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小弓

2022年02月19日 | 日本古典文学-人事

てんじやう人などまいりて小弓いなどするにたいふ 
  けふよりはねの日の松とあづさゆみ。もろやにちよをかけてひかなん。かへしわすれにけり
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

 人の小弓合しけるに
射る弓の矢かずまさりになりゆくはわがひく方のつよきなりけり
(桂宮本肥後集~「平安朝歌合大成3」

十五日に院の小弓はじまりていでんなどのゝしる。まへしりへわきてさうぞけば、そのこと大夫によりとかうものす。その日になりてかんだちめあまた「ことしやむごとなかりけり、こゆみおもひあなづりてねんぜざりけるを、いかならんとおもひたればさいそにいでゝもろやしつ、つぎつぎあまたのかずこのやになんさしてかちぬる」などのゝ しる。さて又二三日すぎて大夫「のちのもろやはかなしかりしかな」などあればまして我も。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

 なかの十日のほどにこの人々かたわきて小弓のことせんとす。かたみにいているとぞしさわぐ。しりへのかたのかぎりこゝにあつまりてなす日女房にかけ物こひたればさるべき物やたちまちにおぼえざりけむわびざれに青きかみをやなぎのえだにむすびつけたり。
山風のまづこそふけばこの春のやなぎのいとはしりへにぞよる
かへし口々したれどわするゝほどおしはからなむ。ひとつはかくぞある。
かずかずにきみかたよりてひくなれば柳のまゆも今ぞひらくる
つごもりがたにせんとさだむるほどに、よの中にいかなるとがまさりたりけむ、てんけの人々ながるゝとのゝしることいできてまぎれにけり。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

右近大将道綱家に、人々小弓いてあそひける時、まかり侍らて申つかはしける 贈法印慈応 
あつさ弓いてもかひなき身にしあれはけふのまとゐにはつれぬるかな 
返し 道命法師 
あつさゆみ君しまとゐにたくはねはともはなれたる心ちこそすれ 
(新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

公実卿のもとにまかりたりけるに侍らさりけれは、出居にをきたりける小弓をとりて、さふらひにこれはおろしつとふれていてにけり、かの卿帰りて弓をたつねけれは、時房まうてきてとりつと申けれは、おとろきて、院の御弓そとくかへせといひにつかはしたりけれは、御弓につけてつかはしける歌 藤原時房 
あつさ弓さこそはそりの高からめはるほともなくいつるへしやは 
(金葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

(長治二年二月)十三日、早旦殿下入宇治給、今日是依故大殿(藤原師実)御忌日也、入夜還給云々、《『小弓興』》後聞、今日候院北面人々相分有小弓合興、講筵了後於北御所北壷方御覧、左右方念人・射手皆布衣、〈装束如花云々、〉射手、〈略〉三度、左多勝、懸物檀紙十帖、従御前被下、籌刺〈左、上野守季安(藤原)、右、上野前司邦宗(藤原)、〉的付、〈左、伊賀守孝清(藤原)、右、散位隆忠(藤原)、〉左方頭伊予守国明(藤原)朝臣、右方頭尾張守長実(藤原)朝臣、兼日七八日以前駒取、不論君達・諸大夫、只候北面人許者、講筵了後参入公卿七八人許有召、小弓合間候御前、〈内大臣以下云々、〉令舞童龍王・納蘇利、八幡童云々、有参音声、
(中右記~東京大学史料編纂所データベース・古記録フルテキストデータベースより)

 長暦二年三月十七日、殿上人十余人野宮へ参りたりけるに、御殿東庭に畳を敷(しき)て、小弓の会(ゑ)ありけり。又蹴鞠もありけり。夕に及(および)て膳をすゝめられけるあひだ、簾中より管絃の御調度を出されたりければ。即(すなはち)糸竹・雑芸の興もありけり。又和歌も有けるとかや。昔はかく期(ご)せざる事も、やさしく面白き事、常の事なりけり。いみじかりける世なり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

