重陽宴
九重に千代をかさねてかさすかなけふをりえたる白菊の花
長月の菊の杯九重にいくめくりともあきはかきらし
九重に久しくめくれもろ人の老いせぬ秋の菊のさかつき
菊の花けふ九重にかさしてそ老いせぬほとの色もみすへき
長月やけふをる菊の花のえに万代ちきる雲の上人
(宝治百首~日文研HPより)
重陽
菊紅葉おなじく氷魚を取添てけふ給なり御酒のさかつき
(年中行事歌合~群書類従6)
君が経(へ)ん千代のはじめの長月の今日九日の菊をこそ摘め
(和泉式部集~岩波文庫)
弘安七年九月九日、亀山院にて、籬菊露芳といへる事を講せられけるに、いまたみこのみやと申ける時奉らせ給ける 伏見院御製
咲にほふきくのまかきの夕風に花の香やとす袖のしら露
弘安七年九月九日、亀山院に、籬菊露芳と云事を講せられけるに、位におましましける時奉らせ給ける 後宇多院御製
千世ふへききくの籬に色そへて花ゆへかほる秋のしら露
前大納言為兼
秋ふかき籬の露も匂ふなり花よりつたふ菊のしつくに
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
九月八日、中宮の御かたより、菊のきせわたまゐりたるが、ことにうつくしきを、朝がれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかゞとおぼえわたされて、おもしろく侍りしかば、辨内侍、
九重やけふこゝぬかのきくなれば心のまゝに咲かせてぞみる
(弁内侍日記~群書類從)
九月九日は、曉がたより雨少し降りて、菊の露もこちたくそぼち、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつしの香ももてはやされたる。つとめては止みにたれど、なほ曇りて、ややもすれば、降り落ちぬべく見えたるもをかし。
(枕草子~バージニア大学HPより)
九月九日に菊のわたおほひたり
花の香をけさはいかにそ君か為まゆひろけたる菊の上の露
(忠見集~群書類従15)
九日、綿覆(おほ)はせし菊をおこせて、見るに露しげければ
をりからはおとらぬ袖の露けさを菊の上とや人の見るらん
(和泉式部続集~岩波文庫)
九日、菊の綿を、兵部のおもとの持て來て、「これ、殿の上の、とり分きていとよう、老拭ひ捨て給へと、のたまはせつる」とあれば、
菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
(紫式部日記~バージニア大学HPより)
貞観三年九月九日庚辰、重陽の節。天皇、前殿に御(おは)せず、殿庭に於いて菊酒を親王以下侍従以上及び文人に賜(たま)ひき。酣飲(かんいん)して詩を賦し、勅して題を賜ふ。云はく、「菊暖(あたゝか)にして未だ開かず」と。日暮れて禄を賜ふ。各(おのおの)差(しな)有りき。
(「訓読日本三代実録」~臨川書店)
弘仁三年九月甲子(九日)
天皇が神泉苑へ行幸して侍従以上の者と宴を催した。女楽を奏し、文人に命じて詩を作らせ、五位以上の者と文人に身分に応じて禄を下賜した。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
承和四年九月己巳(九日)
天皇が紫宸殿に出御して、重陽節の宴を催した。文人に命じてともに「露重なり菊花が鮮やかである」の題で詩を賦させた。宴が終了すると、差をなして禄を賜った。
(続日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
承和八年九月丙子(九日)
天皇が紫宸殿に出御して公卿以下、文人以上の者と宴を催した。ともに「鳩が鷹になる」の題で詩を賦し、宴が終了すると禄を賜った。
(続日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保元年九月九日。
天皇の御前において掩韻が行なわれた。右中弁が綸旨を承って、平中納言を召した。菊酒を侍従に下給するよう命じた。天皇の出御は無かった。通例によって行なった。しばらくして、内大臣(藤原公季)が参られた。すぐに退出した。「菊酒については、下臈が承って行なう」と云うことだ。また、右大臣(藤原顕光)が参られた。中納言は、(源)頼貞を介して、右大臣が参入したので、菊酒については上臈が申し行なうよう奏上させた。天皇がおっしゃって云ったことには、「申請によれ」と。御前において作文会が行なわれた。題は、「草樹は秋声を減じる」と。聞を韻とした。七言六韻であった。左右大臣〈以上は絶句。〉・宰相中将以下の侍臣が、詩を献上した。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
九日 壬子 重陽ノ節ヲ迎ヘ、藤ノ判官代邦通、菊花ヲ献ズ。則チ南県ノ流レヲ移シ、北面ノ壷ニ栽エラル、芬芳境ヲ得テ、艶色籬ニ満ツ。秋毎ニ必ズ此ノ花ヲ進ズベキノ由、邦通ニ仰セラル。又一紙ヲ花ノ枝ニ結ビ付ク、御披覧ノ処ニ、絶句ノ詩ヲ載スト〈云云〉。
(吾妻鏡【文治二年九月九日】条~国文学研究資料館HPより)
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