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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

劫(石を天人が袖で撫でる)

2014年08月10日 | 日本古典文学-人事

嘉祥二年三月庚辰(二十六日)
興福寺大法師らが、天皇が四十歳になったのを祝賀して、観音菩薩像四十体を作り、『金剛寿命陀羅尼経』四十巻を写し、四万八千巻を転読した。さらに天女が、充満している芥子粒を一粒ずつ拾い、拾い尽くすほどの時間であっても、天皇の長寿に及ばず、磐石を天衣(羽衣)で払ってなくなるほどの時間が経過しても天皇の長寿に届かないので、芥子粒を拾い、磐石を払うのを止め、翻って不老長寿の仙薬を提げて天皇の側に来て祗候する像、および浦島子(浦島太郎)がしばし天の川に昇り長生する様子と離(はる)か天上へ通う吉野の神女が天から下りて天へ去る様子を像にし、これに次の長歌を副えて献上した。
 日本(ひのもと)の やまとの国を かみろぎの 宿那毘古那(すくなひこな)が 葦菅(あしすげ)を 殖生(うゑおふ)しつつ 国固め 造りけむより 沖つ波 起つ毎年(としのは)に 春は有れど 今年の春は 毎物(ものごと)に 滋(しげ)り栄えて (中略) 八十里(やそさと)なす 城(き)に芥子拾ふ 天人(あまつをとめ)は ただむきて 拾はずなりぬ 八百里(やほさと)なせる 磐根(いはのね)に ひれ衣(ころも) 裾垂れ飛ばし 払ふ人 払はず成りて 皇(おほきみ)の 護(まも)りの法(のり)の 薬(みくすり)を ■(敬+手)(ささ)げ持ち 来り候(さぶら)ふ (後略)
(続日本後紀~講談社学術文庫)

題しらす よみ人しらす
君か代はあまのはころもまれにきてなつともつきぬいはほならなん
(拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

君が代は、天の羽衣稀に来て、撫づとも尽きぬ巌ぞと、聞くも妙なり(謡曲「羽衣」)
万代と限らじものを、天衣(あまごろも)、撫づとも尽きぬ、厳ならなん。(謡曲「采女」)
君が代は、天の羽衣稀に来て、撫づとも尽きぬ厳ならなむ(謡曲「呉服」)

賀の屏風に もとすけ
うこきなきいはほのはても君そみむおとめの袖のなてつくすまて
(拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

媒子内親王家の歌合におなし(祝)心を よみ人しらす
君か世に天つ乙女の行かよひなつる岩ほのうこきなきかな
(続後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

礒巌 下野
君か代は磯辺の岩ほうこきなくあまのは袖やまれになつらん
(宝治百首~日文研HPより)

きみかよのときはのいしはあまくたるをとめのそてもいかかなつらむ
(夫木抄~日文研HPより)

花園左大臣家小大進
よそねしてこけむすいはほきみかよにちたひそなてむあまのはころも
(久安百首~日文研HPより)

きみかよにあまのはころもおりきつついくつのいしをなてつくすらむ
(実国家歌合~日文研HPより)

みとせへてあまのはころもきてなつるいはほやつきむきみかよよりは
(或所歌合~日文研HPより)

きみかよははまのまさこのいはとなりてみななてつくさむあまのはころも
(正治初度百首~日文研HPより)

衣にてなづれどつきぬ石の上に万代をへよたきのしらいと
(「續古事談」おうふう)

  祝言
君そみんまれに天人袖ふるゝいはほもさゝれ石と成よは
(心敬僧都十躰和歌~続群書15上)

後朱雀院うまれさせ給て七夜によみ侍ける 前大納言公任
いとけなき衣の袖はせはくともこふのいしをは(イこふのうへをは)なてつくしてん
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

