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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

α

2012-07-21 07:50:45 | 月の世の物語・余編
季節は春から夏に移ろうとしていた。道端に灯る小さな花々も、星が点滅するように、消えては咲き、消えては咲きながら、季節の風に喜びの歌を混ぜてくれる。

篠崎什は、母に選んでもらった紺のチェック柄のシャツに、はき古したジーパンという格好で、いつもの散歩道を歩いていた。背中を照らす日の光が熱い。もうすぐ蝉も鳴きだすだろう。無精で伸ばしている髪が、汗で少し首にべたつくが、面倒なので彼は床屋には滅多にいかない。母に言われているので、髭だけは剃るが。

「こんにちは、什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、そこに中学生になった、るみがいた。篠崎什は、笑って「やあ、こんにちは、るみちゃん」と答えた。彼女とは、初めて出会って以来、何度か近所で偶然に会い、いつの間にか、友達のように話をするようになった。二十以上も年の離れた友達だが。

るみは中学の制服を着ていた。半袖の白いシャツから出ている腕が細く、まだ子どものようだ。どんぐりのような丸い小さな目が笑って、嬉しそうに什を見ている。るみは、什が好きなのだ。まだ小学生だったとき、本気で什に、「大人になったらお嫁さんにして」と言ったことがある。什は、子ども相手のことだからと、「ああ、いいよ」とよい返事をしたが、その約束を、るみはまだ半ば本気にしているようだ。まあ、大人になれば、気持ちは変わるものだから、いずれはそんな約束も自然に消えていくだろうが。
とにかく、什の数少ない友人たちの中では、るみは最もかわいい友人だろう。実際、この近所で、什に話しかけてくれる人間は、母をのぞいたら、るみだけだった。

「もう学校は終わったのかい?お昼前だけど」什が問うと、るみは什の隣まで走ってきて、一緒に歩きながら言った。「なんか先生たちの大会みたいのがあるらしくて、今日の授業は三時限で終わったの。家に帰る前に、こっちに来ちゃった。この前貸してもらった詩集、返さなくちゃいけないし」「ああ、それならいつでもいいのに」

什は、明るい日差しの中を、いつものように一人で散歩していたのだが、こうして今日はなんとなく、るみといっしょに散歩をするような感じになってしまった。るみは黙って什についてくる。什もべつに何も言わず、歩いていく。この男には、この世界で生きて行くために必要な、ある種の動物的勘というものが全く欠けているのだ。るみがついてきても、べつになんとも思わない。他人が見たら、どんな誤解をされるかわかったものではないのに、そんなことは思いもしないのだ。ただ、今日の散歩は、いつもと変わった散歩になりそうだなと彼は思った。子ウサギみたいな女の子がひとりついてくる。それもなかなかに楽しい。

什は道端や、近所の家々の庭に植えられている花や、日陰の小さな林檎の木に目で挨拶をしながら、道を何度か曲がり、やがて狭い公園に入っていった。その公園の隅には、だいぶ樹齢を経た大きな楠の木が立っており、その下に小さなベンチがおいてあった。什は散歩の途中、時々そのベンチに座って一休みしながら、楠の木を見あげるのが、好きだった。この楠の木は深い知者で、いつも大切なことを什に教えてくれる。什がベンチに座ると、るみは少しの間おずおずとためらったが、スカートのひだをいじりながら、その隣にそっと座った。

涼しい風が吹き、梢がざわめく音がする。楠の木が何かを伝えようとしているのだ。木々は風でものを言う。木は何かを自分に伝えたいのだなと、什は感じた。いつもなら彼はそこで目を閉じ、ゆっくりと自分の心の中にある何かと話をして、楠の木の言いたいことを感じて、自分の言葉に変換するのだが、今日はとなりにるみがいるので、それもできない。楠の木もそれがわかっているのか、葉を一、二枚、はらりと彼の足もとに落とした。什はそれを見て、何か少し、妙な予感めいたものを感じて、ふと、ほう、と言ったが、それが何か分かる前に、るみが声をかけてきた。

「わたし、今、先生に教えてもらって、短編小説書いてるんだ」什ははっとして、あわてて答える。「…あ、ああ、そうか、文芸部だったね」「うん、短編ていうより、超短編ていうの?すっごく短いお話」「へえ、どんな話?」「ううん、まだちょっと下手で恥ずかしいから、言えない。わたしもいつか、什さんみたいな詩、書いてみたいな」「詩はみんな、人によって違うものだよ。君には君の詩がある。最初のうちは、真似でもいいけどね」「…うん。什さんて、花や木や石が好きなのね。詩集にそんな言葉がいっぱい出てくる」「うん」「あと、星も好きね。北斗七星の七つの星に、みんな名前があるなんて、わたし初めて知った」「…ああ、それ、暗記してるんだよ。ひしゃくの柄の先から、アルカイド、ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ、メラク、ドゥーベ…」「へええ、すごい!」「ミザールにはアルコルという伴星がある。よく見ると、ミザールの横に小さな星が寄り添って見えるんだ、兄弟みたいにね」「ふうん、どうして覚えたの?」「中学の頃に、天文に興味持ったことがあって、本をたくさん読んだんだ。それで、なんとなく覚えてしまった。星を見ると、なにか懐かしいような気持ちがして、昔からよく夜空を見ていた…」

什が言うと、ふとるみが黙り込んだ。白い中学カバンをさすりながら、何やら真剣な目をして、足元を見ている。什は特に気にするでもなく、楠の木を見あげている。木が何かを伝えようとしている。それは何だろう?と考えていると、突然、るみがいった。

「什さん、わたし、こ、この詩の意味、わかんないの。教えて」そういうとるみは、カバンの中から、この前什が貸した詩集を取り出し、しおりを挟んであったページを開いて、什に見せた。そこには白い紙に青っぽいインクで星のような文字が行儀よく並び、一瞬だが什はその文字が虫のように震えてうごめいているように見えた。るみの目が何かを訴えているように苦しそうなので、什は詩集を手にとってその詩を読んだ。

宵の方 天空に釘打たれた
銀のヴェガを見つめていた
あらゆる雲と風と真空を乗り越えて
今私たちは一本の光でつながっていた

沈黙の中でまなざしを交わす
見つめ合うだけですべてがわかるひとが
ほら あそこにいる

いつか
すべてのことを語り終えて
青い風の結び目がほどけたら
私はあのなつかしいひとの元へと
帰ることだろう

野の香り山の光海のささやきに染め上げて
空に語る人々の愛の歌を織り込んだ
広い翼をひるがえし

さしのべられたあなたの
ただ一本の指をたぐり
風を越え空を越え魂の岸辺を抜け

いつか帰ることだろう

なつかしいあの故郷へと

「ああ、これは…」什は詩の説明をしようとして、言いよどんだ。彼はよく、自分がこの世界の生き物ではないと感じることがあり、その苦しくも奇妙な望郷の心をこの詩に込めたのだが、そういうことをどうやってるみに説明したらいいのか、彼は思いつかなかった。正直に話してしまえば、気がおかしいと思われかねない。彼が詩集を見つめつつ、困っていると、突然、るみが言った。
「什さん、ヴェガに帰らないで」
什は、「え?」と言って、隣のるみを振り返った。るみは震えながら什を見ていた。目に小さな玉のような涙がにじんでいる。什はあわてて言った。「わたしはヴェガには帰らないよ。これは暗喩というもので、つまりはたとえという言葉の技術で、そのまんまの意味でとるようなものじゃない…」「だって什さん、時々、ほんとにどっかにいっちゃうような顔するんだもの、空ばかり見てるし」
るみは目に浮かんだ涙を手でぬぐいながら言った。什は何やらこの少女がかわいくてたまらなくなり、やさしく笑って、彼女に言った。「わかった。帰らないよ。ずっと地球にいる」「ほんと?」「ああ、ほんとだよ」什が言うと、るみは少し安心したようにほっとして、笑顔を見せた。

るみは、詩集を什に返すと、おなかがすいてきたからと言って、小さく手を振ると、急いで走って家に帰って行った。楠の木の下のベンチで、什は去っていくるみの背中を見ながら、女の子はかわいいなと思った。思っていることを、素直にはきはきと言うるみのおかげで、什はだいぶ他人と話すのが上手になっていた。

るみの姿が見えなくなると、ふと、また楠の木の梢がざわついた。什は上を向き、その梢の音に耳を浸した。一瞬、彼の目の色が変わったが、それに気付いたのは、今、彼の目には見えない誰かだけだった。熱い風が吹いた。太陽は正午の位置を少し過ぎていた。什は声をあげずに「ああ」と胸につぶやいた。まばたきをして目を閉じ、再び開けた時、いつの間にか空が真っ赤になっていた。夕暮れ時でもないのに、まるでピジョンブラッドの紅玉を液体にして染め抜いたような赤い空が広がっている。

…ああ、きた。

と、什は思った。なぜかはわからない。けれども、それは遠い昔からの約束事だったような気がした。一瞬背筋が凍り、思いもしない涙が左目から滴った。何もわからないが、すべてはわかっている。什はベンチに座ったまま右手をあげ、天を指差した。すると真っ赤な空の天頂から、何か白いものが落ちてくる。什は目を見開いた。遠い空の果てから落ちてくるそれは、二羽の白い鳩だった。鳩は双子のように翼をそろえつつ、什をめがけて落ちてきた。什は逃げなかった。やっと、やっと来た。彼がそう思った瞬間、二羽の白い鳩は、頭から什の体の中に入り、彼の腹の底に熱い衝撃を起こして着地した。

意識はあったが、心も体も鉄のように重く動かない一瞬があった。什はめまいを起こして、しばしベンチの背もたれにつかまりながら、全身のしびれ感に堪えた。彼の中で光を切り裂くような直感が電流のように走った。それとほぼ同時に、彼は自分の中で嵐のように大量の言葉が二重三重の暗喩にくるまれながら荒れ狂っているのを感じた。書かねばならない!彼はそう思い、めまいがおさまる前にふらふらと立ち上がって歩き出した。そして家に帰るや否や、昼食をとるのも忘れて書斎に閉じこもり、原稿用紙に、あふれださんばかりに頭の中で暴れている言葉を次々と書いていった。ペンを握る手が熱い。原稿用紙の上に焼きついた文字が時々、妙に動いているような気がした。あふれてとまらぬ言葉を、彼は次々に書いていった。頭の中の嵐の風がおさまり、言葉の泉が枯れ切るまで、書き続けた。どれだけの間書いていたのか。彼がすべてを書き終えてふと気付いた時には、夜を過ぎ、朝が来ていた。

什は時計を見て驚いた。五時前だが、夕方にしては外が静かすぎる。窓の外から朝鳥の声が聞こえる。机の端や床に積もった原稿用紙の量を見て、什はびっくりした。あれからずっと書いていたのか?什はやっと母のことを思い出し、夕食はどうしたろうと、心配になったが、すぐにその思いは消えた。今はそれよりも大事なことをせねばならないと感じたからだ。什は書斎の窓を開けた。まだ日は上り切っていないようだが、空は明るかった。町は静かだ。まだ誰も目を覚ましてはいないようだ。だが什は、窓のすぐそばに植えてある庭木の後ろに、誰かがいるような気配を感じた。

ひとりだけではない、と什は思い、目を上げた。目には見えないが、なぜか百万の観衆の視線を今自分が浴びているような気持がした。什は、ほ、と思わず言った。什にはわからなかったが、彼はこう言ったのだ。「ああ、みなさん、きて下さいましたか」。何故にか、懐かしさに胸がつまった。什は微笑み、静かにもやさしく、何とも気品のある声で言った。

「みなさん、ありがとう」
すると、見えないたくさんの者たちが、ざわりと空気を動かしたような気がした。
「今日、ひとつの仕事を終えました。お願いいたします。鍵を、左に回して下さい」什が礼儀を正して頭を下げていうと、たくさんの見えないものがかすかな風を動かして、一斉にそこから飛びたっていった。もうすべてはわかっていたからだ。ただ、庭木の影にいる一人だけは、什のそばを離れず、そこに残っていた。

什はその庭木の影をみた。何も見えないが、見えない者は確かにいた。彼は役目として、什のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。金髪青眼の聖者は、庭木の影でひざまずき、驚きを隠すことのできない目で、什を見ていた。什の背中で、大きな薄紅の翼が清らかな炎のように光りながら大きく天に向かって伸びていた。什の本来の姿が、彼の肉体と重なって見えた。金髪青眼の聖者は、什に向かって小さく、はぅ、と声をかけた。「あなたは、どなたなのか」という意味だった。その声は、一瞬沈黙した風によって、什の耳に届けられた。その意味はすぐにわかった。什の目はいつしか澄んだ空色になっていた。彼は人間とは思えぬ明るすぎる微笑みをし、小さくも確かな自信に満ちた声で言った。

「わたしは、オメガであり、アルファである」

そして彼は、明るい笑い顔を変えずに、上空のはるか彼方にあるものを見つめ、優雅な所作で右手を揺らし、人差し指をたててまっすぐに天を指差しながら、言ったのだ。

「これより、始まる」



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2012-07-20 07:30:15 | 月の世の物語・余編

「よう、おぼっちゃん、おれ貧乏なんだ。ちょっと金貸してくんない?」
髪を刺のように逆立てて、耳にピアスを三つ四つもつけた少年たち三人が、学校の近くの裏道で、ひとりの眼鏡をかけた少年を取り囲んで、にやにやと笑っていました。そのうちのひとりは、薄い灰色の目の周りを黒く塗って化粧までしていました。その顔が笑うと、それはまるで目を吊り上げた竜の怪物のようにも見えました。
「ぼく、ぼく、お金持っていません…」眼鏡の少年は灰色の冷たい壁にもたれ、カバンをしっかりと抱きしめ、震えながらも、返しました。すると化粧をした少年が、鼻息がかかるほど彼に顔を近寄せ、目をぎらつかせながら言うのです。「うそつけよ。たんまりもってたじゃん。休み時間に財布開けて札数えてたろう。見てたぜ。全部よこせよ!」「ここ、これは、だ、大事なお金で…」眼鏡の少年はカバンを抱きしめた手を強めながら、半泣きの顔で言いました。

