目元に幼さが見える。でもこれは好きです。とてもきれい。



これは、カミーユ・コロー(19世紀、フランス)の「真珠の女」。真珠みたいに見えますが、髪に飾ってあるのは真珠じゃなくて、葉っぱの飾りです。それが真珠のように見えるので、「真珠の女」と題されたそうなのですが。モデルはコローの家のご近所の十代の娘さんだそうです。ポーズはモナリザからとったのだと思いますが、小さくて丸い目がとてもかわいい。質素な服を着てるけれど、どこか気品を感じます。



ピーテル・パウル・ルーベンス(十七世紀、フランドル)の「麦わら帽子」(シュザンヌ・フールマンの肖像)。モデルのシュザンヌ・フールマンは、ルーベンスの二度目の妻、エレーヌ・フールマンのお姉さんだそうです。「麦わら帽子」というのはこの絵の愛称みたいなものらしいですが、かぶっているのは麦わら帽子ではありません。着てる服もとても上等だし、羽飾りのついたきれいなフェルトの帽子をかぶっている。大きな目がかわいいですね。ルーベンスは、ふくよかで愛らしい女性が好きだったようだ。



これは説明するまでもない。レオナルド・ダ・ヴィンチ(十五-十六世紀、イタリア)の「白テンを抱く貴婦人」。モデルは、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人、チェチーリア・ガッレラーニ。細面に少し薄い唇。まだ少女の瞳。資料では当時十六歳から十七歳だったと言われます。美しいけれど、悲しいな。誰かの愛人として生きることを、どういうふうに感じていたのでしょう。当時の風習では、彼女は彼の妻となることはできない。愛していたのだろうか。レオナルドの目は女性を静謐な光の中に照らしだす。その奥に見える真実を洗い出す。彼が描くと、女性はもう人間ではなくなってしまう。



これは、エドゥアール・マネ(19世紀・フランス)の「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像」。ベルト・モリゾは当時の女流画家で、エドゥアール・マネの弟、ウジェーヌ・マネと結婚しています。でも彼女の本当の気持ちは、ウジェーヌよりエドゥアールのほうにあったようだ。こうして見てみると、画家を見つめるベルト・モリゾの気持ちが見えてくるようです。わたしはこの絵が好きで、いつだったか、何かで自分のプロフィール画像みたいに使ったことがあったな。才気を感じる瞳ですね。



これは「フローラ」ティツィアーノ・ヴェチェリオ(16世紀、イタリア)。ふくよかというより、やわらかいながらもがっしりとした体つき。体躯が豊かだというのは、かなり魅力的ですね。最近の女性はみな細いけど、こういう女性も美しいな。暗闇に浮かびあがる金髪なども、とてもきれい。モデルはティツィアーノの妻ではないかとどこかで読んだことがあります。学術的にはいろんなことを言われていて、ネットでも調べたのだけど、その解釈の内容があまり好きじゃなかったので、ただ、美しい女性像の一つとして紹介してみました。

今日はたくさんの名画の美女を紹介してみました。こうして並べてみると、すごいですね。みんな美しいけれど、みんな違う。それぞれに、目が小さかったり大きかったり、金髪だったり茶色の髪だったり、やさしそうだったり、ちょっと気が強そうだったり、はかなそうだったり、しっかりしていそうだったり。もちろん画家の個性や好みもあるんでしょうが。

みんなちがって、みんないい。(by 金子みすず)

みんなきれい。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天使

2012-06-24 06:37:18 | アートの小箱

少し前のことですが、天使をテーマにした活動をしている、あるコミュニティをふと覗いたとき、ブーグローの絵が看板にあげられているのを見て、わたしは一瞬、うわ、と思わず声をあげてしまいました。何ですか。最近は天使がいろいろと流行っているのでしょうか。いろんな活動があるみたいですがもし、天使をテーマに扱うなら、頼むからブーグローの絵を使うのはやめてくれとわたしは叫びます。わたしも天使を描いた絵は好きだけど。テーマがテーマなだけに、ほんとにまじめにやるなら、ほかのもっとましな画家の絵を選んでくれと言いたい。で、ちょっと軽い衝撃を受けてしまったので、今日は、天使の絵をいくつか選んで並べてみました。

冒頭の絵は、メロッツォ・ダ・フォルリ(15世紀、イタリア)の「奏楽の天使」。これは本当に美しい。かわいらしくて、純真で、職人の整った良い心が見えて、心地よい。これは本当に天使そのものといっていい名作だと思います。で、下のが、ウイリアム・ブーグロー(19世紀、フランス)の「聖母子と天使」。



こうして並べてみると、何となく、違いがわかりませんか。ブーグローの描く天使は、きれいすぎるほどきれいには描いてあるけど、天使じゃない。白すぎるほど白く描いてあるけれど、何かが違う。みんなにせものだって気がする。

で、次が、ヤン・ファン・エイク(15世紀、フランドル)の「受胎告知の天使」。



これもわたしは好きです。天使の顔が優しく、瞳が温かい。北ヨーロッパの絵画の、南方よりもどこか光の薄らいだ画面全体の陰りや、彫像のように時を止めた人々の静謐な雰囲気もいい。そのせいか天使もとても気高く美しく見える。これも、本物の天使だ。

最後はサンドロ・ボッティチェリ(15世紀、イタリア)の「受胎告知」(部分)です。



神の子を受胎したと聞いて驚き惑うマリアを、気遣う天使のやさしく真摯なまなざし。思わず差し伸べる手。問題は、やっぱり、「愛」ですね。良い画家の描く天使には「愛」が灯っているのが見える。画家はまことに美しいものを描きたくて、本当の自分自身の心と手で描いたんでしょう。本当の自分とは愛だから、きっと自分の描いた絵の中の天使にも、自分の愛の火が点るのだ。