 車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親しき人さし添へたまひて、ゆめ漏らすまじく、口がためたまひて遣はす。御佩刀、さるべきものなど、所狭きまで思しやらぬ隈なし。乳母にも、ありがたうこまやかなる御いたはりのほど、浅からず。
 入道の思ひかしづき思ふらむありさま、思ひやるも、ほほ笑まれたまふこと多く、また、あはれに心苦しうも、ただこのことの御心にかかるも、浅からぬにこそは。御文にも、「おろかにもてなし思ふまじ」と、返す返すいましめたまへり。
 「いつしかも袖うちかけむをとめ子が世を経て撫づる岩の生ひ先」
(略)
 「ひとりして撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの蔭をしぞ待つ」
 と聞こえたり。あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる。
(源氏物語・澪標~バージニア大学HPより)

つもりゆくなけきはつきしをとめこかなつるいはほのはてはみるとも
(夫木抄~日文研HPより)

はころものまれになつてふいはほこそつれなきひとのこころなりけれ
(若宮社歌合~日文研HPより)

あまころもなつるちとせのいはほをもひさしきものとわかおもはなくに
いかはかりひさしくもあらすあまころもをとめかなつるいははかりなり
(古今和歌六帖~日文研HPより)

恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。
(太平記~国民文庫本)

蘆橘薫枕
橘にちかくぬる夜の岩枕撫てなむ天つ袖の香そする
(草根集~日文研HPより)

籬瞿麦
まかきにも稀なる色そ天つ袖今や岩ほをなてしこの花
(草根集~日文研HPより)

ほしあひの袖にやなつるいはまくらつきぬちきりのあまの羽ころも
(冬日同詠百首和歌-藤原雅家~古典文庫489)

たなはたのあまのはころもいはなててつきぬやけふのためしなるらむ
(白河殿七百首~日文研HPより)

なてつくすいはほありともたなはたのちきりはくちしあまのはころも
(永享百首~日文研HPより)

 擣衣稀
それもよもまれに打(う)つ夜(よ)の音(をと)はせじいはほを撫(な)でし天の羽衣
(「和歌文学大系62 玉吟集」明治書院)

男、いひやる。
  巌にも身をなしてしか年経てもをとめが撫でむ袖をだに見む
返し、
  天つ袖撫づる千年の巌をもひさしきものとわが思はなくに
(平中物語~新編日本古典文学全集)

 かんきみのこのかはらの院にこむとちきりていませさりけるにいひやる
松もおひ岩をも苔のむすふまて命くれへに問ぬ君かな
 返し
我も行て衣の袖にかきなては君かいはほの苔もみえしを
 又
三千とせに一度なつる袂をは二葉の松もいかゝまつへき
(安法法師集~群書類従15)

※「劫(こふ)」という単語は、きわめて長い時間をいう語。天人が百年に一度ずつ四十里四方の石を衣の袖で撫で、石は摩滅しても終わらない長い時間とのこと。
その「天人が石を袖で撫でる」という表現を用いた和歌などを集めてみました。主に賀の歌ですが、恋歌などもあります。


古典の季節表現 夏 夕立

2014年08月05日 | 日本古典文学-夏

夏歌の中に 前参議家親
をちの空に雲立のほりけふしこそ夕立すへきけしき也けれ
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

題しらす 曽祢好忠
川上に夕立すらしみくつせくやなせのさなみたちさはく也
(詞花和歌集~国文学研究資料館HPより)

ゆふたちにいささをかはのまさりつつふかくもなつのみえわたるかな
(久安百首~日文研HPより)

百首歌奉りし時、夏歌 前大納言経顕
外山には夕立すらし立のほる雲よりあまる稲妻の影
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

弘長百首歌奉ける時、夕立 従二位行家
なる神の音にもしるし巻向の檜原の山のゆふたちの空
(続千載和歌集~国文学研究資料館HPより)

百首歌奉し時 中務卿親王
松風もはけしく成ぬ高砂のおのへの雲の夕立の空
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

夕立
尾上より一むら見えてわく雲の千里にくたる夕立の雨
(草根集~日文研HPより)

そらはなほくもりかねたるなつのひにやまをはなれぬゆふたちのくも
(新葉集~日文研HPより)

宝治百首歌めしけるついてに、夕立 後嵯峨院御製
かきくらす空ともみえす夕立の過行雲に入日さしつゝ
(続千載和歌集~国文学研究資料館HPより)

院に三十首歌めされし時、夏木を 前太宰大弐俊兼
虹のたつふもとの杉は雲に消て峰より晴る夕立の雨
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

夕立過山
草も木もぬれて色こき山なれや見しより近き夕立のあと
(草根集~日文研HPより)

ゆふたちのすきぬるくもはあときえてしつくをのこすみやまきのかけ
(御室五十首~日文研HPより)

はるかなるなかめもすすしなにはかたいこまのみねのゆふたちのそら
(夫木抄~日文研HPより)

題不知
よられつる野もせのくさの影ろひて涼しくくもる夕立の空
(西行法師家集~日文研HPより)

題しらす 徽安門院
行なやみてる日くるしき山道にぬるともよしや夕たちの雨
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

行路夕立 右兵衛督基氏
とまるへきかけしなけれははるはるとぬれてをゆかん夕立の雨
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

二条関白家にて雨後野草といへる事をよめる 源俊頼朝臣
この里も夕立しけりあさちふに露のすからぬ草のはもなし
(金葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

百首歌奉し時 式乾門院御匣
白雨の名残の露そをきまさるむすふはかりの庭の夏草
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

ゆふたちのはれゆくそらにゆふひさしはすのうきはにたまそみたるる
(正治初度百首~日文研HPより)

夏歌の中に 宣光門院新右衛門督
夕立の雲吹をくる追風に木すゑの露そ又雨とふる
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

夕立して、名残涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみありきたまへば、この内侍、琵琶をいとをかしう弾きゐたり。
(源氏物語・紅葉賀~バージニア大学HPより)

文保三年、後宇多院に百首歌奉ける時、夏歌 後西園寺入道前太政大臣
月うつるまさこのうへの庭たつみ跡まてすゝし夕たちの雨
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)


定家の明月記

2014年08月05日 | 日本古典文学

朝日新聞デジタルに以下の記事がありました。

“切り張り”のおかげ?で貴重記録残った 定家の明月記
2014年7月28日17時32分

 平安から鎌倉時代に活躍した歌人、藤原定家(1162~1241)の日記「明月記(めいげつき)」に記された天文学的に貴重な情報の部分は、自身の記述ではなく、陰陽師(おんみょうじ=天文博士)に調べさせた報告文をそのまま張った可能性が高いと天文学者が指摘している。陰陽師の元の資料は見つかっておらず、定家の「切り張り」のおかげで記録の紛失が免れたようだ。
 明月記には、寿命が尽きた星が最後に起こす大爆発「超新星」について、定家の生まれる前に現れた3個が記されている。現れた日付と正確な位置がわかるため、超新星の仕組みなどを知る天文学上の貴重な手がかりになっている。
 小山勝二・京都大名誉教授(X線天文学)は、超新星の情報がある1230年11月の部分を詳しく調べた。そのころに彗星(すいせい)が現れ、台風や凶作や政情不安などとの関連を気にした定家は、陰陽師の安倍泰俊に過去の事例を問い合わせたとあった。その次の段落には定家とは違う豪快な筆跡で泰俊からの返書と思われる文章があり、さらに別な筆跡の細かい字で超新星に関する記録が続く。写本ではわからないが、原本(冷泉家時雨亭文庫)を見ると紙を張り付けたような跡があった。泰俊が弟子に調べさせた報告書を返事の手紙に同封し、定家がそのまま明月記に張り付けたとみている。
 泰俊は安倍晴明の子孫で代々天文博士を務めてきた。毎日定時に天文観測し、超新星や彗星などの異変があれば、その解釈とともに天皇に密書で報告する。明月記に張られたと見られる報告書は、安倍家に保存されていた資料からつくったと考えられるが、原文は見つかっていないという。小山さんは「定家のコピペのおかげで科学的に貴重で正確な記録が残った」と話している。