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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

古典の季節表現 秋 九月十日頃

2015年09月10日 | 日本古典文学-秋

 (略)後一条院の御時に、雲林院の不断の念仏は九月十日のほどなれば、殿上人四五人ばかり、果ての夜、月のえもいはず明きに、
「念仏にあひに。」
とて、雲林院に行きて、丑の時ばかりに帰るに、斎院の東の御門(みかど)の細目に開きたれば、そのころの殿上人・蔵人は、斎院の中もはかばかしく見ず、知らねば、
「かかるついでに、院の中(うち)みそかに見む。」
と言ひて入りぬ。
 夜のふけにたれば、人影もせず。東の塀の戸より入りて、東の対の北面の軒にみそかに居てみれば、御前の前栽、心にまかせて高く生ひ茂りたり。「つくろふ人もなきにや」と、あはれに見ゆ。露は月の光に照らされてきらめきわたり、虫の声々さまざまに聞こゆ。遣水の音のどやかに流れたり。そのほど、露音する人なし。船岡のおろしの風、冷やかに吹きたれば、御前の御簾の少しうち揺(ゆる)ぐにつけて、たき物の香(か)のえもいはず香ばしく、冷やかに匂ひいでたる香(か)をかぐに、御格子は下(おろ)されたらんに、たき物の匂ひのはなやかなれば、「いかなるにかあらむ」と思ひて、見やれば、風に吹かれて、御几帳すこし見ゆ。御格子もいまだ下(おろ)されぬなりけり。「月御覧ずとて、おはしましけるままにや」と思ふほどに、奥深き箏の琴の、平調に調(しら)められたる音(こゑ)の、ほのかに聞こゆるに、「さは、かかる事も世にはあるなりけり」と、あさましくおぼゆ。
(古本説話集~講談社学術文庫)

 九月十日のほどなれば、野山のけしきも思ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空のむら雲恐ろしげなる夕暮、宮いとど静心なく眺めたまひて、いかにせむと、御心一つを出で立ちかねたまふ。折推し量りて、参りたまへり。「ふるの山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれしと思して、もろともに誘ひたまへば、例の、一つ御車にておはす。
 分け入りたまふままにぞ、まいて眺めたまふらむ心のうち、いとど推し量られたまふ。道のほども、ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ。
 たそかれ時のいみじく心細げなるに、雨は冷やかにうちそそきて、秋果つるけしきのすごきに、うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、うち連れたまへるを、山賤どもは、いかが心惑ひもせざらむ。
(源氏物語・総角~バージニア大学HPより)

亭子院御時大堰川行幸に紀貫之和歌の仮名序を書く事
亭子院御時、昌泰元年九月十一日、大井川に行幸ありて、紀貫之和歌の仮名序をかけり。
あはれわが君の御代、なが月のこゝぬかと昨日いひて、のこれる菊見たまはん、またくれぬべきあきををしみたまはんとて、月のかつらのこなた、春の梅津より御舟よそひて、わたしもりをめして、夕月夜小倉の山のほとり、ゆく水の大井の河辺に御ゆきし給へば、久かたの空には、たなびける雲もなく、みゆきをさぶらひ、ながるゝ水ぞ、そこににごれる塵なくて、おほむ心にぞかなへる。いま御(み)ことのりしておほせたまふことは、秋の水にうかびては、ながるゝ木葉とあやまたれ、秋の山をみれば、をりひまなき錦とおもほえ、もみぢの葉のあらしにちりて、もらぬ雨ときこえ、菊の花の岸にのこれるを、空なき星とおどろき、霜の鶴河辺にたちて雲のをるかとうたがはれ、夕の猿山のかひになきて、人のなみだをおとし、たびの雁雲ぢにまどひて玉札(たまづさ)と見え、あそぶかもめ水にすみて人になれたり。入江の松いく世へぬらん、といふ事をぞよませたまふ。我らみじかき心の、このもかのもとまどひ、つたなきことの葉、吹(ふく)風の空にみだれつゝ、草のはの露ともに涙おち、岩波とゝもによろこぼしき心ぞたちかへる。このことの葉、世のすゑまでのこり、今をむかしにくらべて、後のけふをきかん人、あまのたくなはくり返し、しのぶの草のしのばざらめや。
太政大臣
小倉山紅葉の色も心あらばいま一たびの御幸(みゆき)またなん
(略)
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬへき所なりとおほせ給ふに、ことのよしそうせんと申て 小一条太政大臣
小倉山みねの紅葉はこゝろあらはいま一たひのみゆきまたなむ
(拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

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