彼を取り囲む少年たちは、神話や妖精話に出てくる怪物のように、舌舐めずりをしながら、彼の持っているカバンに手をかけ、それを引っ張って無理やり取り上げようとしました。眼鏡の少年はもちろん抵抗しました。するとカバンの留め金がばちんと弾け、中からたくさんの本やノートや筆記用具などがばらばらと落ちて道の上に散らばりました。三人のうち二人の少年が道に落ちたカバンの中身を探りましたが、財布らしいものは見つからず、化粧の少年は、ちっと舌打ちをすると、眼鏡の少年の胸ぐらをつかんで、ぐいとひっぱり、品のない罵声を眼鏡の少年の顔に浴びせました。そのときふと、どこからか強く胸に響く声が聞こえてきました。

「何してるんだ?そんなとこで」

少年たちは、一斉に、声のする方向に目をやりました。するとそこには、黒い巻き毛に青い目をした、肩の広いがっしりとした体躯の、美しい少年が立っていたのです。
「やべえ、ドラゴンだ」その少年の姿を見た途端、ピアスの一団は大慌てで逃げて行きました。眼鏡の少年は、ほっとしつつも、全身から力が抜けて、へなへなとそこに座り込んでしまいました。すると、黒い巻き毛の少年は彼に近づいてきて、言いました。
「大丈夫かい?」眼鏡の少年は、うつむいたまま、よわよわしい声で、答えました。「え、あ、大丈夫…」そうして、ほっと溜息をついて顔をあげたとき、黒い巻き毛の少年は、道に散らばった彼の本を黙って拾い集めているところでした。「いや、あ、ありがとう!」眼鏡の少年はあわてて腰をあげ、自分も道に散らばった本やボールペンを拾い集めました。

ふと、黒い巻き毛の少年は、何かに気付いたかのように、本の中の一冊を手に持って、しばし何か興味深げに見つめていました。それは小さな雑誌で、表紙には白い二羽の鳩の絵が描いてありました。黒い巻き毛の少年は、その本に何か強く引かれるようなものを感じたのですが、それが何なのかはわかりませんでした。眼鏡の少年は、雑誌の表紙を何やら真剣に見つめている黒い巻き毛の少年の横顔を見ながら、少しおっかなびっくりの声で、言いました。
「あ、そ、それ、詩の専門誌なんだ。ぼ、ぼくは、詩文が好きで…」「へえ、詩の…」「うん、ほんとは定期購読してる別の専門誌があるんだけど、その号だけは特別で、買ってきたんだよ。お、おもしろい特集があって」「ふうん、そうなのか…」言いながら、黒い巻き毛の少年は、集めた本を黙って眼鏡の少年に渡し、言いました。
「もう落ちてるのはないかな」「うん、全部拾ったと思う。あ、あの…」

用が終わったと思ったのか、何も言わずに去っていこうとする黒い巻き毛の少年を、眼鏡の少年があわてて呼びとめました。

「あ、ありがとう。助けてくれて…」すると黒い巻き毛の少年が、振り向いて言いました。
「いや、特に何もしてないし。別に気にしなくていいよ」
「あの、あの、ぼ、ぼくはアーヴィン、アーヴィン・ハットンていうんだ」眼鏡の少年が、勇気をふりしぼって自己紹介すると、黒い巻き毛の少年も言いました。「ああ、ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
「知ってるよ。ハイスクールで君を知らない人なんていないから」
「まあ、珍しい名前だからね」
そう言うと、ドラゴンはアーヴィンに背を向けて、黙って行ってしまおうとしました。するとアーヴィンはあわてて彼を追いかけて、言いました。
「君の家、シヴェル地区だろう。ぼくも同じなんだ。わりと家が近くなんだよ。と、途中まで一緒に歩いて、いいかい?」
「うん?まあいいけど…?」
ドラゴンは別に気にもせず、アーヴィンと並んで歩き始めました。

歩きながら、アーヴィンは何やら嬉しそうに頬を紅潮させつつ、茶色の目をきらめかせてドラゴンに話しかけてきました。
「カ、カラテやってるんだってね?」「うん?ああ、親父がやってたから、小さい頃から習わされたんだ」「優勝したこともあるんだって?」「うん、二度くらいかな。ガキんときだけど」
アーヴィンは、ドラゴンの隣を歩きながら、弾む胸を抑えきれずに、言いました。「ど、ドラゴンて、す、すごい名前だよね。なんかぼく、好きなんだ、そういうの。どうしてそういう名前になったの?」するとドラゴンは、少々口の端を歪めて困ったような顔をしながらも、今まで何度も聞かれたことのあるその質問に、落ち着いて静かに答えました。「…ああ、親父がね、生まれたばっかりのぼくを抱いた時、言ったんだってさ。『こいつはドラゴンだ!』って。直感的にそう思ったんだってさ。それでドラゴンて名前になったらしい。おふくろは最後まで反対したそうだけど」「へえ、へえ、そうかあ」

アーヴィンはドラゴンと一緒に歩いているうちに、胸がうれしくてたまらず、歌でも歌いたくなってきました。彼にとってドラゴンはあこがれの人だったからです。その美しい容貌や変わった名前などが、詩作の好きな彼の想像力を痛く刺激して、一度でいいから、話がしたいといつも思っていました。そのチャンスが思いもしないときに振ってわいたように落ちてきて、彼はうれしくてなりませんでした。

「ぼくは、詩作が好きなんだ。読むのも書くのも好きだけど、今、ちょっと変わった詩人に凝っててね。外国の詩人なんだけど、おもしろいんだ。これなんだけど」
そう言うとアーヴィンはカバンの中からさっきの雑誌を出し、ページの端をおって印をつけてあるところを開き、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは、あまり詩には興味なかったのですが、他人が気を悪くするようなことがあまりできない少年でしたので、その詩の雑誌を受け取りました。

「ここだよ、Camphor Tree。初めて読んだとき、なぜかすごいショックを受けた。なんだか言葉が弾丸みたいに胸に飛び込んで全身にしみ込んでくるようなんだ。好きで何度も読んでるうちに、暗唱できるようになってしまった。君はどう思う?」アーヴィンが、はしゃぎ気味に言うのに少し戸惑いながらも、ドラゴンはその詩を読んでみました。

Camphor Tree

この壁は
乗り越えられる壁だ
たとえどんなに難しい壁でも
無理にでもそう思うことだ
気持ちで負けてはだめだ

今はまだ力が足りなくても
いつか必ずそれを
乗り越えられる自分になる
そんな自分を信じることだ
そして一歩を踏み出すことだ
少なくとも
今何をやるべきなのか
やれるのか
考え始めるべきだ
背を向けてはならない

私があきらめたら
この世界はもう終わりなのだ
だからあきらめてはならない
そう思うことだ
背骨を千切られるような
心の痛みに出会っても
自分を見捨ててはだめだ

絶望と怠惰の沼に
自分の旗を捨ててはならない
それは乗り越えられる壁だ
乗り越えられる壁なのだ

読んでいるうちに、ドラゴンの目の色が変わって来ました。何か、熱いものに心臓をがっしりとつかまれたような気がして、彼の目は自然に詩人の名前の方に向かいました。

「…ジュウ・シノ…ザキ…?」「いや、それ、本当は、シノザキ・ジュウっていうのが正しいんだ。その詩人の国では、ファミリーネームの方を先に呼ぶのが習慣だから」「へえ、いいね、これ」「そうだろう!君ならわかるって思ってた!でも残念ながら、シノザキの詩は、これ一作しか翻訳されてないんだ。彼の国でもあまり売れてないらしい。かなり熱いファンはいるらしいんだけど、一部の批評家がすっごく汚い批評をするんだってさ。個人的感情むき出しって感じの。ぼくはとにかく、もっと彼の詩が読んでみたくて、書店に頼んで、原書を取り寄せてもらうことにしたんだ。辞書も買って、テキストも買って、自分で翻訳してみようと思って。その本を買うお金をとられそうになったところを、君に助けてもらった!」アーヴィンは財布の入ったズボンのポケットをなでながら、言いました。「…ふうん、そうか」ドラゴンは雑誌をアーヴィンに返しつつ、言いました。

「私があきらめたら この世界はもう終わりなのだ」

ドラゴンは、強く印象に残った一節を、暗唱してみました。何か、不安に似た熱いものが自分の胸で蛇のようにうごめくのを感じました。

ドゥラーーゴン…

彼はふとかすかな声を聞いたような気がして、振り向きました。風が一筋、彼の頬をなでて行きました。

ドゥラーゴンン、神の小さき竜よ…

一瞬、ドラゴンの目の色が変わりました。自分の中で、犬のように何かが吠えたぎっているような気がしました。心臓のあたりが熱くなり、正体のわからない生き物が、自分の頭の中でうごめきあばれているような気がします。しかしそれは、決して溶けない氷の檻の中にしっかりと閉じ込められて、自分の表面には決して出てこないのでした。

この感じ。時々感じる。何かの拍子に聞こえるんだ。あの声。…だれかが、ぼくを呼んでいるような…

「どうしたの、ドラゴン?」アーヴィンが、後ろを振り向いたまま動かないドラゴンに向かって言いました。するとドラゴンははっと我を取り戻し、アーヴィンの方を向いて言いました。「あ、いや、なんでもないよ」

二人で話しながら並んで歩いているうちに、やがて道は二人が別れていくところまでさしかかりました。ドラゴンは別れ際、アーヴィンに言いました。
「その詩、なんか好きになったみたいだ。今度、ノートに写させてくれないかい?」
それを聞いたアーヴィンの顔が、ぱっと喜びに明るくなりました。「いい、いいよ!なんなら、今持ってくといいよ、この雑誌、貸してあげるから!」「いいのかい」「うん、いいとも!」

アーヴィンはカバンを探って例の雑誌を取り出し、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは礼を言いつつ、雑誌を受け取りました。
「あ、あの…」アーヴィンが、笑いながらも、どきどきする心臓をおさえながら、目を震わせて、ドラゴンに言いました。「…と、ともだちになってもらっても、いいかな、ドラゴン…」
するとドラゴンはいささかびっくりして、アーヴィンを見ました。アーヴィンは、まるで恋の告白をした少女のように唇を震わせて、ドラゴンの顔をじっと見ています。その顔にドラゴンはやさしく笑い返して、言いました。
「ああ、いいよ、ともだちになろう。えーと、ア…」
「アーヴィン、ぼくはアーヴィン・ハットン」
「そう、アーヴィン。ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
アーヴィンは最高の笑顔をして嬉しさを現し、手を出してドラゴンに握手を求めました。ドラゴンはアーヴィンの手を握って、彼の喜びが自分に伝わってくるのが何やら快く、不思議な幸福感を感じながら、微笑みを返しました。

その夜、ドラゴンは、夕食後、自室の机で、例の詩を自分のノートに書き写しました。そしてそれを小さな声で読みながら、窓を開け、夜風に触れました。

「シノザキ・ジュウ」ドラゴンはその名を呼びました。するとまた一筋、何やら熱い風が、頬をなでたような気がして、彼は窓の外を見ました。空を見あげると、満月に近い月が、白く輝いています。一瞬、ドラゴンは目をきらりと鋭くし、窓の向こうをまっすぐに見ました。何かの気配を感じたのです。

ドゥラーゴン…

月光のわずかに混じった闇の奥から、彼はまた自分の名を呼ぶ声を、かすかに聞きました。

ドゥラーーゴンン…、神の小さき竜よ…

「誰だ。ぼくを呼んでいるのか?」ドラゴンは闇の向こうに眼を凝らしながら、小さくも鋭い声で、ささやくように言いました。

おまえは、やらねばならぬ…

そのとき、強い風が硬い板のように自分の体をたたくのを、ドラゴンは感じました。背後で、ベッドに立てかけてあったカバンが倒れる音が聞こえました。
乾いた荒い風が窓から入ってきたかと思うと、彼の部屋の中をひとあばれして、彼の耳にふっと小さな言葉を放り込んだ後、窓からばたばたと出てゆきました。

炎の竜よ…

ドラゴンは風に巻き込まれて足元がふらつき、一瞬意識を失って、気付いた時には床に倒れていました。目を開けると、天井がぐるぐると回るようなめまいを感じ、彼は再び目を閉じました。脳髄の中で、覚えてしまった言葉が、稲妻のように光を放ちました。

ワタシガアキアラメタラ コノセカイハモウオワリナノダ…

めまいがおさまって来ると、彼は頭を振りながら立ち上がり、窓枠に手をついてまた窓の外を見ました。しかし、闇の向こう、どこまで遠く視線を投げても、気にとまるようなものは何も見えません。ドラゴンは少し息を激しくしながら、胸の奥でつぶやくように、もう一度言いました。

「シノザキ・ジュウ…」

ドラゴンは窓から半身を乗り出して、月を見上げました。やらねばならぬことがある。その思いが、彼の腹のあたりで確かな形を取り始めていました。何を、何をやらねばならないのか?何もわからない。だが、わかっているような気がする。

ドラゴンの瞳が、月の光を反射して、一瞬金色に光りました。


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2012-07-15 08:17:39 | 月の世の物語・余編

青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。どこまで歩いていても、空と月と砂漠のゆるやかな起伏以外のものは、見えません。わたしは、なぜかしら、いつのころからか、ここにいるのです。ああ、いやな風が吹く。生ぬるい風が、汚い砂を運んで私の目を汚します。わたしは目の痛さに涙を流し、しばし、子どものように声をあげて泣きます。でもその感情はすぐに、水が砂に吸われていくように、消えていきます。だってこんなのは、所詮、お芝居だからです。わたしはお芝居が上手でした。女優なんぞじゃありませんでしたよ。ただ、周囲の人をだます芝居が、とてもうまかったのです。
砂で目を痛めて泣くなんてことも、本当はお芝居。あまり痛くはありませんの。けれど、大仰に、痛い、痛いといって泣きわめいて、周りの人間を困らせるのが、わたしの趣味のようなものでしたから。誰も見ていないと言うのに、ついお芝居をやってしまいます。

風のない静かなときは、砂漠の砂は、まるで星空の星を全て砕いて作ったように、きらめいて美しく、手で砂を一すくいとって、よく見てみると、砂は本当に、小さな小さな一粒一粒が、星のように小さく光り、何かを言いたげに、かすかに震えているのでした。でもわたしは、誰の話を聞くのもいやでしたから、人間も含めて、誰もかれもが、いやでたまりませんでしたから、砂の声が聞こえる前に、それを捨てます。

そうですねえ。お聞きになりたいのなら、わたしの名を、教えてもかまいませんわ。あまり好きな名ではないのですけど。わたしの名は今、「いては嫌な者」と言います。それは、わたしという者がいるのを、皆が嫌がるからです。わたしは、何らかの重い罪を犯して、この砂漠に落ちたのですが、一体何をやったのかは、もう忘れてしまいました。覚えていてもしょうがないことですもの。ただ、わたしはこの、広い砂漠の中でひとり、いつまでもぼんやりとして、歩いたり座ったりするだけで、ほかには何もしようとはしません。確かわたしは重い罪を犯して、償いのためにここで何かをやらねばならないのでしたが、その記憶も薄らいで、一体何だったかしらと、思い出すにも、苦労するようになってしまいました。月日とはむごいもの。わたしはここにいて、一体何をしなければいけなかったのでしょう?