(寛治三年三月)《小弓合習礼儀〈左〉》四日、乙亥、天晴、酉剋参内、有殿上人々遊事、先令御覧 、小弓三人為限、右兵衛督雅俊(源)射事的皮双矢、次中将忠ー(実)的皮、次中将宗通(藤原)皮的、畢着殿上歟、居饗料歟、日入之後、参前斎宮(媞子内親王)歟、
裏書、御簾中摂政殿候給、又内大臣師ー(通)裏候歟、
殿上直衣也、或束帯也、
《小弓合内習》六日、丁丑、天晴、午刻参殿、参院、次参内、殿上人小弓合内々試見、右方事射手三人、先顕仲(源)皮、次的二人、不当的、的了殿上候、有遊事之、
《小弓合》廿六日、丁酉、天陰、未剋有小弓合事、
裏書、南面改御装束、東一間垂御簾、二三間巻之為御座、二間如昼御座敷之、母屋二間垂之、四間垂之、摂政殿座東又庇一間、敷円座四枚、西為上之、左大臣・右大臣、上達部大納言以下候簀子敷云々、付的【職】五位蔵人為房也、限三度懸物給、中将宗通下南階一拝、退出了、 小弓左右進上之、左為勝之、
(後二条師通記~東京大学史料編纂所データベース・古記録フルテキストデータベースより)

(応徳元年)四月《家小弓合》一日、庚午、平座如常、有蓮府小弓合事、射手装束玄冬装束也、従殿下不可改装束之由所被仰也、布衣也、有懸物、念人四位諸大夫等相分、依無拠所設庭中幄舎、有勝負舞、〈左秡〔祓〕頭、右納蘇利、右勝、〉
(後二条師通記~東京大学史料編纂所データベース・古記録フルテキストデータベースより)

(承徳三年/康和元年四月)四日、丙子、晴、六位并侍等有小弓合事、十番〈射手廿人也、〉縫殿允定長科射数的、〈五、〉左兵衛尉定道科的、〈五、〉懸物各以給之、
(後二条師通記~東京大学史料編纂所データベース・古記録フルテキストデータベースより)

 延長五年四月十日、弾正親王、内裏にて小弓の負態(まけわざ)せさせ給ける。酒肴などはてゝ、夕べになりて、清涼殿の東の廂にて、又小弓ありけり。前には弾正親王重明、後には三品親王・清貫民部卿、この外の人びとも仕まつりけり。女装束一重、かけ物に出されたりけるを、弾正親王宮とり給にけり。勝方の拝などありけりとかや。そのまけわざは、廿三日にこそし給けれ。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

 かくて、きさらぎの頃にや新院いらせおはしまして、ただ御さしむかひ、小弓をあそばして、「御まけあらば、御所の女房たちを上下みな見せたまへ。我まけまゐらせたらば又そのやうに」といふ事あり。この御所御まけあり。(略)
(問はず語り~岩波文庫)

(承元元年正月)卅日。天晴れ、雪飛ぶ。酉の時、雨雪。巳の時許りに参上す。申始許りに出でおはします。暫く御小弓。遅参の人々を召すの後、十番笠懸け。左方十人、先づ射る。次で、右方十人の射手。末座の矢、中る。仍て左負くる事、頗る興無し。仰せて云ふ、此の次又ねたみを射るべしと。即ち又、会を始め、之を結ばる。各々射る。一番左衛門督、二番左方、西北面の童部等。右忠信・有雅・頼平・忠清・信能・範茂・清親・仲隆。大相国・定輔卿・尊長僧都等五六人、小山の上に於て見物、念人と云々。雅縁・実教卿以下の殿上人、東の土庇に於て之を見る。夕に退下す。冷然たるに依り、帰参せず。今日博陸、御表と云々。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(嘉禄元年二月)八日。天晴る。午の時許りに中将来たる。昨日北山に参ず。近日、人毎に桜木を充てられ、前庭に栽ゑらると云々。人々物語るの中(長衡朝臣等の説)、一日の比(ころ)一上の亭に小弓を射る。負態の方雉一羽・酒一瓶、進すべき由頼次に示す(近習の物にあらず。只、召継の事に依り、後院より駈け入るか)。頼次、此の事思ひ得ざるの間、紅梅の大枝を剪り、雄の雉雌の雉各々十羽(小鳥の如くに之を付く)、大瓶に酒を入れて之を送る。納受し饗応すと云々。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(建永元年九月)十三日。朝、小雨。天陰る。未後に晴る。参上す。出でおはしまし了りて退下す。酉の時に帰参す。庭に於て御小弓あり。雅縁僧正、御前に候す。十三夜、雲畳(たた)み、月黒し。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)


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