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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-05-08 07:10:11 | 月の世の物語・余編

白い霧の中を、一頭の月毛の雌馬がさまよっていました。空を見ると、霧の向こうに、かすかに、お日様の光が見えます。雌馬は、霧の中を歩いているうちに、どこからか水の音を聞きつけ、その音を求めて、草の上を歩き始めました。するとすぐに、灰色の小さな川の流れを見つけました。雌馬は喉が渇いていたので、その川の水をごくごくと飲みました。水は汚れていたので、少し苦いものが、喉の奥を刺しました。

「ユリヤレイム!」

どこからか、呼ぶ声がして、雌馬は顔をあげました。それはその雌馬の名前でした。自分の名前を呼ばれると、どうしても、心が焦って驚いてしまいます。雌馬はきょろきょろと周りを見回して、自分を呼んだ者の姿を探しました。すると、霧の空の向こうから、大きな白い馬が、白い翼をはためかせながら、飛んでくるのが、見えました。白い翼馬は、ユリヤレイムのそばにゆっくりと降りてくると、翼をたたみながら、言いました。

「ユリヤレイム、探したよ。どうして群れから離れるのだい?みんなといっしょにいるのが、いやなのかい?」翼馬は、やさしくユリヤレイムに声をかけました。するとユリヤレイムは言いました。

いやなの。きらいなの。みんな、きらいなの。

「どうして?みんな、君に意地悪をしたりしないだろう?」翼馬がいうと、ユリヤレイムはふいと顔を背けました。

みんな、ぶつかるの。いたいの。いたいの。みんな、ぶつかるの。くるしいの。

「ああ、そうだね。君はいつも、ぶつからないように気をつけているのに、みんなは、ぶつかってくるね。ぶつかると、いたいものね。でもそれはね、君に意地悪をしてるわけではないんだよ。まだみんなには、上手にぶつからないようにすることが、できないだけさ」翼馬は言いました。でもユリヤレイムは顔を背けるだけで、翼馬の言うことには耳を貸さず、川の水を飲み続けました。

翼馬は、そんなユリヤレイムの様子を見て、少し困ったように首を傾けましたが、しばらくして、ひゅう、と口笛のような音で鳴きました。するとユリヤレイムはその音のひきこまれるように川から顔をあげ、翼馬の方に歩いてきました。

「おいで、ユリヤレイム。お話をしてあげよう」翼馬は、ユリヤレイムを草の上に座らせると、自分もそのそばに座り、優しい声で、話を始めました。

「…そうだな。おもしろいことばを、教えてあげよう。こういうのだ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…どうだい? 不思議なことばだろう」

あらあ? いたい? なありい?

「そう、魔法の言葉だ。君にはまだちょっと難しいかもしれないけど、これはこういう意味なんだよ。『愛よりも大切なものはない。愛以外に真実はない』」

ああ、あい。しってる。それ、いいもの。とても、いいもの…

「そうだ、かしこいね、ユリヤレイム。愛は、とてもいいものだ。しってるね。草も、川の水も、光も、みんな愛だって、教えてあげたけど、覚えているかい?」

ああ、おぼえてる。みず、うれしい。くさ、すき。みんな、あい。いいもの、みんな、あい。

「そうだ。かしこいね、ユリヤレイム。お話はね、こういうのだ。…昔ね、カリールという名の、とても賢い美しい馬がいた。その馬はね、ある日、とてもすてきな、清らかな水の流れる、川を見つけた。それはすてきな川でね、流れる水は水晶のように澄んでいて、薔薇のような香りがして、それを飲むと、甘くて、おいしくて、体じゅうにお日様が満ちてきて、体がとても健康になるんだよ。その川の名前がね、アッラーという名だったのさ」

あらあ、かわ? みず、きれいな、みず、か、かりーる…

「そう、かしこいね、ユリヤレイム。それでね、カリールはね、他の馬がみんな、とても汚い、嫌な水を飲んでいるのを、見つけてね、アッラーという名前の川のことを、ほかの馬に教えてあげようとしたんだ。その水のほうが、ずっときれいで、それを飲むと、本当に、心にも体にも、いいことが、いっぱいおこるからだ。みんなの飲んでいる水は、灰色で、とても苦くてね、いつまでも飲んでいると、病気になってしまうような、きたない水だったんだよ。だからカリールは、どうしても、きれいな水の流れるアッラーの川のところに、みなをつれてきたかったんだ。それでね、みんなに、教えてあげたのさ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…つまりはね、こういうことさ。ほんとうの愛の川の水はとても甘くておいしいよ、ほんとうの愛の川の水以外の水を飲んではいけないよ。病気になってしまうから」

あーいーの、かわ。ああ、いいもの、かわの、みず、おいしい、あらあの、かわ、どこ?
ゆりやれいむ、みず、のみたい。あらあ、のみたい。

「いい子だね、ユリヤレイム。もうしばらくは、ぼくのお話をお聞き。…カリールはね、アッラーの川があることを、みんなに、教えてあげたんだ。でもね、カリールには、アッラーの川が見えたのに、ほかの馬には、見えなかったんだよ。それでね、カリールはね、困ってしまったんだ。アッラーの川は、そこにあるのに、みんなには、それが、わからなかったんだよ。それでね、みんなはね、ほかのところに、もうひとつちがう川を見つけて、それが、アッラーの川だと、思ってしまったんだ。カリールは、それはちがうって言ったけど、みんな、信じなかった。新しく見つけた川は、前の水より、少しは、きれいだった。けれど、やっぱり何か苦いものが混じっていた。いつまでも飲んでいると、みんな病気になってしまう。カリールにはそれがわかった。でも、どうしても、本当の、アッラーの川が、みんなには、見えないんだ。なぜだと思う?ユリヤレイム」

なぜ? わからない。あらあ、みえない。あらあの、みず、のめない。かなしい。

「ああ、そうだ、悲しいね。カリールには、わかっていた。みんなにはね、愛が、見えなかったのだ。わからなかったのだ。だから、本当の愛の水の流れる、アッラーの川が、見えなかったのだ。カリールは悲しかった。何度も、その川は、アッラーの川ではないと、みんなに教えたのだけど、みんな、信じなかった。カリールは、悲しくて、群れを去っていった。そしてそのまま、帰ってはこなかった。カリールが、いなくなるとね、群れはとても、寂しくなった。なぜだろう? わかるかい、ユリヤレイム」

かりーる、いいうま、だから?

「おお。かしこいね、ユリヤレイム。そのとおりだよ。とても、きれいな、いい馬だったからだ。ほんとうにね。カリールがいる間は、みんな気づなかった。カリールが本当にすてきな馬だったと、いなくなってから初めて、気付いた。それでね。みんな、カリールの言ったことを思い出しては、今も、こう言っているんだ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…アッラーの川の水を飲もう。アッラーの川の水以外は飲んではいけない。そして、みんなは、今も、みんなの知っているアッラーの川の水を飲んでいる。…でもね、彼らのアッラーの川は、本当のアッラーの川ではないのだ。悲しいね。それを教えてくれるカリールは、もういないんだよ。ああ、どうしたら、いいんだろうね。みんなに、本当のアッラーの川を教えてあげるには、どうしたらいいだろう」

ユリヤレイムは、翼馬の話を聞いているうちに、ほんとうにその美しいアッラーの川の水を、どうしても飲みたくなってきました。どんなにか、おいしい水だろうと、思うと、心が踊るようにうれしくなってきました。そして、ほんとうにほんとうの、その川の水を飲むにはどうしたらいいのだろうと、その小さな頭で考えました。翼馬が、やさしく、ユリヤレイムに声をかけました。

「ユリヤレイム、君なら、どうするかい?」

ゆりや、れいむ、かりーる、さがす。かりーる、すき。かりーる、かりーる。おしえてくれる。かりーる、かりーる、あらあの、かわ、しっている。

「そう、かしこいユリヤレイム。そうしよう。カリールを探そう。教えてくれる。さあおいで。群れに、帰っておいで。体がぶつかって、時々、痛いかもしれない。それでもね、みんなをきらいになったりしないで、なかよくして、やさしくしてあげておくれ。できるだろう?ユリヤレイム。君はかしこくて、やさしい馬だ。きれいなきれいな、月毛のユリヤレイム。みな、仲良くして、おたがいに、やさしくしていれば、いつか、カリールが来てくれて、本当の、アッラーの川を、教えにきてくれるよ」

ほんとう? かりーる、くる。あらあ、のかわ、おしえ、くれる?

「本当さ。君にも、いつか、出会うことができるだろう。美しいカリールに。それはすばらしい馬だ。優しくて、美しくて、みんなに、親切にしてくれる」

ゆりや、れいむ、かりーる、すき。かりーる、あいたい。

「ああ、会えるとも。いや、本当はもう、会っているかもしれない。群れの中のどこかに、帰ってきているかもしれないよ。彼はね、ほんとうに、びっくりするくらい、とんでもないところから、飛び出してくることがあるから。時には、信じられないくらい、不思議なところに、いたりするから。みんなのところに帰って、カリールを探してみよう。そしてみんなに、カリールのお話を、教えておあげ。本当の愛の川のお話を。さあ、ユリヤレイム。おさらいだ。今からぼくが言うことを、もう一度言ってごらん。『カリール、アッラーの川。真実の愛の川を、教えてくれる。カリール、美しい馬。アッラーの川、教えてくれる』」

かりーる、あらあ、のかわ、おしえ、くれる、かりーる、きれいな、うま、あい、おしえて、くれる。あい、いいもの。いいもの、あい。あーいー、ああ、いい、あいい、あい、のかわ、あらあ、のかわ。あいの、みず。かりーる、かりーる、かりーる…

「いいよ、ユリヤレイム。覚えていられるだけ、覚えていなさい。群れに戻って、みなと仲良くして、みなに、カリールの話をしておあげ、本当の愛の水の話を。そうすれば、きっといつか、君は、カリールを見つけることができるだろう。さあ、いっしょにおいで」

翼馬はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、歩き始めました。ユリヤレイムも立ち上がり、その後を追いました。ふたりで歩いていくと、やがて霧がはれ、青い草原に群れているたくさんの馬たちの姿が遠くに見えてきました。太陽は十一時の位置にあって、明るく草原を照らしています。鹿毛や、栗毛や、葦毛や、青毛や、斑毛や、いろいろな馬がたくさん群れて、それぞれに、草を食べたり、池の水を飲んだり、じゃれあって遊んだりしていました。ユリヤレイムは群れを見ると、少し気持ちがうれしくなって、すいこまれるように、群れの中に帰っていきました。ユリヤレイムの姿は、すぐに、群れの中に混じって、見えなくなりました。翼馬は、ほっとした様子で、群れをしばらく眺めていました。

かりーる、あらあの、みず…。

かすかに、群れの中から、ユリヤレイムの声が、聞こえました。翼馬は、ふっと息を吐くと、小さな声で歌を歌いました。するとすぐに、翼馬の姿は消え、そこにいつしか、馬の紋章の旗を持った水色の服を着た若者が、立っていました。彼は言いました。

「…ちょっと、やりすぎたかな。でも、ユリヤレイムは賢い馬だ。ほかの馬と比べて、難しいこともよく理解できる。だから時々、群れから離れてしまうんだろう。他のものより段階が進んでいるものは、どうしても、皆と気持ちがあわなくて、ひとりになってしまう。そういうものには、何かもっと、新しいことを知ることが、必要なんだ。ユリヤレイム、君はもうすぐ、カリールになるかもしれないよ」

水色の服を着た若者は、一通り群れの様子を眺めると、旗を消し、代わりに目の前に自分のキーボードを出しました。そして、今日の馬の指導記録を打ち込み、ひとつ、ほっと息をつくと、キーボードを消し、指をぱちんとはじいて、目の前に小さな木の扉を出しました。

「ユリヤレイム、また明日会おう」そう言いながら、彼は扉を開いて、その向こうに消えていきました。

かりーる、かりーる、かりーる…、おしえて、あらあ、の、かわ…

月毛のユリヤレイムは、群れの中を歩きながら、美しいカリールの姿を、いつまでも探していました。



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休憩

2012-05-07 07:24:06 | 月の世の物語・余編

「ひ、くろえ、こ、とぃ」

…さて、人類よ。
どこまでやれる。どこまで、理解できる。どこまで、ついてこられる。
地獄には、まだ先がある。
いやもしや、自分には地獄などありはしないと、思うているのなら、
今から改めるがよい。
神を、甘くみるではない。
これからだ。
おまえたちの、地獄は。

と、彼は、言ったのだ。



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2012-05-06 08:34:43 | 月の世の物語・余編

果てしない漆黒の闇が広がっています。ああ…。月は、細く、かすかに白く、目を開いています。それは、少しでも風が吹けば、すぐに閉じてしまいそうな扉の隙間から漏れてくる、はかない光のようです。

それでも、その光は、わたしを照らし、わたしの両手に、それぞれ五本の指があり、それが、動かそうとわたしが思えば、わたしの思い通りに動くことを、教えてくれます。わたしは、漆黒の虚空に浮かぶ、ひとつの小さな小惑星の上にいます。いや、中にいるというべきでしょうか。わたしの体の下半分が、その小惑星の中に、埋もれているからです。下半身は、小惑星の岩の中に固められ、動くことはできず、上半身だけが、小惑星の上にまるでわたし自身の墓標のように立っています。わたしはまるで、この小惑星に生えた、バオバブの木のようだ。時々、木の真似をして、両手を上にあげ、上半身を揺らして、木が風に揺れるような真似をすることがあります。ふ、おもしろくもない。何をやっても、せんないことだ。こんなこと以外、わたしには、何もできない。こんなわたしとは、一体誰でしょう?

わたしの名を、申し上げましょう。わたしは、「無そのもの」という者です。無ではありませんが、「無そのもの」と呼ばれます。いえ、今その名でわたしを呼ぶのはたぶん、わたしだけでしょう。なぜなら、わたしは、「無そのもの」でありますから、わたしというものが存在していることを、誰も知らないのです。神でさえ、御存じではないかもしれません。わたしがいるということを、知っているのは、わたしだけです。わたし以外のだれも、わたしがいるということを、知らない。それゆえにわたしは、わたしを「無そのもの」と呼びます。それはかつて、神によって名づけられた名ではありますが、その神ももう、わたしのことは、忘れていらっしゃることでしょう。

小惑星とは言いますが、周りのどこを見渡しても、闇ばかりで、細く白い月以外に、星らしいものは見当たりません。あの月も、別に引力でこの星を導いてくれているわけではなさそうだ。星は軌道上を動くようなこともせず、ただ、果てもない漆黒の闇にじっと浮かんでいます。星と言うより、ただの岩と言った方がいいでしょうが、何となく、闇に浮かぶその岩の、上と言うか、中にわたしがいることが、昔読んだ星の童話のことなどを思い起こさせ、わたしは、何故にか、おもしいと感じつつ、この岩を、わたしの星と呼んでいます。

わたしが何をしてこうなったかと、お尋ねになりますか? ええ、語りましょう。誰も聞いてくれないでしょうし、誰もわたしが、ここで話をしていることなど、知りはしないでしょうが。言ってもしかたないことなのですが、言わなくてもいいことでも、ありません。わたしが、好きにやればいいのです。だれもわたしのことなど、知らない。何を言うのも、何をするのも、わたしの自由だ。勝手に、わたしが、言えばいいことだ。

そうですねえ。最初に思い浮かぶのは、ある女性のことです。美しい人でした。白い肌が百合のようだった。黒髪は長く背に流れていた。わたしは、その美しさゆえに、彼女を、憎みました。ええ、本当です。愛していたんです。だから、憎みました。あんな女に心を奪われた自分が、いやだったのです。そのときのわたしは、ものしりの学者で、とても偉い地位を得ていました。わたしは女に、言ったものでした。
「やあ、あいかわらず、美しいね。だが君の髪が、金髪だったら、よかったのに。そうしたらほんとに、神の哲理のように美しかったのに。残念だ。わたしの知っている哲理ほど、輝かしく美しいものはない。それはすばらしいものなんだよ」
すると彼女は、とても悲しい目でわたしを見たものでした。彼女は、自分が黒髪であるゆえに、自分は美しくないと思ったようでした。そして、本当に、それから、彼女はだんだんと、美しくなくなっていきました。

簡単ですねえ。人をだめにするのは。ただちょっと、小さいところを突いて、そこが、残念だね、と言えばいいだけなんです。欠点など、誰にもありますから、ちょっとそこをついて、だめだねといえば、人はいかにも簡単に、全部がだめなものになってしまう。やろうと思えば、ほら、あのイエスにだって、あらを探すことができるじゃないですか。たとえば、そうだな。…イエス、なんで、あんなことを言ったんです?なんで、逃げなかったんです?馬鹿だなあ。なんで、もっと賢くできなかったんですか。もっと世間とうまくつきあえば、長生きできたものを。

はは、残念だなあ。もう少し、何かがあれば、いいのにねえ。どうしてそこが、そうなのかな?あれ、何でそんなことを、知らないの?

わたしときたら、なんて意地悪なんでしょうねえ。何万年と、同じようなことを人々に言い続けてきたのです。わたしは、わたし以外の者みなを、馬鹿にしてきました。見下してきました。自分よりえらいものがいるのが、嫌だったからです。他人より自分を強くして、えらくするのは、意外に簡単でした。言葉をね、上手に使って、人をほめながら、ただ少しだけ、そこがいけないねって、注意するんです。それだけでね、その人の全てが、だめになってしまうんです。全く完璧に、無駄なものになってしまうんです。楽しかったですよ。ただ、ちょっと、上手なことばで、いかにも、親切そうに、君のために言っているんだという様子で、笑いながらいうのです。

「やあ、君はすばらしい人だね。だけど、どうして影があるの?そんなものない方が、もっときれいになるのに」

それでわたしは、本当に多くの人々の心を、殺してきました。世界に、「おまえなんか生きていても無駄だ」という言葉を、宝石のような隠喩に隠して、吹き鳴らしまくったのです。そして人々は、本当に、わたしの思い通り、みんな愚かで無価値な屑になりました。わたし以外の人間は、みんな、だめになりました。生きていても仕方ない、無駄で、いても迷惑なだけのものになりました。みんなそういうものに、わたしが、してしまったのです。はは、信じられませんか? でも、本当なんです。わたしの、せいなんです。世界が、人類が、滅びたのは、わたしのせいなんです。ただ、こう言っただけで。「おまえなど、ただの馬鹿だ」と。そう、それだけで、人類を滅ぼすことが、できたのです。本当ですよ。わたしなのです。人類を、滅ぼしたのは。

あ。風が吹きます。ああ…、月が、月が、閉まってしまう。雲など、ありません。あれは、本当に、扉なのです。ほら、月が、ゆっくりと、閉じて行きます。光が、消えていきます。ああ、光がなくなる。闇だ。全くの、闇だ。ああ、もう、手も見えない。何も、見えない。何がある?わたしは、いるのか?ああ、考えている。ほらわたしは今、考えている。考えなければ、何かを。そうしなければ、本当にわたしは、「無そのもの」になってしまう。

誰でしたか。わたしが神によって「無そのもの」と名付けられたことを、わたしに教えた人は。ああ、思い出します。顔を、覚えています。白い髭をしていた。杖を持っていた。悲しげな青い瞳で、わたしを見ていた。彼は言ったものでした。

「おまえの行く末を悲しむ。おまえの罪の浄化の月日の、永遠に近く長いことを悲しむ。これをおまえに告げねばならないわたしの苦しみを、おまえが知るとき、わたしはおまえを、思い出すことだろう」

そうして、その人は、わたしに、ひとつの歌を教えてくれたのでした。そしてそれを、何度も繰り返し、わたしに歌えと言ったのでした。わたしは、無理やり、それを覚えさせられました。何かつらいときには、それを歌えと言われたのです。歌ってみましょう。

ハレルヤ!ハレルヤ!神をほめたたえよ。大空の愛なる神を!
そのはてしない御わざのゆえに、ほめたたえよ!
その明るき真の偉大さゆえに、神をほめたたえよ!
笛を吹き、琴を弾き、太鼓をたたき、鈴を鳴らし、
踊り踊れ、笑い笑え、喜びに泣き歌え!
ハレルヤ!神の愛をほめたたえよ!
とことわの愛のおこないの
何をなしてきたことかのすべてを
白き百合のごとき清らかなる斉唱でほめたたえよ!
すべての愛をほめたたえよ! 神をほめたたえよ!
うるわしき神の愛の御わざなる
ありてあるもののすべてを、ほめたたえよ!

