球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

ノーカット曲紹介(運命編)

2012-03-30 | オケと音楽
これから以下の文を1600字程度に圧縮します。
プローストの曲紹介。結構削ってこれ。
折角なので今回は創作メモを晒してみようと思う。別記事に続く。

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 僕もこれまで何回か各オーケストラで曲紹介を書いてきましたが、ベートーヴェンの”運命”、書くのは独特の難しさがあります。具体的には、これまで多くの研究者に研究し尽くされ、研究の仕方も曲のアナリーゼどころか作曲時のベートーヴェンの私生活に踏み込み勘繰り半分に論じているものも多く、資料毎に解釈に矛盾があることも珍しくないためです。主観混じりの評論が世に溢れており、どの解説が客観的に正しそうか判断がつかないということです。本紹介でも、それを前提にしつつ作曲された背景、歴史、構造説明、聴いた印象を視覚化する作業等の視点からそれぞれの楽章に合ったアプローチで説明を試みました。

1楽章 Allegro con brio ハ短調 2/4拍子
#冒頭の4音を表現するために適切なカタカナは何なのか#
 もはや誰でも知っている例の”ジャジャジャジャーン”という重厚なフレーズ(ジャジャジャジャーンという文字列は軽薄ですが)、さらにそのフレーズに対する説明として”斯く運命が戸をたたく”というベートーヴェンの残したコメント。いかにも緊張感の漲った懊悩の音楽といった具合の事前知識を持ちながら読者の皆様も曲に接するかと思われます。
 しかし、(後述しますが)4楽章の”歓喜”の対立としての”苦悩”は、曲の構成から言えば1楽章と言うよりは3楽章の役目です。このことは3楽章→4楽章の接続がattaca(休止なし)であることなど、り、構成の観点だけでもほぼ間違いないシンプルな解釈といえます。
 となれば、この1楽章の位置付けは何なのか。なんでしょう。僕はこんな解釈をします。1楽章は割と”苦悩(から歓喜)”との関係は薄いのだと。かのベートーヴェンの言明は、弟子も聞かないと何の意味かわからなかった”ということです。ベートーヴェン自身の苦悩であったかもしれませんが、鬱憤や怒りやら、一般的な苦悩を表すにはいささか彩度の高い、はっきりとした喜怒哀楽で構成されているように感じます。僕は1楽章と2楽章は私小説のような個人的なことを、3楽章と4楽章はもう少し一般的なものを描写しているように感じています。この交響曲で演劇を作るなら、1楽章と2楽章は登場人物が1人で良いので経済的です。
 さて、音符から少しだけ曲の特徴をお話しますが、この1楽章、冒頭のジャジャジャジャーン含め3つの同じ音+4つ目の離れた音という組み合わせが何度も何度も出てきます。横長のL字ブロックを何個も何個も乗り継いでゴールへ走り抜けていくようです。頭の中で様々に反響した独り言を束ねて音楽にしたみたい。このL字ブロックのことを動機(モチーフ)といいますが、これを有機的に構成し一つの曲まで昇華しているベートーヴェンの技。”運命”の中でもその構成において評価の高い楽章です。

2楽章 Andante con moto 変イ長調 3/8拍子 #静かで平和で孤独な日曜日#
 は、一転、”運命”とか”苦悩”とか”歓喜”という言葉にこじつけるのが難しい楽章です。喜怒哀楽の色淡く、穏やかなのにどこか寂しい印象を持ちます。曲の構成から説明すると、本楽章は変奏曲の要素が入ります。チェロパートで言うと冒頭に1回、付点8分+16分のリズムを中心とした伸びやかな歌。2回目は8分音符で、多少着飾ったような、或は夢から覚めて意識上で夢での歌を思い出しながら歩くような歌。3回目には16分音符で個人の思いを終わらないモノローグとしてぶつける。さらに高尚な気持ちになって先程のモノローグをダイアローグの1ピースとして歌い上げます。なおこの部分は、旋律よりも和声部のドラマチックさに耳を傾けるべき場所のようは思いますが…
 僕はこれらの変奏は全て(他に登場人物もいない)男が誰にも聴かれないのもいいことにひとり言を言っているのだと考えています。個人的な解釈としては、晴れた穏やかな日曜、椅子に座って家の窓から道行く女性を眺め、じろじろ眺めているくせに視線が合ってしまうとうろたえてしまうような、そしてそれを取り繕うとまた窓から女性を観察し、たまには花に水をやるような音楽です。多分誰とも会話をしていません。
皆さんは、どう聴こえますか?

 さて、3楽章と4楽章は対になっている楽章で、私のような音楽分析に関して造詣もないような素人でも”苦悩から歓喜”という説明がしやすい構成となっています。
※文字数も残されていませんので、その部分の説明しかできなそうです。
3楽章 Allegro. Attacca ハ短調 3/4拍子 複合三部形式
 スケルツォ - トリオ - スケルツォ - コーダという構成をとり、ストーリーも明確です。冒頭、闇からの咆哮とでも言うべきデモーニッシュ(dämonisch:悪魔的)な主題が低弦により提示されます。この表現はどこかの本で使われていた言葉ですが、あまりにマッチした表現で、そのまま替える気が起こらないくらいです。続いて何処か悲壮感のある足音がHrから提示されます。Trioでは低弦が力強い足取りを見せ、このまま歩いていくことで光が見える可能性を示唆するものの、また冒頭の闇(スケルツォ)に回帰してしまいます。そしてコーダ、長く暗いトンネルを潜り進むようなイメージを抜け、次第に光が見え、その眩しさはやがて太陽と見紛うほどに…
attaca(終止なし)で4楽章に突入します。

4楽章 Allegro. Presto ハ長調 4/4拍子
 4楽章からpic,Trbが入って俄然華やかになります。当時はこれらの楽器はオーケストラ用の楽器としては使用されていなかったため、実は大変斬新な試みです。2、3楽章は視覚的表現への置き換えをベースに紹介を行ってきましたが、4楽章は太陽神アポロンが天馬を駆り自分の後ろを焼け野原にしながら道を切り開いていくような力強さ。他にはあまり書くことがありません。

 さて、苦悩から歓喜。表現活動にはこういう対立概念コントラストが不可欠。対、光と影、コントラスト、スポットライトと伸びる影。 僕は作曲の経験は特にありませんが、三部形式とソナタ形式がドラマティックな曲を作る技として使えるんだ、なんてちょっとした知識片手に帰ってもらっても良いのかもしれません。上げて落としたり、落として上げたりできるということです。
 今ではカラオケでAメロ、Bメロ、サビなんて言葉があり、きっと似たような話のはずと思います。


コメント
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