世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

道化の金冠

2012-08-04 07:19:36 | アートの小箱
 「岩窟の聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチ、15-16世紀、イタリア、盛期ルネサンス

昨日「岩窟の聖母」について、ちょっと書いたので、今日はそれをやるだろうと予想された方はいらっしゃるでしょうか。はい、やりますよ。やはり見てもらわないとわからないと思って。
冒頭はロンドン、ナショナル・ギャラリーの「岩窟の聖母」、そして次が、パリ、ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」。



実はこのパリ版、わたしはずっと後世の加筆がされているのではないかと疑っていたのです。それは、幼子イエスに寄り添う天使の顔や雰囲気がロンドン版と違いすぎると思っていたからなのですけど、昨日よくパリ版の天使の顔を見てみると、ああ、確かにこれはレオナルドの筆だと感じました。

この絵はもともと、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の礼拝堂のために描かれたそうですが、パリ版は、絵の中のマリアやイエスやヨハネの頭上に光輪が描かれていないことなどの点を指摘され、祭壇画としての機能を果たしえないと依頼主に受け取りを拒否されたそうです。で、まあいろいろあったそうですが、結局は、描き直されたロンドン版が、祭壇画として採用されたらしい。ロンドン版には、マリアやイエス、ヨハネの頭の上に光輪が描かれ、ヨハネのアトリビュートである十字架杖も描きこんである。

ロンドン版は、ミラノ時代の弟子、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディスとの共作ではないかという説が最近有力ですが、中には、右下のイエスに寄り添う天使の顔の美しさなどは、とても弟子の力で描けるものとは思えず、これをレオナルドの最高傑作と考える人もいるようです。わたしもそれには賛成したいな。少なくとも、人物の主な部分はレオナルドが描いたとしか思えない。その理由の一つとしてあげられることは、レオナルドは、依頼主とトラブルがあったパリ版の、レプリカとしてもう一度描きなおしたらしいロンドン版を、最後まで完成させてないからです。よく見ると、幼子イエスの背中にあてられている天使の手が、ロンドン版では描かれていない。多分レオナルドが、依頼主の言うとおり描くのがいやになって、そこでやめちゃったか、描くのを忘れたか。弟子が天使を描いたのなら、最後まで完成させると思いますが。

でも改めて冒頭の絵を見ると、本当に、頭上に描かれた光輪が、余計だ。たった一本の線で金の輪を描いただけなのに、まるでレオナルドの絵の世界と似合わない。金の輪が、絵全体の空気を、壊しているようにさえ見える。本当に美しい絵なのに、それだけが苦しい。

ところで、デ・プレディスもかなりな腕の画家だったようです。最近までレオナルドの筆と思われていた絵が、彼の絵だったという話もあります。これがその、「ベアトリーチェ・デステの肖像」。



美しい絵ですね。わたしが小学校だったか、中学校だったか、忘れましたが、この絵がレオナルドの絵として教科書に載っていたのを覚えています。でも、この人の筆が、ロンドン版「岩窟の聖母」に入っている気配はわたしには感じられない。ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」には、ティツィアーノの雰囲気が感じられますが。やっぱり、ロンドン版もレオナルドがほとんど全部を描いたと思うな。これはそのロンドン版の天使の部分。



美しい天使です。最高傑作という声が出るのも不思議ではないと思う。でもこれ、よく見ると、イエスの背中に添える手、描かれてないでしょう。ついでに、パリ版の天使もあげておきましょう。こっちはもちろんちゃんと手が描いてあります。



ロンドン版は、天使の顔がレオナルドの最高傑作と言えるほど美しいけれど、作品全体としては、パリ版にオリジナルの良さを感じます。ロンドン版はやはり、金の輪が苦しい。せっかく美しいのに、まるで、道化が王様に化けるときにつける冠を、本当の王様が無理やりかぶらされているように感じるのです。

そんなものかぶらなくても、十分に心は美しいのに。

レオナルド・ダ・ヴィンチの思いは、誰にもわからなかったんだなあ。





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