ほめたたえよ!ほめたたえよ! わたしは、歌います。歌の声は、口から放たれたと同時に、無音の石となって虚空に吸い込まれ、消えていきます。誰も、わたしの歌を聞いてはくれない。木霊さえ、返事をしてくれることはない。…ああ、そうです。わたしは、誰かをほめたたえたことなど、ありませんでした。いやなことばかりを言って、人の小さなところにけちをつけていじめては、その全存在を否定し、軽蔑し、屈辱に落としめてきたのです。何もかもは、わたしが、その人たちが、嫌いだったからです。なんでって、それは、みんな、わたしより、美しかったから。わたしにないものを、他の人はみんな、持っていたから。わたしは、欲しかった。みんなのように、なりたかった。みんなの持っているもの、すべてが、欲しかった。

苦しかった。なぜわたしは、彼らのようになれないのか。彼女のように美しい黒髪を持てないのか。匂やかな白い肌が欲しかった。百合のような乙女になりたかった。本当に、美しい女に、なりたかった。なんで、なのか。わた、し、は…、ああ、もういやだ。考えたくはない。わたしは、「無そのもの」というもの。もう、どこにも、いはしない。暗闇の中に、消えてゆく。もう、わたしは、いないのだ…

ふと、目の前が、明るみました。目をあげると、また、月の扉がうっすらとひらいて、その隙間から白い光が見えています。漆黒の闇に開いた、はかなくも細い明かりは、わたしを照らし、わたしの、ごわごわした灰色の手を、わたしに見せます。わたしは、どんな顔をしているのでしょう。わかりません。でも、きっと、醜いことでしょう。自分がどんなに醜いことをしてきたのか、わからないほど、馬鹿ではありませんから。自分の顔を、自分で見られないと言うことは、幸福かもしれない。誰にもわたしの存在を知られないということは、幸福かも知れない。わたしは、こんなにも、惨いほど、醜いから…。もしや、だれかがわたしのことを知ることがあるとして、わたしを見たら、きっとその人は言うことでしょう。

「なんて気の毒なんでしょう、あなたは。もう少し、美しかったら、よかったのに」

ハレルヤ!



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2012-05-05 07:52:00 | 月の世の物語・余編

マルコム・キルターは、白い電話機を耳にあて、そこから聞こえる強い罵声に耐えながら、しきりに頭を下げていました。
「…はい、申し訳ありません。すべてはこちらの責任です。…はい、最大限の努力をしております。わかっています。そこのところを、どうか…」

そこは、小さなビルの三階にある事務室でした。マルコムの隣の机では、若い社員がもう一人、電話を片手に、同じように、平謝りに謝っていました。彼らのほかに、もうひとり、五十がらみの女性の事務員がいて、彼女もまた、電話を片手に話をしながら、しきりにボールペンでメモ帳に何かを書いていました。

彼らは、ある健康食品会社の、小さな販売代理店の社員でした。いや、三日前まではそうだったと言うべきでしょうか。三日前、突然、社長が会社のお金を大部分持ち逃げして、愛人と一緒に消えてしまい、会社はそれでほとんど崩壊状態に陥ったのです。

マルコムは、受話器を置くと、一つ深く息をつきました。それと同時に、若い社員も電話を置き、悲しそうな顔をして、肩を落としました。マルコムは彼に呼びかけました。「そっちはどうだった、ヒュー」すると、ヒューと呼ばれた若い社員は、顔をゆがませてマルコムを振り向き、言いました。「めちゃくちゃです。なんでこんなことになるんですか。能無しのくそやろうって言われましたよ!」ヒューは涙で目がうるんでいました。マルコムは、眉を歪めて目を閉じ、額をもみながら、言いました。

「今やるべき最優先することは何だ? 本社のロバーツさんには一応連絡を入れておいた。能無しのくそやろうどころじゃないことを言われたが、打てる手は一応打っておいてくれるそうだ。さて、今おれたちにやれることは何だ?」マルコムは考えようとしました。しかし、彼の頭の中には、さっきの電話から聞こえた罵声ばかりが響いて、何も考えるこができませんでした。ヒューが責めるように言いました。「なんでボスは逃げなかったんです?ほかの役員も社員もみんな逃げましたよ。あんな社長のやってた会社なんて、なんでぼくらが責任もたなきゃいけないんだ。逃げて当然ですよ。ほんとに、なんでぼくも逃げなかったんだ」彼がそう言ったとたん、また電話が鳴りました。ヒューはあわててそれを取りました。耳を刺すような女性のどなり声が聞こえました。ヒューはただ、「申し訳ありません、申し訳ありません」と電話口に向かって繰り返していました。

事務室のすみで、落ち着いた対応をとっていたミセス・アトキンスは、電話を置くと、静かに立ち上がり、給湯室に入っていったと思うと、すぐにコーヒーを人数分持って出てきました。
「いや、ありがとう、アトキンスさん。コーヒーなら自分でいれるのに」マルコムが言うと、ミセス・アトキンスは答えました。「いいんですのよ。こんなときならなおさら。とにかく落ち着きましょう。焦ってもしょうがない。果たすべき責任は果たすのが、仕事というものですもの。わたしも、できることはやりますわ」
「ミセス・アトキンス」マルコムはコーヒーを受け取りながら、感銘を受けたように言いました。「他の社員は男も女も誰も来なかったのに、なぜあなたは来たんです?あなたには何の責任をとる必要もないのに」
「その言葉はそのままあなたにさしあげますわ。なぜ逃げませんでしたの?社長のやったことのしりぬぐいなんて、あなた、する必要はないじゃありませんか」
するとマルコムは、ゆがんだ笑いをしながら、言いました。「ほんとうに、なぜでしょうね。逃げてもよかったんだが、できなかった。ただそれだけだな」

そのとき、また電話が鳴りました。マルコムはコーヒーを机の上において、電話を取りました。大口の取引先からの電話でした。マルコムは、無意識のうちに背筋をぴんと伸ばし、まるで幻の王様に拝礼しているかのように、頭を下げながら、消え入りそうな声で電話の受け答えをしていました。

ミセス・アトキンスはそんなマルコムの様子を一瞥した後、鳴り始めた他の電話を取り、落ち着いた声で受け答えをしました。
「…ええ、わかっております。もちろんですわ。やれることはすべてやるつもりです。御希望通りにはいかないかもしれませんけれど、何とか、来月くらいまでには。はい?それではだめですか。では…」
三人の中では、一番、ミセス・アトキンスが落ち着いているようでした。マルコム・キルターは、この普段は目立たない女性の思わぬ強さに驚いていました。彼女の対応の仕方は、まるで平常と変わりがありませんでした。マルコムとヒューは顔を見合わせ、こういうときは、男の方がだらしないなというような、苦い笑いを交わしました。

苦情と催促の電話ばかりに受け答える一日は、あっという間に終わりました。終業時間になっても、三人は家に帰らず、事務室の椅子に座ったまま、ぼんやりとしていました。中で一番若いヒューが、茶色の髪をかきむしり、悔しげに泣き始めました。
「うそみたいだ、こんなこと!どうすりゃいいんです?払わなきゃいけない金が一文もない。みんな社長が持っていっちまった!あんな女ひとりのために!!」
「会社の資産を処分してなんとかするしかないだろう。アトキンスさん、確かありましたよね」
「ええ、土地が少し。将来自社の社屋を建てるために買っておいたものですわ。ほかにめぼしいものはありません。どうします?」
「ほんとに、どうする?とにかく、とにかく、何かを、やるしかない」マルコムは前髪をぐしゃりとつかみながら、自分に言いました。

ヒューは泣き声混じりに言いました。
「なんでぼくらがこんなことしなきゃいけないんだ!まるで地獄だ!なんでですか!ボスは、なんでこんなこと、やってるんですか!」
ヒューのわめく声に、マルコムは答えました。「落ち着け、おれは、こんなことを経験するのは、初めてじゃない。地獄なんてのはな、こんなものじゃないんだ。もっとひどい地獄はある。だがな、地獄を見て、泣きわめくばかりで何にもしないのは、馬鹿だ。本当に頭のいいやつはな、地獄の底をのたうちまわって、そこから獲物を取ってくる。大事なのは、どんな地獄に落ちても、自分の旗は決して捨てないということだ」
「旗?」ヒューが、呆れたように返しました。「なんですかそれ?金になるもんですか?」

マルコム・キルターは上を見上げ、深いため息を天井に向かって吐きました。ミセス・アトキンスが静かに立ち上がり、また給湯室に入って、コーヒーを持ってきました。二人は、礼を言いながらそれを受け取り、一口、それを飲みました。すると不思議に、胸に固まっていた氷のようなものが解け、マルコムもヒューも、幾分、落ち着きを取り戻しました。

マルコム・キルターは、この小さな会社で、部長という肩書はもらっていました。年は四十路半ばと言うところでしょう。ヒューは三十代に入ったところでした。マルコムは時計を見ながら言いました。
「そろそろ約束の時間だ。今から支社に行って、頭を下げてくる。ロバーツさんが手はずを整えてくれたんだ。恥ずかしい事情も何もかも話してくる。それしかないだろう。ぶっちゃけ、真実を言ってわかってもらうよりほかはない。土地を売って金ができるまで待ってもらえるかどうか、尋ねてみる」
「そんなことできるわけないじゃないですか!」ヒューが叫びました。
「だがほかに何の方法がある?やってみねばわからない。ひとすじでも希望があるのなら、おれはそれにすがってみる。行動を起こせば、反応はある。そこから何か始まるかもしれない。それがおれの信条だ」
マルコムはヒューの咎めるような視線に背を向け、椅子にかけていた上着を羽織りました。するとミセス・アトキンスが風のように彼のそばに寄ってきて、少しゆがんでいた彼のネクタイを直しました。
「や、ありがとう、アトキンスさん、何もかもやってくれて。お礼の言いようもないほどだ。助かります」
「いいえ、わたしも、キルターさんと同じ意見ですから。不動産会社につてを持っていますから、今からそこの知り合いに電話をかけますわ。なんとかしてみます。なんでも、やってみねばわかりません。それにしても、キルターさん、『旗』って、なんですの?」

ミセス・アトキンスが尋ねると、マルコム・キルターは、ふっと笑って、顔を崩しました。「男のプライドってもんですかね。お笑いになっても結構ですよ。今時、ギャグにもなりませんから。地獄なら、もっとひどいのをわたしは味わったことがある。だが、わたしは、自分の旗を下げることだけは、したくなかった。戦に負けても、旗だけは最後まで立ち上げる。それはこの、わたしの、旗ですから」マルコム・キルターは、自分の胸に手をあてながら、きっぱりと言いました。するとミセス・アトキンスは、唇を悲しげに歪めて微笑み、言いました。