けれども、ブーグローの描く天使は、天使じゃないのです。彼の絵の中の天使は、まるで安物の女優に最上級の衣服を着せて、本物そっくりに化けさせて並べたように見える。まるでほんものそっくりに、それは美しく描いているけれど、まるごとうそっぱちだってわかる。それはなぜかというと、彼は、本当の自分が、絵を描いているんじゃないからなんです。少々ファンタジックなたとえをすると、前にも言ったけど、下手な画家が、魔法使いに魔法の筆を貰って、上手に描けるようにしてもらったという感じの絵なんだ。だから一見、とても美しく上手に描いているように見えるけれど、本当は、ものすごく下手なんですよ。これ、分かる人いるかなあ。時にいますね。すごくうまいけど、すごく下手な人。輝かんばかりに、白く描けば描くほど、汚れて見える。こうして並べてみると、わかりませんか。他の天使と比べると、どことなく、ブーグローの天使って、汚くて、嘘っぽいでしょう。

わたしだけかなあ。こんなことを感じるのは。

まあとにかく、わたしは、メロッツォ・ダ・フォルリの方が、ブーグローよりよほどいいと思う。最近はどうも、何かにつけきついことを書いたりしてしまうのですが、本当に、天使のような心で、天使のようないいことをしようと思うのだったら、ブーグローの絵を看板に使うのはやめたほうがいいと思う。ブーグローの描く絵が美しく見えるのなら、それはちょっと、心の勉強が必要だ。と、わたしは思う。

まあその、よけいなおせっかいかな。好き好きだから、別にいいのかもしれないけど。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

La Nascita di Venere

2012-04-16 07:52:24 | アートの小箱
「ヴィーナスの誕生」 サンドロ・ボッティチェリ 15世紀イタリア

今日は詩など発表する予定でしたが、昨日、カバネルやブーグローやアングルが許されるなら…などと書いたので、わからない人もいるかもしれないと思い、今日最初の更新は、「アートの小箱」に入れることにしました。
タイトルはイタリア語で気取ってみましたが、多分、「ラ ナシタ ディ ヴェネーレ」と読むのだと思います。要するに、「ヴィーナスの誕生」。
これはもう、ヴィーナスを描いた最も有名な絵で、だれも知らない人はいないと思います。わたしも好きです。本当に、女神さまそのものだし。


「ヴィーナスの誕生」 アレクサンドル・カバネル 19世紀フランス

個人的にはあまり好きではないんですが、横たわるヴィーナスの要素もあって、なかなかに官能的。でも女神様には見えませんね。普通の女の人の裸の絵を描いて、一応、ベッドの代わりに海を描いて、空にクピドなどをたくさん躍らせて、ヴィーナスにしたという感じです。
海の波の表現なんか、ボッティチェリよりずっとうまいと思うし、技術も進んでるけど。やっぱり、ボッティチェリのほうがきれいだな。


「ヴィーナスの誕生」 ウィリアム・ブーグロー 19世紀フランス

これはもっと好きじゃない。ブーグローは今でも人気はあるみたいで、この絵なんかも、すぐに売れたそうです。でも、なんというかなあ。真珠のように白い肌のヴィーナス。とても上手に描いてあるんだけど、わたしには、これ、とても下手な絵に見えるんです。どんな感じかというと、つまり、ほんとはもっと下手な画家が、うまくなりたくって、魔法使いから魔法の筆を貰って、うまく描けるようにしてもらったという感じ。
ようするに、技術に見合うだけの魂の成長が見えない。一見きれいに見えるんだけど、なんとなく、ヴィーナスを見る周りの人の視線に、痛いものがある。見たくない心が見える。海も、なんだか汚れた浴場みたいに見えて、どことなく、垢っぽく感じる。
なんか、嘘が透いて見えるって感じで、なんというかな、全体的に、きれいじゃない。だから好きじゃない。


「ヴィーナスの誕生」 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル 18-19世紀フランス

これもあんまり好きじゃない。うまいんですけどね。うまいだけという感じだな。


神話によれば、ヴィーナス(アフロディテ)は、クロノスによって切断されたウラノスの男根が海に落ちて、その精液から生じた泡から生まれたそうです。海の泡から生まれたというのはなんだか美しいけれど、その泡の元が男性の精液だと言われると、要するにヴィーナスは一種の神秘的な性行為によって生まれたわけで、愛欲の女神といわれるのもなんとなくうなずけるところです。

よく言われるところ、ヴィーナスは、人間が女性の裸を描く格好の言い訳として、使われる。裸の女の人を描いて、周りに海や貝やクピドなんかを描けば、ヴィーナスになるというわけで。それがなくても、ただ、ヴィーナスと題すれば、それは芸術であって、許されるわけで。

まあ、そこらへんを、マネのオランピアあたりがぶっ壊したんですけどね。

わたしもそれにならってヴィーナスを描いてみたのですけれど、女性の裸体はやっぱり美しいし、女性でも、見てみたくなるし、描いてもみたくなる。でも、同じ絵でも、やっぱり本当に美しい裸体じゃなければ、いやだな。ジョルジョーネやティツィアーノは美しいですけどね。

カバネル、ブーグロー、アングルは好きじゃない。だって、きれいじゃないもの。

まあ、今日の最初は、その好きじゃない絵を、参考までに、紹介してみました。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする