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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-06-28 09:20:06 | 月の世の物語・余編

「なんですか?ややこしい罪びとができたら、ぼくのとこにもっていけとでもいう道理でもできてるんですか?」竪琴弾きは、日差しのように月の明るい林の中を速足で歩きながら、少し怒ったように言いました。青年がひとり、彼を小走りで追いかけながら、言いました。「いや、そんなことではないですよ。ほら、この前、あなたの担当していた人がひとり、圏外の地獄に落ちてしまったじゃないですか。それで空きができたからだと思うんですけど」
それを聞くと、一瞬、竪琴弾きの目に青い悲哀の影がさしこみました。「…そうですね、多分そのとおりだ」竪琴弾きは、ずれた帽子をなおしつつ、小さな声で言いました。脳裏に、ある女性の面影が浮かび、竪琴弾きは悲しげに目を伏せました。

竪琴弾きの後ろを追いかけている青年が、ふっと息を吐いて、手の中に書類を出しました。それを読みながら、彼は言いました。「たしかに、難しい罪びとですね。これはどうやって導いたらいいんだろう」竪琴弾きも、歩きながら青年から書類を受け取り、それを読みました。「…かなりいい人ですね。この人は、二千年は月の世に来ていない。このたびの人生でも大過なくやり過ごして、ほとんど罪らしい罪は犯していない。なぜ月の世に来たのか、自分でもさっぱりわからないでしょう」
「ええ、普通なら、この手の罪は、浄化することは今の人間には難しいからと、彼らが成長するまで待ってもらえるはずなんですが。なぜか今回、許してもらえず、まっさかさまに月の世の地獄に落ちてきている。原因はお役所でもわからないそうです。上部にお伺いしているところなんだそうですが」青年は腕を組んで歩きながら言いました。そして、ため息とともに付け加えました。「…人間は、何も知らないまま、物事をいとも簡単にやりすぎてしまうからなあ…」

竪琴弾きは書類を手元から消すと、言いました。「さて、どうするべきか。どこまで彼に話したらいいと思います?」「難しいですね。事情を全部説明したら、人間にはまだ教えてはいけないことまで教えなくてはならなくなる」青年は、困ったように頭をかきました。竪琴弾きは木々の間を縫うように歩きながら、木漏れ日のように足元に揺れる月の光を見つつ、考えていました。そうしてしばらく、白い月の光に目を浸していると、ふと、光る小魚のように、何かの直感のようなものが彼の頭の中を横切りました。竪琴弾きは言いました。
「…うん。これはもう、全て話すより仕方ないかもしれない」「すべて?」「ええ、確証はありませんが、神の御計画の流れの中で、何かが変わってきているのではないでしょうか」「ふむ…」「とにかく本人に会って話してみましょう。多分、何かの神の導きがあるでしょう」「そうですね」
ふたりは、無数の光りながら踊るこりすのような明るい月光の木漏れ日を浴びながら、林の中をどんどん進んで行きました。

やがて、月の光はだんだんと暗くなり、林も鬱蒼と濃い森に変わってきました。どこからか水の音が聞こえ、ふたりは、暗い森の中を流れる一筋の川のところまで来ました。青年がポケットから月珠を取り出し、あたりを明るく照らしました。すると、川向うの岸辺に立っている木々に、何千羽もの鴉が、闇を切り取って無数に貼りつけたように、とまっているのが見えました。鴉たちは、月珠の光に驚いて、がやがやと騒ぎだしました。竪琴弾きは竪琴を鳴らし、鴉たちに鎮めの魔法をかけました。すると鴉たちは騒ぐのをやめ、代わりに、ふたりをちらちらとみながら、何かひそひそと話をし始めました。竪琴弾きは鴉の群れる向こう岸の森に向かって、罪びとの名を呼びかけました。しかし答えはありませんでした。竪琴弾きは何度も彼の名を呼び、二十ぺんも呼んだところで、ようやく小さな声が返ってきました。

「…はい、おります。ここです」
すると、黒い森の奥から、青い羽根をした鴉が顔を出し、それはよろよろと飛んで、森の木々の中から向こう岸の川べりに降りて来ました。竪琴弾きは少し安心して言いました。
「やあ、出てきてくれましたか。お会いするのは初めてかな。ぼくが今回からあなたを担当することになったものです。月の世に来るのは、ほんとうに久しぶりでしょう」
竪琴弾きが言うと、青い鴉は、悲しげな顔できょろきょろとあたりを見回し、言いました。
「わ、わかりません。どうしてわたしは、月の世にきたんですか。悪いことなどした覚えはありません。辛い失敗をしたこともありましたが、ちゃんとそれも謝ってお返しもしているはずです」
「ええ、あなたは、人間的にはほとんど、罪らしい罪を犯してはいません。おっしゃるとおり、一度だけ女性とトラブルがありましたが、ちゃんと悔いて、お詫びをしている。本来なら、日照界にいくはずなのですが…」

そこまで言ったところで、竪琴弾きは隣の青年と目を合わせました。青年が片眼を歪めて、苦しそうな顔をしました。空を見ると、群青の空に雪のように白い月がかかっています。川の上を吹く風は何やらねばついて生温かく、どこかに何か、とても汚いものがあるような気配がしました。向こう岸の鴉たちは、青い鴉を見ながら、何か面白げに、くっくっと笑い始めました。鴉たちの笑いは木々をざわめかせ、暗い森が揺れて一斉に、青い鴉を嘲笑し始めました。竪琴弾きは、苦しげに目を閉じました。青い鴉は森や鴉が一斉に自分を責め立てる声を浴びて、石のように凍りついてそこで動けなくなりました。何が何やらさっぱり分からない様子で、青い鴉は助けを求めるように、震えながら竪琴弾きの顔を見上げました。

「どう、どうして、こうなったのです。ここの鴉は、みんなでわたしをいじめるのです。わたしは毎日、鴉にひどい悪口を言われるのです。森も鴉も、みんな、わたしの悪口を言うのです。なぜこのような目に会うのですか?わたしは」

青い鴉は竪琴弾きに訴えました。竪琴弾きは、目を開けてしばし鴉をまっすぐな目で見、少し考え込んだ後、もう一度月を見上げました。そして、心の中で神に祈り、竪琴をぽろんと鳴らしました。すると、弦の一本が、悲鳴を上げるように、ぴんと音をたてて切れました。竪琴弾きは驚いて、竪琴を顔の前に持ち上げて見つめました。切れた弦は引きちぎれた月光の糸のように、風の中を揺れながら、蝿の羽音のようなかすかな音をたてていました。驚いて声を失った竪琴弾きに、青年が小声でささやきました。

「それは、何かのおしるしなのではありませんか。あなたの琴の弦が切れるなど、滅多にないことだ」竪琴弾きは、竪琴を背中に回し、しばし沈黙の中に考えつつ、青い鴉を、見つめました。その間も、向こう岸の鴉や森は、しきりに青い鴉を汚い言葉でののしり、その故に風が汚れて、森の方から、何やら腐ったゴミのような臭いがただよってきました。

竪琴弾きは、やがて何かを決心したかのように深いため息をついて、言いました。
「…そういうことですね。これはたぶん、神よりの何かのおしるしでしょう」竪琴弾きは、身を引き締めて神に導きを願ったあと、真剣なまなざしで青鴉を見ながら、言いました。

「…青鴉さん、あなたは、多分、人間の中で、初めてこれを知る人になるでしょう。人間は、ほとんどみな知らないことですが、地球世界には、人間の知らない、『絶対にやってはいけないこと』ということがあるのです。あなたは、今回の人生で、それをやってしまったのです。普通なら、この罪を浄化するには、人間はまだ若すぎるので、それができるようになるまで、待ってくれるはずなのですが、なぜか今回は待ってくれずに、あなたはここに落ちてしまった。そして罪を償わねばならない」
「ぜ、絶対にやってはいけないこと? それはなんです?」青烏が羽を震わせながら言いました。
「あなたは生前、狩猟が趣味でしたね」
「ええ、それは好きで、犬をつれて、よく雁やウサギなどを撃ちにいったものでした」
「あなたは一度、その猟銃で、一羽の鴉を、気まぐれに撃ち殺したことがあるでしょう?」
「鴉を?さあ、あったかな。覚えていない。でもその鴉が、なんだというのですか?」

青年が苦しげに目を閉じ、小さく清めの呪文を唱えました。竪琴弾きは少し目を青鴉からそらし、眉間に苦悩のしわを寄せました。竪琴弾きは厳しい目で青鴉に向かって言いました。
「青鴉さん、それが、『絶対にやってはいけないこと』だったのです。鴉という鳥には、時々、特別な鴉がいましてね、その鴉は、絶対に殺してはいけないのです。あなたの殺した鴉は、その絶対に殺してはいけない鴉だったのです。なぜならその鴉は、森の天然システムを管理していた精霊の魂を持っていたからです」

青い鴉はきょとんとした顔をして竪琴弾きを見つめました。何のことやら、さっぱりわからなかったからです。天然システムという言葉さえ、彼は知らなかったのです。竪琴弾きは続けました。
「あなたがその鴉を殺してしまったために、精霊が人類を愛することに疲れ、森を放棄して、地球世界を離れてしまったのです。精霊がいなくなると、森の天然システムはバランスを崩し、次第に荒野と化していきます。木がそこに生えるのをいやがるようになるからです。森は少しずつ消え、そのおかげでたくさんの生命がそこで生きられなくなり、ある特別な種族の鼠が絶滅してしまいます。それは人類の運命にとても重い荷を負わせることにもなりかねないのです。つまり、その鼠がやっていた天然システムでの仕事ができなくなり、地球の天然システムのバランスの一部が崩れ、砂漠化が始まります。つまり…」
「まって、まってください! そんな、そんなことに、なるんですか?鴉一羽殺しただけで?」
竪琴弾きはしばし青鴉を見つめながら、苦しそうな顔をしました。ちぎれた琴糸の音が自分の身の痛みのように感じられ、彼は瞬間悲哀に溺れそうになりましたが、再び口を開きました。それはまるで、誰か自分とは違うものが自分の口を使ってしゃべっているかのようでありました。

「人間は、なんでも知っているつもりで、地球の秘密について、何も知らないのです。どれだけのたくさんの愛が、地球世界を支え、美しく維持管理しているか、人類が何も知らずにやってしまったことの後始末を、どれだけの間、どれだけたくさんの愛が辛抱強くやっているのか、…全く知らないのです。あなたが殺した鴉の管理していた森は、今、神と数人の若者が管理していますが、もうすぐ、新しい精霊がやってくることになっています。それで、何とか森の砂漠化を防げることは防げるのですが、決して元の森には戻りません。新しい精霊は、前の精霊と同じことはできないからです。鼠も滅びはしませんが、かなり数が減ると予想されています。…以上が、あなたの犯した罪のあらましです。わかりましたか?」

「そ、そんな、そんな、そんな…」青鴉は、ふるふると羽根を震わせながら、岸にへたりこみました。「…そ、そんなこと、ぜんぜん知らなかったんですよ。か、鴉が精霊だなんて…」

竪琴弾きは鴉の動揺の仕方を見て、胸の奥で、やはりまだ教えるのは早すぎたのではないかと、後悔しましたが、彼の口はその彼の気持ちを無視して、勝手に言いました。

「残念ですが、あなたは、その罪を、浄化しなくてはいけません。それは大変な苦労ですが、人間の段階に合わせて簡略な形にはなっています。あなたは今、鴉を殺して森を消滅させるという罪を犯したために、一羽の青い鴉となって、森やほかの鴉の罵倒を浴びていなければなりませんが、森の管理を引き継ぐ精霊が決まったとき、ほかの地獄に移されます。多分そこであなたは、数百年の長い月日を、森林浄化の石となって、ある森の地中深くにじっと埋もれていなければならないのです。そして、人間の無知が起こしたことを日々浄化している人たちと同じ苦しみを味わい、学ばねばならないのです」

青鴉は目を見張り、あっけにとられて、しばし息をすることさえ忘れていました。何か言おうと、くちばしをパクパク動かしましたが、声は何も出ませんでした。

竪琴弾きは岸辺で茫然としている鴉に向かって言いました。
「大丈夫です。神のお導きがありましょう。ぼくも時々、あなたを訪ねて様子を見にゆきますから。ひとりぼっちではないですよ。これも勉強と思って、どうか強い気持ちになってください」
竪琴弾きは言いましたが、青鴉はもう何も聞こうとせず、ふらりと背中を向けたと思うと、よたよたと森の中に帰って行きました。森の奥から、一言、刺のように痛い鴉の罵声が、聞こえました。

「竪琴、直さなければいけませんね」帰り路、明るい林の中を歩きながら、青年が言いました。竪琴弾きは黙ったまま、うなずきました。彼らの背中を照らす白い月の光が、弦の切れた竪琴を憐れむように触れていき、かすかに風に溶ける音を鳴らしました。
「おっと」いきなり青年が言ったので、竪琴弾きは振り向きました。見ると青年の手の中には一枚の黄色い紙が持たれていて、青年がそれを読んで少しびっくりしているのです。

「ああ、やっぱり。わかりましたよ。一部地域の人間はもう、地球天然システムについての勉強を始めなければならなくなったんだ。だから、ある程度自分に力がある人は、払える罪は払わされることになったんだ」竪琴弾きは、青年から黄色い書類を受け取ると、それを読みました。そして、文字の列に目を走らせながら、小さく、ひゅう、と口笛を鳴らしました。

「始まったんですね。でも早すぎやしませんか。まだ人間は知らないことが多すぎる」
「逆ですよ。本当は、遅すぎたくらいなんだ」
「…ええ、そうですね。人間は、地球天然システムに関して、無知に過ぎる。知らないということさえ知らないほど、無知にすぎる。これは、もう少しすると、大変なことになりますね」
「多分。人間は、苦しいことを味わうでしょうね」
「ええ、神の助けもありましょうし、多くの人は、きっと耐えて乗り越えてくれるでしょうが…」

二人が林の中を歩きながら、会話をしている頃、青い鴉は、黒い森と黒い鴉たちに周囲を囲まれて、ひそひそと虫のように耳の中に流れてくる汚いののしりの言葉に、青い翼で耳を覆いながら、必死に耐えていました。



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2012-06-27 08:05:34 | 月の世の物語・余編

「ずいぶんと広いですねえ。…予想以上だ」
一人の日照界の役人が、角ばった高い岩山のてっぺんに立って、眼下に見える風景を見渡しながら、言いました。そこには、はるか向こうの地平線まで、果てもなく続く、広い荒野がありました。石と岩と泥砂ばかりの茶色い大地がどこまでも敷かれ、所々に枯れかけた草むらや、刺だらけのイバラの茂みや、奇妙に歪んだ形のサボテンの行列などがありました。空は灰色で、月は白い薄紙で包んだミルク飴のようでした。

後ろにいた月の世の役人が、書類を手に風景を見回しながら、言いました。
「…ここまで規模が大きくなるとは、わたしたちも思っていませんでした。これは少々、大変なことになりそうだな」
「この地獄が完成するまで、どれくらいかかるのですか?」日照界の役人が振り向きながら尋ねました。すると月の世の役人は書類を、眉を歪めて見ながら、答えました。
「…二年、というところじゃないでしょうか。これも、地球浄化計画の一環なもので、相当、用意周到に、細部にわたるまで丹念に作られるそうです。何せ、ここに落ちる人間たちは、とんでもないことになりますから」

日照界の役人は腕を組んで、眼下の荒野を見渡すと、苦しそうに目を歪めながら、ため息をつき、首を振りました。その足元では、ふと小さな丸い石が鼠のように動き始め、彼らより少し後方の、棒状に立ちあがった奇妙な形の岩の上に登って、そのてっぺんでくるくる回ったかと思うと、ぽう、と鳥のような声をあげました。よく見ると、眼下の荒野でも、石や岩が、鼠や兎や山猫のように、自分の位置を探して、ころころと動きまわっていました。時々、笛のように鳴いて、他の石を呼び、荒野の上に並んで、星座のような印を描くものもありました。

「…むごいな。まあ地獄とはもともとそういうものではありますが…、しかし、これからどういう創造がなされてゆくのだろう。花や木や鳥はここには来ないのだろうか」日照界の役人が声に苦悩を混ぜながら言うと、月の世の役人が苦笑しながら言いました。
「…きてくれればいいですが、彼らは花や木や鳥なんぞ、目もくれないでしょうな。彼らにとっては、いても何の意味もないものだ」
「それは、そうかもしれません…、しかし花や木や鳥は罪びとを必ず愛してくれる。それが救いになることもある…」

月の夜の役人は、右手でさっと胸をこすると、手元の書類を消しました。そして自分の顔をなでながら、ゆっくりと眼下の荒野を見渡すと、かすかに、ああ、と聞こえるため息をついて、言いました。
「日照界では、もうすでに印が現れ始めている人がいるそうですね」
「…ああ、ええ、そうです。ほおや額や、特定の位置に、妙なアザができ始めている。ことこの件に関しては、日照界の男性も自分には関係ないと言ってはいられません。これは何せ、人類の男性すべての、罪ですから」
「ええ、女性を、軽んじすぎてきた。軽んじるなどというものではない。まるで人間とは思わず、自分の欲望を満たすためだけの肉塊のようにさえ扱ってきた。女性の苦しみはあまりにひどかった。そして男性は女性を惨く辱めてきた罪を、今まで一度も払ったこともなく、女性に謝罪したこともない」
「そうです。それです。だからこのたび、人間の男性は神によって試験を課されるのです。女性に、今までやってきたことの全てについて、謝罪することができるかと、人間の男性は神に試される。女に頭を下げ、謝ることができるかと」
「そしてその問いにNOといえば、この地獄に来ることになる。…むごい地獄だ。これを人間の男性が耐えることができるかと言ったら、正直、とても無理ではないでしょうか」
「耐えることができても、三日あたりが限度でしょうね。しかし、どんなに短い人でも、百年はここにいなければならない。そしてその間、彼らは性的飢餓感にもだえ苦しみながら、この荒野の泥にまみれて這いつくばることになる」

日照界の役人と月の世の役人は、顔を見合わせると、黙ってうなずきあい、指を回して一息風を起こすと、空に飛び上がり、岩山から下りて荒野に降り立ちました。そしてしばらくの間、荒野を歩き回り、要所要所を見回しながら、それぞれに、気付いたことを帳面にかきとめたり、キーボードに打ち込んだりしていました。その間も、石や岩はあちこちを転がりながら、所々に奇妙な石の印を作ったり、ピラミッドのような小山を作ったり、珍妙な迷路や複雑な紋章を作ったりしていました。

月の世の役人は、帳面を繰りながら、荒野の中に生えている、小さなイバラの茂みに、片手を差し込みました。鋭い刺が役人の手を傷つけましたが、役人は特に気にもせずに、イバラの茂みを少しかきわけて、中を覗き込みました。そのとき、イバラの根元から、突然小さな泥の塊を投げつけられたかのような、気味の悪い声が聞こえてきたのです。

「思い知るがいいわ」

月の世の役人は驚いて、思わず、汚いものをぬぐうように顔をなで、清めの呪文を唱えました。それは低い女性の声でした。役人は、刺に手を痛く刺されながらも、茂みをかきわけて、イバラの奥の根元の方をのぞき見ました。するとそこに、血のように赤い小さな女の唇があったのです。役人は声をのみ、あわてて帳面を取り、銀のペンを出して呪文を唱え、帳面にその唇の写真を焼き込みました。唇は花弁のようにひらひらと震えながら、思い知るがいい、思い知るがいい、と繰り返しました。月の世の役人がしばし呆然とその唇を見ていると、その声に気付いた日照界の役人がキーボードをかかえて、近寄ってきました。その間も、女の声は、まるでネコ科の猛獣の唸り声のように、繰り返すのです。

「思い知るがいいわ、思い知るがいいわ。どんなに、どんなに苦しかったか、つらかったか。全部、全部、思い知るがいいわ」

近くに寄ってきた日照界の役人も、しばし唇を見詰めながら、それを茫然と聞いていました。やがて唇はにやりと口の端をゆがめ、ははは、と声をあげて嘲笑いはじめました。彼ら二人は、声もないまま顔を見合わせました。そして彼らは再び荒野を歩き始め、あちこちにあるイバラや草の茂みや、奇妙な形のサボテンなどに、手や足で刺激したり、息をふきかけてみたりしました。すると草むらの奥やサボテンの根元に、花の咲くように赤や薄紅やオレンジ色の女の唇が現れ、それらはみな、女のうらみがましい声で、風に毒を振りまくように言うのでした。

「思い知るがいい。思い知るがいい。どんなに、どんなに、恥ずかしかったか、痛かったか、辛かったか、怖かったか。おまえたたちが、わたしたちに、何をしたのか、思い知るがいい」

役人たちは、目をとじ、地に膝をついて、しばし神に祈りを捧げました。そしてふたりとも、得られた情報をきちんと帳面やキーボードに放り込むと、片方は目を閉じて上を見あげほおに涙を一筋流し、片方は両手で顔をおおって、口を噛みしめて嗚咽をあげそうになるのを必死にこらえていました。

「…むごい。それが自らのなしたことの結果とはいえ、男は、性的興奮状態が持続したまま、ここに放り込まれる。そして長い月日をこの荒野で女性の声にののしられながら、性的飢餓感に苦悶していなければならない」月の夜の役人が言いました。「どう考えても、人間の男には耐えられないでしょう。七日もてばいいほうだ。必ず、死ぬか、狂うか、してしまう」日照界の役人が答えました。すると月の世の役人は言いました。「いや、そこは、修羅地獄と同じで、どうやっても死ねないようにされるらしいです。それに、死んでも性的飢餓感からは逃れられない。一層苦しいことになる」「女性を軽んじて、辱め続け、一切の負債を払わずにきた結果がこれか」「いや、正確には、結果の一つです。男の苦しみは、ほかにもまだある」

日照界の役人は、キーボードをカードに戻してポケットにしまうと、こめかみをもみながら、しばし考え込み、言いました。
「これは、男性たちに、教えておいたほうがいいでしょう。試験がどういう形で彼らにふりかかってくるかは、わたしたちに知ることはできはないが、もし試験に失敗したら、どういうところに落ちるかは、教えておいたほうがいい」
「ええ、わたしも、そうは思うんですが…。気になるのはこの規模だ。こんな広い地獄は月の世にも滅多にない。一体どれだけの男が、ここに落ちるのでしょう」
「確かに、広すぎる。実際にこの地獄が機能し始めたら、どういうことになるか、予測もできない」

そのとき、ふと、月の世の役人が目をあげて月を見、「おお」と声をあげました。
「…ごらんなさい。月が、衣を脱ぎますよ」
「ほお?」
見てみると、さっきまで薄紙をまとっていたようだった月が、その白い薄紙を風にさらりと脱がされ、その奥にある本当の色を見せたのです。それを見た日照界の役人は、驚いて思わず顔を背け、小さく呪文を唱えて目を清めたあと、急いで自分の記憶の中からその月の映像を消しました。月の夜の役人がねぎらうように云いました。
「どうしました。気分を悪くされましたか」
「いや、少し」
「わたしたちは慣れているので、それほどのショックは受けないが、確かに、気持ちのいいものではありませんね」
言いながら、月の世の役人は、もう一度月を見上げました。その月は、ほんのりと薄桃色をしていて、まるで女性のやわ肌のようになまめかしく、やわらかく見えたのです。そして風には女の肌の匂やかな香りがかすかに混ざり、まるで薄絹のようにふわりと、なまあたたかく吹くのでした。月の世の役人がその月を見ながら、帳面に何事かを記すと、月はやがて、もう一度、白い薄紙をさらりと身にまとい、元のミルク飴のような姿に戻りました。風もまた、元の荒野の風に戻りました。

荒野を並んで歩きながら、役人たちは語り合いました。
「この地獄が完成するまで、二年あるとおっしゃいましたね」日照界の役人が言うと、月の世の役人が「ええ」と答えました。日照界の役人は、月を背に荒野をまっすぐに進みながら言いました。「その間に、男性たちに、できるだけ女性に謝罪をするように、教え込んでおきましょう。でないと、ここはむごすぎる」
月の世の役人が彼と肩を並べて歩きながら言いました。「そうですね。我々にできる努力はしておいた方がいいでしょう。わたしも思います。男があれだけのことを女にしておいて、一言も謝らないのは、人間と言えません。男は、言わねばならない。やらねばならない」
「ええ、そのとおり」

日照界の役人が、口から石を吐くように厳しくそう言った時、ふと、彼の足が、小さな草むらを踏みました。するとまた、草むらの奥に花弁のように小さな薄紅の唇が咲き、微笑みの形をして、少女のような声で、冷たく言うのでした。

「絶対に、許さないわ」



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第1幕・終了

2012-05-16 08:00:01 | 月の世の物語・余編

やあみなさん、こんにちは。什と言います。
名前を与えられない作中人物が多い物語の中で、仮にでも、名前を与えられたことを、少し幸福に思っています。少々変わった名ではありますが。

物語は、一旦ここで、区切りを打たれるそうです。なんとなく、話にわたしが出てきたら、終わりになると言う感じになっているみたいだ。

作者は、これ以後、この続きを書くことがあるかどうかは、わからないと言っています。わたしの意見としては、そろそろ終わりにしてほしいですね。でも、作者というものも、実に、わたしたちのように、何かに動かされているものだそうですから、自分の思い通りには、なかなかいかないようだ。

そう、いいことをひとつ、教えてあげましょう。わたしは、この物語の中では、一番作者に似ているので、実におもしろいことを知っているんです。

以前作者が、小さな詩を書いたことがありまして、それはこういうものでした。

太陽の道も 月の道も
目的地は同じ
ただひとすじの
まっすぐな道

それは要するに、愛の順風を受けてただひたすらまっすぐに進むまことの道も、間違いを犯し、暗夜に迷う偽りの道も、どっちに行っても、結局は本当の自分と言うものに戻ってくる。そして振り返った時、どちらもが、ああ、ただひとすじのまっすぐな道だっというだろう、という感じの意味なのですが。

月の世と、日照界は、この一つの詩から生まれました。暗夜に迷う人々が集まり、迷い惑いながらも、ほんとうの自分自身へと進んでいく世界。それが月の世。

生まれる前、わたしはそこにいました。なぜかということは、今はお教えできません。重要な仕事があったということしか。

またお会いすることがあったら、語ることもできるでしょう。保証はできませんが。物語の中にいるわたしたちも、生きていますから、突然、どこからか、何かの姿をとって出てくるかもしれない。

会える日が来るかは、今は約束できませんが…もしまた会えるのなら、そのときまで。しばらくは、閉幕ということです。

あ、午後にまた、更新があるそうです。

では、また。



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2012-05-15 07:12:41 | 月の世の物語・余編

いつの頃からだろう? 自分に変な癖があると気付いたのは。
時々、何かの風が頭をよぎった気がして、自分が、まるで違う星から来た人間のように、まるで珍しくてたまらぬというような顔をして、風景を見ている。そしていつしか、口の奥から、ほう?と声がもれている。

ほう? 

そう、これだ。ほう、ほおぅ? ほっ、ほぅ、ふうぅ…。まるで梟のように、よくわたしは、何にでも驚いて鳴く。木の梢の緑が、風に揺れて空をかき回しているのを見ても、寝床で、夜明け前に鳴く鳥の声を聞いても、何かしら、本当に、今初めて見聞きした珍しいものごとのような気がして、いつの間にか自分の喉が、ほう?と鳴いているのだ。

あぁ…、という、感嘆に似たため息を吐くこともある。それは別になんでもないことなのだ。たとえば、ただ、わたしの机の上に、一冊の灰色の古語辞典がある。そういうことに、なぜか、わたしは驚いている。灰色の辞典が、まるで不思議な石でできた、なめらかな工芸品の小箱のように見える。確かに、それを開くと、それはきらびやかな言の玉が、たくさんまろびでてはくるのだが。

「おはよう。もう起きてたの?」母が、背後から呼んだ。わたしは後ろを向いて答える。「ああ、食事の準備はしておいたよ。いつものハム卵だけど」すると母は寝巻のまま、ありがと、と言って、台所に向かってゆく。朝食のスープはまだ温かいはずだ。母がトースターでパンを焼く気配がする。わたしは朝食をとったっけか。覚えていない。腹はそれほどすいてないところをみると、何かを食べたのかも知れない。

食事を済ませると、母は手早く着替えて化粧をし、仕事に出かける。この家には、母と、わたししか住んでいない。母は、わたしが子どもの頃に父とは離婚している。わたしは十歳くらいだったろうか。そのときから、父の顔を見たことはない。母はずっと、働きながら、わたしを育ててきた。わたしは、もうだいぶ大人にはなっているのだが、働いてはいない。働いたことはあるのだが、どうしても職場になじむことができず、職を何度か転々と変えたあげく、結局は、長い月日を、無職のものとして、家事などしながら、母に養ってもらっている。母は、半分、わたしが働きに出るのをあきらめているようだ。わたしが、心を患って、病院に通うようになってから。

母が仕事に出かけると、わたしは洗濯や掃除などの家事を手早く片づけた後、しばらく机に向かい、詩文を書いたり、ときには趣味の水彩画を描いたりする。描くのは主に風景だ。それも、夢の中に時々見る、不思議な風景。黒い空に月があり、足の下に白い大地がある。大地は虹のように光っている。道を歩いてゆくと、時折、白緑の草むらがあって、その間に、青白い蛍がとびかっている。その向こうには、川がある。川の水は透き通っていて、その底には水晶の砂利が、中に静かな火をともしながら、転がっている。いや、それは砂利じゃなくて、何かの透き通った魚かもしれない。わたしはしばし、川底のちらちらする光に見とれているのだが、突然、耳の奥に誰かが呼ぶ声が聞こえて、目を覚ましたかのように顔をあげるのだ。すると何かが見える。…だが、見えることはない。それが見える前に、夢は終わってしまう。

まだ見てはいけない、という誰かの声が聞こえる気がするときがある。幻聴かも知れない。わたしは少し気がおかしいから。でも、確かに、まだ見てはいけないような思いはする。もしや、それを見てしまったら、わたしは死んでしまうかもしれない。あの、夢の向こうにあるところへ、帰ってしまうかもしれない。

原稿用紙に書いた詩を推敲しながら、わたしはまた、ほう?と自分が声をあげているのに気付く。なぜだろう? ほう? 自分でもう一度つぶやいてみる。何か意味があるのかもしれない。それとも、生きるのに疲れ過ぎているから、ため息ばかりついているのだろうか。ほう?

ふと、手元にある原稿用紙が、白く輝いて、わたしの目に映る。おや、紙とは、こんなに白く光るものだったか。こんなにも繊細な直線をしているものだったか。この印刷されたインクの色ときたらどうだ。まるで枯れかけたオレンジから盗みとってきたかのようだ。こんなものを見るのは初めてのような気がする。…こういうのを、なんて言ったか。そうだ、ジャメ・ヴュ。

ほう。またわたしは鳴いた。まるで、わたしの中に、見知らぬ異人がいるようだ。その人間は、わたしという衣をまとって、まるで別の世界からこの世界を見ていて、目に見えるすべてのものが、珍しくてたまらぬと言っているようだ。それはだれだろう? わたしか。わたし以外のものか。よくわからない。とにかく、わたしが少し気がおかしいのは、確かなようだ。しかし、わたしは、そういうことを他人にも母にも言わないようにすることが、賢いということはわきまえているし、常識というものも、はっきりととらえられていて、自分がそれからできるだけはみ出さないようにすることもできているので、すっかり狂っているわけではないと思う。病院から出される薬も飲んでいるし、担当医の質問にも、普通に答えることができている。

まあ、書いている詩文や、絵などは少々変わっているかもしれないが、それが詩人や芸術家というものだという世間の認識に甘えて、わたしはこの世界で生きることを許してもらっている。かろうじて、母の稼ぎと、祖父母の残した遺産に養われながら。

母が死んでしまったら、どうなるだろう? 時に考えることがあるが、まあその時には多分、わたしのほうが先に死んでいるような気がする。案ずることはない。何か、保証があるわけではないのだが、わたしは自分の前途に、そんなに暗い思いは抱いてはいない。抱くことができないのかもしれない。時に、わたしは奇妙に、ある種の感情が自分に欠落していることに気づくのだ。それは、ひどく、他人と変わっているらしい。わたしは、よく母にそれを指摘されて、気付くのだが。

「あなたときたら、どうしてそんなに、疑うということができないの?」
そういうときの、母のわたしを見る目は、愛情に染まってはいるが、何やら悲しそうだ。そう。わたしは、人を疑うという能力に、とても欠けているらしい。それで、仕事をしていたときは、いつも他人に騙されて、いかにも簡単な罠にはまって、とても悲しい目にあうことがよくあった。職を失っても、何度かそんなことが続いて、母もとうとう、わかったらしい。わたしは母に言われたことがある。

「あなたは、赤ちゃんね。ひとりではとても生きていけない。詩や絵で生きていければいいけれど、それもほとんど無理。詩集を出しても、売れやしなかったし。でも、お母さんが生きてる間に、何とかしてあげなくては」
わたしは、母だけによって、この世に生かされている。母がいなくては、生きていけない。なんでこんなわたしが、この世に生れてきたのだろう? それは、たぶん、何かをこの世でするためなのだが。そういう使命感と言うか、何か、忘れてしまった約束のようなものが、わたしのなかで常にうめき動いているような気がするのだが、それが何なのか、今のわたしには、まるでわからない。

ほおう。

おや、また言ってしまった。だれだろう? わたしの中で梟の鳴き真似をしているのは。わたしはふと、部屋の隅の書棚に目をやる。すると、少々乱雑な書棚に並ぶ本が、まるでそれなりに秩序だって背を並べた錦鯉の群れのように見える。なんと珍しいのだ。魚が書棚に詰まっている。それも白いのや、緑のや、赤いのや、太いのや、細いのやといろいろある。みな四角い。だがなぜか魚のように生きているように見える。ああ、そうとも、生きているのだ。あれらはみな、生きているのだ。ようやく気付いた。なぜ今まで、気付かなかった。あれらはみな、生き物だ。

わたしは書棚に近寄り、一匹の魚を、そこから出して見る。魚の腹は簡単に開く、ぱらぱらとめくると、活字が小さな青いテントウムシのように並んで光りながら、何かを自分に語っているのが聞こえる。それが何とも美しいのだ。菫青石の歌、と言う感じだ。そういうのが、なんとなくぴったりだ。インクの色のせいかもしれない。文字は生きていて、わたしに何かを語りかけている。わたしはそれに刺激されて、何かを書かずにいられなくなり、また原稿用紙に向かう。原稿用紙は、まるで真珠を打ちのめして箔にしたように白く光っている。わたしは小枝のようなペンをとり、虹のような言葉を書く。

しばらく夢中で詩を書いていたようだ。気がつくと、傍らに原稿用紙の山ができている。改めて読んでみると、おや、おもしろい。なんてことを書いてあると思う? こうだ。

いわいの おかを こえて
あほうが ゆくよ
なぞの はためく
おりの なかに
あいが あるの

どういう意味だろう? 自分でもよくわからない。いつの間にか、書いてしまった。たぶん、わたしの気がおかしいせいだろう。

さて、そろそろ昼食の時間だ。腹もすいてきた。冷蔵庫にある残りものでも温めて食べよう。その後は、少し外に出て散歩でもしてみるか。夕食の買い物もせねばならない。家事はほとんどわたしの仕事だから。

昼食をすまし、外に出ると、青空が広がっている。透き通った白い雲が青いカンヴァスに見事な絵を描いている。神の御技には、どんな画家にもかなわない。この絵ときたら、この上なく美しい上に、生きているのだ。どんどん動いて、止まっていてはくれない。瞬間瞬間、全てが美しいので、どれも見落としては、とても大切なものを見失う気がして、いつまでも見てしまう。もちろん、そればかりしていては、本当に気が違ってしまうので、いつも途中でやめて、ちゃんと地上の常識の中に帰っては来るのだが。

わたしは、しばし町の細道を歩き、道端の花や、友人の小さな林檎の木に挨拶などしたりした後、いつもゆく、小さなスーパーに向かってゆく。今日は母のために、魚を買って来よう。母の好きな魚をジンジャーで煮つけよう。そう思って、わたしが、細い道の角を曲がったところだった。わたしは突然、何かやわらかいものにぶつかって、ほ、と、また梟のような声をあげてしまった。見ると、目の前に、白いブラウスを着て、黒いスカートをはいた女の子が立っている。どうみても小学生のようだが、それはおかしい。今日は学校は休みではないはずだが。

女の子は、わたしの顔を見て、何か宇宙人でも見ているかのような顔をして、驚いていた。別にわたしは驚かない。だいたい、人は初めてわたしを見ると、こんな顔をする。わたしの風体はどうやらよっぽど変って見えるらしい。わたしは、女の子は、すぐにわたしから目をそらして逃げてしまうと思ったが、予想に反して、彼女は丸い小さな目で興味深そうにわたしの顔を見つめ、わたしに声をかけてきた。

「おじさん? おにいさん?」
どうやら、わたしの年齢が知りたいらしい。わたしは答える。「そうだな。君からみれば、おじさんだろうな」
「じゃあ、おじさん。わたし、困ってるの。学校をさぼって、知らない道ばっかり歩いてきたら、どこまで来たのか、わからなくなったの」「なんだい?学校さぼったの?どうして」「それは言いたくない。だって馬鹿にされるから」「わたしは馬鹿にしたりはしないよ。人にはいろいろ事情があるって知ってるから」「でも言わない。わたし、馬鹿にされたくないから」「だから、馬鹿にしたりしないって言ってるのに」「うそ。だって、こんなこと、言ったら、みんなおかしいって言うにきまってる」「おかしいってことは、わたしもよく言われるよ。変わったやつだって。でも、君が言うのが嫌なのなら、言う必要もない。で、君は道に迷って、困ってるんだね」「そうなの。薬屋さんがあったところまでは、知ってる道だったの。でもそこからめちゃくちゃに歩いてきて、わかんなくなったの。おじさん、ザイテって町、知ってる?」「ああ、知ってるよ。隣町だ。よかったら、連れていってあげようか?」「いいの?」「ああ、いいよ」

そういう感じで、わたしは女の子と並んで歩きだした。後で考えると、ちょっとうかつだったかとは思う。変質者か、誘拐犯だとかに間違われる可能性もあった。でも、わたしときたらいつも、こうなのだ。疑うということができない。目の前の真実を、ありのまま飲み込んでしまうのだ。女の子が道に迷っている。連れて行ってあげよう。それだけしか考えられない。こういうものが自分だと言うことは、もうとっくに知っている。それが少し、悲しみを帯びているのは、多分、この性質がいつも母を悲しませるからだ。

女の子と一緒に歩いている途中で、彼女はわたしに少し気を許したらしく、学校をさぼった理由を教えてくれた。それによると、学校の自分の席に、幽霊がとりついているという。
「へえ、幽霊が?」わたしが問うと、女の子は少し身を震わせて言う。「うん、そうなの。昔、あの席に座っていた女の子がね、学校の窓から落ちて死んだの。それでね、今もその女の子は、その席に座ってるの」「で、君はその幽霊が座っている席に、座らされているんだね」「そう、北から三番目で、後ろから二番目の席。あそこに座っていると、呪われるの。だから、学校さぼったの」「ふうん。そうか。でもそれは困ったね。学校に行けないじゃないか」「うん。どうしよう。先生に言っても、ともだちに言っても、馬鹿だって言われるだけだし」
わたしはまた、ほふう、と声をあげる。とにかく、この女の子のために、良い知恵を考えてあげよう。何か、幽霊をやっつけてあげられるような。するとわたしは、今日書いた自分の詩のことを思い出し、彼女に言った。

「そうだ。幽霊ばらいの良いおまじないがある。それを教えてあげるよ」「え?おまじない?」「うん。わたしはそんなのにはくわしいんだ。おまじないみたいな言葉を書くのが、仕事だからさ。気取って言うと、詩人と言うんだけどね」「へえ、おじさんて、詩人なんだ。で、そのおまじないって、どういうの?」「うん、こういうのだ」

いわいの おかを こえて
あほうが ゆくよ
なぞの はためく
おりの なかに
あいが あるの

「それが、おまじない?」「うん、そうだ」「変なの。どういう意味?」「つまりは、馬鹿なことはやめなさいって意味さ」「それで、幽霊はいっちゃうの?」「ああ、いっちゃうとも」「もう一回言って、覚えるから」

わたしは女の子に言われて、何度か詩を繰り返し暗唱した。女の子は、それを覚えたようだった。短いし、簡単だから、覚えやすいだろう。

やがて、行く手に、彼女の知っている薬屋が見えてきた。女の子は、ほっと安心したような息をついて、言った。「ありがと、おじさん、ここからなら、家に帰れる」「学校には行かないの?」「うん、今日は休む。ママに謝って。明日はいくけど」「おまじないで、少しは安心したかい」「うん、ありがとう。わたし、るみっていうの、名前。おじさん、なんていうの?」

名前を聞かれて、わたしは少々慌てた。変わった名前だから、いつも不思議な顔をされてしまうのだ。でも聞かれたからには、素直に答えるしかない。

「ああ、おじさんは、じゅうっていうんだ」「じゅう?なあにそれ」「にんべんに漢数字の十っていう字を並べてね、『什』っていうんだよ。変な名前だろう。おばあちゃんがわたしにつけたんだ。由来を、教えてあげようか」「教えて、聞きたい」「君はわかるかな。おばあちゃんによると、『什』っていう字はさ、十字架に、人間がはりつけられてる形なんだそうだ。要するに、十字架にはりつけられたイエス様って感じで、おばあちゃんがわたしにつけた名前なんだ。わたしの家は昔からキリスト教徒でね。おばあちゃんはイエス様が大好きで、何かイエス様に由来する名前をわたしにつけたかったらしい。それでね、何かしら、夢で神さまのご啓示みたいなのがあったそうでね、なんだかそういう名前になってしまったんだ。什、じゅう。おばあちゃんはよく、わたしを『什さん』と呼んでいた。そう呼ぶと、イエス様の英語読みの、ジーザスに少し音感が似てるからだそうだ」

「ふうん、よくわかんない。でもおもしろい。おじさんは、什さんていうんだ」
「そう、そんな名前の人は、多分、世界中でわたしだけだろうね」

薬屋のところまできて、わたしは女の子と別れた。名前の由来を聞かれてからかわれなかったのは、久しぶりだな。

ほう?
おや、また言ってしまった。わたしは道を歩きながら、足の下のアスファルトを見る。灰色に乾いた道の色が、一瞬、薄青い石の板のように見える。おや?まるでここは異世界のようだ。なんでこんなに道が青いんだろう。なぜこんなに、硬いんだろう?

わたしは、夢の中にいるのかもしれない。時々、そう思う。ここは、わたしの住む世界ではないのだ、本当は。だが、ここに生きている。確かに、生きている。心臓は動いているし、時間がくれば腹が減る。

スーパーにより、鮮魚売り場に向かう。するとわたしはまた、ふう、と声をあげている。驚く。ここは一体、こんなに暗いところだったろうか?照明はいつもどおりに明るいはずだが。売り場の魚に、目を落とす。また驚く、魚が、みな、生きているからだ。生きている。みな、生きている。周りを見る。野菜や、果物がある。みな、生きている。ああ、あれを、食べるのか?食べねばならないのか?みんな、生きているのに。生きているのに。どうして食べねばならないのか?食べたくない。食べたくない。生きているのに、食べたくない。

そのとき、だれかがわたしの頭を、こんと、叩いたような気がした。わたしははっと我を取り戻す。何を考えているのだ。食べねば、生きていけないではないか。

魚とジンジャーと少しの野菜と調味料を買って、わたしはスーパーを出る。神が空に、白い雲で絵を描いている。一瞬でも見るのを逃したら、一生後悔しそうな風景が一秒一秒、続いてゆく。永遠に、続いていく。いつまでも目を吸い込まれてしまう。ああ、生きている間じゅう、空ばかり見てしまいそうだ。

什さん。

誰かに呼ばれた気がして、わたしはまたはっと我を取り戻した。周りを見まわしたが、人影はない。空耳だったのか。
わたしは買い物袋を持って、家路につく。傾きかけた日がわたしの背中を照らしているのだが、それが誰かがわたしを見ている視線だと感じるのは、多分気のせいだ。

ほう。
おや。また言った。いや待てよ。これはわたしの声ではない。わたしが言ったのではない。どこから聞こえてきたのだろう? わたしは振り向く。

一瞬、目に見えないものの影が、空気の中で揺れ動いたのを、見たような気がした。



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2012-05-14 07:14:12 | 月の世の物語・余編

灰色の岩肌がところどころに見える、木々もまばらな森の奥、白い野生蘭の生え群がる草むらの少し上、小さな岩場の上に、二頭の虎が、身を寄せ合って眠っていました。

空はうっすらと乳色の雲に覆われ、太陽はその向こうから、白く少しさみしげに、あたりの景色を照らしていました。風がかすかな悲しみを、眠っている虎たちの夢の中から吸いとってゆきました。そして少しでも良い夢が見られるようにと、こっそりと、愛の薬をその魂に塗ってゆきました。

二頭のうち、大きい方は雄、小さい方は雌でした。彼らは、ずいぶんと前に地球上で生きていたとき、母と子でありました。雌虎は、自分の子だった雄虎から、なかなか離れることができず、ずっとこうして一緒にいました。本当は、ここにいてはならないということを、雌虎は、なんとなく分かっていましたが、雄虎が決してここから離れようとしないので、仕方なく、そばにいるのです。

「ロクスタリム、カルカヤヒム」

どこからか、声が聞こえました。それは二頭の虎の名前でした。名前を呼ばれると、皆不思議に、胸が熱くなり、どきどきしてしまいます。二頭の虎は、はっと目を覚まし、周りをきょろきょろと見まわしました。するとどこからか、ずさりと、砂が崩れ落ちるような音がしたかと思うと、岩場から少し離れた、二本の細い立木の間の草むらの中に、白地に銀の縞模様をした、それは大きな双頭の虎が現れ、熊のように立ち上がってこちらを見ているのです。二頭の虎はそれを見ると、びっくりして恐れを抱き、喉の奥でうなりながら、牙をちらつかせました。

「ロクスタリム、カルカヤヒム、おとなしくなさい。わたしたちはおまえたちを迎えにきたのだから」
双頭の銀虎は言いました。そして、右の方の頭が、口笛できれいな旋律を鳴らし、左の方の頭が、それに和して小さな呪文を歌いました。すると、二頭の虎は、何かに操られるように、寝そべっていた岩場の上から立ち上がり、のっそりと双頭の銀虎のそばによってきました。

ろくす、たりむ、ろくす、たりーむ…

ロクスタリムと呼ばれた雄虎は、言いながら、静かに双頭の銀虎のそばに座りました。カルカヤヒムという雌虎も後に従いました。二頭が静かに行儀よく草むらの上に座ると、双頭の銀虎は、氷のように厳しかった青い目をふとゆるませ、彼らのそばの草むらにゆっくりと座り、「おお、良い子だ、ふたりとも」と声を合わせて言いました。

ろくす、たりーむ、ろおくす、たりーむ…

ロクスタリムは言いました。虎は、まだとても幼い魂であり、孤独を好む生き物なので、もともと、ものをしゃべることは苦手なのですが、このロクスタリムはその虎の中でも、相当に幼く、まだ、自分の名前以外のことばをしゃべることができませんでした。けれども、双頭の銀虎には、彼の言いたいことが、よくわかりました。ロクスタリムはこう言いたかったのです。「ロクスタリム、つらい。ロクスタリム、いやだ」
カルカヤヒムは、そんなロクスタリムの横顔を見ると、言いました。

かるかやひむ、ここ、いる。かるかやひむ、ろくすたりむ、いっしょ。

すると双頭の銀虎は、悲しく目を細め、同時に深いため息をつきました。右の方の頭が、ゆっくりと頭を振り、左の方の頭に、言いました。
「どうするね。ふたりとも、まだここにいたいと言っている」すると左の方の頭がそれに答えて言いました。「うむ。しかしもうこれ以上、時間を待っている余裕はない。とにかく何とかして、ふたりに言い聞かせないと」
双頭の銀虎は、ロクスタリムとカルカヤヒムの顔をかわるがわる眺めると、声を合わせて同時にしゃべり始めました。

「ロクスタリム、カルカヤヒム、残念だけれど、もうこの森に住むことはできなくなるのだ。なぜなら、君たちの一族は、もう地上では滅んでしまったからだ。地上の人間たちがね、君たちの毛皮や、骨からとれる薬などを欲しがって、君たちをみんな殺してしまったのだ。もう地球上に、君たちと同じ種族の虎はいない。君たちはもう、地球上では、滅びてしまったのだ。わかるかい?ロクスタリム、カルカヤヒム、君たちはもう、その姿を捨て、別の虎の一族に、籍を入れねばならないのだ。そうでないと、虎として地球上で生きられなくなるからだ」

ろくすたりむ、ろおくす、たりーむ…

ロクスタリムが言うと、双頭の銀虎は、苦しそうに息を吐きました。「困ったな、まだいやだと言っている。どうすればいいと思う?」左の頭が、右の頭に尋ねました。右の頭は、ふうむ、と言いながらしばらく考えて、カルカヤヒムの方に声をかけてみました。「カルカヤヒム、君はどうだい?君はかしこい。ぼくたちの言っていることが、わかるね?」

かるかや、ひむ、かる、かや、ひむ、かるるかあやひむ、わから、ない…。

双頭の銀虎は、互いに横目でまなざしを交わし合うと、二頭の虎たちには聞こえないところで、会話を始めました。そして何分かの沈黙が続いたあと、右の頭が言いました。
「ほんとうにね。できることなら、いつまでも、ここにいたいだろう。ここは、昔から、君たちの一族が住んでいた、とてもいいところだった。食べ物もたくさんあって、水もきれいで、花もたくさん咲いていた。神様が、君たちのために、それは心をこめてていねいに作って下さった、とても美しい森だったのだ。それを捨てて、去っていくのは悲しいだろう」ロクスタリムは、座ったまま、聞いているのかいないのか、ただぼんやりと前を見ていました。カルカヤヒムは何も言わず、ロクスタリムの横顔を見ていました。左の頭が言いました。「ロクスタリム、カルカヤヒム、残念だけれど、この森は、もうすぐなくなってしまうのだ。君たちはもう、別の森に住まなくてはならない。仕方のないことなのだ。もうここにはいられないのだ。わかっておくれ。悲しいけれど、ほんとうに悲しいけれど、もうここはなくなる。君たちはもう、地球上では滅びてしまったから」

ほろび、ほろ、び、なに? かるかやひむ、ほろびた。い、いなくなた…?

「ああ、地球上にはもう、君たちはいなくなってしまったのだ。カルカヤヒム、悲しいけれど、もう、君たちだけなんだよ、この一族の虎は。ほかの虎はもうみんな、それぞれに姿を変えて、ほかの一族に籍を移している。君たちもそうしなければならないのだ。要するにね、少しばかり、姿が変わって、名前が変わるだけだ。怖くはないよ。痛い思いなどもない。慣れるのに、少し時間がかかるかもしれないが、つらいときは、必ずぼくが助けにいってあげるから。さあおいで、いっしょに行こう、ロクスタリム、カルカヤヒム」

ろくすた、りむ、りいむ、ろくす、た、たりーむ…

ロクスタリムが言いました。双頭の銀虎は、困ったような顔をしました。どうしても、ロクスタリムはこの森から離れたくないようなのです。カルカヤヒムは、首を傾げたり、目をぱちぱちさせたりしながら、ロクスタリムの様子をじっと見ていました。

かるかやひむ、どこにいく?

カルカヤヒムが、ふと双頭の銀虎の方を見て、尋ねました。すると双頭の銀虎は、言いました。

「ヨニブの森の虎、という一族に、入ることになる。その一族は、地球上では、人間の保護を得て、だいぶ数を増やしている。ふたりとも一緒だよ。ヨニブの森の虎は、君たちによく似ている。少々体が大きくなって、微妙に模様が変わるし、ことばも少し勉強しなければならないかもしれないが…、何、大丈夫だ。神さまはいつも助けて下さるから。それに…」右の頭が言いかけたことを、左の頭が続けて言いました。「…ヨニブの森は、ここの森よりずっと豊かだ。たくさん虎がいるからね。花も、それはおもしろい花が咲いている。川があってね。鳥が時々来る。森は深くて、濃い緑の匂いがする。お日様の光が差し込むと、そこらじゅうに、琥珀を散らしたかのように、光が舞い散る。おいしいものも、いっぱいある。君たちの知っている友達もいるよ。君たちはひとりが好きだけど、やっぱり、いつもひとりぼっちはいやだろう?たまには、友達にも会いたいよね?」

双頭の銀虎は、一生懸命、ふたりを説得しました。ふたりのうち、どうやらカルカヤヒムは、その気になってきているようでした。彼女は、ヨニブの森に、昔姉妹だった虎が住んでいると聞いて、どうしてもその姉妹に会いたくなってしまったのです。それでカルカヤヒムは、ロクスタリムに決意を促すように、彼の耳元に鼻をぶつけました。しかしロクスタリムは、双頭の銀虎の話が、半分もよくわからなかったので、ただ憮然として、ろくすたりっむ、ろくすたりむと、繰り返すだけでした。つまりは、何もわからないまま、ただいやだと言っているのです。

双頭の銀虎は、また横目でまなざしを交わすと、困ったように、ほうと息をつきました。右側の頭は、少し口を歪めて、白い牙をかみつつ、しばしの間考えました。そして苦しそうに目を閉じたかと思うと、ふと目を開けて、左側の頭に、言いました。
「仕方ない。もう最後の手段でいくか」すると左側の頭も言いました。「それしかないね。このまま放っておくこともできない。この森はもう、なくなってしまうから…」「ぼくがやろうか?」「いや、いっしょにやろう。こんなことをやるのに、君だけに責任を負わせるわけにはいかない」

双頭の銀虎は、横目でまなざしをかわしつつ、少し悲しげに微笑みました。そして、ふっという、息を合図に、声を合わせて同時に呪文を唱えました。すると、日の光が突然濃く、ロクスタリムの周りにあつまり、それは光に染まった水晶の糸のようにもつれあって、ほぼ一瞬の間に、ロクスタリムを丸い光の繭の中に閉じ込めてしまいました。カルカヤヒムが、びっくりして、ぎい、と高く鳴いて立ち上がり、そこから跳びのきました。左側の頭が、カルカヤヒムの名前を呼び、おとなしくしなさい、怖くはないよ、と言い聞かせました。するとカルカヤヒムは、ふっと我に返った様子で、そこに立ちつくしたまま、茫然と光る繭を見ていました。

双頭の銀虎は、器用に後ろ足で立ち上がると、ロクスタリムを閉じ込めた繭を軽々と持ち上げ、肩に担ぎました。そしてカルカヤヒムに、ついてきなさい、と言いました。カルカヤヒムは素直に、双頭の銀虎についてきました。双頭の銀虎は、人間のように、二本の足で歩いて、繭の中のロクスタリムと、カルカヤヒムをつれて、森を去りました。歩いていくうちに、周りの風景がぼんやりと溶け始め、いつしか繭をかついだ双頭の銀虎とカルカヤヒムは、細長い洞窟の中の一本道を、静かに歩いていました。洞窟の壁には所々、日の光を集めて珠玉に閉じ込めた明るい灯がとめつけてあり、暗い洞窟の道を照らしていました。やがて、道の行く手に、小さな赤茶色の石の扉が見えてきました。双頭の銀虎は、その扉の前に立つと、何か不思議な合い言葉のような言葉を唱えました。すると、音もなくその扉が開いて、双頭の銀虎とカルカヤヒムは、吸い込まれるようにその扉の向こうに入っていきました。

扉をくぐると、そこには不思議な風景が広がっていました。目も眩むほど天井の高い広大な寺院の中のような空間があり、大理石の床には、何か、乳色の石板を組み合わせて作った大きな四角い書棚のようなものがたくさん生えていて、それが寺院の床に幾つも列を作って行儀よく並び、はてしなく向こうまで続いているのです。上を見ると、書棚はとても高い吹き抜けの天井のてっぺんまで届いていて、上の方は、何やら白くかすんでいて、よく見えません。書棚とは言いますが、もちろん本をつめているわけではなく、棚を仕切った大きな広い枠の中では、白や黄色や薄緑や虹色の、馬でも中に入っているかのような大きな繭が一つずつ入っていました。繭は時々、何かを思い出したかのように、ぴくぴくと動いたり、不思議に光っていたりしています。少し離れたところにある違う列の棚では、小さな枠の中に、鼠や兎くらいの大きさの繭が入っていました。空気には不思議な薬香の気持ち良い香りが漂い、それをかいでいると、魂の中にわだかまっていた暗い不安が、ゆっくりとほどかれて、清められてくるような気がしました。

ここ、どこ?

カルカヤヒムが尋ねました。すると双頭の銀虎の左の頭が答えました。「ここは蚕堂(さんどう)というところだ。だいじょうぶ、怖くはない」すると次に、右側の頭が言いました。「君たちは、ここでしばらくの間、繭につつまれて眠ることになる。魔法の繭の中で、自分の体を少し変えるのだ。そんなに長い時間はかからない。すぐに出てこられる。出てきたときにはもう、姿も名前も変わっている。カルカヤヒム、君には、わかるね」

かるかやひむ、なまえ、かわる。

「ああ、そうだ。種族が変わるから、名前も変わる。もう決まっているから、教えてあげるよ。繭から出てきたときの、君の名前は、マリテラシム。ロクスタリムは、アスカルディムになる」

なまえ、かわる。つらい。

「ああ、そうだね。君は、長い間ずっとカルカヤヒムだったからね。つらいとは思う。でもきっと、すぐに新しい名前に慣れるよ。みんなこうやって、段階を上がるときや、いろいろの事情があって他の動物や種族に変わるときなどに、自分の姿や名を変えていくのだ」

扉の前でしばし話していると、この広大な蚕堂の管理人の一人が、薄青い服を着た数人の精霊を連れて彼らの元に飛んできました。管理人は、銀虎に挨拶をすると、カルカヤヒムを精霊に連れて行かせました。双頭の銀虎は、管理人に事情を話してから、ロクスタリムの入った繭を、別の精霊の手に託しました。管理人は、銀虎から手渡された書類を手に、銀虎に挨拶すると、ロクスタリムの繭を持った精霊を連れて、蚕堂の奥に帰っていきました。

「だいじょうぶだろうか?本人の了解もなくやってしまうと、後が苦労だ。無事に姿を変えられるといいんだが」右の頭が言うと、左の頭が答えました。「こんなケースは初めてじゃない。ここの人は専門家だ。こういう場合のやり方も心得ている。ぼくたちはとにかく、これからも観察を続けながら、新しい環境と名前に、彼らを慎重に慣らしていくよりしかたがない」「そうだな」

そう言うと、双頭の銀虎は蚕堂の管理人や精霊たちに挨拶をし、扉を開けて蚕堂の外に出ました。そして、閉めた扉の前で呪文を唱え、変身を解くと、双頭の銀虎の姿はたちまちのうちに消え、そこに、水色の服を着た二人の青年が現れました。片方の青年は、虎の紋章のついた白い旗を持っていました。

「とにかく、ロクスタリムの観察はこれからも注意深く続けていこう。いや、アスカルディムだったか」「うむ。みなより成長の遅いものは、小さなことで深い傷を得て、魂の病気にかかってしまうおそれがある。十分に愛でつつんでやらねばならない」

どこからか、からん、と石の鳴る音が聞こえてきました。すると二人は同時にその音がした方に顔を向けました。片方の青年が言いました。「ああ、森がとうとう壊れるんだね」もう一人の青年が答えました。「うむ、あの一族の名残は、これで永遠に消え去ることになる」
「人間は、わかっているだろうか。ひとつの種族を自分たちが滅ぼしたということが、どういうことになるかということを」
「わかっていたら、あんなことはしないだろうさ。ロクスタリムも、カルカヤヒムも、いなくなった。もう、永遠に、あの一族がこの世界に現れることはない。神がお創りになった、本当に美しい種族だったのに」ふたりの青年の胸の中に、言いようのないさみしさが、小人のように住みつきました。目にうっすらと涙がにじみました。

「ロクスタリム、カルカヤヒム!」一方の青年が、何かに感極まったように、洞窟の向こうに向かって、叫びました。どこからか、かすかに、空耳のような木霊が、返ってきました。

ろくす、たりーむ…、かるかや、ひむ…




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2012-05-13 07:04:39 | 月の世の物語・余編

黒い直線で碁盤模様を描いた四角い板を挟んで、黄色い服を着た月の世の役人と、水色の服を着た日照界の役人が、花の駒をあやつって少々面白いゲームに興じていました。そこは日照界にある、広い緑の草原の中で、彼らは、草原の真ん中に、それぞれあぐらをかいて座り、碁盤の上に駒を打ちながら、何かを話し合っていました。

「主人公、という言葉は、ありますねえ」月の世の役人が言いました。すると、日照界の役人は、あごに手をあてて、碁盤の上を見つめながら、言いました。「ああ、禅語にありますね。要するに、本当の自分自身と言う意味だ。…ええと、こういきましょう」日照界の役人は、手の中にある、大根の花の模様の入った白い駒を、碁盤の上におきました。すると、月の世の役人が、あ、と声をあげました。「おお、そこにいかれたか。ちょっと参ったな」月の世の役人は、口をすぼめて少し考えた後、手の中にある、菜の花の模様をした黄色い駒を、碁盤の上におきました。すると今度は、日照界の役人が難しい顔をして、考え込みました。

「ううむ、こういけば、ああいって、けれども、あっちに打てば、こういかれると…」日照界の役人が少々長考に入ったので、月の世の役人は腕を組んで碁盤を見つめながら、言いました。「…上部のお考えでは、とにかく、地球の仏教界に新風を起こすために、人材を選んでおけということなのです。で、こちらの方では、一応目をつけている人はいるんですが」「おお、月の世にもいますか。人材が」「ええ、かなり学んでいる人なんですが、ある人生で、少々裏でずるいことをして自らの出世をはかったために、その宗派がとんでもないことになったので、今は、こちらの地獄で、石のお地蔵様を背負って毎日山道を登り下りしています」月の世の役人が言うと、日照界の役人が、ふと目を光らせて、大根の花の駒を、ぱちんと碁盤に打ちました。すると月の世の役人が、うっと声を飲みました。「おや、そういう手があったか…」

月の世の役人は碁盤をじっとにらみつつ、顎をなでました。日照界の役人は言いました。「仏教の過ちを何とか是正するために、人間が何もやって来なかったわけじゃない。名僧と言われる人の業績の中には、確かな愛が光っているものがある。しかし何にせよ、仏教は様々なことを難解なことにしすぎる。悟りという言葉が、はてしない高みにある、絶対神のごときものになってしまっていますから。経に曰く、人間の絆を捨て、天界の絆を超え、全ての絆をはなれた人、彼をわたしはバラモンと呼ぶ」「…そうですねえ。仏はたくさんいますが、釈尊は、まさにはるかなる唯一神のごときだ」「釈尊も、苦い思いを抱いていらっしゃることでしょう」「…よし、これでどうだ!」

月の世の役人が、菜の花の駒を、ぱちんと、碁盤の真ん中ほどに打ちました。そのとたん、ぽん、と碁盤が音を立てて、碁盤の上が、まっ黄色な菜の花で埋もれました。日照界の役人が、「ああ!」と声をあげました。「いや、やられたな。そこにいかれたらおしまいだ」碁盤の上の菜の花は、誇らしげに金色に咲いて、風に揺れていました。胸に澄むような菜の花の香りが辺りに漂いました。

「ふう」どちらともなく、息をつくと、ふたりは声を合わせて小さく呪文を唱えました。すると、菜の花は碁盤の上から飛び出して、草原のあちこちに飛び散り、いつしか草原はどこまでも菜の花ばかりが続く金色の野原になりました。ところどころに、白い大根の花も見えました。

「いや、美しくなりましたな」月の世の役人が風景をうっとりと眺めながら言うと、日照界の役人もうなずきました。
太陽は午後二時の位置にあり、明るい空から、菜の花と大根の野を照らしていました。どこからか、白い蝶がやってきて、花の上を飛び交いました。雲雀の声が鈴の連なりのように上からちりちり落ちてきました。

「そちらの方はどうです。なかなかの人材はそろっているのではないですか?」月の世の役人が言うと、日照界の役人は答えました。「ええ、かなり。みな、苦労をして、何とか仏教に、愛と存在の真実の表現を、もっと自由で豊かな形で盛り込もうとしてきました。ですが、なかなかうまくいかなかったようだ。どうしても、根本的な誤謬を乗り越えることができない。常人にはまったく届くことのできない、釈尊の悟りの境地。無の境地というんですかね。問題はそこに大きな誤解があるということなんだが、なんというかな、最近ではそれが、妙な方向に行ってますね」「ええ。頭をからっぽにして、自分を馬鹿っぽくすれば、なんとなく悟りの境地の真似ができるという感覚だ」「まあ、無の境地と、馬鹿というのは、似ていなくもない。どちらも、何にもないという点では」「なんといいますかなあ。もうどんづまりという感じがしますね。ここから先はどこにも行くところがないというような」「ほんとうはもう、人間は空っぽなのかもしれない。まさにこれが、無の境地というものですかね」「…は、そりゃとんでもない皮肉だ」

二人は、金色の菜の花の原の真ん中で、雲雀の声を聞きながら、しばし語り合いました。日照界の役人は、ポケットから蛍石のカードを取り出すと、それをキーボードに変えて言いました。「データをそっちに移しますから、帳面を出してくれますか」日照界の役人が言うと、月の世の役人は手にふっと息をかけて、帳面を出しました。すると日照界の役人が、キーをポンと打ちました。すると、月の世の役人が持っている帳面が少し震え、中から青いかすかな光が漏れ見えました。月の世の役人が帳面を開くと、その中には、十数人の名前が、ちらちら光る青い文字で書いてありました。

「おや、なかなかの面々だ。おもしろい人もいますね。この人は仏教僧じゃありませんよ、商人だ。それも実に手広くやっている。仏教にかかわったことはあるが」
「ええ、しかし仏教僧というのは、仏教に関してなかなかに厳しい修行や学びをしてきた人が多いもので、そこにこだわって、どうしても、仏教の厚い枠を乗り越えるのが難しいものですから。少し、外側からの働きかけができる人間もいるのではないかと考えたのです。彼は頭もいいし、仏教的な教養も深い。しかも、かなり宗教的におおらかだ。まあ、商人ですから、異教徒とのつきあいもやらねばなりませんし。そこはまさに、『自在』というわけですな」
「ふむ、おもしろい」
「まあ、問題はです。今の時代、こういう人材が、まっすぐに育つことができない。高い勉強を積んだ人間ほど、まだ段階の浅い人間に嫉妬され、成長段階でつぶされて、本来ゆくべき道に進めなくなって、結局は、若い頃に死んでしまう」
「そこなんですな」
月の世の役人は、深いため息をつきながら、帳面を閉じました。

「そちらの人材はどうです?」日照界の役人が言うと、月の世の役人は言いました。「そうですね。彼は、罪を犯してしまった分、仏教界の影の部分に詳しいし、身の処し方がわかっている。そこをいい方向にもっていけば、何か面白いことができるかもしれません」
「なるほどね。今の時代、そういう人の方が、まだやれることがあるかもしれない。少々危ないことをするかもしれませんが、人間の愚かな部分に対する処し方を学んでいるのなら、それを活用して、なんとか物事をうまく運べるように持っていけるかもしれない。問題は、彼自身が、真実の道を踏み外さず、正しい目的を果たすことができるかどうかですが」
「ええ、彼はもう十分にわかっています、釈尊の本意を。やらせてみるのも、いいかもしれません。ちょっとした賭けにもなりますが。良い方向に持っていければ、彼の罪の浄化にもなる。しかし、失敗すれば、…もっと悪いことになる」
「ふうむ…」
日照界の役人は、菜の花の景色を見ながら、考えました。

「とにかく、上部のお考えは、人類に重要なことをやらせてほしいということなんですね。人類がやらなくてはだめだと。…もう時代は変わり始めている。いや、変わっている。そろそろ、地球上のあらゆる間違いをなんとかするために、人類も行動を始めるべきだと」
日照界の役人が言うと、月の世の役人が深くうなずきました。「それは、わたしもそう思う。人類にやらせなければなりません。もともと、釈尊の本意を誤解して、真実ではないことをたくさん世界に振りまいたのは人類なのですから。その根本的な間違いを、後世の人が何とか是正しようとしてきたものの、なかなかうまくいかなかった。それはやはり、人類がまだ幼く、自分と言うものの本来の姿がよく見えなかったからだ」
「しかし、もう人類もだいぶわかってきている。自分存在というものを」
「仏教の考え方に違和感を持つ人も、これから多く出てくるでしょうね」
「たぶん。しかし仏教は、文化としても人間の心を支える場としても、地球世界で大きな機能を持ってしまっている。問題は山積している、…という次元ではないな。だがとにかく、未来のために今打てる手は打っておかないと」
「花将棋と同じですな。まあ、わたしは、三手前から、勝負は見えてましたが」
「おや、そうですか?でも、一手前でわたしが二目横に打っていたら、勝負はわたしのものだった」
「負け犬の遠吠えはよしてください。終わった勝負です」
ふたりは声を合わせて、笑いました。

「鉢の子に菫たむぽぽこき混ぜて三世の仏に奉りてな」しばしの沈黙のあと、菜の花の原を見はらしながら、日照界の役人がつぶやくように言いました。雲雀の声が快く耳に落ちてきます。春の風がふたりの頬をくすぐりました。
「ああ、良寛ですね」月の世の役人が、気持ちよさそうに言いました。
「ええ、好きな歌なもので、覚えているんです。要するに、愛の神のためになんでもしたい、という彼なりの愛の表現だ。彼は彼なりに、愛が、わかっていた。自分というものが。だが、仏教世界で愛を表現するのは難しい。天上天下唯我独尊と言う言葉はありますがね」
「それも利己的な意味に変換してよく使われますね。真意は全く違うのだが。しかし、愛と言うことばはどこにも出てこない。『我』とは、すなわち愛のことだが、愛というほうが、人類にはわかりやすいし、暖かい。『我』すなわち愛という真実をわかるのには、まだ人類は若すぎた」

ふたりは同時に、ため息をつきました。日照界の役人が言いました。
「とにかく、ためしに、今回上がった人材に、何かをやらせてみましょう。今は難しい世の中に見えるが、時代は変わっている。彼らが活躍できる時代が来るかもしれない。いや、もう来ているのかもしれない」
「ええ、そうしてみましょう」

菜の花の原に、一息涼しい風が吹きました。二人は互いのデータを交わすと、今後の予定を組み立て、その素案を持って、立ち上がりました。月の世の役人が、碁盤を持ち上げて、それを折りたたみ、手元から消すと、菜の花の金色の原も、ゆっくりと風に溶けて消え、元の緑の草原の風景が戻ってきました。

「諸行無常か」月の世の役人が、消えていく菜の花を見ながら、少しおもしろげに言いました。日照界の役人が答えました。
「それも、本当は、間違ったことは長続きしないと解すべきですよ。この世にあるものは全て無に等しいと解する者が多いようですが。たしか論語にありましたね。不仁者はもって久しく約に処るべからず…」
「ええ、愛を知らない者は、何をやっても長続きしないという意味です」
「諸行無常が、この世はしょせん無に等しいものなのだから、何をやっても無駄だという意味にとられるなら、釈尊は悲しまれるでしょうな」
「まったく。…まあ、ともかくも、我々は、我々のやることを、やっていきましょう」
「ええ、愛とはただ、愛なるゆえに、常にすべてをやっていくというものですから」

やがてふたりは、互いに別れの挨拶を交わすと、それぞれの魔法を行い、草原から姿を消しました。雲雀の声が、空高く太陽の向こうに消えていきました。誰もいなくなった緑の草原の風には、しばし、ひとときの春の香りが、残っていました。



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2012-05-12 07:37:43 | 月の世の物語・余編

銀色の静かな湖面の上に、一艘の青い船が木の葉のように浮かんでいました。湖の上には、深い霧が立ち込めています。空を見ても、月の姿はよく見えませんが、光は白く霧に溶けて、うっすらと湖面の上を泳いでいました。船の上には、竪琴弾きと、一人の少年が、ぼんやりと立っていて、時々、ひそひそと会話を交わしていました。

「ありがとう。船を出してもらって。予測では、ここらへんでいいはずなんだが」竪琴弾きが少年に言いました。
「とんでもない。こんなことは当たり前だし。ほんと、助け合うことなんて、当たり前にやれることなんだけどな。なんで人間には、それが難しいんだろう?」
「もうすぐ彼らにもわかるようになりますよ」
竪琴弾きは、少し悲しそうに笑いながら、言いました。

「それにしても、あなたはいつも、担当する人に苦労してるみたいですね」少年がいうと、竪琴弾きは、ただ、はは、と笑うばかりでした。少年はそんな竪琴弾きの顔を見上げながら、小さく息をついて、言いました。
「ぼくもかなり苦労をしてるけど、あなたの方が大変みたいだなあ。で、その人は怪と契約してるんですか?」
「ええ、これで三度目です。前回のときに、やめなさいとは口がすっぱくなるほど言っておいたんだが。…彼は、本当は、ある田舎の村で農夫をやるはずだったんです。ところが、偉い人になりたくて、怪に頼んで、都会に生まれさせてもらって、今、あるところの市長をやってます。けれど、彼には農夫はできるものの、市長なんて難しい仕事ができるはずありませんから、やれもしない嘘ばっかりを言ったあげくに、結局は何にもできなくて、言い訳程度のことばっかりをやっているうちに、それが大変なことになって、責任を負い切れなくなって、とうとう、何もかも投げ出して、途中で自分の人生から逃げ出して、帰ってくるんですよ」
「よくあることですね。人間は時々、途中で自分の人生が嫌になると、まだ生きてるのに、こっちに帰ってくる。あとの人生は怪に奪われるか、そのまま空っぽになって、心臓が萎えて死んでしまう」

竪琴弾きと少年は、霧の空を見上げながら、風の具合を読みました。「…まだみたいですねえ。そろそろだと思うんだけど」少年が言いました。すると竪琴弾きが言いました。「ためらっているのかもしれませんね。怪に対する負債のこともありますし、今度こそそれを払わなくちゃいけないと思うと、怖いのかもしれない」「…毎度のこと、後々のことを考えて、物事をやってくださいって、ぼくもよく言ってます」「へえ、君もですか」「そりゃもう。ぼくの担当する人には、男の人が圧倒的に多いんだけど、いつもおんなじことばっかり言わせられます。とにかく、悪いことはするなって。嘘はつくなって。後が大変なことになるからって」「気持は痛いほどわかりますよ。御同輩」竪琴弾きは笑いながら言いました。その笑い声は、静かな湖面に響いて、かすかな波紋を描きました。

ふと、風の音が変わりました。竪琴弾きは竪琴をかまえました。
「や、来ますね」少年が言うと同時に、霧の空の向こうから、ひゅう、という音が聞こえてきて、突然、何か黒い岩のようなものが、銀の湖面の上に、ばしゃんと、大きな水しぶきを立てて落ちました。
「お、来た来た」竪琴弾きは、びんと竪琴を鳴らしました。すると、水の上に、黒い寝間着姿の男が、ぽっかりと頭を出して浮かび、茫然と目を見開きながら、周りを見回していました。竪琴弾きは少年に頼んで、ゆっくりと船を、その男の方に寄せてもらいました。

「やあ、ひさしぶり。五十三年ぶりですか」竪琴弾きが声をかけると、水に浮いた寝巻姿の男が、はっと竪琴弾きの顔を見上げ、あっと声をあげました。「あ、お、おまえは…」
「やあ、おぼえていてくれましたか。またやりましたね。あれほど言ったのに。でも、あなたはまだ、生きてるんですよ。途中で人生を投げだしちゃいけない」
すると男は、おどおどと目を揺らし、竪琴弾きに言いました。
「お、おれは別に悪いことはしてない。なんでもないんだ、あんなこと。ふつうみんな、やってることだし。べ、別に、馬鹿なことをしたわけじゃ…」

竪琴弾きは、困ったように笑って、一つ息を吐きました。そして、下の方を指差し、水の中の男に、湖の底の方を見るように言いました。男が、湖の底を見てみると、そこには大きな大きな白い水蛇がいて、静かにとぐろを巻いて眠っているのです。男は声にならぬ悲鳴を上げて、あわててばしゃばしゃと手足をもがかせ、船の方に泳いできました。

竪琴弾きは、船の舳先につかまって震えている男に、言いました。
「いいですか。あなたは死んだ後、今の時点では、ここに落ちる予定です。あの水蛇に、何百年かの間、湖の中で追いかけられるはめになります。あなたは、ずっと湖の中を泳いでいなければなりません。そうでないと、水蛇に食べられてしまいますから」
それを聞くと男は、目をまるまると見開いて、言いました。
「おれは、そんな、何もしてない! な、なんにも、悪いことなんか…」
「とにかくです。冷たいようですが、最近は月の世の道理もかなり厳しくなっていましてね。途中で自分の人生からやすやすと逃げられないことになってるんです。あなたには、今から地球に帰って、最後まで自分の人生をやってもらわねばなりません」
それを聞くと、男は一層青ざめました。男はもう、自分の人生が嫌になっていたからです。何をすることもできないのに、大きなことばっかりを言ってしまって、これからそれを全部やらなければいけないと思うと、もう本当に自分がいやになって、人生から逃げてきたのです。

茫然と目を見開いたまま、何も言えないでいる男に、竪琴弾きは、真剣なまなざしをして、言いました。
「いいですか、一つだけ、言ってあげます。自分を偉いと思って、人を馬鹿にしてはいけません。自分を偉くするために、他人をいじめたり、いやしめるようなことを言ったりしてはいけません。人には、丁寧な言葉で、やさしいことを言いなさい。そうすれば、誰かがあなたを助けてくれます。できないことでも、すっかりとはいきませんが、ある程度、なんとかなります。いいですか。とにかく、言葉には気をつけて、なんとかやってみなさい。それだけです」
そう言うと、竪琴弾きは、竪琴を、ぼろん、と鳴らしました。すると、寝間着姿の男は、一瞬、ぎゃっと声をあげて、湖の上から消えました。

「帰りましたか」少年が言うと、竪琴弾きはしばし風に耳を澄まし、また、竪琴を、びんと鳴らしました。すると霧の中に幻が現れ、その中で、さっきの男が、暗い寝室のベッドから身を起こしたのが見えました。「や、戻ったみたいだ」竪琴弾きが言いました。幻の中で、男は頭に手をあてながら、きょろきょろと周りを見回していました。少年が言いました。「夢を見たと思ってるみたいですね。でも、さっきあなたが言ったこと、覚えているかな?」「さあねえ、覚えていてくれるといいんですが」

竪琴弾きが幻を消すと、少年は呪文を唱えて、船を動かし始めました。湖の上をゆっくりとすべる船の上で、竪琴弾きはため息のように言いました。「どうして、男ってものは、偉くなりたがるんですかねえ」「それはもちろん、女の人にもてたいからですよ」少年の言葉に、竪琴弾きは苦笑いをして、少し顔を揺らしました。少年はそんなことは当たり前だと言うように、続けました。「要するに、ああいう人たちの人生の究極の夢っていうのは、セックスだけやっていたい。他には何もしたくないっていうことですから」「ああ、それではもう、身も蓋もない」竪琴弾きは手で顔を覆って笑いながら、言いました。「…ハレムの王様ですか。なんだか、君の日ごろの苦労がわかるような気がするな」「ええ、ぼくの担当する人は、そんな人ばっかりですから。要するに、女性と遊んでばかりいる人生がいいっていう人ばっかりなんです。そのために、ほんとに、いろんな馬鹿なことをやって、結局月の世の地獄に落ちてくるんだ。そのたびに、同じことばかり言わされるんですよ。やめてください、頼むから。嘘はつかないで。ずるいことはしないで。そんなことをするから、人生が壊れてしまって、結局は全部だめになってしまうんですよって…」

少年は湖の上に船を滑らし、やがて船は緑の岸につきました。竪琴弾きは岸に降り立つと、もう一度、少年にお礼を言いました。「ありがとう。船を出してくれて、おかげでだいぶ助かりました」「いえ、できることをやるのは当たり前ですから。…ああ、それにしても。簡単なのになあ。物事をやさしく、丁寧に言って、それで、自分のできることを正直にやる。それだけで、どれだけ人生がうまくいくか。それだけのことを、どうして人間はうまくできないんだろう…」
竪琴弾きは、湖を眺めながら言いました。「悲しいからですよ。自分がまだ小さくて、勉強が足らなくて、大切なことがわからなくて、物事をうまくできないのが」「そんなこと、勉強すればいいだけだってこと、わかってると思うけどな」「わかってても、つらいんでしょう。だから、ずるいことをしてでも、どうしても、一足飛びに、大きくて偉いものになりたがる。真っ正直な本当の自分でいるほうが、幸せなのに。彼も、農夫として生きて、田舎で豆の花と暮らしていた方が、ずっと幸せだったろうに」

少年は、船から岸に降りると、呪文を唱え、青い船を一枚の小さな青い花びらに戻しました。竪琴弾きはそれを見て、言いました。
「いつ見ても、素敵な魔法だな。教えてほしいくらいだけど、君じゃなきゃできない。どうしてそんなことができるんです?」
「いや、ぼくはたまたま、できるようになったんです。ちょっとしたきっかけで、ある花と仲良くなることができて、秘密の呪文を教えてもらったんだ」
「きっかけって?」
「ほんの小さなことです。ある青い小さな花が、毛虫の怪に、葉っぱを食べられていたところを、助けてあげただけなんです。そしたら、お礼にって、花がこの魔法を教えてくれたんです」
「…ああ、ほんとうにねえ。本当の自分にできることを、やさしい心でするだけで、ものごとはみんな、そんなふうに素敵なことになっていくのにな」
「簡単なことなんですけどね」

「彼もそうやって、何とか、あとの人生をしっかりやってもらいたいものですが」
竪琴弾きは、竪琴を背中に回しながら、言いました。




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2012-05-11 06:50:39 | 月の世の物語・余編

はてしない雲の原が広がっていた。天には薔薇の形をした星雲がひとひら、太陽のように中天に咲いていた。それは輝く星たちに支えられて、見えぬ神のためにささげられた、美しい紅の王冠のようでもあった。

雲の原の一隅で、三人の光る人が、互いに顔を向け合いながら座っていた。彼らの真ん中に、檸檬水晶の、透き通った卵のような光の塊が、ふわふわと浮かんでおり、三人の光る人は、それを見ながら、何かをささやくように話しあっていた。

「ふぉう?」だれかが言った。「る」もう一人がいった。「あぁ」最後の一人が言った。
彼らはそれぞれに、しばし、片手を蝶のように揺らしたり、星を見上げるために首を傾けたり、人差し指を立てて天をさし、その上に小さな火花のような光を咲かせたりした。

檸檬水晶の卵は、彼らが何かの言葉を発したり、手を動かしたりするたびに、複雑に揺れ動き、度々と姿を変えては、虹のように震えながら、次々と生まれてくる歌を鉱物の声で語り、それを光としてちらちらと揺らし、悲しくも美しい真実を語った。

やがて、ひとりの光る人が、「す」と言い、はさり、という音をたてた。彼は背にあった深紅の翼を広げた。それは雲の原の上に小さくほころんだ、赤い薔薇のつぼみのようでもあった。瞬間、まなざしの会話があった後、ほかのものも、それぞれに翼を広げた。一息風が流れ、かすかな光が弾けたかと思うと、一瞬にして、全ては消えた。光る人はもういなかった。檸檬水晶も消えていた。ただ、空にかかる、薔薇の王冠だけが、静寂の歌を流し、星の光が、ひとつふたつ、その場に滴り落ちた。

さて、この場で起こったことを、これを読む者に理解してもらうために、もうひとりの存在が必要である。それは誰か。言わねばなるまい。それは、物語の語り手自身である。語り手は、この話を語り始めたゆえに、ここで起こったことを、分かりやすく、読む者に伝える義務があると、考える。ゆえに、語り手は語る。

今ここで起こったことは、以下のようなことである。

雲の原に、三人の光る人がいた。そのうちの一人が、檸檬の水晶を指差し、一つの魔法を行った。すると、檸檬水晶から、白いキノコのようなものが生え始め、それはひとりの人間の女の姿になった。それは、白い肌に金の髪をした実に美しい女であった。別の光る人が、その女を指差して、言った。

「美しい。というより、実に悲しい。ここまで美しくなることを、人類は耐えられるだろうか」
すると、もうひとりの光る人が言った。「幼くも心弱き者よ。なんということをしたのか。おまえたちは常に、自分より弱いものを虐げる。己の存在の痛みゆえに。ああ、そしてそれがどういうことになるのかを、おまえたちは知らなすぎる」

魔法を行った光る人は、女の姿を消し、今度は違う魔法を行い、檸檬水晶の卵から、男を呼び出した。灰色がかったキノコのようなものが生え始め、ひとりの少年が現れた。男は、それ以上成長しなかった。それどころでなく、片方の足が奇妙に歪み、短かった。手の長さも不ぞろいで、指の数も足らなかった。

光る人たちは言った。「人類の男がこうなり始めたのは、地球年代で十九世紀頃からだ」「ああ、大航海時代に、人類の男の犯した罪によって、罪功量は限界を超えて、こうして現れてきた。女性を軽んじすぎたのだ。男の霊体は、段階の進んだ者を除いて、だいぶ女より小さく、そして奇形的になってきている」「男が女を軽んじるのは、人類史の劫初の時代からすでに始まっていた。愛高き者が何度教えても、男は女を軽んじることをやめなかった。ゆえに、人類は何度も間違いを犯した」「男が女を軽んじるたびに、女はそれに耐えねばならぬ。耐えられぬことにさえ、耐えねばならぬ。それゆえに、女は、美しくなる。なぜならば、苦しみに耐えることが、その魂を進化の道に導くからだ」「そう。そして男は、ますます女が欲しくなり、女を妬むようになり、女のために、女を得るために、あるいは殺すために、あらゆる苦しみをこの世に生む。その罪の故に、男は醜くなる。そして美しい女が憎くなり、女を虐げる。そして女はますますそれに耐え、ますます美しくなる。男は、ますますそれが欲しくなり、それを妬み、あらゆる苦しみを生み、女を虐げる。そして女はまたそれに耐え、また美しくなる。男は、醜くなる」

光る人が、また、檸檬水晶を指差し、魔法を行った。少年の姿が消え、また女の姿が、そこから生えてきた。光る人は、そこに、小さな光のかけらのようなものを、投げ込んだ。すると女は、少し前よりも大きくなり、閉じていた目を開けて、澄んだ声で歌い始めた。その女は、もはや人間の域の美女ではなかった。女神とさえいってよかった。全てにたえて、すべてをのりこえ、それでもいい、愛していると、歌っていた。

「ふう」だれかが言った。「最終段階に落ちた。人類の女は、人類の男を、超えた。これを、人類の男は、知らない」ほかの誰かが言った。「ああ、人類の男は、自分たちの心が、どんなにやすやすと、女に見破られているかを、ほとんど知らぬ」「女はもう、神の空より聞こえる歌を、かすかにも聞くことができるようになったのだ。だが、男にはまだ、それができぬ」

「とにかくも」と、光る人は言った。「このままにしておいては、男と女の段階の差が肉体上に現れてくる。そうなれば、地球人類の滅亡につながることすらおきかねない」「ああ、男は、屈辱に耐えて美しくなった女の前に、女を辱めて罪を犯してきたゆえに、小さくも醜い姿になった自分をさらさねばならぬ」「ふたりの間に、恋はめばえると思うかね?」「それは難しいだろう。恋をするには、美しいということは、欠きがたい条件だ。それは愛のひとつの形なのだから」

光る人たちは、それぞれに手を踊るように揺らしながら、語り合った。「ふむ。だが恋がなければ、誕生もない。人類は滅ぶ。男には、どのようなことをしても、女に追いついてもらわねばならぬ。そのためには、彼らには相当なことをしてもらわねばならないが」「それは桜樹システムの計画にも組み込まれている。もうすでに誰かが行動を起こしているはずだ」「我々のせねばならぬことは、現段階での解決だ」「そのとおり。では」

すると、光る人の中の一人が、石に似た沈黙の呪文を、閉じた唇の中で転がした。それは聞こえる声ではなかった。まだ聞こえてはならないからだ。それが聞こえるのは、はるか未来のことなのだが、どうしても今発しなければならなかったので、彼は、沈黙の形に変えて、その呪文を発したのだった。

女の姿が消え、もう一度、さっきの、少々奇形的な、少年の姿が出てきた。聞こえぬ呪文は、少年の中に入っていき、それは一種の改良遺伝子のリズムとなって響き、少年の姿を変えていった。少年はだんだんと大きくなり、少し小さめではあるが、りっぱな男の姿になった。不ぞろいだった手足も指も、ちゃんと長さも太さも数もそろい、美しいと言うことは難しいが、それなりに愛すべき男の姿になった。光る人が言った。

「だいぶ中性的だな。男には見えるが」「これくらいにしておいたほうがよいのだ。よほど段階がすすみ、愛と優しさを学んだ男でない限り、魁偉な肉体は持たないほうがよい。まだ段階の進んでいない男が、大きな肉体をもつと、それだけで女が逃げる。もう女も、男の暴力的な支配に、耐えるのをいやがっている。多数の男は、むしろ小さい方がいいだろう」「確かに。だがこれで、恋が成立するかね?」「それはあるだろう。どちらにしろ、女にも、男は必要だ。これくらいなら、なんとかなるのではないか?」「ふむ。まあ、男に、これ以上の荷を負わすのも辛かろう。彼らは、こうして、未来の自分自身に、大きな借金をしたことになるのだから」「ああ、これは彼らの今の本当の姿ではない。彼らが、よほど、人類のために愛を尽くし、数々の試練を乗り越えたときの姿なのだ。われわれは、彼らの未来からそれを借り、それを現在の彼らに与えた」「そう。それゆえに、男はやらねばならぬ。いいや、やらせねばならぬのだ。我々が」

そのとき、光る人の一人が、はさり、と音を立てて、背中の翼を広げた。そして言った。
「人類よ。おまえたちの肉体を誰が整え、誰が作っているのか。おまえたちは知るまい。だが、我々はおまえたちを愛する。おまえたちがこれから味わうであろう、すべての苦しみを、我々はともにしていくことであろう」
深紅の翼は、開きかけた薔薇の花弁のように震え、星の光にかすかにつやめいた。それはかすかな風を呼び、もう一つの魔法を行った。

檸檬水晶が、くらりと震え、それまでの映像を一旦消したかと思うと、一組の男女の姿が、そこに現れた。女は白く美しく、目を半眼に伏せていた。男は、女より幾分小さく、それほど美しくはなかったが、男ゆえの凛々しさを備えていた。幼さを補うための魔法の衣を着せられ、男は何とか女と肩を並べていた。男は目を見開いて、隣の女を見た。男は、心を揺り動かされたようだった。女は半眼で動かないまま、男の心を感じていた。男が、自分に欲望を示したことに気付いた。だが何も言わなかった。男は、女を欲しいと思ったが、黙していた。自分の身のうちに起こった何かにかきたてられ、彼は空に飛ぼうとした。

光る人は歌い、男を助けた。男は飛んだ。蝶のように宙を舞い、風に乗ってどこへともなく消えて行った。

「どこに行ったのか」光る人が言った。「はてしない道だ」「ああ、行かねばならぬ道へ、自ら行ったのだ」ほかの二人が言った。

「恋は生まれるだろう」「ああ、彼らは行くのだから」「女は愛するだろう。今までと変わらずに」「男は、愛するか?」「ほ、それを言うてはならぬ」「愛していると言えばよかったものを」「細い柱の回りを、逆の方向に回れば、愛おしい女の顔を、すぐに見られたものを」「背を向けて走り始めたがゆえに、何万年の年月を女の尻ばかりを追いかけねばならなくなった」「それを愚かと言うは、酷か」「ふ、まことならば、酷とはならぬ。なんにせよ、我々は愛している、人類を」「男よ。女よ。恋をさせてやろう。切なくも、美しい恋を」

ほかのふたりも、はさりと背中を揺らし、翼を広げた。ひとりの翼は銀に光り、もうひとりのものは、若草のような澄んだ緑だった。それをはっきりと目で確認できるよりも前に、彼らは姿を消した。檸檬水晶も消えた。

果てしない雲の原に静寂の風が吹いた。神の王冠のごとき薔薇の星雲が空にあった。星の光が一つ二つ、雫のように滴り落ちた。

さても、語り手は語ったが、さて、この語り手が誰なのか。これを読む者は、それをわかっていると思っているようだが、いや、わかりはすまい。もしや、わかることがあろうとしても、そのときにはもう、語り手はいない。物語を読み終えたとき、それがすべて、架空の出来事であったことに初めて気づくことのように、わたしは、物語とともに姿を消す。わたしもまた、この物語の中にいるのだから。読み手よ。わたしはここにて消えるが、さあ、あなたは、この物語から逃げることができるか。それを保証することは、わたしにはできない。

では、失礼。



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2012-05-10 07:15:57 | 月の世の物語・余編

空は竜胆の色をしていた。月はあこや貝の裏地のようであった。

白い衣服を身にまとった上部人は、黒曜石の大地の上に立ち、風に吹かれながら、さてどのような創造を行おうかと、考えていた。
彼は、上部人としてはまだ相当に若く、本格的な創造の次元魔法を学び終えて間もない頃であった。指導者からその魔法を学んでいたときは、あこがれの恋人に出会えた鳥のように胸がはずみ、学ぶことはそれは楽しく、彼は吸い取るように指導者の語る言葉を覚えていたものだが、実際に学んだことを、自ら行おうとするとき、何かしら、神の前に恐れ多きことをするかのようなわずかなおびえと、ためらいを感じている自分に、未熟さを思わざるを得なかった。

「あぉ、さり」彼はつぶやいた。…勇気は自分にあると思っていたが、新しきことに向かうとき、それは小鳥の雛のようにおびえることもあるのか。だが、とにかくはまず、最初にやらねばならないことは…、ふむ、わかっている。

彼は、右手を高くあげ、それをかすかに揺らし、風をその手にまきとった。風は旗のように彼の腕にまとわりついた。彼はその風に呪文を吹きこみ、ついこの間学んだばかりの、美しい呪文の歌を歌った。それは琴の音のような声で、彼の喉から流れだし、次元の彼方から光を呼んで、黒曜石の大地の上に、ひとひらの創造の衣をふわりと落とした。

「いゑ、み」…よし。基本の大地はできた。さて、これからが自分の工夫だ。まず自分に尋ねよう。わたしよ、何が欲しい。何が見たい。何を創りたい。

彼は、竜胆の色の空を見上げた。「ふ」…ほう、竜胆か。と彼は思った。そう、美しい花を見てみたい。青い竜胆の花野か。それはすばらしいだろう。うまくできるかどうかわからないが、とにかくためしてみよう。まずやらねばならないのは、竜胆の真の名を呼び、それを愛しているこの心を、竜胆に深く語りかけることだ。

彼は目を閉じ、青い竜胆の花の姿を思い浮かべた。それは緑の野の隅にひっそりと咲く、清らかにも青い、音なき音で語る、静やかなる乙女であった。その奥に白い小さな星を隠し、その痛みに、常に震えていた。愛の痛みを、どの花よりも、悲しく、深く感じるため、竜胆はあのようにも、澄んで青く、清らかなのだ。彼は、竜胆の花の真実に深く共鳴しながら、呪文を唱えた。

「ああ、神の胸に横たわる広き野の片隅に、沈黙の鐘を揺らす、小さき竜胆よ。あなたのひそやかなることのはとその微笑みの、美しきことをたたえる。それに深く感謝をささげる。あなたの美しいことを、わたしは心より喜ぶ。あなたの清らかなことに、わたしの心は震える。あなたの愛がこの世にあることの、いかにうれしきことかを、このうえなく神に感謝し、あなたに感謝する。あなたは愛である。ゆえに、存在する」呪文は、そういう意味であった。

ほう、彼は一息、風を吐いた。基本の大地の上に、ただ一つ、青い星のような、竜胆の花が咲いた。彼は、急いでもう一つ違う呪文を唱え、その竜胆に仮の魂を灯した。すると竜胆は風に揺れ、かすかな歌を歌った。それは、普段ならば、野に紛れて、決して聞こえはしない、かすかなる竜胆の清らかな愛の歌だった。

彼は、それから、基礎の大地の上に、多くの竜胆を咲かせ、青い竜胆の野を創るつもりだったが、その、たった一輪の竜胆の歌が、あまりに澄んで美しかったため、それを思いとどまった。竜胆が、本当はどんな歌を歌っているのかを、彼はまだよくは知らなかったのだ。それゆえに、その竜胆の歌う歌に、彼は驚きいり、しばし聞き浸ってしまった。竜胆は歌っていた。

ゆめみる しろきそらのふねにて
あなたに あいたい
ゆめみる あおきのの かたすみにて
あなたの こえを ききたい
ゆめみる ぎんのみずの ほとりにて
あなたの まなこに しずみたい

ああ…
若い上部人はため息をついた。「り」…なんと美しいことだろう。
彼は、創造の魔法を一旦打ち切り、自分が、初めて創った、たった一輪の竜胆のそばに歩み寄ると、そっと膝をついて、静かにも喜びに満ちた微笑みで、竜胆を見下ろした。竜胆は繰り返し、歌っていた。

ゆめみる ほしのきぬのかげにて
あなたの むねのいたみを
すべて わたしのゆめに つつみたい
ゆめみる あおきもりのしたにて
あなたの かげるまなこを てらしたい…

上部人は、まるで、清らかにも美しい乙女に、初めて出会った少年のように驚いて、竜胆を見下ろしていた。胸がかすかにときめくのを感じた。それは、まるで、少年の味わう淡い恋心にさえ、似ていた。もちろん、彼はもうとっくに知っていた。美しい女性に出会い、その人に恋をするとき、男がどのような気持ちを味わうのかを。それが苦しくもせつなく、時には己の魂さえ迷わすほど、激しい痛みをもたらすものであることを。

「とえ、こり」…神よ、これまで見たこともないほど、美しいものに出会うとき、人はだれも、恋に似た感情を味わうものです。ああ、神よ。そうであればこそ、恋とはまことに美しいものです。

上部人は、青い竜胆の前に、ひざまずき、ただ心を吸われるままに、その歌に聴き浸っていた。彼は幸福に微笑み、恋をしてもよいと思った。それほどに、竜胆は美しかった。

時は過ぎた。上部人はただ、一輪の竜胆の前に佇み、その歌を聞いていた。しばしの間、世界はそれだけで満たされてしまった。もうほかには何もなかった。竜胆がいて、自分がいて、ただ、歌が流れていた。微笑みがそれにこたえて、こぼれおちた。幸福だった。

ゆめみる かなたの みさきにて
あなたの ちいさき ほしのひかりに
そまりたい
ゆめみる はてなき みちの
さなかにて
あなたの さむきむねを あたためたい

上部人はただ竜胆を見つめ、ただその清らかな歌に聴き浸っていた。魂を奪われていると言ってもよかった。彼はそれを認めた。自分は彼女に、恋をしてしまったのだ。これ以上はないというほど、美しい恋を。

ああ。そうして、どれだけの時間がすぎたか。ふと、月が陰ったのに、上部人は気付き、目をあげた。あこや貝の裏地のような月が、少し灰色に陰っていた。そのとき、ふと、ぽん、という音がして、彼は下を見た。すると、もうそこに竜胆の姿はなかった。魔法の、効力が切れたのだ。彼が灯した仮の霊魂が、今、消えたのだ。上部人は、う、と喉を詰まらせた。そして、竜胆の消えてしまったあとの大地の上を手でさすり、竜胆の気配を探した。だが、もう、竜胆はどこにもいなかった。もう彼女は消えてしまったのだ。

灰の氷のような寂しさが、彼の胸をよぎった。ああ!彼は胸の中で、裂けるような叫びをあげた。失いたくないものを、失ってしまった。その悲しみが、ひととき、彼の魂に、きしるような割れ目を生んだ。

なんということか。なんということか。なんということを、わたしはしてしまったのか。

上部人は心の中で叫んだ。創造とはこういうことか。愛とは、こういうことか。ああ、愛するほかないというものを、愛してしまわずにはいられないというものを、創る、創ってしまう。これが、創るということか。それが、ああ、消えてしまう。上部世界の創造の魔法では、維持管理の魔法を続けて行かない限り、それはいつか燃え尽きて次元の彼方に消えてしまうのだ。なんという悲哀。わたしは、まだ、こんなにも、未熟だったのか。なにも、わかってはいなかったのか!

彼は、竜胆のいた大地の上にうずくまり、声もないまま、ほたほたと涙を落した。たった一輪の竜胆でさえ、この世界から消えてしまうということが、どういう悲哀をもたらすかということを、彼は知った。

風が吹き、時が流れたことを彼に教えた。涙はもう乾いていた。やがて上部人は、ふう、とため息をつき、平常の自分を取り戻した。そして、かすかな悲哀に染まった瞳をあげて立ち上がり、もう一度、魔法を試みた。呪文を高く歌い続け、黒曜石の大地の上に、ひとひらの、竜胆の野を創った。青い竜胆の花たちが、風に吹かれ、その小さな鐘を揺らしながら、清らかな斉唱を始めた。

ゆめみる あなたのむねの なかにて
あなたの こころに ひかりたい
ゆめみる あなたのみみの かたえにて
あなたの さみしさに ささやきたい

上部人は、竜胆の野を見はらしながら、小さく息をつき、この野をできるだけ長く存在させてゆくために、管理の魔法をやって行くことを自分に戒めた。創造ということが、どのように重いものであるかをわかっているつもりで、わかってはいなかったことを、あの消えていった一輪の竜胆が教えてくれたのだ。

「はりよ、たみ」…一輪の、竜胆よ。あなたは、消えてしまった。だが、決して、消えはしない。なぜなら、わたしは、あなたを、この上なく美しかったあなたに、恋すらしたことを、決して忘れはしないだろうから。

上部人は言いながら、空を見上げた。

竜胆の空に、あこや貝の裏地の、月があった。




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2012-05-09 06:56:57 | 月の世の物語・余編

川沿いに、低いコンクリートの堤防がありました。その堤防の根元、石畳の道との間の小さな隙間に、一輪の小さな菫の花が、咲いていました。菫の花の前には、細い道を挟んで、白い壁をした大きな家があり、その家の壁には惨い弾痕がいくつかあって、窓の一つが壊れて、割れたガラスの代わりに、白い布を張ってふさいでありました。

やれやれ、という何かに呆れたような声がかすかに聞こえてきました。菫が、風に顔を揺らし、誰に言うともなく、つぶやいたのです。菫は、種になったり、花になったりを繰り返しながら、長い年月をずっとその同じ場所に咲き続けてきました。そして、ここで起こったことの何もかもを、見て来ました。

ふと、上から誰かが呼ぶ声が聞こえてきて、菫は顔をあげました。すると、風に乗って、ひとりの若者が自分のところに向かって降りてくるのが見えました。若者は、菫のそばにそろりと降りてくると、菫の前にひざまずき、言いました。

「停戦がなりたちました。しばらくは、平和になりそうです」
それを聞いて、菫は、何やら不思議な歌を歌ったかと思うと、くん、という空気を叩くような音をたてました。すると、ふっと菫の花が消え、そこにいつしか、菫色の服を着て、白い髭をしたひとりの老人の姿をした聖者が、静かに座っていました。菫の聖者は、元の姿に戻り、少し安らいだかのように、ひとつ、深い息をつきました。

「双方合意したか」聖者があまり興味もなさそうに言うと、若者が苦しそうに言いました。「いや、合意というべきか。要するに、大国の立場の問題です。どちらも、そっちを立てなければいけなかったということで。民族の対立と言うか、宗教の対立と言うか、本当に面倒くさい。歴史だの地縁だの利権だの、ありとあらゆるものが複雑に絡み合い過ぎている」
「ふむ。まあ、複雑に見えて、真実は案外簡単なものだ。そろそろ、人間も気づき始めている。どんなに馬鹿なことを自分たちがしているかということに。いずれ、こんな愚かな小競り合いの繰り返しも、止むときがくるだろう。それは、人間が互いに合意して納得してなり立つと言うのではなく、もうお互いに、すっかりやる気をなくして、自然に消えていくという感じになっていくだろう」
「そういうものですか」
「ああ。世界はもう変わっている。この現実は、もう現実ではないのだ。だんだんと人類にもわかってくる。いつかは、目を覚ます。そのときがきたら、もう、こんなことは、やる必要もないのだ。それがいつ来るのかは、神のみが御存じのことだが」

そう言うと聖者は立ち上がり、手の中に杖を出すと、ふわりと空に浮かび上がりました。若者もその後に従いました。
眼下の町に、砲撃を受けて、破壊された家々がたくさん見えました。若者たちが、憎悪の叫びをあげる死者の魂を何とかなだめて、導こうとしていましたが、死者たちの怨念は深く、彼らの癒しと導きの呪文も、なかなかに効かないようでした。

「苦労しているようだな」聖者が風に髪をなびかせながら言いました。若者が悲しそうに頭を振りながら、ため息をつきました。「はい。でもみんな、がんばっています。すっかりうまくはいきませんが、何とか半分ほどの死者を導くことはできました。でもあとの半分はいまだに地上に残って、敵を呪って殺そうとすることを、やめようとしません。このまま放っておいては、死者たちが生きている人間たちにまた憎しみを吹きこみ、火種が燃え上がってくる。そしてまた、大砲が打たれる。また多数の死者が出て、怨念を吐き始める。そしてまた…」

聖者は悲しそうに目を細め、細い息をひとすじ吐きました。そして静かに目を光らせ、眼下に広がる風景を見渡しました。所々崩れた家のある静かな町のあちこちに、菫色に光るものがありました。「…ずいぶんと壊されたな。やり直すか」そう言うと、聖者は、杖を振りました。すると、かん、という大きな音が、杖から鳴り響きました。聖者は呪文の歌を歌い始めました。そばにいる若者もそれに和して歌を歌い、聖者の魔法を助けました。

すると、もりもり、という音が地の底から聞こえてきて、町のあちこちに無数の菫の花が咲き始め、それはほとんど数分のうちに、町をすっかり覆ってしまいました。菫は一見、無秩序に、町じゅうに咲き乱れているかのように見えましたが、聖者の目には、それがとても複雑な魔法計算によって作られた、正確な文様を描いていることがはっきりとわかりました。その菫は、生きている人間の目には決して見ることはできませんでしたが、かすかな香りを風にまぜ、歌を歌い始めました。菫の歌は、香りとともに、町を流れて行き、生きている人の耳から聞こえぬ声のままに、その魂の中にしみ込んでゆきました。

いわいの おかを こえて
あほうが ゆくよ
なぞの はためく
おりの なかに
あいが あるの

その菫の歌を聞いて、若者は目を見張り、言いました。「おや、あれは…」すると聖者は、目を細めて、ふふ、と笑いました。

「菫は愛するが、人類にはまことに厳しいことを言う」
聖者は菫の紋章が完成し、それによって、だんだんと死者たちの怨念が静まってゆくのを確かめると、また、ほお、と深いため息をつき、今度は上空を見上げて、少し目の色を変え、幻視をしました。若者も、それ気付いて、聖者に従い、同じように上空を幻視しました。

空の上で、黒い巨人と、灰色の巨人が、互いににらみ合い、腕をからめあって取っ組みあったまま、石のように固まって動けないでいるのが見えました。巨人は不思議な雲でできており、少しの風にも揺らいで消えそうなほどに、半分透けて見えましたが、なぜか消えてしまわずに、そこにあって、いつまでも互いをにらみ合い、互いの体をぎりぎりとつかんでいるのでした。

「見よ」聖者は言いました。「ひとりしかいないはずの、唯一絶対の神が、ふたりで相撲をとっている。全知全能、唯一絶対の神が」
若者が悲しげに言いました。「はい、見えます。あれが、絶対の唯一神なのですね」
「ああ、そうだ。悲しくも幼い、子供の夢だ。自分だけが世界で一番でいたいという」

ふたりの目の前で、巨人たちは、とっくみあったまま動かず、ただ互いをにらみ合っていました。そうしていつまでもそのまま、固まっていました。聖者の耳に、巨人の心の中の叫びが聞こえました。それはこう言っていました。おまえが、邪魔だ。おまえが、邪魔だ。消えろ、消えろ、消えろ…。
聖者は目を閉じると、眉を寄せて悲しげにうつむき、かすかに首を振りました。

「人類よ」と彼は言いました。「…もうわかっているはずだ。あれが何かということに。唯一絶対にして、全知全能の神など、ありはしない。唯一にして在りて在るもの、その言葉に値するものがあるとすれば、それは愛のみだが、おまえたちはその真の意味をわかることができず、唯一という言葉を、虚無の寂しさにおびえるおまえたちの魂の、幻の逃げ小屋にしてしまった。己以外のもの全てを恐れ、妬み、憎む、人間のおびえが、それを創り上げた。唯一絶対にして、全知全能の神。それは、全てのよきものと力をそなえ、全てを超越して全てに勝利できる完璧の神。人類よ。おまえたちはそういうものになりたかったのだ。そうすれば、自分以外のものすべてに打ち勝ち、すべての恐怖から解き放たれ、己の真実の姿に目をふさぐ過ちから逃げられると思ったか。だが、それがどんなに悲しいことになったか、今おまえたちは目の前にまざまざと見ている」

若者も、言いました。「…悲しいことです。今まで、たくさんの、美しい使者たちが、人類に教えてきた。愛の真実の姿が何であるかを。でも、人類には、わからなかった…。ただ、怖かったのです。自分以外の、何もかもが。それゆえに、欲しかった。全てが。全ての力が。それが、全知全能の神というものなのですね」

「ああ。存在というものは、決して完璧にはなりえぬ。自分は自分であるゆえに、自分以外のものには、決してなれぬ。それが、不完全というものだ。存在は不完全ゆえにありとあらゆる創造を行ってゆく。どんなにすばらしいものを創ろうとも、決して満足することはない。創造は果てしない。やればやるほど、足りぬことがわかってくる。ゆえに存在は永遠に不完全で在り続ける。全知全能など、決して実現することはない。もしそれがあるとすれば、虚無のみだ。全知全能にて、何もかもが完璧に備われば、もう何をする必要もなく、存在する必要すらない」

あほうが いくよ
なぞの はためく 
おりの なかに…

ふたりが会話を交わしている間も、菫は歌い続けていました。聖者は瞳に寂しさを灯しつつも、少し表情を明るませ、笑いました。「菫が歌っている。人間に、馬鹿はもうやめろと言っている。あれが菫と言う花だ。人間を、いつも厳しく諌めている。蒲公英ならば、どんな苦い人間であろうと、愛し、あなたはすばらしいと、歌うものだが、菫は菫ゆえに、愛しながら、人間を厳しく諌める。それが菫というものだ。菫は菫の歌を歌う。蒲公英は蒲公英の歌を歌う。そしてどちらも、美しい。どちらも、世界に、欠くことのできぬ、美しい存在だ」
「はい」若者は、静かに答えました。

いわいの おかを…

菫の歌の声は、上空を流れ、幻の巨人たちの耳にも届きました。すると、ふと、灰色の巨人の方がそれに気づき、顔を揺らして、まごまごとした様子で、こちらを振り向きました。聖者は、その顔をみて、ほ、と少し驚いたような声をあげました。

巨人の顔は、その体の大きさ、頭の大きさに比して、まことに、小さかったからです。それはまるで、大きな広場のような顔面の真ん中に、小さな目鼻が鼠のように集まり、互いに身を寄せ合って寒い震える体を温め合っているかのようなのでした。

ああ…。聖者の口からまた、ため息が漏れました。何ともいえぬ憐れみの感情が胸に生まれました。
「全知全能にして唯一絶対の神よ。孤独であろう。誰もがお前を恐れるが、誰もおまえを愛しはしない」
聖者は幻視をやめました。上空の巨人の姿は、すぐに見えなくなりました。

聖者は若者に、一つの仕事を言いつけました。すると若者はすぐに、はい、と言ってそこから姿を消しました。聖者は巨人の見えなくなった空をしばし悲しげに見上げると、ふわりと地上に降り、また元の堤防の隅に戻って、呪文を唱え、一輪の菫の花に姿を変えました。

彼はここで、もう何百年かという月日を、菫の花の姿をして過ごし、その深い根から密やかに呪文の歌を流しながら、大地にしみ込んだ惨い悲哀を清め、地質浄化を行ってきました。そこは、その国にとっては、いわば心臓部のような重要な秘密のある場所でした。本来ならばそこは、人間たちによって清められ、大切にされなければならないところだったのです。しかしそこを、人間たちが勝手に開発し、それによって大地の大切な秘密が悲哀に侵されてしまい、国を守る霊的システムが壊れてしまったのでした。そして、国には醜い戦が起こり、それは長い間続き、今も終わってはいない。しかし、その悲哀がこれ以上深まることなく、国の人間の魂を、これ以上暗く惨い悲哀の中に迷わせていかないためにも、彼はそこにいて、大地の悲哀を清め続けていかなければならないのでした。

唯一の巨神が、ふたりで相撲をとっている、幻想の空の下、町の片隅に咲いている、誰も振り向きはしない、一輪のしおれかけた菫の花が、一体何をしているのか。たぶん、人間は永遠に知ることはできない。たとえ知ることがあるとしても、はるかなはるかな、未来のこと…。しかし菫にとっては、それは別に、どうでもいいことでした。



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