「男の人の旗ですか。いいですわね。わたしも旗を持っていますわ。少し、色が違うかもしれませんけれど」

マルコム・キルターは、ミセス・アトキンスに微笑み返すと、風のように身を翻し、事務室の扉を開けて、出ていきました。その後ろ姿を見送ったヒューが、苦しそうに笑い泣きしながら、言いました。
「…自分の旗か。男の、プライドか。骨董品じゃないんだ!くっそう!」
ヒュー・ラムリーは、机をどんと叩きました。涙がぽたぽたと机の上に落ちました。「ちきしょう、地獄の底の、獲物か…!」
ヒュー・ラムリーは机の上に置いた拳を見つめながら、言いました。そのとき、また電話が鳴りました。ミセス・アトキンスがそれをとろうとしましたが、それよりすばやく、ヒューがその電話をとりました。

「…はい。ああ、今、出たところです。もう少しでつくと思うんですが。…ええ、わかっています。すべてはこちらの責任です。できることはすべてやります。便所掃除でもかって?…はは、おもしろいですね。ええ、やりますよ。それはきれいになめるように掃除します。…もちろん!」

ヒュー・ラムリーは、目に涙を流しながらも、落ち着いた声で受け答えました。こんちきしょう、馬鹿にしやがって!という彼の心の中の叫びが、ミセス・アトキンスには聞こえました。

ミセス・アトキンスは、冷めたコーヒーの器をトレイの上に集めると、給湯室の中に姿を消しました。そして、器を洗って片づけながら、ふと顔をあげ、目の前の白い壁を見つめました。その目が一瞬、金色に光りました。

「旗か。ふむ、なかなかおもしろいことをいう」と彼女は言いました。しかしそれは女性の声ではありませんでした。ふと、ミセス・アトキンスは小さなめまいを感じ、ゆらりと体が揺れたような気がしましたが、すぐに自分を取り戻しました。食器を片づけつつ、彼女は考えました。

(キャリーに電話をかけないと。今頃は家にいるわね。彼女に頼んだら、土地を何とかしてくれるかもしれない)ミセス・アトキンスは給湯室から出ると、さっそく電話をとり、番号を押しました。

そんな彼らの様子を、事務室の隅で、白髪の背の高い若い男がじっと見つめていました。ほう、と彼は言いながら、事務室を見まわしました。もちろん、白髪で長身の若者の姿など、他の人間には見えはしませんでした。見えたらそれはびっくりすることでしょう。

彼はさっきまで、ミセス・アトキンスの中にいて、様々なことを彼女といっしょにやっていたのですが、その用も一旦終わったので、彼女の体の中から出てきたのです。

白髪の男は、ミセス・アトキンスとヒュー・ラムリーの様子をしばしじっと見つめていました。二人は、終業時間を終えてもかかってくる電話に、必死に受け答えしていました。彼らの胸の中で、悲しみや恨みやかすかな希望など、様々な感情が複雑に渦巻いて、鳴き騒いでいるのが、白髪の男には聞こえました。
「人類よ…」彼は、若者の姿に似合わぬ低い男の声で、言いました。「さて、どこまでやれる。地獄には、まだ先がある。ここが底だと思うてはならぬ。どこまで、自分の旗を持っていられる」

白髪の男は、冷たい金色の目で彼らを観察し、興味深い情報をいくらか収集したあと、口の奥で何かをつぶやき、ふっとそこから姿を消しました。

そのころ、マルコム・キルターは、支社の駐車場に車を止めたところでした。彼は車のドアを開けて、外に出ると、どくどくと弾む胸をおさえつつ、自分を落ち着かせようと空を見上げました。紺色の空に白い月がかかっていました。その空を金の目をした聖者が飛んでいましたが、それに彼が気付くはずもありませんでした。

マルコムは、月に祈るように言いました。「おれは何でやっている?こんな、絶望的なことを。逃げてしまっても、誰も文句は言うまいを。なにがおれにそれをやらせる?わからない。が、やらずにいられない。これが、おれって、ものか!」マルコム・キルターはにじむ涙を目じりに感じながら、一歩を踏み出しました。彼の上着の裾が、風に旗のように翻りました。支社の明るいガラスの扉を開きながら、彼は叫ぶように言いました。

「グッド・イヴニング!」



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2012-05-04 07:32:15 | 月の世の物語・余編

「ふぃ、ゆみ、あを、とぅ、すぬ、るき、ひて、よに」と、若い上部人は言った。それは、上部言語における、いろは歌のようなものであった。上部言語の発音の最も基礎的な音を連ねた詩のことばである。意味は要約すると、こういうことになる。「はるか高空を飛ぶ翼ある白き神魚の群れよ。その清き舌を風のように揺らし、語ることは何か」

若い上部人は、上部言語の基礎と次元魔法の基礎を身につけ、ようやく入門者の段階を卒業したところであった。彼は、最初の指導者に深い感謝をし、別れを告げた。そして、上部言語における、基本的な詩句をいくつか暗唱しつつ、次の指導者を待っていたのである。

空は藍鼠色というのだろうか。月は菜の花のようであった。彼は鋼の大地の一隅に腰をおろしながら、しばし待った。すると、一陣の清い風が彼の髪をゆらした。彼は上部に上がる前、長い黒髪をした女性であったが、今、その長い黒髪の中の一筋が、青く変わろうとしていた。上部人たちは、段階を上がるたびに、微妙にその姿を変えて行く。それは彼が、ひとつ、段階を上がりかけていると言う、証拠であった。

風は、かすかな光を粉のように巻き込んで、彼の前に渦を巻き、いつしかその中に、一人の白い服を着た上部人が立っていた。彼は目も髪も銀色で、肌は雪のように白く、容よい唇に優しい慈愛の微笑みを描いていた。若い上部人はその美しい姿に目を見張って、しばし挨拶をするのも忘れたほどであった。「す、ほるみ、ゆぃ、き」と銀髪銀眼の上部人は言った。「わたしが次の指導者である。首府の取り決めによってあなたの元に来た。あなたはこれからしばらく、わたしとともに、わたしの仕事を手伝いながら、数々の言語や魔法を学び、経験をつんでいくことになった。まずはこれを見なさい」

指導者は右手を振り、虚空に一つの曼陀羅の図を出した。若い上部人は大きな正方形の中に円と正方形の窓を正確な位置にはめ込み、その中に無数の美しい仏たちを珠玉を連ねるように並べて、極彩色の色できめ細やかに塗りあげられた、見事な曼陀羅図を見上げた。指導者は、入門言語で、若い上部人にわかりやすく丁寧に言った。

「ほつ、る、しの、きぬ、りて、あひな」…これが仏教の一つの世界観の例である。仏教を篤く信仰する者は、実際にこういう世界があると信じている。だがそれは、真実ではない。悲しいことだが、仏教の現実は、過ちに満ちている。わたしの主な仕事のひとつは、この地球世界における仏教の過ちを、正しい方向へと導くべく、様々な行動をすることである。あなたは、わたしとともに、その仕事を行いつつ、学び深め、上部人としての経験をつんでいくことになった。

そう言うと、指導者は曼陀羅図を消した。若い上部人は、答えた。「ありて、る、ゆい、とき」…わたしもそれは存じております。釈尊の語られたことを、人々は曲解しています。それゆえに、仏教はあまりに難解になりすぎ、悟りと救済がはるかな高みへと登りすぎています。そして人々は、その悟りと救済が、実は幻であることを、まだ知りません。

指導者は微笑み、言った。「ふ、ほつ」…では、最初に問う。釈尊が、本当に語ったこととは、何であったのか。
若い上部人はすぐに答えた。「い、こみ、とえ、くるつ」…はい、孔子は、仁と言い、イエスが、愛と言ったことを、釈尊は、「よきもの」とおっしゃいました。それは、当時の言葉では、そうとしか、言えなかったからです。それを、今の仏教用語にて強いて言いかえれば、「我」というものになるでしょうか。

「い、ほに」指導者は言った。…よし、良い答えである。ではまた聞く。仏教の間違いは、何より生じたのか。
「いく、ろみ、のい、えむ、つる」…はい。それは、人々が、釈尊の言葉を理解できず、それよりも、釈尊の姿の美しさとその立派なことに驚き、釈尊のようになりたいと願い、釈尊の真似をし始めたからです。つまりは、彼らは、自分自身でいるよりも、釈尊その人になりたいと、願ったのです。それが間違いのもとでした。釈尊が言いたかったのは、ただ、自分が自分自身であるという真実が、真の幸福であるということでした。しかし当時の人々にそれは理解できず、ただ、自分よりも釈尊の方がいいと単純に思い、本当の自分を捨てて、釈尊その人になろうとした。それは、釈尊の真意とまったく逆のことでした。

「い、たりの、みよ、めに」…よし。そのとおり。釈尊の悲しみは、そこにある。釈尊は、人々に、愛である自分存在の幸福を教えたかったのだ。イエスのように、あるいは、孔子のように、愛を教えたかったのだ。だが、当時の人々にはそれは理解できなかった。ただわかったのは、釈尊という人の、美しさとすばらしさだけだったのだ。人々は、彼のようになりたかった。そして、釈尊の真似をして、様々に立派な言葉を書いて経文を著し、難しい修行を行った。そうすれば、釈尊のような立派な人になれると、信じて。だがそれこそが、根本的な間違いであることを、釈尊はどうしても、人々に教えることができなかった。釈尊は失意のまま、亡くなった。仏教におけるこの誤解は、今も、仏教の深部に染みつき、流れ流れ続けている。

指導者は言いながら、その瞳に青い悲哀を流した。ほう、と息をつき、しばし、苦悩に目を閉じて沈黙した。若い上部人はその顔を見上げ、その美しさに見とれ、一瞬ではあるが、それが釈迦如来の顔に似ていると感じ、慌ててそれを打ち消した。

「とみ、えも、る、ほゆ」指導者は目を開けて、若い上部人を見つめ、言った。…まずあなたが学ばねばならぬことは、ある技術である。地球上に仏の存在を信じている人が多くいるゆえに、我々は時に、仏に姿を変え、彼らの魂を導かねばならぬ。天使ならば若者にも仕事ができようが、如来や菩薩となると、我々でなければできぬのだ。

指導者は、一息の呪文を唱えた。すると、彼の白い姿が一瞬炎のように揺らめき、いつしかそこに、美しい聖観音の姿があった。若い上部人は驚いて息を飲んだ。白い衣をまとった聖観音は、真珠のような清らかな光を全身から放ちながらそこに立ち、透き通った黄水晶のような目にも眩しい光背を背負っていた。聖観音は、慈愛に満ちた目で若い上部人を見つめ、かすかに微笑んだ。若い上部人の胸に、喜びよりも、深い悲しみが生まれた。吐いたため息が、鋼の地面に落ち、白い霜がそこにへばりついた。聖観音は呪文をつぶやき、すぐに元の指導者の姿に戻った。そして若い上部人に、呪文の音韻を正確に教え、その術を実際におこなってみよと、言った。

若い上部人は、呪文を喉の奥で繰り返し、覚えた。そして、鋼の大地の上に立ち上がると、その呪文を、唱えてみた。ゆらりと、彼の姿が変わり、そこに、少し小さくはあるが、確かに、白衣をまとった聖観音の姿が現れた。聖観音は、少し足元をふらつかせた。その姿は、思った以上に、重かった。そして、悲しかった。冷たい虚無の風が頭の中を吹いた。観音の喉の奥で、鳥を裂くような悲哀の叫びが起こった。…たまらない!彼はすぐに元の姿に戻り、よろよろとその場にくずおれた。
指導者は、地に伏して震えている若い上部人の姿を、ただ静かに微笑んで見ていた。

「とり、つ、はぃ、かり、ほち」…わかったか。苦しかろう。だがやらねばならぬ。これが、できねばならぬ。あなたは、次にわたしが来る時まで、この術を繰り返し、練習しておきなさい。仏には、他にも、様々なものがある。馬頭観音、千手観音、弥勒菩薩、不動明王、釈迦如来、阿弥陀如来…。それぞれに姿が違い、役割が違い、呪文も違う。これをすべて覚えながら、地上で様々に活動してゆかねばならぬ。まだ、学びは始まったばかりだ。あなたは、やらねばならぬ。

「い、よにも、ほ、にの」…わかりました。やります。だが、なんということだ。こんなにも、仏とは、苦しいものなのか。仏に姿を変える。それだけで、なぜ、このように、わたしは重く、苦しく、寂しいのですか。

すると指導者は、深いため息をつき、本当に、仏のような悲しみの微笑みを浮かべ、言った。
「ねみ、ほり」…真実では、ないからだ。仏とは、みな、幻想の救いだからだ。

すると若い上部人は苦しそうに指導者を見上げ、しばし凍りついたようにその微笑みを見つめた。

やがて、指導者は若い上部人に別れを告げると、姿を消した。若い上部人は、鋼の大地の上に座り込み、課された重い課題を胸に抱えながら、その苦しみのために目を硬く閉じ、何度もため息を吐いた。だが、やらねばならぬ。やらねば、ならぬ。

彼は立ち上がり、もう一度、呪文を唱えた。聖観音の姿が、現れた。足元が少し揺らいだが、彼は全身の重みと、胸に現れるたまらぬ寂しさに耐えながら、何とかその姿と姿勢を保った。一息の風が吹き、観音の清らかにも白い衣の裾を、さらりと揺らした。真珠色の光が風に溶け、その冷たい寂寥の青みを、どこへともなく運んで行った。



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2012-05-03 08:05:48 | 月の世の物語・余編

「うわっと」竪琴弾きは、思わず、足元の石につまずき、倒れそうになりました。「おっと、いけない。これは嫌な予感がするぞ。今からこれでは、先が思いやられる」竪琴弾きは、ふらついた体を立て直しつつ、すぐそばにあった木の幹につかまって、ふうとため息をつきました。「…やれやれ、あと何分くらいかな。どうしてこう、ぼくの担当する人には、変わった人が多いのか。とにかく、これ以上深く落ちないように、準備はしておかないと」竪琴弾きは、少し困ったように眉を寄せて、空の月を見上げました。「今度こそ、まじめにやってくれると思ってたんだけどなあ…。どうして、女性ってのは…。いや、そんなことを言ってはいけない。とにかく、やるべきことをやらねば」

竪琴弾きは、暗い森の中を進み、一本の白い枯れ木が立っているところまで来ました。そしてそこで、竪琴をびんと鳴らし、一息旋律を奏でて、その枯れ木の周りに、蜘蛛の巣のような透明な網をはりました。小さな悲鳴が聞こえたのは、そのすぐ後でした。
「いやあ!」見ると、白い枯れ木のすぐそばに、それはきれいなひとりの女性が落ちてきて、竪琴弾きの張った網にひっかかって、もがいているのです。竪琴弾きは、ほっと息をついて、言いました。

「やあ、ひさしぶり。今度の人生は三十四年でしたね。あなたにしては、短い方だ」すると女性は、網にからみついた自分の金色の髪をひっぱりながら、いまいましそうに言いました。「なんでこんなとこに網があるのよ!迷惑だわ。早くなんとかしてよ!そこのひと、どうにかできないの!」すると竪琴弾きは、悲しそうに笑いつつ、言いました。
「まだわかってないんですか?あなたは死んだのですよ。交通事故で、一か月ほどこん睡状態に落ちていたんですが、とうとうさっき、死んでしまったんです。思い出してください。ぼくのこと、覚えてないですか」
すると、女性ははっと、目を見開いて、竪琴弾きの顔をまじまじと見つめ、「あ」と言いました。「思い出したわ。そう言えばあんた、いつもあたしにお説教ばかりする、あのいやなやつじゃないの」それを聞いた竪琴弾きは、思わずはっはっと笑い声をあげて、天を見上げました。どうして、ぼくの担当する人には、こう…。

「とにかく、この網を何とかしてちょうだい、わたしの金髪がからみついてとれないのよ。足もだわ。もう、いいかげんにしてよ。どうしたらいいの、これ」
「あまり動かないでください。よけいからみつきますから。しばらく、その姿勢のまま話しましょう。言っておきますが、その網がなければ、ちょっとあなたは困ったことになるんです。とにかく、落ち着いて」
竪琴弾きが言うと、女性は、ぎろりと目をむいて彼をにらみ、いかにも気に入らないという風に、フン、と鼻を鳴らしました。その女性は、ほぼ欠点はないと言っていいほどの、完璧な美貌の持ち主でした。金色の髪は波打ちながら長くたれ下がり、肌は象牙のように白く、瞳はサファイアのようでした。古代ギリシャの女神の像の中に、確かこんなのがあったなという感じの、それはきれいな女性だったのです。

「さてと」竪琴弾きは言いながら、竪琴を鳴らし、手元に書類を呼び寄せました。「…ええ、毎度のことですが、またあなたは、あの怪と取引しましたね。もうほとんど、馴染みといっていいくらいだ。生まれる前に、何度も念を押されたと思うんですが、怪と契約して、美しい女性に姿を変えてもらうのは、とんでもない愚かなことなんですよ。美人に生まれれば、なんでもうまくいくというものではないんです。その証拠に、あなたは三度も結婚に失敗してる。一度目は、たちのよくない男に騙されて、辛い目にあったでしょう」
「…ああ、あいつ?ほんとね。金持ちでいい男だと思ったら、とんでもないやつだったわ。景気の良いことばっかり言って、みんな嘘だったの。借金だらけよ。結婚したとたんに倒産。すぐに離婚したわ。あたしはきれいだから、男には不自由しないもの。もっといい男はほかにもいるし」
竪琴弾きはまた、はは、と笑いながら、横を向きました。どうしてこう…と自分に言いながら、また深いため息をつきました。

「あのですねえ。前のときにも、同じことを言いましたが、…本当に、困ったな。あなたはいつもそうやって、怪と契約して、美しい女性に変えてもらって、それで人生を得しようとして、失敗してるんですよ。なぜ、わからないのかな。いつもいつも、結局は、美人なのを鼻にかけて、結婚に失敗して、子供を不幸にしたあげく、最後にはみんなに見捨てられて孤独になって死んでいる。美しいからって、なんでも思い通りになるってわけじゃないんですよ。困ったな、もう」
竪琴弾きは言いましたが、女性は全く耳を貸していないようでした。自分の髪と足をもつれた網から取り出すのに熱中していたからです。髪の毛がひとふさ、網にちぎられてしまいましたが、ようやく、女性は、網から全身を解き放つことができて、安心してふうと息をつくと、それはそれは優雅に手足を伸ばして美しいポーズをとりながら、小首を傾げてつやをつくり、竪琴弾きを見つめました。竪琴弾きは、まいったなと言うような顔をして、顔を背けました。

「どう?今度のあたし、きれいでしょ。あの怪に良い仕事してもらったわ。前のときは、ちょっと足が太くて短かったのが、気に入らなかったの。その前は、目がちょっと丸すぎて、唇が薄すぎたわ。だけど、今度は足をすらりと長くしてもらったの。顔もスタイルも完璧。どこにもケチのつけようがないわ。みんなあたしを見て、驚いてたわ。あんな人がいるのねって。どう言ったらいいの?みんなうらやましくてしょうがないのね。あたしみたいにきれいになりたくても、なれないものねえ」

竪琴弾きはしばし何も言えず、うつむいていました。これはもうどうしたらいいのか、竪琴弾きにもわかりませんでした。何を言ってもむだなような気がしましたが、とにかく、言うべきことは、言わなければなりません。それが彼の仕事だからです。

「…あの、です、ね」竪琴弾きは、うつむいたまま、言いました。「確かに、美しいですが、その、つまり、ですね。それはね、すごく、おかしいですよ…。どう言ったら、いいのか。つまりですねえ。…ほぼ、欠点が、ないでしょ?まるで、型で押したみたいに、美人の定型から全く、外れていませんね。それね、それが、欠点なんですよ。つまりですね、とんでもない、馬鹿なんです。あのですねえ、きれいと、いうのはね、欠点があるから、きれいなんですよ。それ、わからないかなあ…」
竪琴弾きが苦しそうに言うことばに、女性は網の上で、目を歪め、またフンと鼻を鳴らしました。男が自分に色目を使って、お世辞の一つも言わないことが、気にいらなかったのです。女性は、面倒くさそうに網の上に寝そべりつつ、あーあと声をあげながら、長くてきれいな自分の足を伸ばして、しばしそれをうっとりと眺めました。

「…最近の、傾向ですね」竪琴弾きは言いながら、地面の上に腰を落とし、竪琴を鳴らしました。「人間はみな、本来の自分というものが苦しい。理想的な自分と言うものになりたがる。それは要するに、欠点のない完璧な自分と言うものです。完璧だから、だれにも文句は言われない。傷つくこともない。人間は、自分というものがつらいから、どうしても人を馬鹿にして傷つけあう。それがいやだから、誰にも文句を言われたくなくて、傷つきたくなくて、なんと言いますか、そんな風に、どこにも欠点がないような、ほんとに完璧な美人になりたがるんですね。でも、それは、本当は、愚かなことなんです。人は、人によって違いますから。美しさも、人によって違うんですよ。少し目が細かったり、鼻が丸かったり、口が大きかったり…、でもそれだからこそ、美しく見える、それが、美しいということなんです。つまりはね、その欠点があるからこそ、その人らしくて、美しい。それが美しさというもので。なんて言ったらいいのか、つまりは、全く欠点がないというのは、実はとても愚かな欠点なのです。なぜって、欠点がないなんて、あり得ないから。人はそれぞれ、違うのが当たり前だから…」

竪琴弾きは、言葉を慎重に選びながら、苦しそうに言いました。しかし女性は、彼の言うことなどには全く耳を貸さず、自慢の長い金髪を、うっとりと指でくしといていました。竪琴弾きはその様子を、悲しげに見ていました。竪琴弾きの目には、その美しい女性の、本来の姿が見えていたのです。その姿は、金髪に象牙の肌をした完璧に近い美女とはかけ離れた、小柄で、赤茶色の髪の、少し平べったい鼻をした、どこにでもいそうな平凡な女性でした。
しかし、竪琴弾きには、その本来の姿の方が、よほどかわいらしく思えました。けれども、この女性は、その本来の自分が、大嫌いなのです。だから、毎度のこと、いつも同じ怪と契約して、美人にしてもらって、なんとかそれで人生の幸福を得ようとして、いつも失敗しているのです。偽物の美は、長続きしませんから。年をとれば、若い時に優しさも思いやりも何も勉強してこなかった心が、表に現れてきて、かえって、普通の人より、醜くなってしまうものなのです。美女の黄昏とは、たいてい、そういうものでした。

結局は、年をとって醜くなっても、若くて美しかったときのプライドを捨てることができず、皆に辛く当ってしまい、人に嫌われて、見捨てられ、孤独に死んでしまう。そういう人生ばかりを、この女性は繰り返していました。竪琴弾きも、何度同じことを言ったかしれません。本来のあなたの方がよっぽど美しいと。けれども彼女は、決して改めはしませんでした。

「…まあ、とにかく、今度の人生は、早く終わった分、幸せというものですか」竪琴弾きはため息とともに言いました。そして、絶望的な目をして、竪琴の弦をなぞりました。竪琴は、かすかな吐息のような音をもらして、悲しみを表現しました。まったくどうしたらいいものだろう?竪琴弾きは考えましたが、悲しみばかりが頭の中に重い霧のように漂い、もう何を言う気にもなれませんでした。女性は、長い金髪を自慢そうになでながら、見下げるような目で、竪琴弾きをじろじろと見ました。それは彼を男として品定めしているかのような目でした。竪琴弾きはそれを感じて、一層悲しく思いました。これ以上どうしたらいいのかと思うと、うつむいたままため息も凍りつきました。

「ここ、ちょっと寒いわ。ほかにどこかにいいところはないの?家とか、店とか、劇場とか。…そう、思い出したわ。あたし、芝居を観にいく途中だったのよ、彼の車で。欲しいものは何でももらえるし、なんでもしてもらえるのよ、美人なら。ねえ、あなたも、どこかいいところに連れてってよ」女性は言いました。そして体を起こし、網の上から、降りようとしました。そのとき、竪琴弾きは、「あっ!」と声をあげました。

「いけません!今、網から下りては!!」
しかし、竪琴弾きがそう言ったときには、遅かったのです。女性が、網から下りて、地面に足を落としたとたん、その美しかった姿は霧のようにはぎ取られ、そこに赤茶けた髪の小さな女の姿が現れたかと思うと、彼女の足もとに黒い穴がぽっかりと空き、そのまま彼女はその穴に吸い込まれ、消えて行ったのです。竪琴弾きは、かすかに、女の無残な悲鳴を風の中に聞いたような気がしました。

「ああ、もう、ぎりぎりだったんですよ。先に言っておくべきだった。怪と契約しすぎたんです。ここで、あなたが悔い改めなかったら、もう、怪に全てを奪われ、落ちるところまで落ちるしかなかったんですよ…」

竪琴弾きは、彼女が消えていった黒い穴に向かって言いました。竪琴弾きには、彼女がどこまで落ちて行ったのかが見えませんでした。それは、男が、見てはいけないところだったからです。それを見たら、女性が、憐れすぎるからです。

「ほんとうのあなたの方が、よほど、愛らしくて、美しかったのに」竪琴弾きは、ほおに涙のすじをひきながら言いました。目の前で、黒い穴が、月の光が影を消すように、消えていきました。

あとは、彼女の落ちて行った地獄の管理人にまかすより、ほかはありません。竪琴弾きは、胸に重い鉛を感じながら、立ち上がりました。そして、竪琴の魔法で網を消し、そこから立ち去ろうと歩き始めました。

いつしか、雨が降り始めていました。ああ、お月さまが、ぼくの涙を隠してくれようとしているのだな。竪琴弾きは、月の愛に甘え、声を飲み込みつつも、手で顔を覆い、とめどもなく頬に涙を流しました。深い吐息が、胸の中の痛い鉛の中に、ことんと落ちました。



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2012-05-02 07:24:20 | 月の世の物語・余編

高い水晶の氷壁が、わたしの周りを囲んでいます。月はまるで白い菊の花のようです。そのせいか、空から落ちてくる月光には、不思議に清らかな香りがします。どこか、墓前に供える線香の香りにも似ています。空は、どういうのでしょう、灰緑色というのでしょうか。菊のような月を虚空に支えながら、空はただ黙して果てもなく広がっています。いやあるいは、あれは、どなたかが果てしない彼方にある天井に塗った色なのかも知れません。

わたしは、ある人生で、仏師をしていたことがありました。仏像を彫るのが仕事でした。生きていた頃は、それなりの腕を持ち、たくさんの観音菩薩や、釈迦如来や、薬師如来、虚空蔵菩薩や、弥勒菩薩などを、桜や桂の木を彫って、作っていたものでした。

わたしの名を申し上げましょう。わたしの名は今、「無に等しき者」と言います。無ではありませんが、「無に等しき者」と呼ばれます。それは要するに、存在はしていても、誰もわたしを存在しているものとして、相手にはしてくれないという意味です。どうしてこうなったのかは、言いたくありません。忘れたいからです。なぜなら、それを人に知られるのは、とても、恥ずかしいことだからです。

とにかくは今、わたしは白い石英の壁に周りを囲まれた、小さなくぼ地の中に、ただ一人でいます。どれだけの間、ここにいるのか、また、どれだけの間、ここにいなければならないのか、わかりません。ただ、永遠ということばは、難しい顔をして、私の胸の中に固まっています。わたしはそれを考えたくはありません。とにかく、今は、考えたくありません。

月光は、少し熱を持っていて、それに手を濡らして、水晶にあてると、水晶が少し溶けます。わたしはそうやって、水晶を少しずつ溶かし、昔得た技を使って、数々の仏像を作っています。それはたくさん作りました。十一面観音を作り、文殊菩薩を作り、普賢菩薩を作り、千手観音を作り、阿弥陀如来を作りました。千手観音の像などは、わたしもかなり、よいものにできたと自負しています。千本とはいきませんが、それに等しいと言っていいほどたくさんの手を、一つ一つ手を抜かず、丁寧に彫りあげました。観音は、目を伏せて、少し微笑んでいます。しかしその目は凍りついて動かず、決してわたしを、見ようとはしません。見ようによっては、わたしは菩薩にさげすまれているような気すらします。

わたしは、知っています。仏という存在は、本当は、この世界にはいないことを。神は存在しますが、仏は、いないのです。ただ、地上に、それを篤く信仰している人が多いため、時に聖なる方々が、仏の姿に変わり、その役目をはたしてくれることがある。そういうものが、仏なのです。
釈尊という方は、実際にいらしたそうですが、仏教は、釈尊の教えを、ほとんど正しくは伝えていないそうです。たくさんの仏教者が、それを是正するために地上に降り、様々な改革を、仏教の中に試みてみましたが、それはある程度の効果はあげているものの、根本的な解決にはいたらず、今も仏は、真実と虚偽の間のあるはずのない虚無の中で、永遠の寂寥の塊と化して、微笑みを凍らせて、悲しげに人々を見下ろしながら、ただ、救済を求める人々の願いを、風をよけるように耳からそらし、慈悲という、悲哀のため息ばかりを、無言のまま、人々に語りかけ続けているのです。

けれども、こうして、仏像を彫り続けていることは、今のわたしにとって、確かな救いとはなっています。彫りあげた仏像は、決してわたしを救ってはくれません。わかっているのです。でもわたしは、心のどこかで、救いを願いつつ、仏像を彫り続けています。何体も、何体も、月光に濡らした手で、水晶を溶かしては、慈悲深い仏を彫り続けているのです。観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王、金剛力士、四天王、八部衆、八大童子…。こうしていれば、いつかは、このわたしの、罪深い身にも、救いが訪れるでしょうか。それはいつのことでしょう。考えてみます。時はもう、長く長く過ぎてしまって、さて、あれはいつのことだったか。わたしが、恥ずべき惨い罪を犯し、それから永遠に逃げ去ろうとして、神をたばかろうとしたとき。わたしが、月の世の一隅の小さな松の木の暗い影に隠れて、何とか、永遠に自分の罪から逃げられないものかと考えていると、不意に、傍らの松が梢をゆらし、一筋の月光がわたしの頭に降りてきて、それは針のようにわたしを突き刺し、いっぺんにわたしの足もとが崩れて、わたしは大きな虚空の中に突き落とされ、灰緑色の中を、終わりもないかと思うほど長い間落ち続け、そしていつしか気付いたときにはこの、水晶の氷壁に囲まれたくぼ地に、ひとりたたずんでいたのでした。

もう一度申し上げます。わたしは、「無に等しき者」という名の者です。永遠に、いや、多分終わるときは、いずれはくることでしょうが、それは永遠と等しき長い年月を、わたしはその名を負って、この小さなくぼ地で、孤独に暮らしていなければなりません。誰にも、相手にされずに、誰にも、愛してはもらえずに。わたしにできることは、水晶で仏を掘ることと、時に仏に語りかけては、救いを願うことと、時々、永遠について、考えてもしょうがないことを、ぐだぐだと考えては、神や、わたしのほかの人たちを責め、自分の今の境遇を、自分に愚痴ることだけです。

…ええ、そうおっしゃるでしょうとも。わたしは、逃げているのです。いつまでも。自分の罪から。おっしゃってもかまいません。わかっていますから。わたしは逃げています。いつまでも、いつまでも、自分のしたことから。だからこうして、永遠に孤独でいなければならない。誰と話しているかと? ほ、それはわたし自身。わたしは、わたしとばかり話している。問うのも、答えるのも、わたし自身。ほかには誰も答えてはくれない。

神は、わたしを見捨てたのでしょうか。そうかもしれません。そうなってもおかしくはないことを、たしかにやりました。神は、お見捨てになったかもしれない、わたしを。ですが、仏は、わたしを、救ってくれるかもしれない。仏は、存在しません。知っています。仏は、地上で信仰している人のために、聖なる方々が、その役割を、地上の人たちのために荷ってくれているもの、そういうものであり、救済者でも神でもないのです。仏にできることは、救うことではなく、かろうじて、人々の犯している間違いを、何とか正しい方向へと導こうとすることだけなのです。ああ、それも、本当に、徒労に等しき仕事を、仏は、長い長い間、やり続けていらっしゃいます。人々が、仏に求めている救いは、ないのです。なぜなら、仏に救いを求めることは、間違いだからです。けれども、わたしは、救いを求めることをやめることができません。こうして、仏像を彫り続けていれば、いつかは、どなたかが、わたしを救い、浄土への道へと、手を差し伸べて連れていってくれるかも、知れません。それだけが、今のわたしの、一縷の望みなのです。

わたしは今、一体の弥勒菩薩を彫っています。記憶の中にある、優しげな微笑みをし、目を伏せて、唇に指を寄せ、何か不思議な考え事をしている、弥勒菩薩半跏思惟像です。弥勒は、五十六億七千万年後に、人々をどうやって救えばいいか、ずっと考えていらっしゃるそうです。どんなことを考えていらっしゃるでしょう。それはきっと、すばらしい方法であるに違いない。奇跡のような出来事であるに違いない。まるで魔法のように、人々が浄土に次々と呼びだされ、幸福の花園の夢の中で、永遠の極楽の眠りにつくことができる。もはや孤独も寂寥も苦悩も苦痛もない。あらゆる愚かな迷いから解き放たれ、ただ永遠の楽土において、わたしはただ、幸福にそこにいればいいだけで、もう何もしなくていいのだ…。

何も、しなくて、よい。それが、無の境地というものでしょうか。はたして、それは、存在していると言うことでしょうか。救いとは、無に帰するということでしょうか。それなのなら、「無に等しき者」というわたしは、もはや救われているのでしょうか? わかりません。仏の教えは、難しい。釈尊はそんなにも難解なことを、人間に教えたのでしょうか。 とても常人には理解できないことを、釈尊は御存じだったのでしょうか。それは、わたしたちがたどりつくことなどできない、はるかなはるかな、高みの、境地なのでしょうか。それならば、人々が救われることなど、ほとんど不可能ではありませんか。どうすればいいのでしょう。

仏は、わたしを、救ってくれるでしょうか。わたしは、製作中の弥勒に問いかけます。水晶の弥勒は、ほぼ出来上がっており、あとは、唇に寄せる、優雅な指先を彫り上げるだけになっています。微笑みはかすかで、瞳は優しげに伏せ、その奥に、慈愛の気配があるような気がします。語りかければ、答えてくれるような気もします。

弥勒さま。わたしを、救ってくださいますか。永遠の極楽浄土へ、連れていってくださいますか。わたしは、弥勒菩薩に、尋ねます。しかし、弥勒は、答えてはくれません。わたしは、月光に手をぬらし、指先を微妙に動かしては、水晶を溶かして、弥勒のやさしい指先を作っていきます。あとは、小さく細い、小指を、作り上げるだけ。春先のつくしが、小首を傾げたような、細い小指を、わたしは作ります。…ああ、ほら、できました。弥勒は唇に、指先を寄せ、静かに微笑みつつ、考えていらっしゃいます。

さて、どのようにして、穢土にいる人々を救おう。どのようにして、この仏師を、救おう。

わたしは、しばし、自分の技の見事さに、自分で感心しつつ、弥勒菩薩を見つめました。これほど見事な仏を作ったのは、はじめてです。せんないことでも、やっていれば、腕は磨かれてくるものだ。わたしの技も、知らないうちに、だいぶ、上がってきているようだ。弥勒菩薩は、本当に美しく、透き通って、私の前で静かに微笑んでいます。わたしの方を見ようとはしませんが、ただ目を伏せて、考えていらっしゃいます。どのようにして、おまえを救おうか。どのようにして…。

わたしは、思わず、その姿の前に手を合わせ祈りました。どうか、お助けを、お救いを。罪深く、孤独の地獄に永遠に潜んでいなければならぬこの身を、どうか救ってください。

そのときでした。菊色の月光が、一筋、濃く、弥勒菩薩に降り注いだかと思うと、弥勒菩薩が、ゆらりと動き、ふと、まなざしをあげて、わたしを見たのです。わたしは驚いて、あっと声をあげ、思わずそこに尻もちをつきました。弥勒は、しばしわたしを見つめたあと、半跏思惟の姿勢をとき、ゆっくりと立ち上がりました。そして音もなく、わたしに背を向けると、そのままあっちの方へ歩いて行ってしまわれようとするのです。いつしか、弥勒の前には、水晶の氷壁が消え、一筋の白い月光に照らされた長い道があり、弥勒はその道を、まっすぐに進み始めているのです。

わたしは、叫びました。
「待って下さい!わたしを、浄土につれていってください!わたしを、救ってください!」
すると、弥勒は、ふと立ち止まりました。その背中を、一息、静かな風がよぎりました。わたしは、凍りついたまま、そこに座っていました。立ち上がって、弥勒を追おうとしても、まるで何かに縛られているかのように、体がどうしても動かないのです。弥勒はやがて、ゆっくりとふりむき、わたしの顔を冷たく青い透き通った目で見下ろしました。その、前には唇に寄せられていた優雅な指先には、いつしか、薄紅色の薔薇が一枝、にぎられていました。そして弥勒は、静かな声で、わたしに言うのでした。

「わたしはもう、考えるのをやめた。わたしは、わたし自身を救うために、行く。おまえはいつまで、そこで、考えてばかりいるのだ」

そう言うと、弥勒はまたわたしに背を向け、眼前に続く、まっすぐな白い道を静かに歩いて去っていくのです。わたしはその後に追いすがろうと思いました。しかし、私の体は石のように重く、ただにじるように、ほんの少し前に、膝を動かすことしか、できませんでした。弥勒の姿はだんだんと遠ざかり、見えなくなり、やがて白い道も消え、永遠の水晶の氷壁が目の前に戻ってきました。

弥勒は、行ってしまいました。

わたしはまた、ひとり、残されました。

ああ、永遠とは、どれだけの月日でしょう。わたしは、どれだけの間、何も考えず、風の中に、過ごしていたでしょう。弥勒がいた。それはわかっていましたが、もう、考えたくはありませんでした。わたしは再び、月光に手を濡らしました。そうだ、今度は聖観音を作ろう。慈愛に満ちた新しい観音菩薩を彫ろう。観音経には、観音を信じさえすれば、観音様は自由自在に変化して全ての者のところを訪れ、全てのものを救うと書いてあるそうです。それが本当なら、わたしも、救ってくれるはずだ。「無に等しき者」というわたしのこの身も、今度こそ、救ってくれる、はずだ。

わたしは、水晶の塊に、月光に濡れた手でふれ、まずはほんのひとすじ、水晶の塊に、小さなくぼみを入れました。



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2012-05-01 12:38:53 | 月の世の物語・余編

水色の上下の服を着た少年が、地上をきょろきょろと見まわしながら、風に乗って月の世の空を飛んでいました。空は薄墨色で、月はまるまったひよこのようでした。少年の髪も金色で、どこかその月の色に似ていました。

「さて、困ったぞ、どこまで迷い込んでしまったんだろう。いったんここに来ると、探すのはたいへんだからなあ」少年は風の中に立ち止まって、腕を組んで少し考えました。「とにかく、あてもなく探し回ってもしょうがない。お役所に行って相談して来よう」そう言うと少年は、月を目指して飛び始めました。

お役所に行くと、月の役人はもう少年の相談事を知っていました。日照界のお役所から連絡があったからです。たまにあることなのですが、日照界にいくはずの人間が、なぜかしら月の世に魅かれて、勝手に月の世に来て迷い込んでしまうのです。水色の服を着た日照界の少年は、その迷い込んでしまった人間を探しに、月の世に来たのでした。

「吟遊詩人だったそうだね。その人は」と、黄色い服を着た月の役人が言いました。「ええ、琴を弾きながら各地を旅して、歌を歌って、働いている人からものをもらって生きてました。彼はとてもうまい歌い手だったんで、若いころはなんとかなってたんですけど、年取ってからはもう誰も相手にしなくなって、馬鹿にされて、いじめられて、結局は飢えて野垂れ死にしたんです。でも、心根は良い人で、人を恨んで意地悪なことはしなかったものですから、日照界にきたんですけど…」
少年は本当に困ったような顔をして、頭をかきました。月の役人は書類を読みながら首を傾け、少し考えたあと、言いました。
「月の世は広いからね、探すのは大変だ。吟遊詩人と言えば、それに詳しそうな人がいるから、彼に助けてもらおう」

そこで早速、ひとりの竪琴弾きが、お役所に呼ばれてきました。彼は日照界の少年を連れて、月の世の空を飛びながら、言いました。
「まあ、吟遊詩人といえば、ぼくも似たようなことをしているので、そんな人が行きそうなところは、いくつか知っていますよ。歌がうまい人には、胸の中の愛の泉がかなり深くなっている人が多いもので。だから、月の世のやさしい、美しいものに魅かれて、そこにひきこまれてしまうものです」
「へえ、そうなんですか」
「月は美しいですからね。地獄があっても、いやあるからこそ、その美しいものは本当に美しい。人が心ひかれるような美しいところはたくさんあります。たとえば、石の砂丘など」
「あ、そこならもう探しましたよ。あそこは日照界でも知らない人はいませんから。でもそこにはいなかった。…どこにいるのかなあ。ほんとうに、困ったな」

眼下に、珠玉のような小さな青い池が見えてきたので、竪琴弾きは、いったん休もうと、少年を連れて、その池のほとりに降り立ちました。そして少年と並んでそこに座ると、竪琴の弦をびんと鳴らして、書類を手の中に呼び出しました。竪琴弾きはしばし、それを読み込んで、ため息をつき、悲しげに笑って隣の少年を見て、言いました。

「やあ、これはいい人だな。彼は一度、小さな島の族長だったことがあるんですね」
「ええ、そうです。北の方の小さな島で。みんな鹿を狩って暮らしてた。彼はいい長でしてね、先祖の知恵を守って、みんなのためにそれはいいことをしてくれた。部族の人をそれは愛していて、立派に部族をまとめてくれてた。おかげで、部族は平和で、豊かとはいかなくても、それほど飢えもせず、みんな幸せに暮らしてた。ほんとにいい人なんです。人間には、こんないい人もたくさんいるんだ。だけど、次の人生で、彼は族長じゃなくて、貧しいお百姓の家に生まれたものですから、今度は、昔彼が愛して導いていた島の人みんなに、かえって馬鹿にされたんです。働いても、不器用なものですから、役立たずと言われて家を追い出されて、仕方なく琴を弾きながら歌って、門づけなどしながら生きていたんです…」
すると手元から書類を消しながら、竪琴弾きが言いました。
「ルサンチマンというやつですかね。もしかすると」
「難しいことば、知ってますね。使い方があってるかどうか知らないけど」
「おもしろいことばは使ってみたくなるものなんですよ。意味はとにかく、響きはいいじゃないですか。なにか歌になりそうだ」
「吟遊詩人と言う人には、変わった人が多いな」
少年は少しため息をつき、ひざにひじをついて、ひよこ色の月を見上げました。

竪琴弾きは、竪琴を膝にかかえ、一息不思議な旋律を奏でました。少年は竪琴弾きの傍らに座り、しばし竪琴弾きの魔法を見ていました。竪琴弾きの奏でる音楽に、ひよこ色の月に染まった風が糸のようにひきこまれてきて、そっと何かをささやいていきました。すると、竪琴弾きは、ああ、と言って、竪琴を弾くのをやめました。

「どうやらわかりましたよ。彼の行ったところ」「え、ほんとですか?そんなに早く?」「ええ、竪琴というのは、けっこう便利な魔法の道具でしてね、時々、ちょっと普通の魔法ではわからない不思議なものと響き合うことができるんです。さあ行きましょう、彼はある小さな島にいますよ」

そう言うとふたりは、ふわりと空に飛び上がりました。竪琴弾きは、静かな海の上に浮かぶ小さな森の島に、少年を連れていきました。森の真ん中ほどに、穴があいたような小さな緑の庭があり、そこには、ガラスのように透き通った野薔薇が、ところどころに咲いていました。少年が探していた人は、その庭の隅に膝を抱えて座り込み、じっと一輪の野薔薇を見つめていました。

「ああ、やっと見つけた!」少年が大喜びで庭に降りてきて、その人に声をかけました。でもその人は返事もせず、ただ野薔薇ばかりを見つめ続けていました。竪琴弾きが続いて降りてきました。そして、竪琴で一つ音を鳴らしました。すると野薔薇がそれに響いて、しゃらんと音を鳴らして歌いました。すると、吟遊詩人は一瞬目を見開いて顔をあげ、ぼんやりと竪琴弾きと少年の顔を見つめました。その目は、悲哀に静かに凍って、二人を見ても何をいうでもなく、まるで死んでいるように固まっていました。すぐに彼は、野薔薇の方に目を落として、ただ何も言わずにじっと野薔薇ばかり見つめました。

「吟遊詩人さん、あなたは日照界の人なんです。帰りましょう。あっちで、勉強しなければいけないことがたくさんあるんです」少年は、吟遊詩人に語りかけましたが、彼は返事もせず、野薔薇ばかり見ていました。竪琴弾きが、ふと何かを感じて、少し訴えるような顔をして、月を見上げました。薄墨色の空の、ひよこ色の月が、静かなため息をついたような気がしました。竪琴弾きは、何かさみしげな予感が胸をよぎって、言いました。

「…ここはね、昔、ひどい地獄だったんですよ。いつのころだったか、みんなで、自分たちの王様を殺してしまった国の人が、その罪を償うために、長いこと、この島で重い鉛の石を背負いながら、石や岩や臭い泥だらけの畑を耕していたんです。別に王様が、悪いことをしたわけではなかったからなんです。国の人々は、大方は貧乏だったけれど、食後のお茶も飲めないほどじゃなかった。でもやっぱり暮らしの中の不満と言うものは出てくるもので、ある日みんながそれを一斉に王様にぶつけて、悪いことはみんな王様ひとりのせいにして、殺してしまったんです。そして国はどうなったかというと、王様が死んでから、だあれも後の責任はとらなくて、みんな国を見捨てて逃げていった。国は滅んでしまって、そして今も、その国の人々は、定住する土地を与えられず、地球上をあちこちとさまよっているそうです。…あの頃のここの月は、暗い鉛色をしていたな。罪びとたちは今は、深く反省して、悔い改めたものですから、次の段階にいっているんですけれど…、やはり彼らの残した汚れは残るものですから、こうして森ができて、花が咲いて、ずっとそれを清めているんです」
「…ああ、なるほど、彼がここにきてしまったのは、そういうわけなんですね」
「まあ、何かに、不思議に導かれて、来てしまったんでしょうね」

竪琴弾きと少年は、しばらく黙って、悲しそうに、吟遊詩人を見ていました。やがて、竪琴弾きは少し呪文をとなえ、指で月光をひとひら捕まえて、それで琴の弦をなでると、びん、と清らかな音を鳴らしました。吟遊詩人は何も言わず、ただ野薔薇を見ていました。竪琴弾きは吟遊詩人に近づくと、そっとその耳に口を近づけ、琴を鳴らしながら、小さな声で歌を歌いました。

「秘密を、教えて、あげましょう。
それはね、野薔薇にみえるけれど、
ほんとうは、百合の花なんですよ。
なぜなら薔薇は、嘘つきが大嫌いだから、
嘘がしみついた、この土には咲けないのです。
ですから、百合が、薔薇に変身して、
薔薇のかわりに、薔薇の歌を歌っている。
百合はやさしく、嘘を許してくれるから。
けれども、気をつけなさい。
百合はあまりにも、やさしくて、
君の胸の願いを、ほんとうにかなえてしまう。
決して願ってはいけない願いでも、かなえてしまう…」

その歌は、吟遊詩人の胸の中にも流れていって、彼の胸の痛い孤独の傷に響いたようでした。人々を愛しても、報われなかったさみしさを抱いて、不思議に昔の故郷に似ているこの島に、彼は何かに引き込まれるように、来てしまったのでしょう。一筋、吟遊詩人のほおに涙が流れました。

少年が、あっと声を飲んで、目を見開きました。月の光が一筋、吟遊詩人を照らしたかと思うと、百合が化けた野薔薇の花が、しゃらんと揺れて、とうとう、魔法を起こしてしまいました。
気がついた時には、そこにはもう吟遊詩人の姿はなく、一羽の白いオウムがぼんやりと野薔薇の下に座っていました。オウムは白い絹のような翼をしていて、小さな目とくちばしは黒瑪瑙のように澄んでつやめいていました。

「ああ、とうとう、願いがかなってしまった」竪琴弾きが、天を見上げました。そして悲しそうに目を細め、深いため息をつくと、オウムを見つめて言いました。「あなたはもう、人間ではいたくなかったんですね…」

それを聞いた少年が、たまらないと言うようにうっと喉をつまらせ、ぽろぽろと涙を流し始めました。白いオウムのために、何かやさしいことを言おうとしたけれど、何を言ったらいいのかわからず、結局は何も言うことができなくて、ただ口を噛んで泣いていました。

少年は、やがて、白いオウムのことを竪琴弾きにまかせて、日照界に帰っていきました。オウムが、このまま月の世にいたいと言ったからです。一羽のオウムは、月のお役所につれていかれ、しばし色々と検討されたのち、ある魔法学者のもとにひきとられ、その家でともに暮らし、ともに旅をすることになりました。

オウムは今も時々、自分が人間だったときのことを、思い出すことがあります。愛しても、心が届かなかった。それだけで、人間でいることをやめてしまったことを、今は少し、悔いています。あのまま、人間でいて、もっとみんなのために働いていたら、もっといいことになったかもしれない。けれども。

椅子に座って、難しい文字の書いてある書物に読みふける老人の傍らで、オウムは時々、昔人間だったころに、よく歌っていた愛の歌を歌うことがあります。

老人はそれを聞くと、オウムを振りかえり、ただ、静かにも温かなまなざしで、ひととき、彼の愛に答えてくれるのでした。




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余編・序幕

2012-05-01 07:29:13 | 月の世の物語・余編

やあ、みなさん、どうも、おひさしぶり。竪琴弾きです。

月の世の物語・余編、いよいよ、始まることになりました。どうもこのお話は、はてしないようで、いつ終わるかわからないということで、作者もはっきりとは終止符は打たないつもりで、序幕から始めるようです。

この余編は、本章、別章、上部編と、ずいぶん趣が違います。そこはどうやら、作者の詩人気質が、どうも存分にやりたいことをやりたかったらしい。ぼくとしては、少々やりすぎではないかと思うところもあるのですが、そこは、作中人物の悲しいところ、作者に文句を言うことはできません。

余編では、ぼくは、相当に苦労させられます。どうも、作者に気に入られてしまったようで。あまり大変なことはやらせないでくださいよと、言いたいところだが。まあ、仕方ありません。作者も、ぼくにはできないことは、やらせませんし。そこは十分にぼくのことをわかってくれる。まあ、生み親としては、文句をつけることは、あまりないかな。

注意してほしいことがあるのですが、この余編、作者はところどころ、火薬をしかけてあるそうです。それが、読む人によっては、大きな爆音を響かせて破裂することもあるそうです。ですから、心臓に持病などをお持ちの方は、傍らに常備薬を離さずにお読みくださいとの、作者からの伝言です。

それでは、ここらへんで、お昼ごろにもう一度、お会いできます。
明日からは、一日に一度、更新するそうです。

どうか存分に、お楽しみくださいませ。




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