ほ、お知りになりたい?…そうですか。では、少々考えてみます。

…ああ、そうだ。わかりました。わたしは、この広い砂漠の砂粒を、一粒一粒数えて、全て数えた数を、神に報告せねばならないのです。この砂漠の砂粒の数を、全て数えることができ、その数が正しかったら、わたしは自分の罪を許されることになっているのです。

ふ、なんて馬鹿なことでしょう。こんな広い砂漠の砂粒など、数えられるわけがないではありませんか。もうずいぶん昔のことですけど、最初のうちは、小さなコップに砂を入れて、本当にまじめに、砂粒を数えていました。けれども、砂の数を、二百五十個まで数えたとき、もう馬鹿らしくなって、コップの中にためておいた数え終わった砂粒を、みんな砂漠の上にひっくり返し、こうしてひとり、なんにもせずに、ただ砂漠の中をさまよい歩くようになったのです。

…はて、わたしは一体、何をして、こんな砂漠にいるのでしたか?自分の頭に問うてみます。しかし記憶の奥を探れば探るほど、暗い闇が広がるばかりで、わたしは一切、自分のしたことを思い出せないのです。ただわかっているのは、わたしがいると、人間が嫌がる。そういうものに、わたしがなってしまったということだけです。なぜでしょう。なぜ人々は、わたしがいるのを嫌がるのか。そんなにいやなことをしたのでしょうか。もう一度、思い出してみます。ああ、でも頭をひねって考えようとすると、黒い闇が記憶の中の痛いところを、どうしても隠してしまうのです。たぶんわたしは、思い出したくはないのです。

思い出せと言いますか。厳しいことを言われますね。お聞きになりたいのですか?しかたありません。少し思い出すのに、時間をくださいませ。

わたしは考えつつ、砂の上を歩きます。すると、ふと流砂の中に巻き込まれ、足元がずぶりと砂に沈み、わたしは何かに引き込まれるように顎まで砂に埋まってしまいました。悲鳴をあげましたが、誰も助けてくれる人などおりません。わたしを見ているのは、あの月だけ。だれか、だれかわたしをここから、引っ張り出して下さい。…引っ張り出す?おや、気になる言葉だわ。何か思い出せそうな気がする。…ああ、そうです。わたしは人間として生きていたとき、産婆だったことがありました。よく、赤ん坊の親に、生まれてきた子を殺してくれと、頼まれたことがありました。なんて惨いことでしょう。生まれてきた子を事情があって育てることができないからと、殺して捨ててくれと頼まれたのです。もちろん、その礼はたっぷりといただきました。ええ、商売にしていたのです。わたしに頼めば、生まれてくる子を殺してくれると、ずいぶんと遠くから、わたしのところに来た女もいましたわ。なんてことでしょう。ああ、赤ん坊の声が、遠くから聞こえます。わたしは赤ん坊が産声を上げてすぐ、その鼻と口をふさぎ、窒息させて殺していました。それはもう、何人も、何人も。生涯のうちに、何人の赤子を殺したことでしょう。あまりにも惨い。ああ、本当に、惨い…

死んだ赤ん坊はみな、里の近くの山の中に、ぼろ布にくるんで、捨てました。それはもうたくさん、赤子を山の中に捨てました。あの谷は今どうなっているでしょう。誰にも見つかっていなければ、今も赤子の小さな頭蓋が無数の貝殻のようにあの谷の底に転がっていることでしょう。

わたしは目を閉じます。すると小さな夢が見えます。深い谷に捨てられた赤子の死体が土に溶け、そこから青い芽が出てきて、どんどん大きくなり、やがて一輪の赤い百合の花が咲くのです。赤い百合。見るだけで目が焼けてしまいそうな鮮やかに赤い百合の花が、谷のそこらじゅうに咲き乱れている。百合の奥からは、まるで赤いらっぱが音を吐くように、かすかな赤ん坊の泣き声が聞こえる。悲しい。なぜ殺したのか。なぜ殺すことが、できたのか。あまり、にも、むごい…

ああ、思い出しましたわ。わたしは、生まれるたびに、似たようなことをしてきました。たいてい、小さな子どもを殺したり、自分の産んだ子どもを売って金に変えたり、役立たずとののしって奴隷のように働かせた上、病気になると捨てたりしました。

あなたの心の中に憐れみはないのかと、誰かに尋ねられたことがあります。女が、なぜ子どもに、ここまで惨いことができるのかと。その人の顔は、うっすらと覚えています。確か黄色い服を着ていました。その人は何度もわたしに尋ねましたが、わたしは、別に何を答えるではなく、目を伏せて、じっとあらぬ方を見つめていました。いやだったからです。なんでこんなことをしたのかなんて、聞かれるのがいやだったからです。だってわたしは、誰よりもえらいんですから。みいんな、わたしより馬鹿なんですから。何を言ったって、他人にわたしの気持などわかるはずはないのです。

黄色い服を着たその人は、わたしに教えました。わたしが、やらねばならない罪の浄化を。わたしはそれを聞いたとき、愕然としました。わたしは、わたしがこれまで殺してきた子どもと同じように、子どものときに惨く殺されねばならないというのです。自分がやったこと、そのままの形で、何度も何度も殺されねばならないというのです。それを聞くや否や、わたしは、いやだといいました。いやです。いやです、そんなこと、絶対にいや!

なぜですって?どうしてお聞きなさるの?あなただって、こんなときは、わたしと同じことを言うはずだわ。他人が苦しいのや痛いのは別にかまわないけど、自分が同じ目にあって苦しむのは、いやなんです。痛いのや、苦しいのは、絶対にいや。当たり前じゃないの。

どうしてそんな顔でわたしを見ますの?おかしいわ。人間て、みんなそうじゃありませんか。他人は別として、自分が苦しむのは嫌だって、たくさんの人は言いますわ!

黄色い服の人は、わたしがあまりに嫌だ嫌だというのに、呆れてものも言えないという顔をしていました。そしてしばし苦しげに頭を抱えたあと、持っていた書類に何かを書き込み、長い時間がかかるが、そう痛くはない浄化の方法があると、言いました。
それがこの、はてしない砂漠の砂粒の数を、正確に数えると言うことだったのです。

わたしは、それなら、別に痛くないからいいと、思わず言ってしまいました。本当に、お馬鹿さんだわ。こんなに、こんなに広い砂漠だとは思わなかった。

要するにわたしは、永遠に、この砂漠に閉じ込められたのです。「いると嫌な者」と名付けられ。砂粒を数えきるまで、決して帰ってくるなと。お前などいたら嫌だと、誰もがわたしに言う者。それがわたし、「いては嫌な者」。

そうして今、わたしは、砂に埋もれたまま、ただじっと動くことができずにいます。時々砂が口に入って、ざらついた苦い味が舌を痛めます。両腕を動かして、何とか砂から出られないかと試してはみるのですが、砂が重すぎて、体を動かすことができません。どうしたらいいでしょう?ああ、誰か助けて。わたしを、ここから出して。

どこからか、風に乗って、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。あれは、わたしの殺した赤ん坊の声でしょうか。…おや、よく見ると、いつの間にか、砂に埋もれているわたしの周りに、小さな白い毬のような、赤子のされこうべが散らばっています。わたしはびっくりして、思わず、ひい、と声をあげました。されこうべは、がらんどうの眼窩を一斉にわたしに向けながら、かすかな声で笛のような歌を悲しげに歌っています。その骨は、それぞれにみな、雪のように清らかに白く、美しい。

「おお、よしよし、おいで、かわいい子…」わたしは猫なで声で、されこうべを呼びます。彼らをなんとか利用して、砂から出してもらえないかと考えたからです。けれども、赤子のされこうべは、わたしの声を聞くやいなや、まるで嘔吐をもよおしたかのようなひどい声をあげて、次々と逃げ去っていくのです。

されこうべは、みな、わたしを見捨てて、あっという間に行ってしまいました。ああ、もう、わたしを助けてくれるものは、誰もいません。わたしは、永遠に、ここに埋もれていなければならないのか…。これではもはや、砂粒を数えることすらできない。どうすればいいのか。

いいえ、もう、考えるのはやめにしましょう。見上げれば青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。

わたしは、「いては嫌な者」。多分、永遠に、この砂に埋もれて、動けないまま、時を食べて行かなければならない。

満足されましたか。わたしの身の上を聞いて。ええ、誰かに言ってもかまいませんわよ。悪いことばかりして、自分のことだけしか考えない人は、こんな目にあうぞと。ふふ、でもわたしだって、言わせてもらうわ。あなたがどんなことをして、どんなうそをついているか、顔を見ればすぐにわかりますもの…。

ああ、誰もいない。わたしはわたしに向かい、女優のように芝居をしている。演じるのもわたし、それを観るのも、わたし。白い月が照りつけて、時々わたしの頭を刺します。少し時が経つと、わたしは風が運んでくる砂にすっかり埋もれてしまいました。闇の中に、どんどん深くとりこまれてゆきます。もう月も見えない。

だれでしたか?わたしは。そして何をしたのでしたか? 脳髄の中から、だんだんと記憶がはぎとられてゆく。暗い砂の中は、暖かく、わたしはまるで胎内に眠っている胎児のようです。なんとなく、わかるような気がします。きっとわたしは、胎児なのです。そしてきっといつか、生まれるのです。

静かな暗闇の時を噛んで食べながら、わたしは温かな砂の中で、眠ります。わたしがいつか、生まれたとき、母はどんなにかうれしい顔をして、わたしを抱いてくれるでしょうか。



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2012-07-14 06:28:28 | 月の世の物語・余編

ある都会の片隅の、小学校の校庭の隅にある、大きな樫の木の枝に、二羽の小さな白い小鳥が並んでとまっていました。太陽は十一時の位置にあり、町を明るく照らしています。

「ああ、首のあたりがむずがゆい。ねえ、いつまでこんなかっこしとかなきゃならないんだい?」右側の小鳥が言うと、左側の小鳥が答えました。
「もうちょっとだよ。君は変身の術、苦手なのかい?」「苦手というわけじゃないけど、獣や鳥に化けるのってあまり好きじゃないんだ。その、体中の毛や羽が、肌にあわないみたいで、かゆいんだよ」
「まあ、慣れるしかないね。これも勉強だと思ってがんばりなよ」左側の小鳥は冷たく言いました。右側の小鳥は、羽をボールのように膨らませ、臍を曲げたように、ひとこと、ぴり、と鳴きました。

「こういう仕事、初めてじゃないけど、なんかいつも、妙な指定があるんだよな。小鳥に化けて待ってろとか、熊に化けて森に隠れてろとか。こっちは何の意味もわからないし、説明もない」「たぶん、ぼくたちにはわからない重要な意味があるんだろう。とにかく、やるべきことはちゃんとやらないとな」「うん、まあ、とにかく待っていよう。…君、そんなにかゆいんだったら、小鳥やめて、トカゲにでも化けるかい?」「いや、いいよ、小鳥に化けてろって役人さんに言われたんだから」と言いつつも、右側の小鳥は、いかにもかゆそうに足で何度も何度も首筋をかきむしっていました。

ふと、空の上の方から、くらん、という音が響きました。とたん、町じゅうの大気が一瞬、寒天のように固まりました。すぐに元に戻ったので、人間は誰も気づきませんでしたが、小鳥たちはそれに気づいて、大慌てで翼を広げ、空に飛び立とうとしました。しかし、右側の小鳥はうまく飛べずに、ころりと地面に転げ落ち、その拍子に変身がとけて、木の根元に茶色の髪の少年が、目を回しながら座っていました。
もう一羽の小鳥は、仕方ないなあ、と言って自分も変身をとき、黒髪の長いひとりの少年となって、茶色の髪の少年のところに降り立ち、その腕を引っ張って、空に飛び立ちました。

「来るぞ、もうすぐ」黒髪の少年が言いました。「ほら見ろ、もう印ができてる、あそこ」黒髪の少年が指差して言うと、茶色の髪の少年は驚いて「うわ、いつの間に!」と声をあげました。少年たちが空の高いところから町を見下ろすと、町のほぼ真ん中にある広場に、日照と月光を組み合わせて紋章化した魔法印が、青みを帯びた金色の線できっかりと描いてあったのです。

少年たちは再び呪文を唱えて、小鳥に姿を変え、ぴりぴりと鳴きながら空を飛んで時を待ちました。空はまるで深い青菫色の海でした。たなびく雲が美しすぎるほど清らかに白く澄みわたり、それは見る人の瞳を深くも清めてしまいそうでした。その青空の中天あたりを見ると、そこに、かすかな虹色の光の輪があって、それが揺れ動いているのがわかりました。二羽の小鳥は息を飲みながら、それを見つめました。虹色の光は空に溶けだすように次第に広がって、ふと風を受けた薄絹のようにゆらめいて、二人がまばたきをしている間に、そこに、美しい若者の姿をした大きな男神さまがいらっしゃったのです。二羽の小鳥はそのお姿を見るや否や、まるまると目を見開き、「う、うわああ!」と声を合わせて悲鳴をあげました。

神は、腰から下は目に見えず、上半身だけが空に柔らかな石英でできた巨大な彫像のように透き通って、雲の向こうから静かに下界を見下ろしていました。その御身は空の半分を隠してしまうかと思うほど大きく、御顔は清らかな女性のように美しく、長い髪を上空の風になびかせながらも、その表情は厳しく凍りついていました。瞳は青い太陽を燃やしているかのようで、その目で見られた者は、自分の胸を矢で射抜かれ、その目の炎に骨まで焼き尽くされるのではないかと思うほどなのでした。

小鳥に化けた少年たちも、神を見るのは初めてではありません。というより、よくあることです。少年たちは、今日、この地で、ある神様が人間のために何か一つの仕事をなさるから、それを確かめて記録しつつ、人間たちの代わりに深く感謝の意を表して来いと命ぜられたのでした。

神はしばし、雲の上から眼下の都市を見下ろされた後、眼光を強め、頭の後ろに熱く白い光を燃やし、白く燃えている左手を眼下の町に向けて、それを拳にして握りしめ、何か、ふう、という声をおあげになったかと思うと、再び手を広げられました。

一瞬の間をおいて、だだーんん、という轟音が響きわたり、空気と地が振動しました。もちろん生きている人間には音は聞こえませんでしたが、どうやら小さな地震が起こったと思ったようで、少しの間人々の間にざわめきが起こりました。小鳥たちはしばし、空の上で目を回しながら、その音の衝撃にくらくらする頭が、おさまって来るのを待ちました。

そうして、ようやくめまいがおさまって、目を開けると、小鳥たちは、都市の真ん中の、さっきの紋章が描かれていた広場の上に、それは美しい白金水晶の、清らかな鋭い牙のようなものが一本、塔のように突き刺さっているのを見ました。その牙は、三日の月のように細長く優雅に曲がり、透き通りながらもほんのりと青く染まっており、その丈はあまりにも高く、てっぺんは町の周りを囲む山岳よりも、三倍も高かったのです。

小鳥たちは、大慌てで変身を解くと、空の上で姿勢を整え、人間たちの代わりに、深く神への感謝の儀礼をしました。神はしばし、厳しくも澄み渡る瞳で眼下の景色を眺めつつ、必死で感謝の祈りをささげるふたりの声を聞くと、おぅ…と声を空に響かせ、静かに目を閉じてうなずき、空の中にゆっくりと姿を消してゆかれました。

神が行ってしまわれると、ふたりはしばし呆然と目を見開いて、じっと黙って空を見あげていましたが、やがて何かあたふたとし始めました。茶色の髪の少年が牙を指差しながら言いました。「こ、これ、何だ、なんか、前にも見たことある…」すると黒髪の少年が震えながら言いました。「そう、ぼくも分かってるんだけど、今頭から言葉が出てこないんだ。と、とにかく、き、記録しなくちゃ」黒髪の少年が、呪文を唱えて、手の中に帳面を出しました。茶色の髪の少年も、帳面を出しました。そして牙の絵を描いたり、牙の表面を観察して気付いたことや、牙の周りの家々や地質の変化や人々の様子など、要点を、詳しく記録していきました。見えない牙の中を、ツバメが一羽、通り過ぎていきましたが、ツバメは牙の中に入るや否や、バランスを崩して、くるりと回り、目を回して落ちそうになったところを、ようやく体勢を取り直して、飛んでいきました。少年たちはそれも記録しました。

「うっわあ…」
あらかた記録が終わると、茶色の髪の少年が、帳面を抱きしめつつ、神が姿を消した空を見上げて、また言いました。黒髪の少年がそれを見て、言いました。「何驚いてるんだよ。あの神様を見るのは、初めてじゃないだろう?」「わかってるよお。でも、あ、あの神様が、どうして地球に、こんなことしに来たの?」茶色の髪の少年の声は震えてひっくりかえっていました。彼は、もっとちがうほかの神様が来ると思っていたのです。それは黒髪の少年も同じでした。彼は、眉を寄せ、真剣な顔になって、少し考えました。

神と一言に言いましても、いろいろな神がいらっしゃいまして、春の花園に吹く風のようにだれにでもお優しい神さまもいらっしゃれば、よからぬことをした者には容赦なく鉄槌を下すお厳しい神様もいらっしゃり、彼らが今日見た神さまは、その中でも、厳しすぎるほどお厳しい神様でいらしたのです。それはそれは、男神様なれどお顔は乙女のようにお美しいのですが、その神のなさることの厳しさと言ったら、とてつもないのでした。愚かな罪びとがふらふら近寄っていこうものなら、どんな目にあわされるかわかったものではないのです。その神のお姿を見て、震えあがらぬ罪びとはおらず、もちろん、少年たちも、その神のなさることを見て、震えあがったことのないものはおらず、その神は、事実上、彼らの知っている限りの神の中で、最も恐ろしい神なのでした。

「ど、どうなるんだ。これ?」少年たちは、都市に刺さった牙の周りを飛びながら、言いました。するとそこに、一すじの涼しい風が流れてきて、ふたりが振り向くと、いつの間にか後ろに一人の役人が立っていました。

「やあ、やっているかい」役人が言うと、少年たちは挨拶をし、それぞれの帳面を出して、役人に見せました。役人は帳面を受け取り、それらをぺらぺらとめくりながらしばし読んでから、ふむ、よし、と言いました。

「さて、もうそろそろだ」と役人は言いつつ、町に刺さった巨大な青い牙を見あげました。そして役人は少年たちに、少し牙から高い所に離れているように言い、役人自らもまた、空高く飛び上がりました。彼らが牙よりも高い位置から牙と町を見下ろしていると、いつしか、牙を中心にして、正方形の形をした大きな陣が光の線で町に描かれているのが見えました。役人は、その陣を帳面に描き写しながら、ほう、と感嘆の声をあげました。
数秒の時間が経ちました。すると、正方形の陣の真ん中に突き刺さった巨大な白金水晶の牙が、上の方から、まるで水のように崩れ出し、音も立てずに滝のように水晶が流れ始めたのです。

水晶の水は、正方形の陣を底面とした目に見えない四角すいの器の中にだんだんとたまってゆき、しばらくすると、牙は消えて、その代わりにそれは大きくてりっぱな、白金水晶のピラミッドができていました。ピラミッドは透き通って、町の上にふわりと浮かんでおり、方向を微調整しているのか、しばしの間、何か不思議な音をたてながら微妙に全身を揺らしておりました。
少年たちは、無言のまま、目を見開いてそれを見ていましたが、やがてやっと我に返ったように、茶色の髪の少年が言いました。「わお。新しいピラミッドができた」

すると黒髪の少年が少々ふぬけたような声で答えました。「うん。神様が人間のために造って下さった」「しかし、なんでよりによって、あの神様がおいでになったんだろう。すばらしい神様だけど、一体何が起こるか分からないぞ。人間はみんな、神様の中ではあの神様が一番こわいんだ」「おい、失礼なことはいうなよ。…でも言われてみれば、そうだ。なぜあの神様が、いらっしゃったのだろう?何か深い理由でもあるんだろうか」

少年たちが小鳥のような早口で会話していると、役人が近付いてきました。役人は少年たちに、しばらくここにいて、ピラミッドと町の様子を細かく調査するようにと言いました。

「ぼくたちがずっとここを管理するんですか?」ひとりの少年が問うと、役人は言いました。「いや、管理の精霊が決まるまでだ。まあ、ひと月くらいの間だ。君たちはここで、その間、この町のあちこちを調べて、気付いたことがあれば帳面に書いておいてくれ。神への感謝の儀礼も毎日忘れないように」
「わかりました」黒髪の少年が礼儀正しく言いました。茶色の髪の少年は、まだ驚きから抜け出せず、目をぱちくりさせて、少し悪寒でもするのか、体を抱いて震えていました。
「じゃあ、後は頼む。これらの帳面は持って帰るから。ひと月後にはまた来るよ」そう言って役人がそこから姿を消そうとしたとき、茶色の髪の少年が、あっと言って、急いで役人に尋ねました。「あの、このピラミッドは、ちゃんと機能するんですか?」すると役人はすぐに答えました。「ああ、もう機能している。これでだいぶ、人類が生きて行くことが、楽になるはずだ。深い毒が痛く清められる。まことに神はすばらしい。本当に大切なことを、何でもないことのようにやって下さる。それに人類が気付いてくれたら、どんなにかいいだろう」役人はピラミッドを見ながら、感嘆の息をつきました。少年たちはしかし、胸からひとつの疑問を拭い去ることができず、言いました。「それは、わかりますけど…なぜ、あの神様が、造って下さったんですか…」「何か、特別なことでもあるんじゃないですか?だってあの神様が何かをなさるときは、いつも人間は大変なことになって…」とひとりの少年が言いかけた時、役人がぽかりぽかりと二人の少年の頭を次々に叩きました。

「失礼なことをいうんじゃない。神のおやりなさったことに、軽々しく口をはさむものではない。それくらいわからない君たちではないだろう」
そう言われるとふたりは、はっとして、うつむき、身をひきしめました。自分の未熟さが恥ずかしくなって、申し訳ありませんと言って頭を下げました。役人は少年たちに、穏やかにも厳しく言いました。「神のなさることはいつも、我々の予想をはるかに超える。というより、神は風のように水のように自在で、人間が思いもしなかった陰の小さな穴から、とんでもない大水のようにあふれ出てくるものだ。人間はいつもこうして神に翻弄される。このピラミッドも、人類に恵みを与えるだろうが、君たちの感じる通り、確かにあの神のお考えが十分にしみ込んでいるだろう。それが何かは、我々のわかることではない。それが起きるまでは。我々にできることははただ、神の導きのもと、我々の仕事をすることだけだ」少年たちはうつむいて、役人の話をじっと聞いていました。

役人が去ったあと、少年たちは神への儀礼を静かに行い、自分たちの過ちを深くお詫びしました。そして再び小鳥に姿を変え、人間には見えない巨大なピラミッドのそばの、小さな家の屋根に止まって、少し休みました。
「…神さまはただ、愛でこれを造ってくれたんだね」「うん。推測することはあまりいいことじゃないけれど、きっとこのピラミッドはいつか、あの神さまの、なんらかの御計画に使われるんだ。きっとそのとき、人間はとても辛い目に会う」「たぶんそうだろう。でも、人間のためには、その方がいいんだよ」「ああ、わかってる。それが、神の愛なんだ」「ああいう神様が、必要なんだよ。人間にも、ぼくたちにも」「うん、ぼくもそう思う。悪いところは、ちゃんと叱ってくれる、正しい人が、必要なんだ…」

「ところで君、首はどう、平気かい?」一羽の小鳥が言うと、もう一羽の小鳥が言いました。「うん、あれ?なんだろう。かゆくないや」「…きっと、怒られて過ちを改めたから、少し魂が進歩したんじゃないかい」「ああ、そうだねえ、そういえば、なんか自分が少し強くなったような気がするよ」片方の小鳥は、胸の羽をふくらませ、ぴい、と鳴きました。

話をしているうちに、夜になりました。暮れて行く空の下で、白金水晶のピラミッドは、幻のように青い光を発し、町の上に夢幻のように浮かびながら、かすかに震えて無数の鈴を揺らすような音をたてています。こうしてピラミッドがあるということは、人間たちには、たいそうよいことなのでした。大昔には、人間たちが造っていたのですが、もう人間たちが大事なことをすっかり忘れてしまったので、時々こうして、神様が、地上に見えないピラミッドを造って下さるのです。小鳥は身を寄せ合いつつ、ぴりぴりと小鳥の声で歌い、今日会った神様に、深く礼をし、感謝し、間違いを改めて学び進むことをもう一度誓いました。

本当に何でも、一生懸命に勉強して、様々な試練に耐えて学び、すべてのことを、正しくやっていきますと、少年たちは目を閉じ、深く頭を下げて、神に誓ったのでした。



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2012-07-10 07:41:55 | 月の世の物語・余編

「わが名はレギオン、大勢なるがゆえに」
誰かが、小さな声でつぶやきました。するとその隣にいた青年が、怒りをこらえながら、震える声で言いました。「ぼくもそれ、なぜか思い出したよ。マルコだね」
そこは、ある深い山の奥の、高い崖の下でした。
青空に日はようやく高く上り始め、どこからかカッコウの鳴く声が聞こえました。六人の若者たちが、その崖の下に打ち捨てられた惨い遺体を囲んで、それぞれに、目を閉じて唇をかみしめたり、しきりに頬を流れる涙を拭ったり、胸に手をあてて氷のように立ちつくしていたりしていました。

「彼は、どうしてる?」「遺体の中でまだ眠っている」「よほど辛かったんだろう」「…二十七歳か」「この世でなすべきことを、ほとんどできないまま、死んでしまった」青年たちは、遺体を囲みながら、体や声をふるわせつつ、口々に言いました。

「どうする?彼を起こそうか?」誰かが言ったことに、誰かが答えました。「いや、その前に準備をしておこう。花を咲かせたり、小鳥を呼んだり、できるだけ、彼の魂が心地よく目覚められるように、やすらいのたねをたくさんつくっておこう」「…うん、それがいい」

青年たちは魔法を行い、遺体をできるだけきれいに整えると、その周りの草むらを清め、シロツメクサの花をたくさん咲かせました。小鳥を呼び、枝々にとまらせて、歌を歌わせました。白い百合の花もいくつか咲かせ、金のメダルのような光るタンポポもあちこちに散らしました。一羽の鳩が、神の使いのようにどこからか飛んできて、少し離れたところに立っている高い木の、てっぺんに近い枝にとまりました。

遺体の主は、三十年ほど前に入胎命令を受け、地球に生まれてきた青年でした。地球上で生きている間、いくつかの仕事をしてくるはずでしたが、それもほとんどなすことができず、若くして、あまりにも惨い死に方をしてしまったのです。彼は、音楽と文学に高い才能を現し、容姿にも恵まれた上に、人柄もよかったので、それを周囲に妬まれ、ある日、友人たちに騙されて、町のはずれの山際にある、元は精神科の病院だったという古いビルに呼び出され、そこの地下にある鉄格子の部屋に閉じ込められ、そのまま、友人たちに見捨てられ、放っておかれたのでした。

彼を地下牢に閉じ込めた友人たちは、何週間か経ってようやく、彼の元を訪れましたが、彼が牢の中に倒れて餓死寸前のまま、まだ死んでいないのを見ると、ひそひそと相談し合い、誰かが持っていたナイフで、彼の胸を刺したのです。

「…いいか、これはみんなでやったことだからな」
地下室の遺体を囲んで、彼の胸にナイフを刺した男が、手についた血を拭きながら、ほかの皆に言うと、皆は黙ってうなずきました。その様子を、青年たちは絶望に凍りながらずっと見ていました。青年たちは、彼を何とか助けようと、彼を地下室に閉じ込めた人たちの心に訴えたり、事態を何とかできそうな人の魂を導いたり、少しでも彼の命をつなぐため、地下室に水が流れてくるようにするなど努力しましたが、結局は、誰も彼を助けようと考える人は出てこず、彼はこうしてあまりにも惨すぎる死に方をしたのでした。

そして男たちは、夜中に車で遺体を運び、この山の中に捨てて行ったのです。彼を地下牢に閉じ込める計画をした男は七人、胸にナイフを刺して殺した男は一人、遺体を運んだのは五人ほどの男でしたが、彼が廃墟のビルの地下の一室に閉じ込められたまま、放っておかれていることを知りながら何も知らないふりをした人たちは、四十人ほどいたでしょうか。彼が行方不明になったと聞いても、別に何も心配しなかった人を数えれば、百人は超えるかもしれません。

「みんなでやった…か」ひとりの青年が、怒りのにじむ声で言いました。青年たちは遺体の周りにあふれんばかりに花を灯しながら口々に言いました。「それは大昔からの、罪びとの決まり文句だ」「みんながやったから、自分のせいじゃないって言うよ!」「いつもこうだ!少しでも自分たちよりいいものを持ってると思うと、人間はみんなでひとりをいじめて、殺す!」

誰かが大きな声で憎悪を吐いたので、一人の青年がそれを清め、静かな声で言いました。「みんな、もうよそう。苦しいけれど、悲哀や憎悪に長い間浸っているのは、よくない」「…ああ、わかってるよ」憎悪を吐いた青年は、声を低くして言いながら、自分の感情を落ち着かせました。しかし涙はとまりませんでした。

やがて迎えの準備は整いました。彼はまだ遺体の中で眠っています。その安らかな顔を見ながら、ふと一人の青年が言いました。
「どこのコメディアンだったかな。こんなのを聞いたことがある。『赤信号、みんなでわたれば…』」「ああ、それはぼくも知ってる」「愚かで間違ったことも、大勢でやれば正しくなるという意味だ」「みごとな名言だね」誰かが鼻をすすりつつ、皮肉を言いました。

遺体の中で、何かがかすかにうごめく気配がしたので、ある青年が、小さな優しい声で清めと慰めの呪文を歌い始めました。それに合わせて、ほかの青年たちも歌い始めました。青年たちは遺体を取り囲み、愛をこめて歌い、眠っている魂の傷を癒し、目覚めを呼びかけました。そして皆が、その歌を六回も繰り返して歌った頃、ようやく、遺体の中から、何かがふらりと出てきて、ゆっくりと半身を起こしました。歌を歌っていた青年たちのひとりが、耐えられなくなり、まだ意識のぼんやりしていた彼の体を、泣きながら抱きしめて、叫びました。「愛してるよ、愛してるよ、どんなにか辛かったろう!」。そこでようやく、はっきりと目を覚ました青年は、「ああ」と声をあげて、ぱっと元の自分の姿に戻り、茫然と周りの皆を見ながら、言いました。

「…ああ、そうかあ。あれはみな、夢だったのか…」彼は蝋のように青ざめた顔で、ほっとしたようにため息をつきました。その胸のあたりには、ナイフの傷を受けたあとが、まだ残っていました。誰かが涙に震える声で言いました。
「夢じゃないよ。だが夢みたいなものだ。君、ぼくの顔を覚えているかい?」
「…え?ああ、覚えている。みんな、覚えている。…そう、そうだ、ぼくは、月の世で、君たちと氷雪の地獄を管理してたんだっけ…」

まわりでシロツメクサやタンポポや百合や小鳥が、しきりに慰めの歌を歌いました。そして一生懸命愛を送りました。本当に、惨いことを経験した魂には、愛がよほどたくさんいるのです。彼の魂が病気にならないように、青年たちも愛を歌いながら、かわるがわる彼を抱きしめてゆきました。

「ありがとう、みんな、来てくれたんだね」目を覚ましたばかりの青年は、力弱く笑いながらも、みんなの愛を喜び、深くお礼を言いました。「ああ、シロツメクサだ。ぼくの好きな花だ。知っている。シロツメクサは、誰にも何も言わずに、とてもよいことをするんだ。ぼくは、そんな風に、みんなのために、いいことをやっていたつもりだったんだけどなあ…」青年は、まだぼんやりした顔で、周りの花園を見まわしながら言いました。ほかの青年たちはただ、じっと黙って、どうにもならぬ苦い感情をかみしめながら、彼を見つめていました。

「さあ、もうそろそろ帰ろう。帰ったら、ぼくが代わりにお役所に届けを出しておくから、君は少し休むといい」「…ああ、そうしてくれると、うれしいよ」「疲れてるだろう。自分で飛べるかい?」「…うん、ああ、いや、ちょっと無理みたいだ。腰から下に力が入らない」「じゃあ、ぼくたちで抱えて行こう」

青年たちは森と神に感謝の儀礼をすると、死んで間もない青年を、ふたりの青年が両脇から抱え、鳥の群れのように、ふわりと宙に浮かび上がりました。ただ、この事件の後始末をするために、ひとりだけが遺体のそばに残りました。

「…あの遺体はどうなる?」抱えられた青年が問うと、すぐ後ろを飛んでいた青年が答えました。「…ああ、きっとほどなく、警察が見つけるよ。残った彼が何とかするから」
「集団殺人か…。君は、友達みんなに裏切られて殺されたんだ。この罪は、高くつく」
「…ああ、でも、もういいよ。わかってる。人間はみな、自分が苦しいんだ。ぼくも、もう辛かったことは忘れたい。帰って、少し安らいだら、学堂で笛の講義でも受けたいな…」下界を見下ろしながら、青年は小さな涙を落とし、少しさみしそうに言いました。

青年たちが、青空の向こうに消えて行くと、それと同時に、花園は消え、小鳥たちも飛び去って行きました。残っていた青年も、しばし遺体を見つめ、決意に目を鋭くした後、自分の役割を果たすために、そこから姿を消しました。一羽の鳩が、彼らの様子を、ずっと木の上から見つめていました。

皆がいなくなって、しばらくすると、木の枝に止まっていた鳩は、翼を広げ、遺体のそばまでふわりと降りてきました。そして遺体の周りを少し歩き回ったあと、それは突然強い光を放ち、そこに、白い服を着て、朱色の燃えるような翼をした、ひとりの天使が現れました。天使は、鳩がとまっていた木よりも背が高く、透き通った水色の髪をなびかせ、アベンチュリンのように清らかな緑の目には、白く強い星が静かにも激しく燃えていました。天使は、ほう、と息を吐くような声で何かを言うと、ゆっくりと遺体のそばにひざをつき、目を細め、唇に慈愛を現し、翼を優雅に広げて魔法を行い、遺体の中に残った悲哀を深く清めました。

若者の遺体は、青ざめてはいますが、白い顔に、やさしい微笑みを浮かべていました。天使は、その残った脳髄の中に、生前の彼の最後の思考が、かすかな信号の跡になって残っているのに気付き、そっとそれを読み取りました。それは、悲しみに満ちた声で、こう言っていたのです。

「ああ、みんな、ただ、愛していただけだったのに…」



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2012-07-09 07:33:25 | 月の世の物語・余編

「これは彼女の学生時代の作品ですね」パット・キムは、青いファイルをぱらぱらとめくりながら言いました。ジョーン・ベンサムは落ち着いた声で答えました。
「ええ、小さな童話作品ばかりですけれど。彼女、本当は児童文学作家になりたかったのですわ。でもなんだか、詩の方が世間に受けてしまって…」
「一時はかなりな騒ぎになりましたものね。テレビのワイドショーでも扱われたことがありますし、しつこいストーカーも、ひとりやふたりじゃなかった」
「もう終わったことですわ。辛いことはあまり思い出したくない。妹は、ただ、長い間女が男に言いたかったことを、すべての女の代わりに言っただけだと思います」

パット・キムは、ある出版社の編集員でした。ジュディス・エリルの詩集の出版や様々なトラブルの解決に関して、彼女はこれまで多く貢献してきました。その彼女は今、ジュディスの実家の一室で、たくさんのファイルを積んだ机を挟んで、ジュディスの姉ジョーンと向かい合って座りつつ、机の上のファイルを、次々と開いては読んでいました。

「こちらのファイルは、妹が死ぬ前日まで書いていた詩の原稿、そしてこっちが、挿絵を集めたものですわ。未完成作品が多いですけれど」「彼女はペン画や水彩画なども上手でしたね。作品はどれだけ残っているでしょうか」「未発表の完成作品は、十枚ほどありますわ。このペン画など、以前わたしがふざけて、妹に描いてもらったものですけど」。
そう言って、ジョーンは一冊のファイルを開いて、パットに渡しました。パットはそれを見て、おお、と感嘆の声をあげました。そこには、眠っている男の髪をひっつかんで、鋭い剣で、男の喉を突き刺している美しい女の絵が描いてあったのです。

「わぁお。これはホロフェルネスとユディトかしら。でも剣の構え方が違うわ」
「アルテミシア・ジェンティレスキの絵を参考にしたんだそうですけど、彼女は男の首は剣で横に切るより、縦に突き刺すか、斧で一気に落とした方が簡単でいいと言ってましたわ。それだと、一撃で殺せるからと」
パット・キムは、ふふっと思わず笑って、言いました。「…彼女らしいわ。確かに、彼女に一撃で殺された男性は、相当いたようですよ」

少しの間、沈黙がありました。ジョーンとパットは、しばらく、ジュディス・エリルの残した未発表の詩の原稿に、読みふけっていました。ジョーンは、妹が死んで以来、自分のアパートやピーターソン氏の家や実家から、集められるだけ集めたジュディスの未発表作品を、年代別にファイルにまとめ、整理していました。そしてジュディスの死から一年経ったこのたび、その原稿の中からいくつかの作品を選びだして、ジュディスの最後の詩集が出版されることになったのです。

「これなど、いいですね」と、パット・キムが言って、詩を読みあげました。

愛しているといって
何度わたしを殺したの
小鳥の首をいつもしめている
小さな首輪のような
金の指輪で 
すべて奪うのね
わたしのなにもかもを
自分のものにするのね

知らないふりをして
やさしいふりをして
だましていることがばれてないと
思っているのね
小さな虫が床をはってきたら
あなたはそれだけで
真珠で作った美しい罵倒で
わたしを能無しにして
見えない車輪で少しずつ引き裂くのよ

「題名が書いてありませんね。無題とするか、タイトル不明とするか…」パットが言うと、ジョーンがファイルの背表紙の番号を探しながら言いました。
「それ、『カタリナ』だと思いますわ。後で少し書き直したらしい作品が、確かこっちのファイルに…」

ふたりは、ジュディスの遺稿の束に埋もれつつ、いろいろと詩を読みあげては意見を交わしました。そしていくつかの詩を選んで付箋をつけ、ファイルをまとめているところに、ジョーンの両親が帰ってきました。

「あら、お帰りなさい、お父さん、お母さん。早かったのね」
すると、父親のアーサー・ベンサム氏が、パット・キムに会釈して挨拶した後、少し悲しそうに笑って、言いました。
「映画を見ている途中で、母さんが機嫌を悪くしてね、仕方ないから映画を見るのはやめにして途中で帰ってきたんだ」
「まあ、どうしたの?お母さん」
ジョーンは席を立ち、父の隣にいた母に近づいて声をかけました。するとマーガレット・アン・ベンサムは、目をひきつらせて、不機嫌な様子で唇を歪め、言うのでした。

「ジョーン、マイベイビィ、ジュディスはどこ? お仕置きをしなくちゃ。あの子ったらわたしに、クソババアなんていうのよ。なんてひどいのかしら」

ジョーンは首を振りながら、小さくため息をつき、パットの方を振り返って、頭を小さく下げて「ごめんなさい、ちょっと…」と言いました。パットは「いえ、気にしないで」と言いつつ、笑顔を返しました。

ジョーンは母親を寝室に連れて行き、ベッドに座らせて、言いました。「お母さん、映画は楽しくなかったの?あんなに見たがっていたのに」「…知らないわ。ジュディスのせいよ、あの子ったら、なんて反抗的なのかしら」「おかあさん、ジュディスは死んだのよ。一年前に。もう忘れたの?お葬式があったでしょう?」
「お葬式?…ええ、行ったわ。でもあれは、クライブさんのお葬式なのよ。あの人はいつも意地悪ばっかりするから、天罰が下ったのだわ」
「そんなことをいうものじゃないわ、お母さん」
「ジューディース。どこに行ったの?ママを怒らせないで、早く出て来なさい」母親はどこを見ているのかもわからない瞳を、ゆらゆらとゆらしつつ、ベッドから立ち上がろうとしました。ジョーンは、だいぶ年老いて自分より小さくなった母を抱きしめ、その硬い髪をなでながら、もう一度言いました。

「お母さん、ジュディスはもういないのよ。死んでしまったの」言いながら、ジョーンの胸にも何かがこみあげてきて、目に涙がにじみました。母親はジョーンの胸を押しのけると、鉄板を叩くような声で、それに返しました。
「いいえ、そんなはずはないわ。あんな無神経な子が、わたしより先に死ぬはずないじゃないの。みんなでわたしをだましてるのよ。いつもそう、みんなずるいのよ。わたしばっかり、いじめるんだわ。損するのは、わたしばっかり…」

ジョーンが、母親に言い聞かせるのに苦労していたところに、父親のベンサム氏が、水の入ったコップと薬を持って、寝室に入ってきました。そして、母親に薬を飲ませると、ベンサム氏は何も言わずに、やさしく彼女の背中をなでました。夫と娘に囲まれて、わけのわからないことをぶつぶつと言っていた母親は、やがて小さなあくびをして、眠いわと言い、そのままころりとベッドに横たわって眠りました。母親の体に毛布をかけてやりながら、ジョーンは子どものような母親の顔を、悲しそうに見つめました。

ジョーン・ベンサムは結婚もせず、一人でアパートに住んでいたのですが、最近、母親の様子がおかしくなり始めてから、アパートはそのままにしておいて、ずっと実家に帰ってきていました。母親は、普段はそんなに変わりはありませんが、何かの拍子に発作を起こし、ジュディスはどこ?といって探し始め、娘が見つからないと言っては癇癪を起こすようになったのです。

後を父にまかせ、ジョーンが元の部屋に戻ると、パット・キムは、席を立ちながら彼女に言いました。
「一応、こちらでいくつかファイルを預かって、検討させていただきたいのですけれど、いいでしょうか?」
「…ええ、かまいませんわ。ほかにも何かがみつかったら、また連絡します」
「学生時代の童話作品にも、心を引かれるものがあります。良い画家に絵を描いてもらって、絵本にしてみたいわ。熊と兎が空を飛ぶお話」
「…ああ、それは、昔、子どもだったころ、わたしたち姉妹が、ぬいぐるみで遊んでいたときにできたお話が元になっていますのよ。なつかしいわ。あの子は小さなときから、おもちゃを使って、いろんなお話を作っていました…」

パット・キムは、預かったファイルを持って、会社の白い車で帰っていきました。ジョーンは、玄関でパットを見送ると、何か気の抜けたようなけだるさが、頭の中をぐるぐる回すのを感じました。一息の風が吹き、彼女は何かに導かれるように、家の庭に回り、しばし、昔妹と一緒によく遊んだ芝生の上に立っていました。そこに散らばっているあふれるような記憶の数々が、彼女の目に小さな涙を呼びました。ジョーンは芝生の隅に、まだ小さかった頃の妹の幻を見たような気がして、言いました。
「もういないのねえ、ジューディース、生意気なわたしの妹…」

「いるわよ、ここに」
すぐに、返事が返ってきました。しかしその声は、もちろん、ジョーンの耳には聞こえませんでした。黒い肌に銀の髪をした古道の魔法使いは、生きていた頃、姉だった女性の横顔をすぐそばから見ながら、言いました。
「しばらく見ないうちに老けたんじゃない?お姉さん」

「人怪も、親子の情には弱いんですよね」彼女の横にいた日照界の少年が言いました。「不思議なことだ。他人にはいくらでもいじわるするのに、自分の子だけは特別なんだ。虐待をする人怪もいるけど、ほとんどの人怪は、まともに子どもを育てる。あなたが死んで、あの人怪、相当強いショックを受けてるみたいだ」「そうねえ」古道の魔法使いは少々複雑な顔をして言いました。

「お姉さんとミス・キムの尽力で、あなたの作品はずいぶんと長いこと、地球上で読まれていくそうです」「ふうん、そう」「人生は短くなってしまったけど、相当にいい仕事はできました。今回の本も、まだ遺稿の束を探ってる段階で、タイトルも決まっていないのに、もう予約が入ってるそうですよ」「へえ」古道の魔法使いは、芝生の隅に立ってじっと動かない姉の顔を見つめながら、気もない様子で、答えました。少年が言いました。

「…さて、もういいですか?時間が迫ってる。ショッキングな人生でしたからね。心残りはあるでしょうけど、もう行かなくては」「わかってるわよ。でもちょっと待って」そう言うと古道の魔法使いは、風のように姉の頬に小さくキスをし、耳の中に「愛してるわ」とささやきました。するとジョーンは、なんだか聞き覚えのある声が聞こえたような気がして、びっくりしたようにきょろきょろと周りを見回しました。しかし庭には、彼女の他には誰の姿もありませんでした。

古道の魔法使いは姉の顔に微笑みかけると、少年と一緒に風にふわりと飛び出し、空に上っていきました。

ジュディス・エリルの、事実上最後の詩集になる一冊は、それから半年後に、出版されました。

タイトルは「ユディトの斧」。

一体、殺されたのは、男と、女と、どっちだったのか。そして彼女が残した作品から、何が生まれ、どこに流れていくのか。それはまだ、神様以外は、だれも知らぬことでした。



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2012-07-06 07:55:32 | 月の世の物語・余編

露草の村の近くにある森の中で、一人の職人が、五人ほどの手伝いの男を連れて、一本の大きな椿の前に立っていました。
「ほんとうに、伐ってよいのですか?」男は椿の木の幹に触れつつ、言いました。するとどこからか風が吹き、椿の木の梢を涼しげに揺らしました。椿は静かに言いました。
「ええ、かまいませんよ。わたしはもう、何百年とここに立っていて、少々飽きてきましたから」
職人は、胸に痛みが走るのを感じました。木を伐るということを、こんなにも痛く感じるのは、初めてでした。でも、伐らねばなりません。伐らねば、仕事ができないからです。職人が仕事をするには、どうしても、木材が必要なのです。

職人は、自分の担当者に教えられた、樹木を賛美する儀式をすると、傍らの斧を取りました。五人の手伝いを頼んだ男たちも、所定の位置に立って準備をしました。しかしいざ斧をふるおうとすると、何かが邪魔をして、職人は凍りついたように動けなくなりました。職人は胸がつまり、一旦斧をおろしました。そして、しばし黙って椿の木を見あげた後、小さいため息を吐き、言いました。

「あなたは、昔、人間の女性だったことがあるそうですね」すると、椿の木は梢をさやさやと揺らしながら、答えました。「ええ、もうだいぶ前のことですけれど。地球で生きていたとき、とてもつらいことがあったので、その時に人間をやめてしまったのです」
職人は目を地に落とし、しばし、黙っていました。自らの罪により、六十歳くらいの老人の姿をしている職人は、この椿の木が、人間をやめた理由を、人づてに聞いて知っていました。それは女が最も苦しむことであり、男が最も恥じるべきことでした。この木は、千年も前、それはつらい目にあい、男も女も、人間がすっかり信じられなくなり、神に願い、人間の姿を捨てて、椿の木になったのでした。

「どうして、わたしに伐らせて下さいます?男を恨んではいないのですか」「恨みなど、もうどこかにいってしまいました。よほど時間も経ちましたし。もうわたしは人間ではないのだから。どうぞ、伐ってください。わたしを差し上げましょう。わたしが必要なのなら。そうして誰かのお役に立てるのなら、わたしはうれしく思います」
職人は目を閉じました。胸に込み上げてくるものがありましたが、それをぐっと飲み込み、しばし息をとめて耐えました。職人は、生きていたとき、林業を営んでいました。先祖から受け継いだ山を持っていて、山の木を伐っては売って、暮らしていました。そのとき、山にも木にも何の感謝も礼儀もせず、もののように木を扱い、ひどく横柄な態度で山や木を侮辱したために、罪を得て、月の世の露草の村に落ちました。あれから百二十年、彼は担当者に、木の気持ちや木に対する礼儀作法を教えられ、村にある工房で働きながら、森に謝罪しつつ、木の心を学んできたのです。

「生きていた頃は、何も知らず、平気で木を何本も伐っていた。でもここで、木が、本当は伐られることをとても悲しく思っていることを知った。わたしたちの暮らしは、木の悲しみの上にのっかっているようなものでした。でも、木を伐らずには、人間は暮らしていくことはできない。だからこうして、木の魂に深く感謝し、木をすばらしいものにするための礼儀作法を、人間は学ばねばならない…」
職人が言うと、椿の木は、かすかに笑い声を立て、「よく勉強なさいましたねえ」と言いました。「だいぶ時間が経ってしまいました。もういいですよ。わたしの気が変わらないうちに、斧を使いなさい」椿は言いました。すると職人は、高い椿の木を見あげ、まるで愛おしい娘を見るような目をして、言いました。「愛しています。ありがとう」すると、椿はいいました。「わかっています。わたしもあなたを、愛していますわ」

職人は、一瞬、目を鋭くし、斧の柄を持つ手に力を込めました。彼はもう何も考えませんでした。深く考えては、できぬことを、男はやらねばならないからです。職人は、はあっと声をあげ、斧を高くふるい、かん、と高い音をたてて、椿の木の幹に、斧を入れました。

何度か斧をふるうと、椿の木は、ものも言わず、あっけなく倒れました。木を伐ったあと、職人は椿に声をかけてみましたが、もう彼女の魂はそこにはいないようでした。職人は、深く頭を下げ、椿の木に感謝しました。

五人の手伝いたちの手を借りながら、職人は伐った椿の枝を払い、みなでかついで、森の中の道を歩き、村の工房の方に向かいました。伐った椿の木は、工房の広い庭の所定の位置に置かれました。そして職人は、もう材木となった椿の木に、「美しい」という意味のこもった魔法の印を描きました。そうすれば、椿の木が本当に美しく良いものになるからです。椿の木は、そうしてしばらくの間、細工物の材料として使えるようになるまで、乾燥させられるのでした。

職人が、肩のあたりに疲労をかぶりながら、工房の中に入っていくと、中では客が一人、彼を待っていました。
「やあ、お疲れ様。がんばっていますね」それは、竪琴弾きでした。彼は工房の隅の椅子に座り、職人の仲間から出してもらったお茶を飲んでいたところでした。職人は、竪琴弾きの顔を見ると、あわてて顔色を変え、言いました。「やあ、これはすみません、ずいぶんとお待たせしてしまいましたか」すると竪琴弾きはにこやかな表情で言いました。「いや、それほどでも。昨日でしたか、風が一息ぼくのとこにきて、竪琴がなおったと知らせにきてくれたので、今日来たんです。そしたら、たまたまお留守だったので」
「ああ、そうですか。本当に風とは不思議なものですねえ。出来上がっておりますよ。立派な竪琴でした。だいぶ長いこと使っていたのですね。愛が深くこもっていて、何度も指を清めないと、なかなか糸にさわれませんでした。あちこち傷んだところも、できるだけ直しておきました。弦も全部はりかえておきました」
「ああ、それはありがとう」竪琴弾きが言うと、職人は工房の奥に走って行って、竪琴弾きの愛用の竪琴を持ってきました。竪琴弾きは、竪琴を受け取ると、指で光る文字を描き、それを弦の中にしみ込ませました。その後で、ぽろんと竪琴を鳴らし、しばし目を閉じて、音の響きを確かめていました。竪琴弾きはそうやって、何度か光る文字や紋章を描いては、琴にしみ込ませ、その音の調整をしました。

「…ああ、なかなかにいいです。これで使える魔法が増える。ありがとう」
「いや、お礼を言いたいのはこちらの方です。勉強をさせてもらいました。その竪琴は、桂の木でできているのですね。それが美しいことといったらなかった。職人の愛がこもっている。こんな風によいものになったら、どんなにか、桂の木にも喜んでもらえるだろうと、思いました」

すると竪琴弾きは、目を細めて、職人に笑いかけました。「ええ、我々は木によほど助けてもらっています。感謝の気持ちは忘れてはいけない。しかし、どんなにわたしたちが木に尽くしても、木がわたしたちにしてくれることに、すっかりお返しをすることはできないのです。難しいことですから、まだお教えすることはできませんが、いずれはあなたにもわかるでしょう。ただ、神への感謝は忘れないで下さい。わたしも、一本の桂の木にこの竪琴をいただいた限りは、これで正しく良い仕事をたくさんしていかなければならぬと、思います」
「はい、そうです。本当に、良い仕事をしていかねば。木を、美しい、良いものにしていかねば」職人はしきりに恐縮しながら言いました。彼は、竪琴弾きのことを、たいそう尊敬していたのです。本当にやさしい良い人で、困ったことがあると、いつも助けてくれるからです。

竪琴弾きは、職人へのお礼として、新しい魔法の印を教えました。それは「すばらしい」という意味のある印でした。それを材木に描くと、それは本当にすばらしくよいものになるのです。

やがて竪琴弾きは、職人に別れを告げると、竪琴を背負って嬉しそうに帰っていきました。職人は、今日伐ってきた椿の材木に近寄っていくと、さっき習ったばかりの印を、その材木に描きました。

「わたしのできる限りの力で、あなたを、すばらしい琴に作ります」
職人は、まるで愛おしい恋人に愛をささやくように、椿の木に言うのでした。



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2012-07-05 07:48:52 | 月の世の物語・余編

わたしは、ある都会の片隅の、薄暗い裏道の隅に、小さな古い水色の敷物をしいて、座っています。この道を通ってゆく人は、そう多くありません。時々、酔っ払った男がふらふらと道を間違えて入り込んできたり、何か悪いことの相談をするために、数人の男が、この道に入ってくることがあるくらいです。けれども、彼らはわたしに気づくことはありません。わたしには、彼らの姿が見えますが、彼らには、わたしの姿が見えないのです。

わたしは髭や髪を伸ばし放題に伸ばし、ほとんど裸同然の姿をしていますが、そのことに驚く人はもちろんいません。わたしの姿を見ることができるのは、わたしだけです。神ですら、わたしにほとんど気づかずに大空を通り過ぎてゆく。ああ、なんという孤独。これほどたくさんの人がいる町にいながら、わたしは、ただひとりで、永遠にも似た長い年月を、この小さな水色の敷物の上に、何をすることもできずに、じっと座り込んでいなければならないのです。

わたしの名を、申し上げましょう。わたしの名は、「いてはならぬ者」と、申します。ここにちゃんと存在してはいるのですが、「いてはならぬ者」と呼ばれます。なぜなら、わたしという者がいては、人々が、神が、苦しいからです。わたしは、存在たるものとして、恥ずべきという言葉も恥じるほど、恥ずかしいことをやったのです。時々、わたしのことを、神は思い出されるでしょうが、そのたびに、苦い思い出が蘇り、憐みをわたしに下さりながらも、わたしのなした愚かな罪とその報いを思い、たいそうお苦しみなさるでしょう。わたしは、本当に、それだけの、ことを、やりました。

ああ、たくさんの人に囲まれ、たくさんの人の姿を見ながら、誰に見つけられることもなく、気付かれることもなく、わたしはただ、ひとりで、ここに、この水色の敷物の上に座っていなければならないのです。永遠に、多分、永遠といってもいいほど、長い年月を。決して動いてはならない。いえ、動こうにも動くことができない。わたしの存在できるところは、この一枚の小さな水色の敷物の上だけなのです。

昼の町は騒がしく、いつも、耳をびりびりとちぎるようなうるさい音楽が流れています。男や女や、老人や子供や、様々な人間が、道の向こうの大通りを歩いているのが、見えます。わたしは、時々顔をそちらに向け、人々を見ます。なんだかずいぶんとへんてこりんな格好だが、みなとても良い服を着て、良い靴をはいているようだ。たっぷりと太って、暮らしもとても豊かなようだ。人間は幸せそうに見えるが、なぜでしょう、わたしの目には、彼らが、とても苦しそうな顔をしているように見えます。理由はわかりません。考えるのも面倒だから、それ以上のことを考えることは、もうやめます。わたしには、何も関係のないことだからです。

時々、苦しさのあまり、死んでしまいたいと、思うことはあります。けれどもわたしには、死ぬことはできません。それは神により、禁じられてしまったのです。私に与えられた、永遠の年月が終わるまで、わたしは、神よりいただいたこの小さな水色の敷物の上に、ずっと座っていなければなりません。時々、突然、水色の敷物が揺れて、周りの風景がからりと変わり、座るところが変わるときがあります。この道に座る前は、違う都市の、騒がしい大通りのそばの、川を跨ぐ橋の隅に座っていました。赤や茶色や黄色の髪をした色々な人が、わたしの前を闊歩していきました。一目で異国人の病者とわかるわたしに、気付く人は、もちろん、いませんでした。

一体、どちらが幻なのか、分からなくなる時も、あります。わたしには、彼らの姿が見えますが、彼らには、わたしの姿が見えない。わたしは、たしかにここにいますが、はたして彼らは、どうなのか。彼らは、存在しているのか。もしかしたら、彼らは、わたしの見ている、幻なのではないか。本当に存在しているのは、実はわたしだけで、ほかは一切、わたしの見ている夢なのではないか…。

わたしは目を上にあげました。四角い建物の壁と壁に挟まれた小さな黒い空に、白い月が浮かんで見えます。月はわたしに、何も言いません。ただ、黙って照らしてくれます。その光が心に差し込む時、わたしは、どんなに拭っても、決して消えない汚泥の染みついたアザのような自分の影を感じます。ああ、わたしは、本当に、神に見捨てられたのでしょうか。それとも、いつか、永遠が全てわたしを通り過ぎたとき、神はわたしを許して下さるのでしょうか…。

ふと、わたしは、かたり、という音を聞きました。見ると、道の入り口あたりで、女が一人、壁によりかかってうずくまっています。布を口にあてて、何やら気分が悪そうだ。酒でも飲み過ぎたのでしょうか。道を汚されるのは、いやだなと思いながらも、わたしはその女の、長いきれいな髪に、しばし目を吸い取られてしまいます。そうして、どうしても、過去の、あの忌まわしい出来事を、思い出さずに、いられません。

わたしがなぜ、「いてはならぬ者」と呼ばれるようになったか、誰か知りたいと思われますか。一人でもいるのなら、話しましょう。ああ、そうですか。少しは興味を持って下さいますか。

ああ、あれは、何千年前、いや、何万年前か、もうとっくに、わからなくなってしまった。わたしは、その頃、ある国の王族の子どもで、たいそう、金持ちでした。若いころから、美しい妻を持っていました。生意気な男の子どもにありがちなように、女には、表向き興味なさそうに、冷たいそぶりをしていましたが、内心は妻が美しいことを、それはそれは、喜んでいました。この美しい女が、自分のものであると思うと、それだけで、身の内で、熱い獣のようなものがうごめくのです。女は、全く、いいものでした。わたしはどれほど、妻をかわいがったでしょう。

けれども、わたしは、他人や妻の前では、まったく女に興味がないように、ふるまっていました。女が自分の言うことを聞くように、いつもしかりつけ、なんでもわたしのためにやるように、しつけていました。わたしがあんまりひどいことを言うので、妻は、毎日がとても苦しそうでした。でもわたしは、内心、女が好きでたまらない自分の心を、他の人に気付かれるのが、絶対に嫌だったので、妻にはいつも、おまえは馬鹿な奴だとののしってばかりいました。女は、馬鹿でないと、困るのです。でなければ、好きな時に、自分の好きなことができないじゃありませんか。女はみんな馬鹿です。男を喜ばせるためにあるものです。この女は、わたしのものなのだ。

あれはいつのことだったでしょう。思い出してみましょう。ああ、蝉の声が聞こえていたような気がする。ということは、熱い夏の季節だったのでしょう。ある日のことでした。妻が、わたしの元から逃れて、都にある神殿に飛び込んだのです。そしてそこで、神女として働き始めたのでした。わたしは、愕然としました。それはその国の、唯一、女に許された、男から逃げる道でした。神の元に逃げれば、女は夫から逃げることができるのです。わたしは妻がわたしの元から逃げたと知らされたとき、耳に硬い蝉の声がぎっしりと詰まるようなめまいを感じました。頭の中に嵐のように蝉が騒ぎまくり、腹の底に怒りの炎が煮えたぎりました。殺してやる、と体中が震えました。わたしは、神殿にゆき、妻を取り戻そうとしましたが、何人かの神官に妨げられ、追い返されました。神殿に逃げれば、もう妻は神のものであり、たとえ王族の者であろうとも、取り返すことはできないのです。

わたしは、自分から逃げた妻を許すことができませんでした。どうやっても、自分の手で殺してやると、思いました。そしてわたしは、何ヶ月かの間を、自分を憎しみでぐつぐつと煮込みながら、ある恐ろしいことを考え、同志を集めて計画を練り、それを実行したのです。

わたしは、神を、侮辱したのです。神が、女を欲しがっているから、女が神殿に集まるのだと、国中にふきまわり、悪いのは神だと言ったのです。そして、国の軍隊を動かし、とうとう、神殿を攻めたのです。神に反抗し、戦を吹っ掛けたのです。神殿は、いとも簡単に崩れました。他国から国を守るために使うはずだった武器を、国の中にある、あらゆる神殿を壊すために、わたしは使ったのです。ああ、ああ、わたしは、神に、戦をけしかけ、あろうことか、勝利してしまったのです。神殿の中で見つけたとき、妻はもう、短剣で喉をつき、自害していました。わたしは、それでも、妻への憎しみを消すことができず、太い剣で、その白い顔を、何度も何度も叩いて、つぶしました。美しかったわたしの妻は、何とも惨たらしい死体になりました。そして、誰も彼女を葬ろうとせず、長い間、壊れた神殿の隅に、腐り果てて骨になるまで、そして、誰の骨かさえもわからなくなるまで、放っておかれたのです。

こうしてわたしが神に戦をふっかけ、勝利しても、特に神罰は下りませんでした。神官どもも大方死んでしまい、あるいは神への信仰を簡単に捨てて、逃げてしまったのです。神殿を壊しても、神罰が下らないとわかると、人々は次々と神への信仰を捨て始めました。神のために面倒な祭りや儀礼をするのが、嫌だったからでしょう。それは、国境を越えて、隣の国にも広がりました。また、その隣の国にさえ広がりました。わたしは人々に言いました。神は馬鹿だ。神は色キチガイだ。神は女が欲しいのだ。そんなとんでもないことを、わたしは叫び続けました。そうして、近隣諸国の神殿を、大方壊してしまい、多くの人に信仰を捨てさせ、魂を迷わせ、神に、あまりにもひどい侮辱を浴びせ続けたのでした。

わたしは、妻が死んで三年の後、心臓の発作を起こして死にました。それもまた、蝉の声の季節でした。路上で苦しみもだえながら暗闇に意識を吸われていくとき、誰かが自分を呪う声を、蝉の声の中に聞いたような気がしたことを、なぜかくっきりと覚えています。そうして死後、わたしはいっぺんに暗闇の底に突き落とされ、誰だかわからない太い男の声を耳につぶてを投げ込まれるように聞きました。それはこう言ったのです。

「汝、その名は『いてはならぬ者』。ゆくところなし。あるところなし。幻となりて永遠の時計の測る時をさまようべし」

神罰とはこういうものか。わたしのなした罪が、人として、あまりにひどいものでありすぎたため、わたしのことを思い出す人みなが、苦しむのです。あれがいては苦しい。あんな者が自分と同じ人間だと思うと、苦しいと、人々は言うのです。それがいては、苦しいと、みんなが思う者。それが、「いてはならぬ者」と呼ばれる、この身。

なぜそこまでしたのかと? は、お尋ねになりますか。ええ、そう、お尋ねになるのも無理はない。わたしは、ひどすぎることをした。あまりにも、ひどすぎることを、なぜあそこまで、やったのか。それは…
わからないわけがないでは、ありませんか。そうです。今まで、誰にも言ったことはなかった。あんなものは馬鹿だと言い続けた。最後までいじめ抜いて、遺体を葬りもせず、放っておいた。あの女が、あの女が、…好きだったからです。

あの女でなければ、嫌だったからです。ほかの女では嫌だったのです。あれでなければ、美しいあの女でなければ。わたしの、わたしの、あの女でなければ。

たかが、女ひとりのために、神殿を壊し、神に戦をふっかけ、人類に罪の醜いあざを残したのかと、わたしにお聞きになる人はいますか? いたら答えましょう。そのとおりです。

その、とおりです!!!

しかしわたしは申します。これを聞いてくれる方々の中に、特に男性の中に、わたしをすっかり、愚か者と嘲笑いきることのできる男が、どれくらいいるのかと!

あ、い、し、ている…、帰って、帰って、きてくれと、本当は、いいた、かった。もういじめないから、やさしくするから、帰ってきてくれ…

わたしは、ふと、泣いているような女の声を聞きました。声のする方に顔を向けると、おや、道に入ってきた女が、頬を涙で濡らしながら、苦しそうに咳をしています。何やらつらいことでもあったのか。動くことができれば、やさしく声をかけることもできるかもしれませんが、今のこのわたしの身の上では、だれのためにも、何もすることはできない。女はうずくまったまま、顔を布でこすりつつ、涙を流し続けています。

ああ、あの女のために、わたしは何をしてやったろう。あんなにも、好きだったのに。抱きしめたときのやわらかさが好きだった。顔をすりつけたときの髪の匂いが好きだった。初めてまぐわったときの、女の小さな泣き声が哀れだった。離れたくなかった。ずっといっしょにいたかった。いつもいつも、そばにいて、ほしかった。

何をしたのでしたか? わたしは。ああ、どこからか蝉の声が聞こえる。それはあの日の蝉の声なのか。その声はいまだに、わたしの脳髄に棲みついて、鳴き続けているのか。それとも、今は夏で、どこかで蝉が鳴いているだけなのか。暑さも寒さも、わたしにはもう関係ないこと。永遠に、どこかの町の片隅に、見えない幻として、さまよい続ける。

道の隅でうずくまっていた女は、やがて涙も止まったのか、布で顔の半分をおさえつつ、ゆっくりと立ち上がり、こつこつと靴音をたてながら、この道から去ってゆきました。わたしはまた、ひとりぼっちで残されました。蝉の声は消え、頭の中を静寂の風が吹き通ります。

もう一度申し上げましょう。わたしの名を、「いてはならぬ者」と申します。なぜなら、わたしがいては、皆が苦しいからです。あなたも、もし、わたしをどこかで見つけたら、いっぺんにそう思うことでしょう。こんなやつがいたら、いやだと。わたしは、そんな顔をしています。神にひどい侮辱を浴びせた時、そういう顔になってしまったらしいのです。あまりにもひどいことをしすぎてしまったため、わたしは人類全てに、嫌われてしまったのです。

ではみなさん、これ以上あなたがたを苦しめることも、罪を重ねることになりましょう。わたしは、「いてはならぬ者」。ゆえに、ここで、消えます。永遠に、わたしのことは、忘れてください。わたしのような者がいたことを。

どうか、お幸せに。



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2012-07-02 07:46:28 | 月の世の物語・余編

青々と深い緑の森の中の、細長い遊歩道を、二人の青年が歩いていました。季節は夏に近く、まだ蝉の声は聞こえませんが、地中でもぞもぞと羽化の準備にかかっている幼虫の気配がします。濃い緑の香りのする風の中を、時々、神の文字を描いたような不思議な文様をした蛾が、ひらひらと飛んでいきます。

「この遊歩道は、比較的最近に作られたようだね」一人の青年がいうと、もう一人の青年が答えました。「ああ。でも人間は、この道を造ったことを、もう忘れているようだ。手入れもされていないし、あちこちが朽ちて崩れている」
「何のためにこんな道を作ったのだろう?」「それは、そのときは、彼らなりの大事な意味があったのだろう。でも、短い間に、こんな風に忘れられてしまうということは…つまり、作った人間が、あまりよい人間ではなかったんだ。だから、精霊が、人間がこの道を忘れるようにしたんだろう」「道ができて、人間がたくさん森に入ってくるのも、あまり好ましいことではないしね」

青年たちは遊歩道をしばし歩きながら、道の所々に、森を去っていった精霊が描き残した、忘却の意味のこもる印の跡を、見つけては新しく書き直して行きました。森を流れる風にはできるだけやさしく、細やかな愛の歌を歌うことを命じました。あれからもう何年になるか、長い間慣れ親しんだ森の精霊が、ある事故をきっかけに地球を去ってしまったことを、木々たちはたいそう悲しんでいましたが、風の歌う愛と、青年たちの慰めの魔法で、気力をいくらか取り戻し、悲しみに耐えていました。

青年たちが、印や紋章を風に描いたり、歌を歌いながら、森の悲哀を清めていると、ふと、空気がぽんと破裂するような音がして、一人の青年の目の前に、一枚の書類が現れました。
「おや、お役所からの通知だ。…この森の次の管理人がようやく決まったそうだよ」彼がそう言うと、もう一人の青年が、横からその書類をのぞき、ほお、と驚きの声をあげました。
「ふたり来るのか。珍しいな」「…うむ。驚きだ。白蛇の姿をとる精霊なんだが、なんと双子だと書いてある」「精霊の双子なんて聞いたことがない。いや、ぼくたちの種族にしたって、双子なんて見たことないぞ?どういう人たちなんだろう」「ふむ、興味深いことではあるね」そう言うと青年は、指で書類をはじいて、それを小さな石に変え、ポケットにしまいました。

彼らが、悲哀や寂しさの流れる森の中を、慰めの歌を低い声で歌いながら、森の中を歩いていると、ふと、後ろの方から、がさりという音が聞こえました。二人が同時に振り向くと、森の青い下草の中から、それは大きな白い大蛇が、鎌首をもたげて、こちらを見ているのでした。蛇は真珠のような白い鱗で全身をおおわれていて、目は赤銅色の珠玉のようでした。青年たちが、驚いて挨拶をするのも忘れている間に、その白蛇の後ろから、もう一匹の、そっくり同じ白蛇の頭が、がさりと出てきました。

「こんにちは、はじめまして」二匹の白蛇は声を合わせて、ふたりに挨拶しました。青年たちは慌てて挨拶を返しました。白蛇はさらさらと静かな音をたてて下草の中をはいつつ、青年たちに近づいてくると、同時に変身を解きました。するとそこにいつしか、髪も肌も服も全身雪のように真っ白な、そっくり同じ美しい若者がふたり立っていたのです。姿は人間とほぼ同じでしたが、違うのは赤銅色の目の瞳孔が縦に細長いことと、唇の奥に小さな牙が見えることでした。彼らはそれぞれ、他人が自分たちを見分けることができるように、違う色の小さな胸飾りをつけていました。ひとりは瑠璃の胸飾りを、もう一人は柘榴石の胸飾りを。

「お役所の命でやってきました。森林のシステム管理をするのは久しぶりですが、誠意をもって力の限りやるつもりです」「今まで少し、森の中を散策して様子を見ていたのですが、なかなかに美しい森だ。前任者は、とても立派な仕事をなさっていたようですね」
精霊たちがいうと、青年の一人が少し悲哀の混じった声で答えました。
「ええ、それは古い時代から、この森を管理してくれていました。遠い昔は、森の神として人々にとても尊敬されていたこともありました。でも人間が、精霊や神の存在を信じなくなってから、辛いことがたくさんあったようです。人間が勝手に木を切り、道を作り、神にも森にも木にも何の感謝も尊敬もすることなく、たくさんのものを森から盗人のように奪ってゆく。彼は人間の礼儀知らずをとても悲しんでいたそうです」

青年たちが言うと、二人の精霊たちは顔を見合わせ、しばし何やら、二人にしかわからないことばで会話をしました。青年たちは、この双子の精霊を、失礼とは思いつつも、つい驚きの目でじろじろと見つめてしまいました。声も顔も全く同じ精霊がふたりいて、話をしている。こんな珍しいものを見るのは、初めてだったのです。というより、あり得ないのではないかとさえ、感じるのです。

青年たちの視線に気づいて、ふたりの精霊は声を合わせて、少し笑いながら言いました。「双子が珍しいのでしょう。確かにわたしたちは、かなり珍しい存在のようだ。自分たち以外に、双子など、見たことがありませんから」すると青年たちは慌てて失礼を詫びました。「…地球上の生命に双子や三つ子などはよく見ますが、我々のような存在に、双子がいるなど思いもしなかったのです。存在というものは、皆同じ愛ではありますが、ひとりひとり顔も心も違うのが当たり前ですし…」青年たちのうちの一人が言うと、瑠璃の胸飾りをした兄の精霊が言いました。「わたしたちにも、違うところはありますよ。弟は少々せっかちだが、わたしは物事をよく考えて落ち着いて行動する方だ」すると柘榴石の胸飾りをした、弟の精霊が異を唱えました。「それは聞き捨てならない。せっかちというより、わたしのほうが兄さんよりやることが早いんですよ。兄さんは少し考えこみすぎるんだ」青年と精霊たちは、声をあげて笑いました。

しばしの会話の後、青年たちは、双子の精霊を、森の中を案内して歩き回り、前の精霊が残していった、魔法の印や不思議な石組みのある古い祠の場所を示しながら、様々な注意点を教えてゆきました。空から見守る神のまなざしを感じつつ、青年たちは精霊に仕事をひきついでいきました。それには、ひと月ほどもかかったでしょうか。

森林の奥には、小さな水たまりのような池があり、その中には小さな水棲昆虫や、蛙が生きていました。周りにすがすがしい青草が茂り、水気も光の具合も白蛇の棲むにはちょうどいい場所でありましたので、双子の精霊はそこをねぐらとし、森を管理してゆくことになりました。

「これでほとんどのことは伝えましたね。ほかに、何か質問はありませんか?」一人の青年が言うと、精霊たちはかぶりを振りながら言いました。「いや、今は特にありません。後々に何か疑問点が見つかっても、二人でなんとかやっていきます。神も助けてくださいましょうし、森の木々や動物たちも、わたしたちを気に入ってくれたようだ」「みなわたしたちが、そっくり同じなのを、たいそう珍しがって、喜んでいたねえ」
精霊たちが言うと、青年はほっと息をついて、言いました。
「ああ、これで何とかなりそうだ。ありがとう。心よりお礼を言います。この森が消えてしまうと、それは大変なことになるので」

青年たちは去ってゆく前、森の真ん中の草むらで、精霊たちと並んで座り、神に祈って正式な引き継ぎの儀式をした後、深く神に感謝し、この森がいつまでも豊かであるようにと祈りました。儀式が終わった後は、もう青年たちは帰ることになるのですが、その前に、青年たちはどうしても精霊に聞きたくてたまらないことがあったので、とうとう言ってしまいました。

「一体、双子とはどういうご気分なのですか。まるで自分と一緒の者が、もう一人いるというのは。ぼくには全く想像できないんですが」すると双子の精霊は顔を見合わせ、少し苦笑いをし、言いました。
「どうっていってもなあ、わたしたちは、ふと気づいた時にはもう、ふたりでしたから」
「ええ、わたしのほうが先に、気付いたんです。そのときわたしたちは真空の精霊でした。ふと、自分の存在に気づいたら、太陽風の中で星の清めの歌を歌っていたのです。そして隣に、もう一人いた。まるでわたしにそっくりだったので、わたしはそいつのほうが、わたしなのではないかと思ったほどでした」「ええ、そう。わたしは三分ほど遅れて自分に気付いたのです。だから弟になったのですが、同じことを思いました。隣にわたしそっくりなのがいて、これがもしかしたら、わたしなのかと」

「自分を間違えてしまうことなんか、ないのですか。ぼくだったら、自分そっくりなのが、隣にいたら、どっちが自分なのかわからなくなってしまいそうだ」青年の一人が言うと、双子の兄の方が答えました。「それは、実は、時々あります。神は何で、わたしたちをこういう風にお創りになったのかなあ。時々、弟のしていることが、自分のしていることのように感じることがあるのですよ。弟も、時々、そういうことがあるそうです。わたしたちは何やら、『自分』というものが、不思議に交錯しているようだ」すると、弟の方も言いました。「…ええ、ずいぶんと前、兄がムカデの怪に体を刺されたとき、その毒がぼくの体の方にも、しみ込んできたということもありました。なぜなのかは、全くわからない。疑問はたくさんありますが、まあわたしたちは特に気にせず、同じ時は同じ、違うときは違うと割り切って、ずうっと仲良くいっしょに生きてきました」「ただ、わたしたちは、離れて生きるということは、できないらしいです。遠く離れようとすると、自分がちぎられるように、痛いのです。…なんというか。わたしたちは、もしかしたら、ほんとうにひとりなのかもしれないね」兄がそう言うと、弟が深くうなずきました。「ええ、時々わたしもそう思う。体は二つあるし、どちらにも心はあるけれど、わたしたちはもしかしたら、ひとりの精霊なのかもしれない…」
双子の精霊の話を聞きながら、青年たちはただただ驚いてふたりを見ていました。そうやって見ていると、どう見ても、この二人が、同一人物のように思えて仕方がないような気もするのです。
「神のなさることは不思議だな」青年は感心したように言いました。双子の精霊は、ただ黙って笑っていました。

やがて、青年たちは、精霊たちに別れを告げると、神に感謝し、森に敬意を表し、日照界に帰ってゆきました。双子の精霊は、白蛇に姿を変え、二人で声を合わせて、森のさみしさを慰める歌を歌いました。それは、全く同じ人の声が、二人合わさったような見事な斉唱で、実に透き通って美しく、森の風にしみ込んでゆきました。森は魂にしみとおるその歌をとても喜び、悲しみも忘れ、命の底から生きる力がわいてくるような気がしました。

小さな小鳥が、光の中に喜びを歌いに来ました。ところどころで花が星のようにゆれました。夜になると、小さな妖精のような鼠が、木の実を探しに出てきました。
紺青の空の低いところで白い三日の月が笑っていました。こうして、双子の精霊は、新しい管理者として、森に喜んで迎えられたのでした。



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2012-07-01 07:13:11 | 月の世の物語・余編

青い地球が、眼下に大きく見えていました。丸い輪郭が大気にうっすらとぼやけて、その風の中を、何か透き通った青い魚のようなものが、忙しく泳ぎまわっているのが見えました。それは地球上でとても大きな霊魂が何らかの活動のために動いているからでした。また、地球上のある一点には、まるで血の塊のような赤い渦が、驚くほど激しく、そして驚くほど静かに咲いており、それは誰の目にも見えぬところで、地球上にある、あってはならないものを、静かに焼いて清めているのでした。

「軌道計算によると、今頃ここら辺にいるはずなんだが」月の世の青年が一人、宇宙空間を飛びながら言いました。「それほど大きなものじゃないからね、探すのも結構大変だ」もう一人、月の世の青年が言いました。「しかし、何でこんなことまでしなきゃいけないんだろう。ぼくたちは地球の観測だけで手いっぱいだというのに」片方が苦々しく言うと、片方の青年がきっぱりと言いました。「その観測のためじゃないか。あれを何とかしないと、観測機の映像が乱れてしょうがないんだ」
「まあ、それはそうなんだけど…」青年は口を突きだして、少し苦い顔をしました。

ふと、片方の青年が、少し離れたところの空間に、小さな石の影のようなものを見つけ、それを指差しながら、大きな声で言いました。「お、あった、あれだ!」「よし!」
彼らが探していたのは、小さな一つの人工衛星でした。宇宙空間に浮かびつつ地球の周りを回っているその衛星を追いかけ、ひとりの青年がその上に飛び乗り、もうひとりの青年は衛星の突起部に手でつかまりました。衛星は小さな鏡のさいころのような形をしていて、蛙の足のような突起が立方体の二面に一つずつついています。

「よーし、大人しくしてくれよ。さあて、目当てのものはどこだ?」人工衛星に乗った青年が、姿勢を整えながら言うと、片手で突起につかまっている青年が、衛星の内部を透視しながら言いました。「箱の内部だ。装置の一部におかしな呪いの文字が書いてある。ずいぶんとひどい邪気がする。怪がやったのだろう」すると、衛星の上に乗った青年も目を光らせ、衛星の内部を透き見ました。「なるほど。こいつのせいだな。最近の映像の乱れは」「それだけじゃないだろう。多分、最近この衛星を、正しくないことに使ったやつがいるんだ。それで邪気が膨らんだんだろう」「うむ。軍事用だからな」

衛星の上に乗った青年は、呪文を唱えて、右手に小さな銅の鏡を出すと、それから光を出し、衛星の中の、呪いの文字を焼きながら、言いました。「この文字は、あれだ、人間がよく使う邪気払いの文字の真似というか、応用だよ。ずいぶんと上手く書き変えてある。確かにこう書けば、人に悪いことをさせて邪気を呼び集めることができる。こんなのが空を飛んでいるということ自体、大変なことだ」「まったくね。こういうことに関しては、怪は本当にうまくやるよ。一応コピーはとっといた。後で文字の効力をなくす魔法をしないといけない。似たような文字が書かれた衛星は、多分一つや二つじゃないだろう」「ああ、いずれ、人工衛星の全部を調べないといけなくなるだろうな」

衛星に乗った青年は、呪いの文字を全部焼き切ると、手から鏡を消し、もう一人の青年と一緒に清めの呪文を唱えて、衛星を清めました。

「よし、大丈夫だ。離すぞ」「OK」

そういうと同時に、二人は人工衛星から離れました。衛星は清めを受けて、何やら生きているもののように、嬉しげにしばしきらめきました。片方の青年が、ついでと言って魔法を行い、その軍事用衛星を悪いことには使えないように、一部封じの魔法をしました。すると、衛星は本当に、何やら嬉しそうにゆれてきらきらと笑っているように見えました。青年がぽつりと言いました。

「ものというものにも、魂が宿るのだな。自分が悪いことに使われるのは、悲しいのだ。やっぱり」「それはそうだ。まちがったことを無理やりやらされることほど、苦しいことはない。あの衛星にも、悲哀があるのだろう」

二人は、紙にコピーをとった文字を見ながら、話しました。
「いやな邪気を発している。あのまま衛星が飛んでいれば、地球上で愚かなことが起こったかもしれない」「やはり浄化しにきてよかったな。実際に見てみなければわからなかった」
「ああ」

「さて、青船に帰るか…」一人の青年が腕時計をいじりながら、青船に仕事が終わったことを連絡しました。もう一人の青年は、青い地球を見下ろしながら、少し悲哀に凍えた短いため息をつきました。その視線の先には、ひとひらの銀の板のような、小さな宇宙ステーションが、浮かんでいるのが見えたのです。

「宇宙開発、か…」

青年が小さな声でつぶやくと、もう一人の青年が、腕時計から目を離して、友人を諌めるように声を強くして言いました。
「それ以上のことを口に出して言うなよ。言葉というものには羽がついているんだ。風に乗ってどこまで行って、誰の耳に入るかわからない。たとえ真実でも、時期が来るまでは決して言ってはいけない」
すると青年は、友人を振り向いて少し悲しげな瞳をして、言いました。
「ああ、わかってる。でもぼくは最近、どうしても、何か言いたくなってしまうんだ。言いはしないけれどね。…たぶん、時代が変わっているからだと思う。この浄化計画は、地球上のあらゆるものに影響を及ぼし始めている…」

時計を見ていた青年は、友人の悲哀に染まった横顔をしばし硬い表情で見ていました。確かに、彼の今言ったことの意味が、自分にも何となくわかるような気がしました。青年は友人と並んで、同じように青い地球を見下ろしました。

「美しいな、この星は。…悲しいほどだ」
時計を見ていた青年は言いました。もう一人の青年は、ただ黙って笑いながら、目を細め、心の中で密かに、地球に愛を送りました。



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